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キリスト教を知って2年目です。

Okwebを閲覧して、救いを求めている方が沢山いることを知りました。

ここで質問なのですが、皆さんは救いを求めている方、また救いを求めていなくても飢えている方々にどのような働きをしていますか?

教えてください。

A 回答 (8件)

イエス・キリスト以外は真理はなし。

主に立ち返るようにただ伝えるのみです。真摯に敬虔に謙遜に。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

回答者様と同じ意見です。
この場所で出会えたことを嬉しく思います。
ありがとうございます。

お礼日時:2014/06/27 19:44

キリスト教はいわば、救いを求める異教徒をたくさんあの世に送ってきた宗教ですので、


聖書を表面的に読んで、それと同じことをしようと思わないようにしましょう、現行のキリスト教には本当の救いはありませんよ、と救いを求めている方にお伝えしています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

回答者様は現在のキリスト教のことをご存じなのでしょうか。

聖書を表面的に読むことは、仰る通り無意味なことと思います。
信仰が必要だと思いますし、信頼も必要だと思います。

教会へ通い、聖書を勉強させていただき、私は救われました。今まで味わったことの無い安らぎです。

お礼日時:2014/06/15 17:17

キリスト教の「救い」は「罪」とのセットででてくることなので、一般に「悩みや苦しみを感じている人たちを救うこと」と直結はしていません。

(と思います)

ですから、イエスによってもたらされた「救い」とは別に >救いを求めている方、また救いを求めていなくても飢えている方々 に…ということであれば、このサイトでは

1)気が楽になるように、
2)のちのちまで有効であるように
3)明らかな思い違いに基づくなら指摘する

くらいですかね。

リアルでは、

1)ボランティアとしての活動を多めに
2)できるだめ受容を心がける
3)そのために、どのような相手からも学ぶ

くらいですね。

ただし、未熟な意見や軽率な賛同では相手をより窮地に追いやる可能性もあるので、自身の勉強・学びに力を抜かないことを大切にしています。

こんなところですね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

『キリスト教の救いは罪とのセットででてくること』まさしくその通りだと思います。

ただ、『悩みや苦しみを感じている人を救うこと』は自身の罪を認めなければ、本物の安らぎ、癒しは無いものだと学んでおります。また、私もその体験者です。

罪を認めず、慰めあったとき一時の安らぎはあると思います。
でも、それは本当に一時です。

罪を認めることを始めたところから、真実の、永遠の安らぎが始まるのだと考えています。

それが自分勝手な押し付け(言葉や外見など)ではいけないと思いますので、私自身神様をもっと知り、神様の愛を知って、少しずつでも誰かの足元を照らせるような光を出せるようになりたいと思います。

お礼日時:2014/06/15 17:09

ANo2 pigunosuke



>私は、悩みがあるときに専ら聖書の答えを探します

キリスト教の聖書は、世界で最も読まれている書物の一つですから
それを否定するつもりは有りません
しかし、
それが全てだとは私は思いません

キリスト教の宗派はいくつ有るかご存じですか?
有名な所ではカトリック、プロテスタント
後は何が有ったでしょうかね?

そういう宗派は、キリストの言葉を聞いた弟子達が
それぞれの解釈で、キリストの言葉を受け止めたから
出来たと聞きます

同じキリストの言葉でも
それを聞いた人の解釈次第で、違った思想になるのだと思います

そして
聖書を作ったのは誰か?

聖書を作ったのは人間なのです
人間は神様では無いから、ミスを犯します

かつて天動説が唱えられていた頃、
地動説を唱えたガリレオ・ガリレイでしたっけ?は、
教会によって罪に問われましたが
つい最近
ローマ法王が、教会の過ちを認めた と
ニュースで聞いた事があります

神の言葉を伝える役目を担っているのも人間なのです
人間はミスを犯すのです

西暦はキリストが生まれた年でしたっけ?
ですから
それから2000年以上の時が流れています

それだけの期間、多くの人達の支持を集めてきたのですから
キリスト教は偉大な宗教なのでしょう
でも

過ちを犯す人間が、それを伝えている という事を
念頭に入れて
聖書の言葉を、ただ受け入れて伝えるのでは無く
キリストが本来伝えたかった事を
いつまでも追及して行く事が
大事なのではないかと思うのですが いかがでしょう?

この回答への補足

今日礼拝の説宣より、外見(言葉や形あるもの)で神の栄光を表すのではなく、神への心がどのようにあるのかによって、聖徒たちは光にも闇にもなりうることを知りました。

言葉や形によるもので神の栄光を表すことは、時に押し売りになってしまい、ただの自己満足であるのではないか、と感じました。

でも、神様への栄光を表すその光は人を魅了する魅力があると思います。

形で表すのではなく、自分自身のその光によって、神の栄光を表し、これから出会う方々、今いる友人を魅了できたら素敵だなと、思いました。

補足日時:2014/06/15 14:05
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうごいます。

キリスト教の宗派については、異端のものも含めると数きれないほど存在するそうです。
回答者者様のおっしゃる通り、解釈の違いによって様々な宗派が起こったのだと思います。

聖書を作ったのは誰か、ということですが、
『それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。』
『なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです』(第二ぺテロ1章20節21節)
私はイエスキリストが約束した聖霊を信じていますので、実際に筆を取ったのが人間であっても、聖書の文字は神様の御言葉であると理解しております。

『ガリレオ・ガリレイは地動説を唱えたために迫害された。』Wikipediaより
敵を愛し、迫害をする者のために祈りなさい。というイエス様の教えを果たせていないことです。
過去の過ちを認めたとしても、キリスト教のガリレオへの迫害は悪行であったと思います。この場を借りてお詫び申し上げます。

『地動説を唱えたジョルダーノ・ブルーノは、1600年に火刑に処された。』
『ジョルダーノ・ブルーノが火炙りになったのは、太陽が中心だと言ったからではなく、同時にカトリック教会を激しく批判したためである。』Wikipediaより

『右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。』
『あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。』
『敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。』とイエス様は仰いました。

キリスト教を迫害する者の命を奪うことをイエス様は望んでおられません。

なぜ、そのようなことが起きてしまったのか、私はその場にいなかったので、分かりませんが、この場を借りてお詫び申し上げます。

回答者様の仰る通り、伝道者、聖職者も過ちを犯します。
ただ、過ちを指摘し、過ちが真実であるとき、その人は悔い改め、真実を知ることになると思います。

聖徒にも同じことが言えると思います。
間違えた解釈により過ちを犯してしまって、それが真実ではないことを指摘されると、悔い改め、真実を追い求めます。

回答者様の仰る通り、キリストが本来伝えたかったことへの追求は私たちが最も追い求めなければならないことだと思います。

お礼日時:2014/06/15 07:15

今の現状の自覚を促し、


行動しなきゃならん変わらんという現実を言っています。

この回答への補足

大切なことですね。

補足日時:2014/06/14 22:25
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この回答へのお礼

シンプルで最もなお答えをありがとうございます。

お礼日時:2014/06/14 22:16

自分では力不足なので、本を薦めています。


分かりすくて、悩みの内容からも紐解けそうな本です。

親しい方には、
「気にしなければ、ラクになる。」
という本を最近は差し上げています。

仕事、恋愛・結婚、人間関係、将来の不安……
日々の些細な悩みや人生の迷いから解放されて、
もう、何にもとらわれない。
周りに気を使いすぎて疲れる
言葉の裏を読みすぎてしまう
頑張っている私を褒めてほしい
友達をねたんでしまう自分が嫌い
つい強がりを言ってしまう
怒りやイライラが抑えられない
いつも三日坊主になってしまう
「結婚できないかも」と焦っている
失敗が怖くて、新しいことに挑戦できない etc.

この回答への補足

今日礼拝の説宣より、外見(言葉や形あるもの)で神の栄光を表すのではなく、神への心がどのようにあるのかによって、聖徒たちは光にも闇にもなりうることを知りました。

言葉や形によるもので神の栄光を表すことは、時に押し売りになってしまい、ただの自己満足であるのではないか、と感じました。

でも、神様への栄光を表すその光は人を魅了する魅力があると思います。

形で表すのではなく、自分自身のその光によって、神の栄光を表し、これから出会う方々、今いる友人を魅了できたら素敵だなと、思いました。

補足日時:2014/06/15 14:05
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

自分が救われていなかったときに読みたかった本を勧めてみたいと思います。

お礼日時:2014/06/14 16:00

救いを求めている人も居るかもしれませんが


そうでも無い人も居ますよ

自分の中で出した答えが
正解か、不正解か、
判断が出来ないから質問をしている人も居ます

すでに答えは出てるけど、確認したいと願っているのです

だから私は言ってあげます
「あなたの出した答えは、真実では無くても正解です」 と

言い方はちょっと変えてますけどね
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

私は、悩みがあるときに専ら聖書の答えを探します。

問題なことは、質問者様が救いを求めていても、救いを求めていなくても、選ぼうとする答えが正解でも、真実でなければ、悲しい結果を招いてしまうということです。

それを伝えたいのですが、中々うまくいきません。

お礼日時:2014/06/14 16:05

cheoryさん、こんにちは。



 キリスト教でいう「救い」ということに関しては、「働き」というほど、おおげさなことはしていませんが、家族に対しては、普段から「思いやり」と「感謝」の気持ちを忘れないように接することを心がけていますし、赤の他人に対しては、例えば、このOKWaveの質問者様の質問に対して、少しでも「救い」になれば、「参考」になればと思いながら、回答に心がけています。(*^_^*)
「救いについて」の回答画像1

この回答への補足

今日礼拝の説宣より、外見(言葉や形あるもの)で神の栄光を表すのではなく、神への心がどのようにあるのかによって、聖徒たちは光にも闇にもなりうることを知りました。

言葉や形によるもので神の栄光を表すことは、時に押し売りになってしまい、ただの自己満足であるのではないか、と感じました。

でも、神様への栄光を表すその光は人を魅了する魅力があると思います。

形で表すのではなく、自分自身のその光によって、神の栄光を表し、これから出会う方々、今いる友人を魅了できたら素敵だなと、思いました。

補足日時:2014/06/15 14:06
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

ご家族に思いやりや、感謝をすることは素敵なことですね(^_^)

イエス様は
自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも同じことをしているではありませんか。
自分の兄弟にだけあいさつをしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でもおなじことをするではありませんか。
と仰いました。

今この御言葉を記したとき、私はイエス様を知らない人でも、愛したいのだと思いました。

22adqq22さんによって気づかせていただきました。
ありがとうございます。

今から、どうしたらイエス様を知らない方をより深く愛せるのかを考えてみます。

お礼日時:2014/06/14 16:20

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