アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

 1. 哲学は おのれの精神のストリップをいとわない。と思う。

 2. けれども それは程度問題なんだからと言い むしろ肝心の本心を隠す場合もある。

 3. たしかに何が何でも本音をひとさまにさらけだせばよいとはならない。要らないものは要らない。

 4. よってここから 人呼んで 《縁側の哲学》が起こる。




 5. 縁側とは 相手と確かにしっかりと接していて対話をおこなっているのであるが そこではなお話の内容として互いにみづからの精神のストリップにまでは到らないでいられる場所として設けた非武装地帯( DMZ )のことである。

 6. その言葉じたいにはわるい響きがあるが 一般に八方美人としての緩衝地帯である。

 7. すなわち・したがって人びとは一般に人間関係に角を立たせないようにしようとするとき この縁側の哲学を持つ。

 (7-1.) この縁側理論が 例の《和を以って貴しと為す》という交通形式とどう同じでどう違うかという主題も 派生しているかと思われる。




 8. 知恵をしぼり工夫をして人びとは この自己表現にあたってのおのれの文体に帯びさせる縁側を 広い間口で低い敷居につくるかも知れない。相手をこころよく迎え入れたい。

 9. また縁側の場所としての幅を広くして 嫌だと思う精神のストリップは回避できるようにと・つまりはその回避をしたまま何とか実のある話し合いが出来るようにと対話のかたちを――おのれの文体として――築きあげる。




 10. さて ここで問題は 縁側はいいこと尽くしではないと思われることです。
 いかに縁側の居心地がよくても それだけでは話が成り立たず どうしても本心を明らかにしなければ話が始まらないというときだと思われます。

 11. 本心のはぐらかし・先送りで 人間と人間との対話は成り立つか? 成り立たないなら 本心のストリップは 避けられないか?

 (11-1.) これは ウソの問題でもあるかと思います。そのときのヤマシサ反応もしくは恥ぢの問題であるかと。



 12. ぶっきらぼう哲学は こういう主題をとことん議論するクセがあります。

 13. ぶっきらぼう理論は ひとを傷つけるものだろうか? それともじんるいの未来を拓くあかつきか?

A 回答 (11件中1~10件)

おはやうございます。



>>わづらわしいでしょうから お答えはいいですが
>>あらためてここにこの問題点をかかげておきたいと思います。

わづらはしいことはありませんが、これでこのページは最終にします。熱が入りすぎると、また削除になりますから。

人が傷つくかどうかは、結局受け手次第です。少なくとも私は、このサイトで傷つけられたと感じたことは一度もありません。私は世界を知りたいと思つてゐます。人を嫌ひになつたとしたら、それだけ世界を知る機会を減らすことになつてしまひます。

ネット社会では、対面のつきあひでは考へられないほど、他人の発言を悪意に受け止める傾向があります。(私は、実社会でもネットでも同じ、ふだんどほりの態度を取つてゐます。)それが先回の私の質問の趣旨でした。bragelonneさんの場合もそれで不利になつてゐるとおもひます。何気ない言葉を悪く解釈して、争ひを起こしてゐる場面をあちこちのカテゴリで目にします。だからこそ回答番号9で、「変態」上等、と書いたわけです。他人の評価を過度に気にする必要はありません。私は哲学カテゴリがその範を示してもらひたいと願つてゐます。これこそが、哲学の価値ではありませんか。bragelonneさんのいつもの指摘どほり、対話が少ないことが大きな要因であることはまちがひありません。

もちろん、本気で他人を攻撃する人もゐます。しかし、さうした人を取り締つてもきりがありません。むしろ、さういふ人は、削除処理を受けると、腹を立てて、ますます他人を攻撃するやうになります。それで、サポート担当さんには、私への単独非難の場合には削除しないやうにと頼んであります。

世の中には攻撃型の人がいくらでもゐます。ですから、傷つきやすい人には、その対処の方法を身につけてほしいと思つてゐます。私には、私の方法を示すしかありませんが。
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この回答へのお礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。


 ★ 私は世界を知りたいと思つてゐます。人を嫌ひになつたとしたら、それだけ世界を知る機会を減らすことになつてしまひます。
 ☆ これは そのたぐいのご発言を聞いていたわけですが いま初めてそのことの重大さに気づきました。

 ちょっとおどろきです。

 わたしの経験に合わせて勝手に解釈すれば 大学を卒業するまでは完全にそういう感じでしたし 二十歳代まではだいたいそうだったように思います。

 その後 嫌いになると言いますか 距離をおいて接したほうがよいと思うようになりました。むしろ相手が わたしのそうすることをのぞんでいると見たことからもそうでした。

 

 けれども いまもそのように〔であるかどうか まだ推測の段階ですが〕なさっているとすれば これは 単なる好奇心の問題ではないでしょうしあるいは好き嫌いの問題だけでもないように思われます。

 哲学は嫌いだけれど哲学の徒は好きだというような発言内容について もっとしっかりと把握しなければならないと思いました。
 
 じっさいまだよく分からないかも知れません。




 ★  人を嫌ひになつたとしたら、それだけ世界を知る機会を減らすことになつてしまひます。
 ☆ あらためて そうですね。わたしは嫌いな感じも好きな感じも両方を持ってひとに接することとしていますが そうですね。反応を 見当違いでもよいから言えということであれば 《世界を知る》と《世界を変える》の違いがあるのかなぁとは思いましたが よく分かりません。

 《世界を変える》というのは 相手が 《われに還る》ことをお手伝いするというかたちです。
 
 これは あなたの言う《八方○○に 結果的になった》というのと似ているでしょうか。つまり わざわざこちらが いまでは 勝手にお手伝いしようとしているのですが 結果的にそういうわたしの文体になったのだと思っています。まぁ もちろん相手がいやがれば ただちに引くのですから それほどの大ごとではないとも思っています。




 ★ ネット社会では、対面のつきあひでは考へられないほど、他人の発言を悪意に受け止める傾向があります。(私は、実社会でもネットでも同じ、ふだんどほりの態度を取つてゐます。)それが先回の私の質問の趣旨でした。bragelonneさんの場合もそれで不利になつてゐるとおもひます。
 ☆ 長いやり取りですので 読んでいただくことはありませんが そういう議論をもして来ています。

 【Q:《ネット人格》なんて 別の人格があるのですか?】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7364127.html 

 バーチュアルな世界では 何でも言えるという思いを持っているひとが多いようです。
 ふだんは アース役を引き受けているとすれば 止むを得ないことかなとも思います。





 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 何気ない言葉を悪く解釈して、争ひを起こしてゐる場面をあちこちのカテゴリで目にします。だからこそ回答番号9で、「変態」上等、と書いたわけです。他人の評価を過度に気にする必要はありません。

 私は哲学カテゴリがその範を示してもらひたいと願つてゐます。これこそが、哲学の価値ではありませんか。bragelonneさんのいつもの指摘どほり、対話が少ないことが大きな要因であることはまちがひありません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 茶化すつもりはないのですが 茶化したくなるほど《熱心なご発言》だと思います。これまでにおいて初めてうかがったようにも思います。

 これは 秘めたものがお有りだったんですねぇ。こころよくおどろきましたが おどろきよりも もっと早く言い出してもらっていたほうがよかったという思いです。




 ★ もちろん、本気で他人を攻撃する人もゐます。しかし、さうした人を取り締つてもきりがありません。むしろ、さういふ人は、削除処理を受けると、腹を立てて、ますます他人を攻撃するやうになります。それで、サポート担当さんには、私への単独非難の場合には削除しないやうにと頼んであります。
 ☆ そうですか。そうなんですか。これは 縁側の論理ではなく 縁の下の力持ちのほうですね。

 (わたしは 別の対応の仕方をするかと思います。もろにその相手とカラミを持つということです。カラミを持つかぎりで しっかりとまじめにケンカをします)。


 ★ 世の中には攻撃型の人がいくらでもゐます。ですから、傷つきやすい人には、その対処の方法を身につけてほしいと思つてゐます。私には、私の方法を示すしかありませんが。
 ☆ そうですね。

 わたしの方法としては 内向性よりは・まして内閉型よりは 攻撃型のほうが 接しやすいです。
 話を絶やさない文体を持つひとは 応対しやすいです。ねちねちと話をすすめて行けますから。

 いちばんの苦手は 《押し籠もり》型です。送信はするが受信はしない(または 都合のよいものだけを受信する)半鎖国状態のばあいです。しゃべる蛸壺型です。

 あと 《傷つきやすい人》には 世の中は 情況からの影響(誘導)として・またはクウキの問題として ガミガミ役とアース役とに分かれて存在するという事態にもなっていると捉えて欲しいですね。アース役はつらいよ けっこう毛だらけ猫灰だらけ・・・って言って行って欲しいですね。


 なるほど。なるほど。ぷらぽたさんのメインテーマは コミュニケ―ション論であるようですね。哲学ぢゃないですかぁ。





 これは 余計な PR です。

 【Q:観念の運河を 《空気》なるゴンドラはきょうもゆく】 ~~~
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7136310.html

 玄関を一歩出ると そこは 運河である。

 人びとの いや われわれの頭の中に深く穿たれた観念の水路網。

 まづは ゴンドラを誂えなければならない。

 船をうまくあやつれないと 通行はむつかしい。見えざる交通法規。

 ゴンドラは 何を載せているか? いや ゴンドラが 何で出来ているか?

 クウキですって? いやでも吸わざるを得ない空気のことですか?

 ええっ?

 クウキで出来たそれぞれの船。


 ところが その船の材料であるクウキは 一人ひとりがあつらえるのではなく すでに千年二千年も昔から仕立て上げられて来たお古である。

 お古のお仕着せ これが われらが運河の通行手形であり うるわしきゴンドラである。
 ・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2014/06/19 07:35

こんばんは。

「お礼」ありがたうございます。先回またしても大量削除になりました。このたびは、サポート担当さんに迷惑にならないやうにしたいと思つてゐます。

>>通常、「哲学」とは役に立たないことをむづかしく考へ、
>>一般人からみれば、「変態」「ゴミ溜め」、
>>ある投稿者のことばをかりれば「自己陶酔による狂人の集団」です。
>>☆ これは 考え違いがあります。

文頭にありますやうに、あくまでも「通常」です。いざといふときに、本領を発揮するのが哲学だと考へます。

>>★ 結局は、自分にないものを、口に出してゐるだけではないかと思へてきます。
>>☆ と言われたら どう答えますか?

私は、「ウソ」は嫌ひです。自他ともに認めるヘタレ豚野郎です。ブヒブヒ。以前ある投稿者が私のことを書いてくれて、けつこうサイトぢゆうにひろまつてゐます。自分では気に入つてゐて、笑ひころげてゐます。文通ともだちの子供もすつかり喜んでくれてゐて、私としては感謝してゐる次第です。

>>わたしがののしったことに対して 後遺症はないですか?

このたびも書きましたやうに、bragelonneさんは、哲学カテゴリに必要な人材です。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 文頭にありますやうに、あくまでも「通常」です。いざといふときに、本領を発揮するのが哲学だと考へます。
 ☆ そうですか。
 でも わたしは 違う考えを持ちます。

 生きているときにその現実から持ち得た疑問に答えるのが 哲学だと考えています。

 その結果は 生活日常の生き方が 哲学になるはずです。《本領》は発揮できなくても――つまり 現実のシガラミや壁に道をさえぎられ 発揮できない状態に甘んじなければならなくなっても―― その主観の基本的なあゆみとして生きているのが 哲学だと思います。

 《通常》において 哲学は観念の世界に走り 愚にもつかないことを考えると言われるのは ひとえにブディズムの阿呆哲学の所為だと考えます。



 あと この質問で大事なことは くりなるさんとのやり取りから出た次の問題です。

 ☆☆ (No.6お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~
  ◆ 「ひとを傷付けながら(も)、じんるいの未来を拓く」 / ということですか。
  ☆ これは No.2のこういちろうさんと同じご見解でしょうか。

 ただし 
 ◆ ひとを傷付けながら(も)
 ☆ のところでは 注意が要ると思います。決して じつは 人の心を傷つけてはいません。

 わたしは 次のように表現しました。
 ☆☆ (No.2お礼欄)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ○ 《ぶっきらぼう理論は ひとを傷つけるものだろうか?》
 ―― その当座は あるいは傷つけることがあるかも知れない。みづからの心にヤマシサ反応をおぼえた人にあっては そのウソ・イツワリを意志行為に移したというかぎりで 心が傷つくかも知れない。

 けれども
 ○ 《それともじんるいの未来を拓くあかつきか?》
 ―― というふうに その《心における傷つき》を突き抜けて・ということはウソをつくときに伴ったヤマシサや恥ぢの思いを乗り越えて おのれの本心に突き当たりわれがわれであるようになるならば 世界は開かれるであろう。と。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 どういうことか?

 ○ 《ぶっきらぼう理論は ひとを傷つけるものだろうか?》
 ―― その当座は あるいは傷つけることがあるかも知れない。みづからの心にヤマシサ反応をおぼえた人にあっては そのウソ・イツワリを意志行為に移したというかぎりで 心が傷つくかも知れない。


 すなわち 傷つけるように見えるそのことは じつは 次の内容となっているはずなのです。

 すでにその人が みづからの心をいつわってウソをついたことがあり それとしてみづからの心に損傷を負わせている。ヤマシサ反応に逆らい 恥ぢの感覚をも無視して ウソを敢行したからには それなりに心に傷を負ったはずです。

 つまり ぶっきらぼう理論が そのぶっきらぼうな姿勢にて相手の本心を言い当てたとき その相手の人が傷つくというのは じつは すでに負っている古傷が溶けるときのおどろきによって損傷だと感じるだけのことなのです。

 すなわち 古傷が癒えるようになるとき 消毒剤によって痛みをおぼえるだけのことなのです。

 損傷に対する損傷。損傷部分をすでに損傷させる傷つけ。傷を癒やす《はじめに傷つけだと錯覚する薬》です。

 すでにアンチテーゼが成っているところへ アンチテーゼを与える。マイナスに対してマイナスを掛ける。つまりは ジンテーゼなる行為であると考えます。

 そうでなければ 《じんるいの未来を拓く》こともかなわないでしょう。どうでしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 自分に都合のよいように語っていると言われましょうが 大事な論点です。

 わづらわしいでしょうから お答えはいいですが あらためてここにこの問題点をかかげておきたいと思います。

お礼日時:2014/06/18 22:12

こんばんは。

このページも一段落してゐるやうです。このあたりで、めだちたがりで自己満足のヘタレ豚野郎が登場いたします。

八方○○は私のことにしても、質問内容自体は哲学としての一般論ではないかとお見受けします。

*** *** *** *** ***

>>4. よってここから 人呼んで 《縁側の哲学》が起こる。

私はこのカテゴリには勉強のためにきてゐます。よつて「縁側の哲学」を論じるほどのものを持ち合せてゐません。まづ、bragelonneさんが誤解してゐるとおもはれる、私自身の「八方○○」について書きます。

私は、実生活においても、ネット社会においても、八方○○です。それは、あくまでも結果としてさうなつてゐるのであつて、はじめからさうだといふわけではありません。

とにかく私は、やりたいことをやる、さういふ自己中心的な人間です。このQ&Aでも充分ご存じでせう。哲学カテゴリでの「落書き投稿」はまだましな方です。

http://questionbox.jp.msn.com/qa8635267.html

先日、外国語カテゴリで質問文を読んだら、ニーチェの言葉が頭に浮かんだので、ただそれだけを、回答(?)として投稿しました。すると、大御所のErdbeerkegelsさんが、きちんと文法上の説明をして、質問者が使へるやうにしてくださいました。私の回答はほとんどがこんな状態で、周囲に助けられてゐます。ボケ回答がすべつたときでも、だれかがフォローしてくれます。ですから、私はほかの人たちに頭があがりません。

でたらめ回答の結果として削除になりますが、さうなると、今度はサポート担当さんのお世話になります。余計な手間をおかけしてゐるにもかかはらず、毎回温かいメールをいただき、ひたすら感謝するのみです。しかも、削除文をまことに丁寧に読んでくださつてゐるやうです。

私の悪口を書く人たちもあちこちのカテゴリにたくさんゐますが、めだちたがりの私にとつては、悪名がとどろくのは光栄です。もともと極悪人なのですから。

したがつて必然的に、すべての人たちに感謝することになつてしまひます。「八方○○」は、なるべくしてなつてゐるだけのことです。

*** *** *** *** ***

>>(11-1.) これは ウソの問題でもあるかと思います。そのときのヤマシサ反応もしくは恥ぢの問題であるかと。

bragelonneさんの質問文ではしばしば、この「ウソ」といふ表現が使用されますが、私にはこれがまつたく理解できません。アダルトサイト勧誘の投稿のやうな特殊なものを除けば、このQ&Aサイトで「ウソ」に該当するやうな文章を読んだことがありません。私自身についていへば、口が軽いとしばしば指摘され、思つたことを何でもすぐにしやべつてしまひます。

ただし、私にもこの件でひとつだけ、腑に落ちないことがあります。通常、「哲学」とは役に立たないことをむづかしく考へ、一般人からみれば、「変態」「ゴミ溜め」、ある投稿者のことばをかりれば「自己陶酔による狂人の集団」です。(それにしても、あの「変態」の質問ページは最高でした。)もつと笑ひがおきてしかるべきです。なぜ影に隠れて笑ふのか、理解できません。哲学カテゴリは、「ゴミ溜め宣言」をしてもよいくらゐです。

以前うたさんから、こんなことばをいただきました。

>>宗教者は外界においては宗教者として振る舞うが、
>>その宗教界内部においては宗教者であることを拒むものです。

名言だと思ひます。外向きと内向きでは、逆の人格が存在するといふ指摘です。これは宗教にかぎりません。自分は人に尻尾をふるのが嫌ひだと主張する人は、都合が悪くなるとすぐに人の言ひなりになります。平和を声高に唱へる人は、人間の好き嫌ひが激しい。他人の評価を気にするな、と叫ぶ人は、極端に自分への評価をこだはります。私のこれまでの人生で多くの実例を目にしました。結局は、自分にないものを、口に出してゐるだけではないかと思へてきます。

哲学カテゴリの投稿文にも、他人の評価などとるにたりぬ、といふ内容をちよこちよこ目にします。ならば、そのとほりにすべきです。なぜ「変態」ではいけないのか。くだらないプライドが、哲学に必要なのか。

>>1. 哲学は おのれの精神のストリップをいとわない。と思う。

この点において、bragelonneさんに賛同します。

*** *** *** *** ***

>>13. ぶっきらぼう理論は ひとを傷つけるものだろうか? 
>>それともじんるいの未来を拓くあかつきか?

じんるいの未来を開くことはありません。ヘタレ豚野郎を調子に乗せるだけです。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。



 ★ ただし、私にもこの件でひとつだけ、腑に落ちないことがあります。通常、「哲学」とは役に立たないことをむづかしく考へ、一般人からみれば、「変態」「ゴミ溜め」、ある投稿者のことばをかりれば「自己陶酔による狂人の集団」です。
 ☆ これは 考え違いがあります。

 哲学は 迂回生産をしているだけです。(ほかに 言葉の意味を定義して 交通整理をもおこないます)。
 つまり やはり《生産》しています。《建設》です。

 迂回生産としての生の建設の事例を示します。

 【Q:感受性の強い人と弱い人、幸せなのはどっち?】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8641327.html

 その回答No.12で わたしのものです。
 けっして《観念》の世界に閉じこもることはしません。足を地につけています。世間では 誤解があるだけです。



 

 ★ 外向きと内向きでは、逆の人格が存在するといふ指摘です。これは宗教にかぎりません。自分は人に尻尾をふるのが嫌ひだと主張する人は、都合が悪くなるとすぐに人の言ひなりになります。平和を声高に唱へる人は、人間の好き嫌ひが激しい。他人の評価を気にするな、と叫ぶ人は、極端に自分への評価をこだはります。
 ☆ このことにあまりかかずらわることもないと考えます。

 ▼ (コリント後書 11:14-16) ~~~~~~~~~~
 14: だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。

 15: だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。
 彼らは、自分たちの業に応じた最期を遂げるでしょう。 (* この一文は あまり芳しくないと思います)。

 16: もう一度言います。だれもわたしを愚か者と思わないでほしい。
 しかし、もしあなたがたがそう思うなら、わたしを愚か者と見なすがよい。
 そうすれば、わたしも少しは誇ることができる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




 ★ なぜ「変態」ではいけないのか。くだらないプライドが、哲学に必要なのか。
 ☆ この変態については いまいちど内容説明をもとめます。単純には言えないと思いますから。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  >>1. 哲学は おのれの精神のストリップをいとわない。と思う。

 この点において、bragelonneさんに賛同します。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ それは それは。ですが そのようなストリップをするのは 場合が限られるとも考えます。ですから 決して《変態》とは 関係ないと思います。




 ★ じんるいの未来を開くことはありません。ヘタレ豚野郎を調子に乗せるだけです。
 ☆ 豚野郎というのは 
 ★ 結局は、自分にないものを、口に出してゐるだけではないかと思へてきます。
 ☆ と言われたら どう答えますか?



 それはそうと わたしがののしったことに対して 後遺症はないですか?
 同じほどには ののしってみてください。

お礼日時:2014/06/18 21:19

別に私はブラジュロンヌさんがどうと言う話はしていませんよ。

勘違いです。

また、一般論ではなく限定的な場合を問うているということですが、(確かに私は一般論で答えました)では、どうしても本心を明らかにしなければ対話が始まらないという場合というのは具体的にどういう場合を想定しているのでしょう?
補足を要求します。

あと、本心がどうなのかはわからないというのは、あくまで人が本来善良であると深く信じている人の場合を言ったもので、前回答最後部の、普段の仕草や言葉に現れると言った場合とは異なるシーンを想定しています。従ってこの二つの言明の間には矛盾はないでしょう。
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この回答へのお礼


お礼日時:2014/06/17 10:19

人の本心など、そうそう聞けるものでもないし、言うものでもないと思います。

そして、それを明らかにすることは一種怖いことでもあるでしょう。暴露趣味とはけして相入れないのが本心のあり方であると思います。
人が本来善良な存在であると深く信じている人には、人の本心もまた良いものであると想像されるでしょうが、それは想像に過ぎません。実際どうなのかはわからないものです。
従って、温和さによって対話する縁側の哲学や、朴訥ながらも素朴に、言葉少なに、控えめに内心を開示するぶっきらぼうの哲学は、共に、対話のスタイルとしては適切の範疇であると考えます。
一方、じゃじゃ馬のように、無差別に、露出狂のように、自己を吹聴することは、実は本音や本心を開示しているのではないのだと私は見ます。
それは、本当の気持ちが、口論や喧嘩の最中に出るのではない様なものです。
本心と言うのは、日常の何気ない風景の中に、仕草や言葉として現れるものであると私は考えます。
礼装でもなく、裸でもなく、普段着のままで、本音は現れるのではないでしょうか。その微かな信号をキャッチ出来る、聡い耳があればこその話ですが。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 趣旨説明の(1)ですでに《哲学》の問題であるとことわっています。

 その上で 問題はさらにその発生する場合をしぼって問うています。すなわち
 ☆☆ (趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~
 10. さて ここで問題は 縁側はいいこと尽くしではないと思われることです。
 いかに縁側の居心地がよくても それだけでは話が成り立たず どうしても本心を明らかにしなければ話が始まらないというときだと思われます。

 11. 本心のはぐらかし・先送りで 人間と人間との対話は成り立つか? 成り立たないなら 本心のストリップは 避けられないか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち 《縁側の効用だけでは話が成り立たない》場合にしぼって問うています。すなわち早く言うならば すでにそこから必然的に《本心を明らかにしなければ話が始まらない》場合に限っています。

 そうしてまた《本心のはぐらかし・先送り》では話が始まらないと推測される場合に そもそも《対話は成り立つか?》とも問うています。これは 一般論へと広げようとしている部分ではあります。けれども 特定の場合にしぼった問いが 先決問題です。

 つまり 人間どうしに対話というものが成り立つかどうかの一般論ではありません。このように問うていることにご配慮をいただけるとありがたい。




 あるいはもしそういう問いの立て方になっていないではないか? とか。あるいは 説明の上ではそう成っているが そういう問いの立て方は そもそもおかしいのではないか? といったご見解であれば そうだと明らかにして その理由を述べてから 今回のご回答をいただきたい。――まづは こういうお応えになりますが どうでしょう。




 

 ★ 人が本来善良な存在であると深く信じている人には、人の本心もまた良いものであると想像されるでしょうが、それは想像に過ぎません。実際どうなのかはわからないものです。
 ☆ この考え方などは 《本心をはぐらかす・先送りする》といったことは それがあるようで じつは あるか無いか人には分からない。よって 縁側理論のあいまいさを突くのは 的を射ていない。こういう理由説明に あるいは 成るのかも知れません。

 ということで いますでにこれにも応答しますが やはりそういった一般論の問題ではないということ。これをもって 趣旨説明をさらに明らかにしたい。

 まづ 次のように・すなわち
 ★ 礼装でもなく、裸でもなく、普段着のままで、本音は現れるのではないでしょうか。
 ☆ というように じつはそうは言っても《本心が実際どうなのかは分からないものです》という命題を ご自分でくつがえしておられる。

 細かく議論しなければならないところです。
 一方は 《本心が良いものであるとした見方》に対して反論しているのであって 他方は 一般に《本音があることは マチガイないことであり 普段の生活の中に確かに現われるものだ》と言っているに過ぎない。こういう反論が出るかも知れません。

 けれども もしそれが通るとしたなら 前者は捨てればよいだけです。後者の《本音は現われるし みづから表明することもあり得る》という前提を採用するとすれば済みます。じじつそのような前提に立って 問いは問われております。




 つまりここでの問題は 回答者にとっては 質問者(ぶらじゅろんぬ)が 
 ★ 人が本来善良な存在であると深く信じている人
 ☆ であって そういう人
 ★ には、人の本心もまた良いものであると想像されるでしょう
 ☆ と 回答者(あ_ほなさん)が 想像しているということにあります。また この想像が ただしい・合っていると決めて 議論を展開している。ここです 問題は。


 つまりは 今回のご回答の難点は:
 1. 質問がすでに特定の情況ないし場合にしぼって問うているのに 一般論で答えている。

 2. その一般論の中で 相手(すなわち質問者=ぶらじゅろんぬ)の考えやそれこそ《本心》をすでに自分でおもんぱかり推し測ってしまっていて その判断内容がただしい・合っていると決めて議論をしている。

 といったところにある。と考えますが どうでしょう。 
 つまり これでは すべてがそれこそ《縁側でのあいさつ会話》に終わっている。と考えます。

お礼日時:2014/06/17 04:58

>「ぶっきらぼう理論は ひとを傷つけるものだろうか? それともじんるいの未来を拓くあかつきか? 」




仰る文脈(「八方美人」なんて、クソ喰らえ)からすると、
・・・どうなんですかね。

「ひとを傷付けながら(も)、じんるいの未来を拓く」
ということですか。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ 仰る文脈(「八方美人」なんて、クソ喰らえ)
 ☆ これは 言い過ぎでしょう。

 《ハッポウビジン》について わたしは次のように見ています。
 ☆☆ (No.5お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~
  けっきょく《縁側の哲学》派は それでいて(縁側の哲学を大事にしていて しかも) ホンネの部分をも表現し得て行けるなら オールマイティに近くなるのですが。と思ったりします。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ とにもかくにも コミュニケーションにおいて潤滑油の役割を果たすのではないでしょうか。




 ★ 「ひとを傷付けながら(も)、じんるいの未来を拓く」 / ということですか。
 ☆ これは No.2のこういちろうさんと同じご見解でしょうか。

 ただし 
 ★ ひとを傷付けながら(も)
 ☆ のところでは 注意が要ると思います。決して じつは 人の心を傷つけてはいません。

 わたしは 次のように表現しました。
 ☆☆ (No.2お礼欄)~~~~~~~~~~~~~~
  ○ 《ぶっきらぼう理論は ひとを傷つけるものだろうか?》
 ―― その当座は あるいは傷つけることがあるかも知れない。みづからの心にヤマシサ反応をおぼえた人にあっては そのウソ・イツワリを意志行為に移したというかぎりで 心が傷つくかも知れない。

 けれども
 ○ 《それともじんるいの未来を拓くあかつきか?》
 ―― というふうに その《心における傷つき》を突き抜けて・ということはウソをつくときに伴ったヤマシサや恥ぢの思いを乗り越えて おのれの本心に突き当たりわれがわれであるようになるならば 世界は開かれるであろう。と。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 どういうことか?

 ○ 《ぶっきらぼう理論は ひとを傷つけるものだろうか?》
 ―― その当座は あるいは傷つけることがあるかも知れない。みづからの心にヤマシサ反応をおぼえた人にあっては そのウソ・イツワリを意志行為に移したというかぎりで 心が傷つくかも知れない。


 すなわち 傷つけるように見えるそのことは じつは 次の内容となっているはずなのです。

 すでにその人が みづからの心をいつわってウソをついたことがあり それとしてみづからの心に損傷を負わせている。ヤマシサ反応に逆らい 恥ぢの感覚をも無視して ウソを敢行したからには それなりに心に傷を負ったはずです。

 つまり ぶっきらぼう理論が そのぶっきらぼうな姿勢にて相手の本心を言い当てたとき その相手の人が傷つくというのは じつは すでに負っている古傷が溶けるときのおどろきによって損傷だと感じるだけのことなのです。

 すなわち 古傷が癒えるようになるとき 消毒剤によって痛みをおぼえるだけのことなのです。

 損傷に対する損傷。損傷部分をすでに損傷させる傷つけ。傷を癒やす《はじめに傷つけだと錯覚する薬》です。

 すでにアンチテーゼが成っているところへ アンチテーゼを与える。マイナスに対してマイナスを掛ける。つまりは ジンテーゼなる行為であると考えます。

 そうでなければ 《じんるいの未来を拓く》こともかなわないでしょう。どうでしょう。

お礼日時:2014/06/17 03:59

NO,2 です。


ご丁寧なお礼をいただきましたのでw。

>《嫌韓》は 人それぞれであるように思います。その理由が 人によって違う。
 
 あるいは 韓国人のどこそこが嫌いだという点で 共通の理由があったとしても
 そこからただちに《嫌   韓》としての運動をするわけではない。
  あるいは 思いとして《嫌韓》であったとしても それゆえにも
  積極的に手を差し伸べ話し合いの門戸を開いているという場合もあるかも知れませんから。

仰るとおりです。厳密に言えば、ということですね。
 私は表面さらりの「縁側哲学」に似ている「嫌韓=韓国の反日に対応して起こった一般受けする感情論」という観点でそうしました。確かに一面的ですが、ポピュリズムに沿ったムードであることは確かだと思います。で、
>積極的に手を差し伸べ話し合いの門戸を開いているという
こういうひとは嫌韓とは言わないと思いますが、どうでしょうか。


> 《集団自衛権賛成》《憲法9条を守ろう運動》についても 
   同じような事情があるのではないでしょうか

  様々な観点から参加する人が居ることは確かだと思います。でも「嫌韓」人にくらべれば考えが深い、平和でもって戦争を遠ざけようという、軍事オタクや、ともかく戦争が好きというわかりやすい単純な人たちに比べれば一般受けしない、とことん議論するという体質のひとたちが集まっているのかな、と思ったのですが、どうでしょうか。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 で、
  >積極的に手を差し伸べ話し合いの門戸を開いているという
 こういうひとは嫌韓とは言わないと思いますが、どうでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ あぁ。えぇ。なるほど。そうですね。

 わたしなどは 《韓国は嫌い》ですけれど 門戸はひらいていなければいけないと思っていたものですから。

 ひとつのラベルとして捉えるのでしたね。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 でも「嫌韓」人にくらべれば考えが深い、平和でもって戦争を遠ざけようという、軍事オタクや、ともかく戦争が好きというわかりやすい単純な人たちに比べれば一般受けしない、とことん議論するという体質のひとたちが集まっているのかな、と思ったのですが、どうでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ これも ひとつの区分として捉えなければいけないのですね。ということは 《集団自衛権賛成》と《憲法9条を守ろう運動》については わたしは必ずしもよくは知っていません。

 ★ とことん議論するという体質のひとたちが集まっているのかな、
 ☆ でしたら 《ぶっきらぼう》派だと言うとあまり これまたピンと来ないかも分かりませんが 《縁側哲学》派とは違っていることは 確かでしょうね。たしかにそう思います。

 《軍事オタク》というのも 必ずしもはっきりとは知らないです。
 歳を取っているからというのは 言い訳にならないですが いまのそういった傾向に分かれる情況について詳しくありません。



 けっきょく《縁側の哲学》派は それでいて(縁側の哲学を大事にしていて しかも) ホンネの部分をも表現し得て行けるなら オールマイティに近くなるのですが。と思ったりします。

お礼日時:2014/06/16 23:00

《ラッキョウの皮剥き》 = 要素還元的思考法


という意味も含めて、語っています。
仏教の析空観なども視野に入れて語っています。

析空
http://budda.at.webry.info/201001/article_1.html

また、フロイト的な精神分析法も頭の中に入れて語っています。
精神分析的にいえば、心を掘り下げていけば、深層意識や潜在意識に突き当たる・・・。

しかし、
こうした見方は、ときに「木を見て森を見ず」なんてことにもなります。
だから、「ラッキョウを食べられない」。
ですが、こうした作業は、一度は必要なんであろう。

こんなニュアンスです。

ですから、
わたしの回答は、bragelonneさんの問いかけからはすこし外れているのかもしれません。
本心を違う意味でとらえている・・・。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ◇ 仏教の析空観なども視野に入れて語っています。
 ☆ この視点をまづ確認します。

 ▽ (析空(しゃくくう)) ~~~~~~~~~~~

  空観に二種あり、析空は専ら小に在り、体空は小大に共なり。
       『摩訶止観』巻六下 天台智顗(538~598)
  
 析空観は、世界を分析して、どこにも本質と呼べるものはないと観ることで、それによって執着を無くすことを目的とした修行方法です。
 体空観は、瞑想によって、世界は直ちに空であると体感することとされています。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ (あ) 空観は 諸法無我として何ものにも実体がないという思考としても得られると思いますが ここで《体空観》と言うのならば おそらくそれは 《瞑想によって》ではなく ヒラメキによってだと思われます。つまり 非思考の庭なる信仰動態をとおしてであろうと見ます。

 (い) なぜなら 《体感する》と言っていますから。

 (う) いえ。もう少し複雑ですね。たとえば もののあはれを知るのは 感性をつうじて世界とのふれあいの中でその情感においてだとも考えられます。つまり 必ずしも非思考の庭でなくてもよいかも知れないからです。

 (え) 要するに移ろいゆかざるを得ない世界をそれとして捉えた――つまり体感したし思考においても認識しえた――というとき その境地がうつろいゆかないものと成る過程を死ぬまで保つなら それは 非思考の庭なるアートマン(霊我)に裏づけられた境地であると考えられます。

 (お) 体空観も この境地の問題であるとすれば 非思考の庭の謂いであり 信仰動態であろうと見ます。

 (か) そして ここで言いたいことは もしこの体空観を得ているのならば なんでわざわざ《世界を分析して、どこにも本質と呼べるものはないと観ることで、それによって執着を無くすことを目的とした修行方法》たる《析空観》が必要なのですか? です。すべては 体空観に含まれているはずです。





 このような意味合いにおいて 次に
 ◇ 《ラッキョウの皮剥き》 = 要素還元的思考法   / という意味も含めて、語っています。
 ☆ という思考法が ここでやはり同じくなぜ必要となるのか? これが まだ分かりません。例示していただくと分かりやすいかも知れません。



 ◇ また、フロイト的な精神分析法も頭の中に入れて語っています。 / 精神分析的にいえば、心を掘り下げていけば、深層意識や潜在意識に突き当たる・・・。
 ☆ フロイトは わたしは全く理論として受け付けません。《無意識》は それとして独立の部位を成すという見方は とうに退けられています。

 ただ 意識にあがっていなかったことが 意識や意志として自覚する前に 行動に現われたとか 意識をしていないことがらが 潜在意識としてあるとか そういうふつうの事態としてなら その事柄を受け容れます。

 精神はいくら分析しても そのパーツはパーツ自体で独立しているわけではありません。自我も超自我もエスも たとえそういうパーツがあるとしてもそれらはみな 存在および人格の全体としての《わたし》のもとにあり 特にはわたしの意志のもとにすべてまとめあげられて この意志行為の中に消えて行きます。





 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 しかし、
 こうした見方は、ときに「木を見て森を見ず」なんてことにもなります。
 だから、「ラッキョウを食べられない」。
 ですが、こうした作業は、一度は必要なんであろう。

 こんなニュアンスです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは 分かりません。前回

 ◇◇ (回答No.3) ラッキョウは、精神や心の喩えです。
 ☆ と聞いています。

 つまり 《精神や心》について なるほどその要素に分けることは出来ます。つまり 記憶と知解と意志のみっつに分けることが出来ます。そのとき 《要素還元する》というのは・そしてそれにもとづき思考法を持って運用するというのは どういうことを言うのでしょうか?

 たしかに《木を見ている》のですが だからと言って その部分観を全体観とするのでなければ 《森を見ず》にはまだ成りません。

 そのとき
 ◇ だから、「ラッキョウを食べられない」。
 ☆ というのは 全体観として森を見れば 食べられるのでしょうか?



 問題は はるかにかんたんだと思います。

 出された発言内容について オベンチャラや潤滑油としての中身とそして本人の本心だと思われるような中身とに分ければ済むことだと。

 うわべの言葉をそれとして受け留め 対話としてはもっぱら相手の本心に対して こちらの本音を答えればよい。のではないでしょうか。





 ◇ ですから、 / わたしの回答は、bragelonneさんの問いかけからはすこし外れているのかもしれません。
 ☆ とわたしも思います。ただし
 ◇ 本心を違う意味でとらえている・・・。
 ☆ というその捉え方が まだわたしには腑に落ちていません。考え中です。

お礼日時:2014/06/16 19:52

いえいえ、


ラッキョウは、精神や心の喩えです。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ううーん。次の感覚は まだなお残りますね。
 ☆☆(No.1お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~
 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ラッキョウを食べる、これは実(?)が自身の身になります。
 でも、ラッキョウを知ることにはならない。
 一度くらいは、ラッキョウの皮剥きをしてみる必要があるのではないでしょうか。
 そして、この行為は、縁側での恰好の茶飲み話になると思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 入り組んでいるように見えます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 食べたなら・つまり精神の胃袋で消化したなら ラッキョウ=つまり心を知ることになる。と思われます。



 次のようであって よいと思えるのですが。・・・

 ☆☆ (No.1お礼欄) ~~~~~~~~~~~~
 11.
  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ラッキョウの皮剥きをしなければ、ラッキョウをよりよく知ることにはならない、と思います。
  でも、ラッキョウの皮剥きをすると、ラッキョウの実を食べられなくなります。
  実を取りたいのなら、「ラッキョウとはなんぞ?」、「皮剥きをしたら、ラッキョウはどうなのか?」、「ラッキョウの皮剥きの先に、何か待ち受けているのか?」という疑問は抱かないことなのでしょうね。それが賢い処世の方法なのかもしれませんね。
   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ☆ ううーん。ただし ただしですね。《皮剥きをしたら》 本心が現われる。自分から言わないとしても おおよそ本心の在り処がそれとなく相手に分かってしまう。ということは だいたい決まっているのではないですか? 

 もっと言えば 本心を隠しているということさえもが すでに初めから薄々にしろやはり相手においても分かっているという場合が けっこうあるように思います。

  ◇ 「ラッキョウの皮剥きの先に、何か待ち受けているのか?」
  ☆ これは そのつどおのれの自由意志のよくおもむくところに従おうとする実存志向にとっては 《その先に何が待っていようと》 それにしっかりと向き合うということだと考えられます。 

 つまりこのことが
  ☆☆(趣旨説明欄) 1. 哲学は おのれの精神のストリップをいとわない。と思う。
  ☆ ということではないか。つまり この質問では 本意ではないけれど 《哲学以前》や《哲学以外》の精神は 二の次にしている。わけです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2014/06/16 17:30

縁側哲学=縁側理論 → ポピュラー音楽、大衆演劇、大衆小説、嫌韓、集団自衛権賛成



ぶっきらぼう哲学=ぶっきらぼう理論 → クラシック音楽、純文学、憲法9条を守ろう運動

13、ある意味あっています。当面は嫌われてもじっくり効いてくる良薬のようなもの?
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この回答へのお礼

 こういちろうさん こんにちは。初めまして。ご回答をありがとうございます。


 ☆☆(趣旨説明欄) 13. ぶっきらぼう理論は ひとを傷つけるものだろうか? それともじんるいの未来を拓くあかつきか?
 ★ 13、ある意味あっています。当面は嫌われてもじっくり効いてくる良薬のようなもの?

 ☆ ということは どちらの命題に《合っています》か?


 ひょっとして どちら側にも当てはまる。――でしょうか?

 ○ 《ぶっきらぼう理論は ひとを傷つけるものだろうか?》
 ―― その当座は あるいは傷つけることがあるかも知れない。みづからの心にヤマシサ反応をおぼえた人にあっては そのウソ・イツワリを意志行為に移したというかぎりで 心が傷つくかも知れない。

 けれども
 ○ 《それともじんるいの未来を拓くあかつきか?》
 ―― というふうに その《心における傷つき》を突き抜けて・ということはウソをつくときに伴ったヤマシサや恥ぢの思いを乗り越えて おのれの本心に突き当たりわれがわれであるようになるならば 世界は開かれるであろう。と。

 すなわち
 ★ 当面は嫌われてもじっくり効いてくる良薬のようなもの?
 ☆ ですね。貴重なご見解だと受け取りました。
 No.1のやり取りで ワン・ゴールをうばったと思っているのですが さらにゴールをねらっているというところですね。





 
 次のご見解は どのように受け留めればよいでしょう。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 縁側哲学=縁側理論 → ポピュラー音楽、大衆演劇、大衆小説、嫌韓、集団自衛権賛成

 ぶっきらぼう哲学=ぶっきらぼう理論 → クラシック音楽、純文学、憲法9条を守ろう運動
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そうですね。

 《ポピュラー音楽》というものが それとしてお持て成しのような役割を持つとすれば そしてクラシック音楽が 現代人の生活に合わせることなく音のしらべをかなでるものとすれば この対比はそれとして分かるような気がします。

 《純文学 と 大衆小説》との突き合わせも その線で捉えられるかも分かりません。

 あとは どうでしょう? 分かりにくいように感じます。

 《嫌韓》は 人それぞれであるように思います。その理由が 人によって違う。
 
 あるいは 韓国人のどこそこが嫌いだという点で 共通の理由があったとしても そこからただちに《嫌韓》としての運動をするわけではない。あるいは 思いとして《嫌韓》であったとしても それゆえにも積極的に手を差し伸べ話し合いの門戸を開いているという場合もあるかも知れませんから。


 《集団自衛権賛成》《憲法9条を守ろう運動》についても 同じような事情があるのではないでしょうか。
 と考えて こちらの部分については 保留することとします。

お礼日時:2014/06/16 16:08

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