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 主題は ふたつです。
 神とは何か?――あるいはつまり 神とは何でないか?
 ニーチェのたましいをやすらかな眠りにみちびくことばをかけるとしたら それは何か?


 まづ 三島憲一のニーチェ論の一端を引きます。あとで 具体的に問います。

 ▲(三島憲一:ニーチェが戦ったもの) ~~~~~
 ニーチェが『喜ばしき知識』の中で《神の死》を宣告した話はよく知られている。

   寒くなってきてはいないか?
   これからはますます夜に 夜が深くなっていくのではないか?
   昼前から行燈を灯す必要はないのか?
   神を埋葬する墓掘人たちの音がまだなにも聞こえないというのか?
   神が腐る臭いがまだしてこないのか?
   ――神々といえども腐るのだ。
   神は死んだ!
   死んでしまい 蘇ることはない!
   しかも 我々が殺したのだ!
   殺しの中の殺しをした我々は いかにして自分たちを慰めたらいいのだろうか?
   これまで世界が持っていた最も聖なるもの 最も強いもの その神が我々のナイフによって血を流して死んだのだ。
    (『喜ばしき知識』125番)

 大方の思想史では このいささかパセティックで安っぽいレトリックに溢れた文章によって ニーチェはプラトニズムとキリスト教がその根拠となっていたヨーロッパの道徳の自己崩壊を確認したということになっている。形而上学の完成と解体が告げられている とされている。

 しかし 考えてみれば 変な話である。すでに一八世紀の啓蒙主義以降 知識人は 家庭のつきあいを別にすれば キリスト教の神は信じていなかったはずである。プラトンのイデアとなればなおさらで 大学の哲学科の訓古注釈の営みの外で そんなものを信じている銀行家や工場主や労働者や農民や そしてなによりも将校たちが多数いたとは到底考えられない。なぜ キリスト教の神の死を ニーチェはいまさらのごとく触れ回ったのだろうか。

 実際には・・・ニーチェはいわば 自己の議論の正当化のために 当時において標準化されていたヨーロッパの思想の歴史を逆転して 新たに構築しただけであって 実際に闘っていたのは一九世紀の自分の周囲の生活形式(あるいは文化)であり それへの抵抗の中で このようなキャッチフレーズを生み出したのである。

 《我々が殺したのだ》ということは 神を生かしておくも 殺しておくもこちら側 つまり我々の思うまま 我々のさじ加減一つということである。すでに神は我々によって構築されていたことが含みとしてある。つまり 神を構築してきた当の我々が葬られるべき存在なのである。ニーチェが闘った相手は 神の語をむやみに重視する一九世紀の生活形式であり 文化なのであった。

 ひとことで言えば この生活形式の中核は ナポレオン戦争の終結とともに だがさらには一八四八年革命以降 特に顕著になったヨーロッパの再キリスト教化 そしてそれとタイアップした市民階級の再封建化といわれる現象である。ニーチェはその知的生涯においてそれと闘う中で 彼の《破綻の美学》を生み出したのだ。
 ・・・
 再キリスト教化自身が ニーチェには神の死を意味していたのである。

 (三島憲一:『ニーチェ以後――思想史の呪縛を越えて』 2011 第五章 破壊的理性の美学――素描の試み   pp.149-151 )
 ~~~~~~~~~~~~~~~~

 一九世紀の《再キリスト教化》について三島は きちんと例証していると思いますが 割愛します。
 そこでそのことに深入りはせずに 全体としてこの三島の議論に 必要な注釈をつけたり あるいはちょっと違うのではないかという批判を加えたり 言うべきことがありましたら まづそれらをおしえてください。

 と言っておいて あとは 神とは何か? を問います。

 三島も触れていますが 《われわれが構築した神をナイフで殺した》のなら それは《観念の神》であって・あたまの中の想念の中に描かれた思いや考えであって 劣ったものであったり時代遅れになったりしたら ナイフで切り殺されても当たり前です。ただの想像の産物を相手に闘った。またそういうたぐいの文章である。

 つまり そんな《ただの観念の構築と抹殺といったお遊び》のことを どうしてその熱情を燃やして闘ったりしたのか? それは どこから見ても《神》ではなかったというのに。

 いったいニーチェとは何だったのか?
 レクイエムを書いてやってください。

A 回答 (6件)

こんにちは。




それが何であるかはひとまず置きまして、
素朴な心性として「神はいるのであろう。そして、ヒトは神を知っているのではなかろうか・・・」などと、昨日から考えるようになっています。
ここでいう神は、宗教などで神とされる存在ではなく、もっと素朴で原始的なものです。日本人が漠然と感じるような、素朴でナイーブな神、あるいは、神という直観(直感か?)の存在は、素直に認めるべきなのではないか。そこを出発点として、神について語るべきなのではないか。
そんなことを考え始めています。


何事の おはしますかは しらねども
 かたじけなさに 涙こぼるる     by 西行


この神(?)は教えを説かない。
実は錯覚なのかもしれないけれど、
ヒトの脳が見せる《まやかし》なのかもしれないけれど、
この神、???の存在、神の直観(直感か?)、神感覚・神体験の存在だけは、認めるべきなのであろう。

と同時に、
ヒトは神を知っている。
プラトンのイデア想起説ではありませんが、そして、すこし文学的な表現になりますが、
ヒトはかすかに神の記憶を有している。
そして、これをもとに、神と神でないものを直覚的に嗅ぎ分けることができる。
―――直覚的にです。ここに理性や悟性などと呼ばれるものが加わると、おかしなこと、おかしなものになる―――
ひょっとしたら、これはヒトが進化の過程で身につけた、ヒトという種の存続のために獲得した能力なのかもしれないのだけれど、
こうした《こころのハタラキ》、この存在だけは認めるべきなのであろう。

そして、
この神は、決して、死にません。
キリスト教、イスラーム、仏教などなどの宗教、
金、自由、理性などなどの新参の神さまがすべて死に絶えようと、
この神だけは、死・な・な・い。
この神だけは、ヒトが葬り去ろうとしても、葬り去ることはできない。


そんなことを、ちょっくら、考え始めています。

ニーチェは「神は死んだ」と考えていない、と思いますよ。
アポロン・ロゴス的な神は死んだのかもしれないけれど、
何だかわからないディオニュソス的・パトス的な神の存在は否定していないじゃないですか。
コスモス的な神ではなく、カオス的な神の存在までは否定していない、と思いますよ。
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この回答へのお礼

 むむ? 革命か? 

 まづは ご回答をありがとうございます。


 たぶん これまでの経過があって そういう思いを得られるに到ったのでしょう。

 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~
  何事の おはしますかは しらねども
  かたじけなさに 涙こぼるる     by 西行


 この神(?)は教えを説かない。
 実は錯覚なのかもしれないけれど、
 ヒトの脳が見せる《まやかし》なのかもしれないけれど、
 この神、???の存在、神の直観(直感か?)、神感覚・神体験の存在だけは、認めるべきなのであろう。

 と同時に、
 ヒトは神を知っている。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ひとつには 単純に言って 言葉として神があるということ。ひとつには 経験思想としては 良心がみとめ合われているということ。(信仰次元なら 自性清浄心だとか・・・)。

 そういった世界の中にいるわたしにとって エポケーした状態なら 神はいると何となく感じられる。そのことは 特におそわらなくても知っていた。こういった事態でしょうか。


 

 そのあと それゆえに 神は何であるかも然ることながら 神は何でないかについても 何となく分かる。
 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ヒトはかすかに神の記憶を有している。
 そして、これをもとに、神と神でないものを直覚的に嗅ぎ分けることができる。
 ―――直覚的にです。ここに理性や悟性などと呼ばれるものが加わると、おかしなこと、おかしなものになる―――
 ひょっとしたら、これはヒトが進化の過程で身につけた、ヒトという種の存続のために獲得した能力なのかもしれないのだけれど、
 こうした《こころのハタラキ》、この存在だけは認めるべきなのであろう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ですから 水をわたしの田に引いて言うなら このような説明はすでに思考に成るものですが それが現われて来る水源は ナゾだと思われるから 非思考の庭であると言うのだと。この庭から出て来た《こころのハタラキ》ではないかと。


 つぎが ええこと言うなあと:
 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 そして、
 この神は、決して、死にません。
 キリスト教、イスラーム、仏教などなどの宗教、
 金、自由、理性などなどの新参の神さまがすべて死に絶えようと、
 この神だけは、死・な・な・い。
 この神だけは、ヒトが葬り去ろうとしても、葬り去ることはできない。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは 説得力が大です。デカルトよ 見たか! ゴータマよ 聞いたか!




 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ニーチェは「神は死んだ」と考えていない、と思いますよ。
 アポロン・ロゴス的な神は死んだのかもしれないけれど、
 何だかわからないディオニュソス的・パトス的な神の存在は否定していないじゃないですか。
 コスモス的な神ではなく、カオス的な神の存在までは否定していない、と思いますよ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 例の新田章に言わせると 《アポロンとディオニュソスとを綜合した》のだそうです。


 ただ ただですね。ニーチェ自身は そうは言っていない。つまり 行間を読み文章の背後のそのひとのたましいを読みして そのような結論にたどりついたとしても そうだとしても たとえば《神は死んだ》と言ったからこそ それ以後の現代人は 純粋理念だとかの観念の神に惑わされなくなったという論旨を打ち出す場合があります。

 ◆ (【Q:ニーチェは】回答No.1) ~~~~~~~
 古代以来のプラトンの「実在論(リアリズム)」をひっくり返し、真の実在は抽象的な概念にあるのではなく、また神のように超・感性的な世界にあるのではなく、具体的な感覚知覚されるものの方にある、また超・感性的な世界にあるのではなく、感性的な世界の方にあると言ったのがニイチエです。
 それをニイチェは「神は死んだ」という宣言で表しました。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ といった見解は かなり普及しているものと思われます。



 《神とは何か?》を問うには またか? という思いが先立つ今日この頃ですが どこまでも神論は 哲学の出発点に位置している。こうは思います。



 あと ねこさんには 次の質問の趣旨にもチェックを入れておいて欲しいと思うのですが どうでしょう。
 【Q:靖国は 宗教であってはならない。国事犠牲者は尊ぶ。】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8665469.html

お礼日時:2014/07/18 14:15

>>死んでしまい 蘇ることはない!



輪廻の世界観だと、神だったり、人間だったり、動物だったりするわけで、
生まれ変わるわけですから、ニーチェのここでの神は、輪廻とは異なった世界観だと思いました。
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この回答へのお礼

 《生まれ変わり》としての輪廻については 質問者は 受けつけられません。ほかで議論してくださるよう勧めます。



 ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2014/07/19 16:43

キリスト教社会に生きる人々にはそれだけキリスト教の影響がでかかったということじゃないですかね。


たぶんその影響力はキリスト教に対して無関心な現代日本人の我々には想像もつかなかったことでしょう。

>一八世紀の啓蒙主義以降 知識人は 家庭のつきあいを別にすれば キリスト教の神は信じていなかったはずである

とありますが、信仰心を完全に捨て切れる人間はそうそうはいなかったと思いますよ。現代ですら欧米のホテルには聖書がおいてあり、欧米で無宗教を名乗れば異常者扱いされるくらいなのですから。それに頭では信じてない人でもそういう社会で生きてきた人は感覚的に神(キリスト教的道徳観念)を強く意識してしまうと思います。
宗教を意識していない現代日本人でも仏像を踏みつけて叩き砕くことに罪悪感を覚える人は少なくないのではないかと思います。たとえ頭では仏像などただの置物にすぎないと分かっていても、幼少期からの宗教的刷り込みはいかんともしがたい。
これは心理学的な問題であってある種の洗脳であり自分の意識でどうにかすることは難しい。
町の人々が信仰していたご神体を平然と暴きたてられる勝海舟みたいな人間はなかなか少ないものです。
幼いころから虐待を受けてきた人は子供が親に虐待を受ける家は異常であるということをなかなか理解できないと聞きますが、心理的メカニズムとしてはそれに近いのではないかと思います。

例え頭では観念の神だと分かっていても幼少期から「神様はいるのよ」と言われ続けられる社会で生きてきたのならそれを観念だと心底思いこむのは大変だったのではないでしょうか。
彼は彼なりに自分の中の神を殺そうとして必死だったのかなと思います。

この回答への補足

 おぎないます。

 ☆☆ (お礼欄)  《神は死んだ》と言うのなら 《影響のでかいかどうか》にかかわらず その信仰ないし宗教(オシエないし文化)を哲学として批判することを意味します。そうではないでしょうか。
 ☆ このとき 要するにクリスチアニズム批判としてなら その議論や理論は おのが脳裏に容易に思い浮かびます。いともかんたんなはずです。

 おっしゃるのは その議論や理論を世間に公表することに 社会の情況から見てなかなか容易ではない事情がある。ということではないかと考えました。

 両方があると思います。かんたんに理論としてはみちびけるということ。そして 事情が事情であればその公表がためらわれる場合があるということ。


 ただし すでにガリレオの時代でもなかったでしょうし 同じくすでにヘーゲルが《神は死んだ》と言っているという要素も 考え到ってもよいかと思います。

補足日時:2014/07/17 10:19
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この回答へのお礼

 そうですね。まづは らいでん787さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ キリスト教社会に生きる人々にはそれだけキリスト教の影響がでかかったということじゃないですかね。
 ☆ ううーん。ちょっと違うような気がします。

 つまり クリスチア二ティを弱者のものだとかその人びとは畜群であるとか言うのならば それは 理論的な評価なはずです。もし哲学でないのならば ただ小学生のごとく感想を言ったまでとなります。

 《神は死んだ》と言うのなら 《影響のでかいかどうか》にかかわらず その信仰ないし宗教(オシエないし文化)を哲学として批判することを意味します。そうではないでしょうか。



 ★ それに頭では信じてない人でもそういう社会で生きてきた人は感覚的に神(キリスト教的道徳観念)を強く意識してしまうと思います。
 ☆ ということは 事実上《神は死んでいた》と言っていいのではないでしょうか? こまったものだという気持ちは 心は離れているということではないでしょうか?

 《感覚的に強く意識してしまう》というのは ナラハシとして・言わば慣性の法則において そうなのであってやはり心は離れている。こう言ってよいのだと思うのです。

 それに 《神は死んだ》というのは すでヘーゲルが言っていたことだそうです。(ヘーゲルの場合には そのような神の死のあと 神はふたたび復活するといった筋において言っているという違いがあるそうですが)。


 あるいはこれも 聞きかじりで言うのですが やはりすでにショーペンハウアーが ブディズムの影響をも受けて 人生や世界については意味はなく無だというような主張を言っているとか。ニヒリズムを ニーチェが独創的に最初に言ったわけではないのだと思います。


 勝海舟や心理学の問題ではないのだと思われるのです。



 ★ 彼は彼なりに自分の中の神を殺そうとして必死だったのかなと思います。
 ☆ それにつけても ニーチェは ちっとも理論的ではないと思います。《あたまの中の神》なら それは ただの《想像の産物》です。単なる観念です。

 とうぜん分かっていなければおかしいでしょう。それに もしそのような観念化した――共同観念化しさらには 何の内実もなくなった共同幻想と化した――神であるなら それに反対するに《アンチ・クリスト》なる立ち場などを表明しても意味がありません。

 観念の神というのは 初めから偶像であり もともと死んでいます。ただのお人形です。その観念をいじくって おままごとをしているに過ぎません。――そのような幻想共同を批判するにあたって わざわざアンチクリストなる立ち場を採るなどというバカげたことはないはずなのです。


 どこから見ても ピントがはづれています。
 と考えていますが どうでしょう。

お礼日時:2014/07/16 21:48

ニーチェなんか関係ありません



死んだ人間は霊界で死人に任せておけば良いのです

今 生きている人間が しなければならない事が沢山あるのだから・・

それを知って 実行に移した時 答えも判る筈です
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この回答へのお礼

 つづいてのご回答をありがとうございます。


 ★ ニーチェなんか関係ありません  / 死んだ人間は霊界で死人に任せておけば良いのです
 ☆ これは おっしゃるとおりだと思います。
 そしてこの質問としては いまだに二―チェ派がすくならずいらっしゃる。それゆえ むしろいまもなおニーチェの思想に賛同するかたちをめぐって ひとつにはしかるべき批判をおこなっておき ひとつにはそのむしろニーチェの霊のほうに向いている現在の人びとのたましいに対して 何らかの鎮めの言葉を贈りたい。こういう心つもりからです。



 ★ 今 生きている人間が しなければならない事が沢山あるのだから・・
 ☆ という現代人のつとめへと目先を向けかえるためにも という志向からでした。


 ★ それを知って 実行に移した時 答えも判る筈です
 ☆ そうですか。つまり そのようにして《判る答え》の一端をいまあきらかにして差し上げることは かないませんか? とは思いました。

お礼日時:2014/07/16 17:39

私見では、ニーチェは、大袈裟に考えている・・・。


そう、思いますね。
神なんて、困った人間が想像で作り出した幻想であり、妄想です。
誰だったか、「ライオンにも神がいるのなら、その神は、ライオンに似ているだろう」と、有名なことを言っていますね?
そういうことです。
神が自身に似せて人間を創造したのではなく、人間が自身に似せて神を造った・・・。
これが、実態でしょう。
ニーチェは、「神よ、教えてくれ、神はいるのか、いないのか」と言ったようですが、真面目に考え過ぎました。
その結果、狂ったようですが、あらた、人生を無駄にして、勿体ないです。
「仏」は、人間の肯定的側面の究極の姿を表していますが、「神」は、単なる幻想であり、妄想です。
惑わされないようにしましょう。ヾ(^ω^)  
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この回答へのお礼

 はいぜんべるくさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。


 ★ 私見では、ニーチェは、大袈裟に考えている・・・。 / そう、思いますね。
 ☆ えぇ。えぇ。


 ★ 神なんて、困った人間が想像で作り出した幻想であり、妄想です。
 ☆ という場合も 大いにあり得ると思っています。


 ★ 誰だったか、「ライオンにも神がいるのなら、その神は、ライオンに似ているだろう」と、有名なことを言っていますね? / そういうことです。
 ☆ ライオンですか。これは ちょっとどういうふうにその推論のみちのりを追跡すればよいのか。・・・


 ★ 神が自身に似せて人間を創造したのではなく、人間が自身に似せて神を造った・・・。 / これが、実態でしょう。
 ☆ そういう場合もありでしょうね。《想像の産物》としてのカミは そこらじゅうにうようよしていると思います。

 つまり 人間が――もしそうだとしたら――造ったとしても そうならそれは神ではないですね。人間やその世界を超えているのが 神ですから。


 ★ ニーチェは、「神よ、教えてくれ、神はいるのか、いないのか」と言ったようですが、真面目に考え過ぎました。
 ☆ そうですけ。それは その問いのかぎりで――初歩としてですが―― まじめですね。


 ★ その結果、狂ったようですが、あらた、人生を無駄にして、勿体ないです。
 ☆ そうだと思います。思考と想像の産物なら それとして・つまり偶像の神であるとして そのまま判定しておけば 何でもないのにとわたしなら思います。


 ★ 「仏」は、人間の肯定的側面の究極の姿を表していますが、「神」は、単なる幻想であり、妄想です。
 ☆ ゴータマは 人間でしょうね。

 そして ブッダをけっきょく或る種の神とする・つまりは想像の産物としての神とする場合も あるようですよ。


 ★ 惑わされないようにしましょう。ヾ(^ω^)  
 ☆ ニーチェさんよ。ですね。

お礼日時:2014/07/16 17:15

神とは何か?



簡単です・・

しかし その答えを他人から聞いても 神には辿り着くは出来ません


自分自身で 探し 辿り着くしか無いのです
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この回答へのお礼

 かぶとむしむしさん こんにちは。初めまして。ご回答をありがとうございます。


 ★ しかし その答えを他人から聞いても 神には辿り着くは出来ません
 ☆ そうですかね。

 そうしますと 《神にたどり着くこと》は出来るのですね。つまり 
 ★ 自分自身で 探し 辿り着くしか無いのです 
 ☆ というわけでしょうか。


 ちょうどいまわたしは 次の質問をも挙げています。  

 【Q:誰からもおそわらなかったという知見はあるか?】

 すなわち
 《誰からもおそわらなかったという知見はあるか?》と問うて それはないだろうという含みで捉えています。

 すなわち その趣旨説明欄の

 (δ) ほかの人からおそわりつつも その知見の内容に納得するのは おのれの知解能力によるのではないか?

 (ε) おのれにおしえるのは みづからの知性がではないのか?


 ここらあたりとかかわっているようには思われます。

 かぶとむしむしさんのお考えでは 《神とは何か?》について

 《(δ) ほかの人からおそわりつつも》という部分がない。ということでしょうか?

 つまり 《(ε) おのれにおしえるのは みづからの知性がではないのか?》という問いについて そうであるし それのみである。という答えになりましょうか?




 ううーん。むつかしいですね。



 ちょっと思ったことは もし 回答者さんが 《自分自身で 探し 辿り着く》ことが出来たということでしたら そのいきさつの歴史をほかの人たちに明らかにして伝えるということは かなわないでしょうか? です。

 つまり 生きたかたちで神を得たというまでには行かないとしても 哲学による説明としてなら なにがしかの理解をみなで共有することが出来る。かも知れないと思いました。



 それが ニーチェに対しても よき鎮魂のうたになるかも分かりません。

お礼日時:2014/07/16 17:02

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