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太平洋戦争で硫黄島や沖縄では米兵も多数傷ついたのは分かるのですが、そのた日本軍が玉砕した島々での戦闘はどうだったのですか? 日本軍の銃器を見ているとその数、質ともに圧倒的に劣るため、攻撃されるだけされて、あれでは戦争では無い様に思えますが、実際はどうだったのですか?

A 回答 (11件中1~10件)

<米軍の圧倒的虐殺的攻撃><圧倒的に劣るため、攻撃されるだけされて、


あれでは戦争では無い様に思えますが、>と尋ねておられ様に思います。

根本的な点は、日本軍とその兵士には「降伏」と「捕虜」と成ることが
許されておらず「最後の一兵」まで戦わなければならなかったことです。
こう云う相手に対する米軍は、圧倒的な武力で最後の一兵を倒すまで
攻撃したのです。結果は<虐殺的>なものでした。

「降伏」と「捕虜」に成る事を禁じたのは、東条英機が陸軍大臣の時に
示達した「戦陣訓」です。戦陣訓には
<恥を知る者は強し。常に郷党(きょうとう)家門の面目を思ひ、愈々
(いよいよ)奮励(ふんれい)してその期待に答ふべし、生きて虜囚
(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪過の汚名を
残すこと勿(なか)れ       
— 『戦陣訓』「本訓 其の二」、「第八 名を惜しむ」>
とあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E9%99%A3% …

この戦陣訓は1942年以降は各兵士の持つ『軍隊手牒』に「軍人勅諭」と
共に印刷され、周知徹底されました。*

太平洋戦争の捕虜第一号は、真珠湾に特殊潜航艇で出撃した酒巻大尉です。
出撃した10名から彼を除く9名は軍神として「靖国神社」に祀られ、
彼の家族は非国民扱いされました。当時出征した兵なら誰もが知っていた
事実です。

そういう状況下で、武器が有ろうが無かろうが戦わざるを得ず、
蹂躙される様に倒された兵士、恨みを呑んで餓死した兵士とその遺族に対して
国を免罪するのが靖国神社です。

*手元に亡き父の軍隊手帳が有ります。日華事変が始まる頃のもので
 軍人勅諭は印刷してありますが、まだ戦陣訓はありません。
*苦学生で土方のアルバイトをした時、ある現場で図体の大きな鼻を垂らした
 オッサンが昼休みに直立不動で何かをゴチョゴチョ呟いていました。
 知恵遅れの方で、皇居の方を向いて軍人勅諭か戦陣訓を暗唱しているのだ
 そうです。戦後25年以上経っていました。ちなみに、軍人勅諭は2700
 語です。
 後日、父に尋ねたところ、知恵遅れであろうが何であろうが、文字通り
 ビンタで叩き込む。それが軍隊だそうです。
 
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確かにあれは虐殺ではありますが、そもそも生きるか死ぬかの戦闘ですから基本手を抜いて戦うことはありません。

そもそも米軍からすれば草むらや地下壕に潜んでいて近づいたら襲ってくる日本兵は脅威ですから、圧倒的な火力をぶつけるのは当たり前です。
ただし米兵個々の日本兵に対する虐殺(降伏した日本兵射殺等)は、脅威に感じていたというよりも「猿野郎を殺せ」的な差別観からくるものがありました。全員ではないですが…。
では結論ですが日本軍という「窮鼠」は死力を振り絞って米軍という「猫を噛む」といった状況が度々あったため、硫黄島や沖縄等で徹底的な掃討(虐殺)が行われたのです。

あとssssanさんの言われるバターン死の行進は当時の日本軍の状況を客観的に見てないですね。そもそも当時日本軍は度重なる戦闘に補給が薄れつつあり、食料はおろか医薬品すら足りなくなり始めてました。更に日本軍歩兵は基本徒歩で移動しており、数万の捕虜を移送できるトラックなんて用意してません(そもそも日本軍からすれば数万の敵が一度に捕虜となるなんてかんがえてませんでした)
そんな状況で捕虜を移送しようとすれば当然炎天下のなかとはいえ徒歩しかありません。つまりあの状況で日本軍はなんとか捕虜を移送しようとしたが、炎天下による脱水や医薬品不足が重なり結果的に多くの捕虜に犠牲が出たということです。
というか捕虜をとったら条約だの人道だのが面倒だから殺せば良かったとか何様だナチ公?
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質問者さんーー太平洋戦争の定義知ってますか―?知っててこの呼称使ってたら勝手にして下さい、知らなかったら、この呼称は米だけが使ってる呼称を戦後日本教科書に入れただけです、メディアはむ米の目かそれぞれの社の意思かは゜分かりませんがそれに従ってるだけですよ。



日本は先の第2次世界大戦は大東亜戦争ですよ知らなかったら記憶して下さいね。


米公の軍は功勢に転じて島伝いに攻めてくる時は日本兵捕虜は情報持ってる兵以外は皆殺しでした戦闘で戦死と言う事で捕虜取れば食料から虐待からジュネーブ条約で面倒に成るので日本軍が白旗上げてても構わず攻撃してました、む弾打ち込んでましたね、記録は幾らでも探せば有ります。

日本軍でせ有名なのは米兵パキスタン兵等の捕虜を収容所まで移送の例の約10万捕虜移送のバターン死の行進ですねでBC級戦犯として消えましたが、米軍のま様に戦闘で戦死にしてれば何にも問題有りませんでしたね。

後戦場に掛ける橋のタイビルマの国境に鉄橋掛けた時の英豪とかの捕虜使用も今でも文句言って来てますからね―東洋人に捕虜使役はよっぽど悔しいのかケチ付けて来てますねー今は当人の子共.孫かな。

ここで捕虜使役させられた人が猿の惑星の原作者ですからねー、映画の猿は日本兵がモデルで。
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日本軍の太平洋戦争での戦没者は230万人。


そしてその半数以上である140万人の死因は、餓死です。
銃器や装備の質・量以前の問題として、日本軍の兵士は、飢えていたのです。

戦時中、軍上層部から異例の通達が全部隊に対し発せられました。
「友軍の死者の肉を食ってはならない」
これがどういうことかわかりますか。
つまり、上層部が認識するほどに「共食い」が一般的であったということです。
敵であるアメリカ軍よりも恐ろしいのは、飢えた友軍でした。
そして日本軍は戦陣訓によりアメリカ軍への投降を許されていませんでした。

飢えて死に(あるいは殺され)食われるか、アメリカ軍に無謀な突撃をして殺されるか。
多くの兵士は、後者を選びました。

戦争末期にはもう戦争とは言えなくなっていました。
日本軍はアメリカ軍より先に、兵站を無視した本国の軍上層部の官僚たちに虐殺されていたのです。
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日本軍の下士官、兵は優秀だった。


士官の指揮が悪く、日本軍は負けた。
戦後のアメリカ軍の評価です。

また、アメリカ軍による日本兵投降者虐殺は、あった様です。
日本軍は、全員バンザイ突撃をして、生存者ゼロは、勝者の作られた歴史です。
日本軍生存者無しで、戦闘模様の全く不明な地域もあります。
そういう場合、唯一の証言は、アメリカ軍によるものです。
戦後70年で、実戦のアメリカ兵達も鬼籍に入り、事実は闇の中に入ろうしています。

日本軍捕虜は殆ど無かった所に、もっと日本を知りたかった情報将校は、日本軍生存者に懸賞金をつけたところ、
ゾロゾロと予定以上の捕虜が、直ぐに集まったそうです。

また、とあるアメリカ兵が、戦利品として恋人に、日本兵のガイコツ(ドクロ)を送って、恋人が喜んでいる写真が残されています。
とても、尋常な事とは思えません。

確かに、『戦陣訓』はありました。
初期の強い日本兵は従ったかもしれません。
バンザイ突撃による玉砕もあったでしょう。
でも、敗戦濃厚となって大量に召集された人達は、『生きて帰ること』を考えてたの証言が多くあります。

サイパンの崖に飛び降りる、婦女子のビデオも残されています。
では、何故、沖縄は、あれだけの人達が生き残ったのでしょう?!
もちろん、ひめゆりの話しは有名です。
生きる事を選択した人達が、多くいた事の証拠だと考えます。

ダラダラと書きましたが、玉砕は、アメリカ軍に作られた物がたくさんあるのでは?と思います。
アメリカ軍の虐殺を隠す為に・・・
ビルマのイギリス軍、南西地域のオーストラリア軍も同様だと思います。

だから、自分達のことを隠すため、戦後の戦犯容疑に隅々まで、こだわったのでは?!
と、私は思っています。


質問者様の趣旨から、外れていたらゴメンナサイ。
日本軍は勇敢に戦った。
玉砕地域もあった。
しかし、僅かな差で負け戦となり、連合軍虐殺により、玉砕とされた地域もあった。



銃器の事は、38歩兵銃は、まだまだ優秀だった。

日本軍の歩兵戦闘は、目標に向かって、中隊長を先頭に、1ヶ中隊が突撃するという、対ソ戦闘しか想定しておらず、教育もそれしかしていなかったからです。
支那戦線は、分駐し、警備討伐戦は、特殊な物で、その戦闘方法も研究されましたが、当初だけは実行できましたが、人事がそれを許さず、定員階級より下級の者が指揮をとり、島嶼戦に即応できなかった。
つまり、日本軍は、太平洋戦線の島嶼戦闘の仕方を、知らなかった。

守備戦闘では、攻撃軍の1/3以上の訓練された守備兵力が最低限必要です。
だから、島嶼戦闘の仕方を理解しはじめたから、硫黄島では、あれだけの戦闘ができたのです。

砲兵戦力は、日本軍は大幅に、アメリカ軍に劣っていました。
日本軍は、歩兵1ヶ大隊あたり砲兵中隊1ヶ中隊が基本でした。
師団もその比率で、連隊があります。
重砲は、軍に配属されるものとしていました。
一方のアメリカ師団は、野砲、山砲自体の能力も優れていましたが、重砲も師団内に大隊として持っていました。
また、1会戦分の砲弾数は、10倍の差がありました。

悲しい貧乏国、日本と大工業国アメリカの差です。
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>日本軍の銃器を見ているとその数、質ともに圧倒的に劣るため、攻撃されるだけされて


それは、いくらなんでも日本軍をなめすぎです。全くそんなことはないです。
米軍も首脳部から前線の兵士までそんなに気楽に考えていた人は一人もいませんよ。

基本的に、ただでさえ攻城戦というのは攻める側が圧倒的に不利な上に、島への上陸戦となると、上陸できる地点というのは本当に限られますから、さらに攻める側に不利です。
また、基本的に、第二次大戦当時の空爆や艦砲射撃では野戦築城して待ち構えている軍隊には、ほとんど有効なダメージは与えられません。(敵の空軍基地や海軍基地を無力化することはできますが)
当時は、上陸側にとっては、敵が機関銃の照準を合わせて待ち構えているところに無防備に上陸する以外の選択肢は全く存在しないです。

また、銃器を見ているとその数、質ともに圧倒的に劣るため、というのも実際にはそんなことはないです。
もちろん、全く予想もしていなかったところを攻められて日本軍側の準備が出来ていなかった場合は別ですが。
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「私たちが想像するより損害を出している」が実際です。



タラワ島の戦いは、期間こそ3日間という短さでしたが、「地獄のタラワ」と呼ばれるほど米軍は苦戦しました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%A9% …

硫黄島の戦いに並ぶ「忘れられた海兵隊が最も苦しんだ戦いのひとつ」がペリリュー島の戦いです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%AA% …
米軍の損害率は40%近くに達しました。一般的に、師団の戦力が30%以上失われると「全滅」扱いになります。


タラワ、ペリリュー、硫黄島、沖縄。これらの戦役を通じて分かったことは、「要塞化された島に対して艦砲射撃も空爆も、ほとんど意味がない」ということでした。もちろん事前の陣地構築が肝心なんですけどね。米軍は上陸開始にあたって島の形が変わるほどに激しい砲爆撃を加えましたが、日本軍の陣地やトーチカを破壊するには、そこまで米兵がやってきてひとつひとつ戦って潰すしかなかったのです。

また意外に思うかもしれませんが、小隊規模の遭遇戦なら、日本軍とアメリカ海兵隊の火力はほぼ互角でした。日本軍側に擲弾筒があると、日本軍有利。もし米軍に迫撃砲の支援がつくなら米軍有利でした。
ただし、砲兵部隊の支援がつく大隊規模以上の戦いとなると米軍有利。師団レベルになると、米軍の師団砲兵は質量ともに桁違いとなるので、フィリピンの戦いのような戦いとなると日本軍不利でした。
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無謀な戦争で、靖国の英霊を量産しました。


日米開戦(ハワイ急襲作戦)は、欧米の日本に対する経済制裁に対しての報復が動機でした。欧米は、満州国デッチアゲまでは日本の中国侵略を黙認していました。上海・南京占領から中原作戦へと、中国全土への宣戦布告無き戦争拡大が、諸国の大きな反感を呼びました。
枢軸三国に対する5ヶ国連合が、今日の国連安保常任理事国です。
日本軍が中国で暴れ回ったので、中国もそこへ参加しています。
トラトラトラ作戦後、アメリカでは急速な軍備拡張が行われ、日本の勤労奉仕同様、多数の米女性も軍事工場で働きました。新型の兵器と弾薬が量産され、日本の人海作戦に物量作戦で臨んできました。
日本軍は戦線は拡張するものの、十分な補給体制は取れませんでした。
開戦後アリューシャン列島のアッツ島占領までは漕ぎ着けましたが、それ以上の対米侵攻は出来ませんでした。米軍が反撃を開始して、最初に奪還したのがアッツ島でした。この時日本軍は、食料弾薬の補給も援軍派遣も出来ず、数千人の将兵を見殺しにしました。
有名なアッツ島玉砕です。これが玉砕第一号です。
それ以来、あらゆる戦線で玉砕戦法が採られました。玉砕すれば靖国の英霊という栄誉が与えられました。インパール作戦などは、雨期の密林を食料も尽きて彷徨い歩き、餓死作戦とも云える惨めなありさまでした。
武器も弾薬も兵糧も医薬も尽き果て、戦傷者の救護もママならぬ中で戦病死者も多数でした。
のっけから無理な戦争でした。
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まぁそうですね。

「戦争やむなし、一年暴れて見せましょう」と言う有名な言葉からも、「勝つ気はなかった」ことが伺えます。


真珠湾攻撃の山本五十六も、成功するとは思っていなかったでしょう。だから、歩兵の上陸舞台を用意していませんでした。(その時、ハワイを制圧していたら大分、戦況が変わっていたのに。)成功しないと思っているなら、何故やったのか意味が分かりません。


そもそも、アメリカと戦争する意味が分かりません。戦争目的は石油の確保です。当時アメリカの植民地のフィリピンに石油って出ましたっけ?謎です。



そんな糞戦争なので、戦略も何もないので現場の兵士の多くが犬死しました。
重要な事は、「何故そうなったか」「無謀な戦争を回避する術はなかったのか」を考える事です。



何でそんな糞な戦争に入って行ったかが、良く分かる本をオススメしておきます。

『嘘だらけの日米近現代史』
http://www.amazon.co.jp/%E5%98%98%E3%81%A0%E3%82 …




(私は糞は糞で糞なりに良くやったとか考えない主義ですが、当時の前線の兵士はかなり健闘しています。例えば、北海道がスターリンに侵略されなかったのは、占守島の戦いで彼らが奮闘したためです。スターリンは北海道まで占領するつもりでしたが「出来なかった」ので、今も日本の国土となっています。)
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>そのた日本軍が玉砕した島々での戦闘はどうだったのですか? 



アメリカの奇襲攻撃ですよ。日本は「この島にはこないだろう、来てもまだ先の事だろう」と思っていたので、まさか奇襲してくるなんて誰も思ってなかったんです、

そうなってしまうと、アメリカ軍の奇襲がわかった時は既にアメリカ軍が上陸してる時ですから、日本兵は手にもてるものだけもって逃げました。
食糧とか弾薬とかの物資はほとんどは置き去りです。

逃げたのはいいが、食料もないし弾薬もないし兵器もありませんから交戦なんてもちろん出来る状況じゃありません。一旦後退しようにも、救援が来る見込もありませんし泳いで他の島に逃げる何てこともできません。

普通なら白旗あげて降伏の状況です。

しかし、日本兵は交戦を選んだのです。
主な方法は夜間のゲリラ戦です。物資がほぼないので正面からの交戦はできないので確実に敵を仕留めるにはこれしかなったんです。しかしアメリカはもう準備万端でゲリラ戦の対応もしていたのであんまり効果はありません。そのうち弾薬がなくなり食糧もついたので、特攻したのです。

沖縄とか硫黄島とかはある程度準備もできてたし上陸も予測できてたし準備も万端でしたが、これがその他の島との大きな違いです。
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