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高校の授業で、理系が社会を学ぶ意味、文系が理科を学ぶ意味とは何でしょうか。

複数ある中から1,2教科選び、残りは学ばないわけですから、一般教養ということはないと思います。

しかし、大学や仕事で使うとも思えません。

本当に必要なことなら、どれか選んで残りを捨てるようなことはすべきじゃないし、取捨選択していい程度のものなら、わざわざ習い、センター試験で解かされる意味が解りません。



理系の学生を募集する理系の学部は、本当に化政文化期に活躍した文化人の名前が言える学生が欲しいんですか?
文系の学生を募集する文系の学部は、本気で学生に免疫機能の説明ができる能力を求めてるんですか?


東大卒のエリート集団が作ったシステムですから、きっと理由はあるのでしょう。
理系が理科3、4科目、文系が社会3科目にしない理由は何でしょうか。
一般教養レベルのものとして広く浅くの「理科総合」「社会科総合」として、教え、入試に出さない理由は何でしょうか。

A 回答 (10件)

 たとえば、今年の文科省全国学力調査で「国語B」の大問IIに次の問題が出題されていました。


辞書にある「アンカー効果」との言葉を適切に説明せよとの出題でしたが、そこに指定された語句を覧ますと、切手そして液体、更にアンカー効果との設問に記されている言葉そのものです。
 元々「アンカー」とは船を係留するための錨を指しますから、その錨なり重しを海底に下ろすことで船舶をその場に停めるとの意味があり、そこから一種の比喩として「モノを定着させる」との現象を指すことになるとの理解が適切に出来ているかどうかを問う課題です。
 とはいえ、問題の趣旨は「辞書や他の人の言説を適切に理解し、それを要約して説明する能力を測る」との意味ですから、物理現象の正否を問うための課題ではありません。ここが大切な部分です。
 理科的な知識があっても、逆に歴史的な知識があっても、相手に対し、適切な説明が出来なければ言語理解としては不十分だよね、との問題趣旨を理解することが求められもする。
 こうした基本的な部分を問うことが、当初の共通一次試験およびセンター試験の趣旨でもあったはずですが、それが世間からの要求(1点刻みで受験者をランク付けし、出願校を決めてしまうとの野蛮な行為)に転化させられてもいます。
 大学側としては、そうした世間の発想に対し、少しでも学問の道に入ることの意味を知って貰いたいとの苦肉の策から、理系には文系その逆として文系には理系それぞれの用語を出題することで、その受験者の学力到達度を測ろうとしてもいます。
 本当ならば大学のあり方そのものを変える必要もあり、現在の四年制から教養課程を二年間そして専門課程を四年間にするくらいの形でなければ、専門教育機関としての大学のあり方を保証することも適わず、入試をくぐり抜けてきただけでは何の役にも立たないことを知らしめる必要もあります。
 理系学部とはいっても、その根底にあるのは「なぜ~」と問うことが始まりであり、これは文系の哲学領域と重なる部分もかなりあります。
 そうした「学問の質とそれを実現するために必要な時間」を大学を含む「教育のあり方そのもの」を問わない小手先だけの改革ならば、ますます日本の学問を貶めるだけといえるでしょう。
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いやいや、別にわきまえた振りしなくてもいいですよ。


勉強からの逃避なのは、自分が一番よくわかっているでしょうし。

それと「お互い」と書いていますが、
ブロックって、質問者側にとっての不利益のみをなくす行為です。
回答はブロック出来ても、質問はブロック出来ませんからね。
では、今後も手垢のついた体制批判をどうぞ。
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ああ、似たような質問を繰り返している方ですね。


確か高3。進学校で落ちこぼれてしまって、理系クラスに進んだのを後悔している人。
勉強しなければいけないのに、ついついネットに逃げて自己嫌悪に陥ってしまう人。
最近書き捨てを覚えたんですね。厄介なことです。

ま、勉強なんて必要ないですよ。
そう信じてそれに従って生きていけば、
必要のない職に就き、必要のない暮らしをし、楽しみには気付かず、
無知による不利益に気づかないまま生きていくだけですから。
自分が幸せだと思えば、それでも幸せです。私は御免ですが。
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この回答へのお礼

失礼しました。
私の質問が少なからず不快感を与えてしまったようで、申し訳ありません。

今後、このような事を繰り返すのは、お互い不利益になると判断しましたので、ブロックさせていただきます。

ブロックは、新しく質問するときまでいたしませんので、何か不都合があればそれまでにご連絡ください。

お礼日時:2014/06/25 00:37

 世の中は多くの知識を持っている人が大切にされる。



 仕事でそのことだけしているわけではないです。異種間での繋がりなど多くの事が必要となります。色々と勉強し知識を得ようと知る事で、社会人となっても資格試験など多くの事を学んでいく必要が有ります。別にこれは要らないとか思っている事を必要とする事例が増えてきます。関連知識とかも含めてひつようとなります。

 受験での科目と関係無く勉強することで知識欲が深まり、他人との差別化も出来ますよ。これが社会人では出世などにも影響が出てきますから。勉強する気持ちを持つ人ほどより上を目指せます。どうでも良いなと思う人ほど出世も難しく成ってきますよ。昇級試験とかあるみたいですからね。

 私も苦手な物もありますが、クイズ番組などで素早く答える事で子供達にも尊敬されますよ。我が子にかっこいい親とみられるか、情けない親に見られるか。どちらがお望みかな。
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受験を前にすると、勉強が苦手な人は誰もが一度は考えることですよね。


「この先、人生で使わないだろう知識を、なぜ勉強する必要があるのか。なぜ受験科目にあるのか」と。
いま学んでいる最中だと、「こんな難しいこと、専門外なら必要ない」と思うかも知れませんが、それはその分野の勉強ができない人間が言うことです。そのレベルをクリアして、次のレベルにいる人間からすれば、「この程度のことは基礎でしょ」となります。
それが受験科目として課されているということは、「この程度のことができない、その程度の能力の低い学生はいらない」という、大学側の意思表示です。

実際、センターで全科目を科すような国立大学に進学して、卒業してみると、納得しますよ。
高校までに習ったことって、そのときは難しいと思っていたけど、実はほんの基礎に過ぎなかったんだなって。その「基礎」程度のことを知っている程度で「自分は(大学での)専門分野外のことも知っている」「自分は大学生だぞ」とふんぞり返るのなんて、恥ずかしいってね。

で、理系文系と受験科目の都合で便宜的に分けてしまうことの無意味さや、理系でも文系でも、それぞれ、いわゆる「分野外」の知識は無駄ではないということは他の方々が答えてくださっているので、ちょっと別の視点で。

我々が生きていく上で、「専門分野じゃないから必要ない」と思う知識に、実は気がつかないうちに助けられている、ということはよくあります。
学校の試験のように問題を解いて知識をひけらかす、という場面はほとんどありませんので、意識はしていないと思いますが。

もし、専門分野の知識だけで生きていく場合、少しでも「自分の専門分野」から外れる知識は、別の専門家にすべて委ねることになります。
その場合、その「別の専門家」が言っていることが本当に正しいのかどうか、自分は専門外で鞭だからと騙されていたとしても、気付くことが出来ません。
いまの高校で学習している程度の知識は、大学から見れば「基礎レベル」の知識です。その基礎レベルのことで、容易に騙されてしまう。
これは、生きていく上で、とても困ったことです。

実際、無知な人ほど簡単に騙されます。自分で相手の言うことを検証する能力がなく、相手の人柄とか態度とかを信用するしかないからです。
もちろん、知識があっても、プロの詐欺師相手には太刀打ちできないこともあります。
ですが、ほんのちょっとの知識があれば「あれ? おかしいな」と気付くことが出来たのに……といううのは悔しいですよね。
相手に騙すつもりが無くてもうっかり間違える、ということもあります。そのうっかり間違いを見過ごしてしまう、というのも、困ったことになりますよね。間違えた相手が悪いとか責任がどうとかいう問題ではなく、大きな問題になる前に、誰かがミスに気付いて事前に防いでいれば……ということは、実際によくあります。

例えば化政文化について学ぶとして、大事なのは、文化人の名前を「覚える」ことではありません。その時代の文化がどのような文化で、どんな代表作があって(ここで知識として人名と作品名を「知る」のです)、興味があればその作品を実際に読んで、その時代を理解する。その最初の手がかりとして、人名や作品名を知る=覚える、ということなのです。
例えば、日本の現代のポップカルチャーを取り上げて、これは現代だけの特徴だ!だから現代人は~と持論を述べる人がいたとします。でも、昔の日本文化の歴史を知っていれば、現代のポップカルチャーの源流とも言えるものが昔からあった、と反論することが出来ます(反論せずとも、「おかしいな」と感じることはできます)。その「昔の日本文化の歴史」の中に、化政文化で著名な文化人の業績もあるわけです。
こういったことを、「専門外だから関係ない」とは切って捨てられません。苦手で習得できないのは別として、最初から「必要ない」と切って捨てちゃう人は、自分から「自分は無知なバカでいい」と宣言しているようなものです。
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まず最初に。

だれでも中学・高校時代に,似たようなことを考えると思いますよ。「勉強がしんどいなあ」と感じたときは。それは否定しません 笑。ぼくの回答は,人生も終末に近いオヤヂが,「結果をみて言っている」側面があります。

>高校の授業で、理系が社会を学ぶ意味、文系が理科を学ぶ意味とは何でしょうか。

ぼくは,「たかが高校課程で,理系・文系クラスにわけることじたいが不適切じゃないか?」という意見(疑問)の所有者です。じっさい,難関大学の理系学部に合格する受験生は,へたな大学の文系学部の受験生より文系科目がよくできますからね。文系・理系を置換してもおなじ。いいかえれば,理系受験生が理系科目ができるのは,あたりまえ。文系科目もできるかどうかが,勝負なのです。理系・文系クラスにわけるのは,「それだけの余裕がない平均的生徒にたいする免除措置」だと,ぼくは解しています。

ぼくは何十年もセンター試験を解いています。多浪してるんじゃなくて,試験監督のひまつぶしに立ち読みしているのですが。高校課程をだいたいマスターしていれば8割5分,譲歩しても7割5分はとれると思います。それくらいの努力(脳味噌の訓練)をした人や,基礎知識がある人しか,大学には行くべきではないと思っています。

>複数ある中から1,2教科選び、残りは学ばないわけですから、一般教養ということはないと思います。

おおむかしは,全員が理科・地歴科・公民科の全科目を最低1年間は履修しました。そのなかから受験に使う科目を,さらに勉強するシステムでした。ぼくは物理・化学・日本史受験※でしたが,いちおう全科目をやっていたので大学で自然史系を専攻してもそれほど困らなかったのです。いまは「生物をやってこなかった医学部生」なんていう信じられないような現象が発生して,大学では困っています。むかしのシステムに戻しましょうか? 

※当時(まだ共通一次やセンター試験がない時代)の京都大学では,理系学部でも文系と共通問題で社会1科目が必須。東京大学では独自の一次試験(共通一次試験の模範となったとされる)を課していましたが,ぼくは浪人時代には社会はほとんど勉強しませんでした。

>しかし、大学や仕事で使うとも思えません。

使います 笑。勉強していないと,そのときになって後悔します。

>理系の学生を募集する理系の学部は、本当に化政文化期に活躍した文化人の名前が言える学生が欲しいんですか?
>文系の学生を募集する文系の学部は、本気で学生に免疫機能の説明ができる能力を求めてるんですか?

もちろん。「名前が言える」ていどの認識では,なさけないですね。高校では時間がないでしょうが,大学に入ったら有名な作品をじっさいに「読んで」ください。ぼくは『膝栗毛』や『柳多留』などを読みましたし,ぼくがモデルとする平賀源内の生家(香川県)を訪れました。伊能忠敬の生家(千葉県)でも彼の測量機材や地図を見ました。高校の勉強は,そういう「誘い」を与えているのです。

文系の学生でも,環境問題とか科学史をやるなら,ちゃんと勉強すべきですね。そうでなくても,自分の健康管理のうえで生物学の基礎知識は必要でしょう。

>理系が理科3、4科目、文系が社会3科目にしない理由は何でしょうか。

センター試験の時間割が,3科目受験できるようには組まれていません 笑。制度を変えて受験してもらってもいいのですが,そういう負担がおおきい大学は,受験生から極度に敬遠されるでしょうね。

>一般教養レベルのものとして広く浅くの「理科総合」「社会科総合」として、教え、入試に出さない理由は何でしょうか。

ぼくが質問意図をとりちがえているかもしれませんが,こういう総合科目の水準は「中学同然」で,大学入試には使えないでしょう。中学校課程をまともにマスターしていない生徒のためのものじゃないですか?

なお,日本国民全体のはなしをすれば,中学校課程をマスターしていれば立派なものです。自分の子の高校入試勉強をみてやれる親が,いったいどれだけいますか。
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 >高校の授業で、理系が社会を学ぶ意味、文系が理科を学ぶ意味とは何でしょうか。



 教科(科目)そのものに意味はない。それぞれをどうやって学んだか、身に付けたか、に意味がある。それは個々人の話やケースバイケースになるので、ここで論じる意味はない。


 >理系の学生を募集する理系の学部は、本当に化政文化期に活躍した文化人の名前が言える学生が欲しいんですか?

 別に欲しくない。


 >文系の学生を募集する文系の学部は、本気で学生に免疫機能の説明ができる能力を求めてるんですか?

 本気で求めている場合もある。


 >理系が理科3、4科目、文系が社会3科目にしない理由は何でしょうか。

 特に理由はない。「まあ、このくらいの学問を修めているのであれば、この学科に入学してもいいですよ」という指標にしているだけ。だから、学科によって求めている科目がバラバラなの。


 >一般教養レベルのものとして広く浅くの「理科総合」「社会科総合」として、教え、入試に出さない理由は何でしょうか。

 センター試験がそうじゃなかったっけ? 物理、化学、生物、地学を集めれば理科総合だし、一般教養レベルになるんじゃない? 社会科は分かりません。
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 日本の物理学を代表する人物の1人に寺田寺彦がいます。

確かに寺田は物理学者であるが、その一方で漢籍に通じ、そして夏目漱石や正岡子規との交流が深かったことも知られています。
 ではその寺田がなぜ専門外の領域に積極的に踏み込んでいたのかを考えてみましょう。敬愛するpさんは理学の御出身ですが、僕は逆に経済から歴史学そして政治社会学から国語教育へと羽根を伸ばすとの捻れに捻れた経緯を持っています。
 一つ一つの領域は独立しているとはいえ互いの研究成果から刺激を受けることで、自らの領域をより掘り下げもし豊かなものに育てていく一方で、それを相手にフィードバックさせてもいきます。それが学問としての豊かさを培う最も大切な論拠となります。
 互いの領域で使う言葉の定義の仕方は異なりますが、それを相手に返していくにはどうしても言葉の力に頼らざるを得ない形です。
 学問をすることの根本的な意味を問うならば、それは「言葉探しの旅」に出ることを意味するのではないだろうかとの結論に行き着いたのはつい最近のことです。
 「理科総合」や「社会科総合」といった科目を設けることも一つの方法でしょう。けれどもそれには最初から全ての領域を体系的に扱わねばならないとの前提を必要ともします。これは小中高校段階までの学習程度では不可能です。
 東大の学生に覧られる傾向として、答のある問題には強いが答のない問題に自らで検証方法と材料を探しそして一つの仮説を導くとのスタイルを苦手ともします。そうした傾向を少しでも解消しようとして、入試問題の出題委員が苦労し、記述や論述を多く採り入れてもいますが、東大に合格することを目的とする受験産業やシステムに特化した方法では、それを逆にパターン化してしまうとの悪循環に陥りもします。
 パターン化する事の意味が類型化することであり、それ以外は「正解ではない」との学問そのものにとっては非生産的な結果をもたらすだけでしかありません。
 受検の意味がピンポイントでの答を求めるスタイルから脱却しない限り、難しい問題といえますね。

 雑談的な追記
僕も入試委員を務めた経験がありますが、実際には理系の教員ほど受験者の国語能力に着目もします。逆に文系の教員が受験者に確かなロジックを求める傾向もあります。
 こうした事象は、学問領域での双方向の遣り取りの必要性を身に染みて感じていることの裏返しに他なりません。文系でのロジックが丸山眞男や小林秀雄の文章を覧ても明らかであるように、展開のための論理と具体的な事象に着目していることが確かにうかがい知る事もできます。その意味ではむしろ文系の方がよほどロジカル・シンキングを欲しているともいえます。
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ホントにイラナイ人もいるとは思いますが、


高度成長期に、商社マンが仕事を取ってこれた理由にひとつに、文系である営業マンで数学や科学が分かるのが日本人だけだったということがあるようですよ。
「専門性」も大事だけど、「専門外」も大きな武器になります。

高校レベルの教科の知識なんてたかがしれています。ただし、専門分野としてはたかがしれていますが、専門外として見た時は、大きなアドバンテージになることが多いんです。

私自身、高校大学大学院と、理数科、理学部とすすみましたが、就職は文系でした。弱い専門性と強い専門外を持つ形になりましたが、役立ったと思っています。
高校時代、理数科にも関わらず、理科も地歴公民もうちの高校には選択科目って概念がなく、全科目を習いました。国語の漢文なんて絶対に役立たないと,その時は思っていましたが、実際にはどの科目も役立っているんですよね。
仕事でも役立ちますし、本や新聞での理解力も変わります。

理学部だったので、高校にない文系科目を大学の教養時代に取らなかったんですよね。経営学など学ばなかったのはかなりの弱みになりました。

高校時代の科目で、役立たなかったのは、私の人生では、英語と書道でした。。。高校で学んだ英語は、海外旅行では役立ったけど、学生時代に英語やドイツ語の専門書を読むにはまったく使えずに、大学時代に学び直しましたし、仕事でメールや文書を読む時には翻訳アプリで十分でした。国内での道案内なんて、英語を習っていない小学生のときから身振り手振りで十分でしたし。。。
もちろん、冠婚葬祭に多く出る人には書道は必須でしょうし、英語が役立つ人も多いと思いますから、だから高校で勉強しない方がよかったとは思わないわけですが。

まあ、その後の人生が決まっているんなら、イラナイ科目って分かると思うけど、高校までの勉強なんて教養の範囲なんだから、知らないことが多いと、人生の幅が狭くなるってことなんじゃないかなぁ。
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 もしもの場合でしょうね。

法的に他の方向に行けないと縛れるのなら別ですが。教科未履修で受けられないことも多々あるし。それに、そのこと抜きに大前提として 、オールマイティな教科は履修していないと高校生の資格は得られないし。

この回答への補足

一校単位の話ではなく、高校の学習指導要領、国立大学の受験制度の話です。
説明不足ですみません。

補足日時:2014/06/21 20:11
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