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日宋貿易が行われていた時代、越前国の「敦賀」は、博多と並ぶ貿易基地であり、宋人が住んでいたのですか?
コンビニで強い興味を惹かれて買ってしまった、『世界の黄金伝説FILE 消えた財宝・軍資金・埋蔵金の謎』 (Gakken) という本の中に、日宋貿易において海中に沈んだ貿易船とその財宝に関する話が載っていました。

その本の中で、
「貿易は日本・高麗・宋の三点貿易で、日本では越前敦賀や博多に宋人が住み、国際都市となった」という記述がありました。
たしかに、2001年のNHK大河ドラマ『北条時宗』でも、博多にたくさんの宋人が住んでいる描写があったように思います。

その本には、貿易航路の絵も合わせて載っているのですが
日本; 博多・坊津
高麗; 開城
宋; 明州・温州・和州・広州

という地名と、これらを結ぶ海上ルートが載っているだけで敦賀が載っていません。

敦賀は、日宋貿易において貿易基地になっていたのでしょうか?
敦賀は、出羽・北陸・山陰地方など日本海側の諸国の物資を集めたり、畿内からの物資を集積する機能だけを持っていたのでしょうか?
あるいは敦賀 → 高麗へと日本海を突っ切るルートは存在したから貿易港として機能していたのでしょうか? (日本海を突っ切ってもたどり着けるのはせいぜい高麗で、それより北に船がたどりついても、そこはすでに宋の領内ではありませんから、あくまで高麗への航路のみが存在した、と)。

A 回答 (1件)

http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kensh …

・「福井県史」より

第六章 若越中世社会の形成
   第五節 平安中・後期の対外交流
    二 日宋貿易と若狭・越前国
      若狭・越前国と日宋貿易の衰退


 これまでみてきた来航記事やそれにかかわる交易記事、また康和二年の例にみえるような敦賀津での宋人の長期滞在者の存在などから、若狭・越前国では大宰府に次いで日宋貿易が盛んであったようである。それとともに、宋人と国司らとのトラブルも多発したようだ。たとえば若狭・越前国への宋人の来航に関する現存史料では、平安時代では元永二年ごろが最後となる。最後の史料である『唐大和上東征伝』(東寺観智院旧蔵本)第十九紙の紙背文書では、若狭国にここ一、二年ほど宋人が来ないのは、国司の「御苛法」によるとされている。これ以降、宋人の若狭・越前国への来航記事がみえないのは、国司が宋人から不当に貨物を差し押さえることをしたために来航しなくなり、貿易そのものが衰退したと考えるか、あるいは史料的制約によるのかなどを容易に判断することはできない。文献史料が乏しいだけに、今後は考古学的な発掘成果に期待をかけざるをえない。その点、注目されるのは中国製の釉をかけた陶磁(貿易陶磁)の出土である(亀井明徳『日本貿易陶磁史の研究』)。貿易陶磁は福井県下での出土例がきわめて少ないものの、敦賀市深山寺経塚群などで出土しており(写真118)、今後このような貿易陶磁の出土が大いに期待されるところである。

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平戸、太宰府と共に、日宋貿易の拠点でした。
敦賀は、琵琶湖経由で京都の海の玄関でした。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/05/21 08:39

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