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一、大名・小名在江戸交替相定ムル所ナリ。毎歳夏四月中、参勤致スベシ。従者ノ員数近来甚ダ多シ、且ハ国郡ノ費、且ハ人民ノ労ナリ。向後ソノ相応ヲ以テコレヲ減少スベシ。但シ上洛ノ節ハ、教令ニ任セ、公役ハ分限ニ随フベキ事。 (wikiからコピー )

この中の「但シ上洛ノ節ハ、教令ニ任セ、公役ハ分限ニ随フベキ事。」とは、上洛の際に何をどうせよと命じているのですか、教えて下さい。
参勤交代とは、どんなつながりがあるのですか。
また、ここで言う上洛とは、二条城へ入ることですか。

よろしくお願いします。

A 回答 (3件)

kouki-koureisyaさん、こんばんわ。



おそらく参勤交代のときの供揃えの人数のことを言っているのだと思います。家光の頃は将軍宣下などは都で行っていたので、将軍は大行列を引き連れて都に上っていました。だから、大名も将軍に従い、行列を引き連れて都へ上ったのでしょう。
その時は軍役規定に従い正規の人数を出しなさいということでしょう。
京都に将軍上洛した時の供揃えは定めてある通り、 治めている領地の石高の大きさに相応しくすることという意味でしょうね。

詳細は下記のURLを参照ください。

武家諸法度
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AE%B6% …
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
なるほど、分かりました。
「但シ上洛ノ節ハ、…」とありますから、参勤交代は従者の人数を減らせよ、しかし将軍上洛時は軍役規定を守れ、ということになりますね。
将軍の威光を京の人々に見せ付ける狙いがあったのでしょうか。
そんな気がします。

お礼日時:2014/06/15 20:47

ただし、京に立ち寄る際には、規則に従い、役職の有無によってふるまうように



と指示したものですね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/06/15 17:22

前例に従えということ



平安京である洛中には、
京都所司代・二条城代など勤める一部の譜代大名のみ、
立ち入り許され、
外様など他の大名は、朝廷と結びつくこと恐れ
公には将軍上洛の、随行ぐらいしか京都に入れず、、
京都洛中に公式の屋敷持てず
参勤交代時も大名行列は、公式には、入れませんでした。
伏見で幕府の検査受け、滋賀の草津へ回り、江戸に向かいます。
現在は、同じ京都市ですが、伏見まで、です。、
お忍びの京都見物や、毛利、島津、徳川御三家などの公家から奥方迎えた大名の親類訪問は許されましたが\(^^;)。
幕末史に出てくる京屋敷、京都藩邸といっても、薩摩も長州も伏見に、ありますよ。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
その前例がどんなものか、分かりませんでした。

お礼日時:2014/06/15 17:21

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