A 回答 (21件中1~10件)
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No.21
- 回答日時:
嫌だな~。
最初に、
法華経そのものがカルト的な教えをたぶんに含んでおり、
そのために、
その教えをいただく日蓮系の諸団体は必然的にカルト的になるんだ、
と書いたじゃないですか。
つまり、
乗っ取る乗っ取られるではなく、なるべくしてなったです。
法華経には、そもそも狂信的な要素があって、無反省的にこの経典を頂くと、魔道に落ちる危険性があるんですよ。
No.20
- 回答日時:
☆日蓮ないし S 学会は 本尊に対して題目を唱えることによって このブッダターがはたらくと言いました。
そして これのみによるのだと。道は 日蓮の言う方法のみであると。◇ご本尊様から仏の種をいただくんですよ。
だ・か・ら、
ご本尊様に向かって「南無妙法蓮華経」と唱えた事のない人には、仏性はない。
bragelonneさんの2年位前の質問に、
日蓮教の僧侶だかS学会の教義部の人だかが、
こう明言しました。
ですから、
日蓮教の信者、もしくは、S学会員以外の人間には、
仏性なんて結構なものはありませんよ(笑い)。
ところで質問の本題についても回答して頂きたいのですが。
この質問の本題とは、次のことを問うているはずなのですが。
ある宗教がカルトに乗っ取られ一般社会からは邪教の烙印を押されたとする。
このとき次の2つについていずれがより真相に近いと考えられようか。
1.その宗教はもともと邪教であったが故にカルトに乗っ取られたのであり、その結果ますます邪教化していった。
2.その宗教はもともとは邪教ではなかったがカルトに乗っ取られた結果、そのカルトの行いによって次第に邪教化していった。
まず哲学の問題として質問の形を整えるとこのようなことを問うております。
No.19
- 回答日時:
★ (No.18お礼欄) だから自己催眠ってのは非思考の庭に漬かることだって。
/ 非思考、非思考、非思考、非思考、・・・・ってやってるうちに催眠にかかるってゆうアレのことです。☆ 違うよ。ヤクをやってなる状態だよ。何にも知らんやつだなぁ。
回答No.18が 決定版。
この回答への補足
もし神とは何かと問われたとき、人の道においては明確に答えることができます。
神は宇宙の法則であると明確に答える。
一方同じ問いかけに対して、あなたは明確に答えることが出来ない。
ただただ神は分かるか分からないかが分からないナゾであると繰り返すだけである。
分かるか分からないかが分からないってことはつまり完璧に何も分からないってことなのである。
何も分からないのであれば神について何一つ語ることは出来ないはずなのである。
この状態から抜け出さない限り永遠に蛸壺の中に閉じこもっているに等しい。
>13. アルケーの神と いっしょぢゃないの?
そもそも人の道を日蓮ないし S 学会ごときと同列にされると、人の道はただのカルトになってしまうではないか。
そのようなことは断じてないと言っておきます。
No.18
- 回答日時:
(A‐1) ★ (No.17お礼欄) 我々は真理の探求という深く果てしない精神の働きを通してのみ神に近づくことが出来るのである。
(N‐1) ◆ (日蓮= S 学会版) 我々はダルマと呼ぶ真理を問い求めて生命の深みに分け入ってその根源を南無妙法蓮華経というチカラだと知った。法華経の如来寿量品第十六の文底に秘された独一本門の真理であり唯一の神である。神に近づくというよりも この神のチカラを――それは目に見えないから霊と言わねばならないが――このわれらが身と心とに受け取るのだ。
(A‐2)★ そして神は万物の根源、宇宙の法則であるアルケーの神であることが分かるようになるのである。何者も真理の探求なくして神が何たるか知ることは出来ない。
(N‐2)◆ 宇宙の法は ダルマである。万物の根源は 生命である。法華経は 生命の書なり。しかもその生きたチカラは 《文底》にあって 久遠実成の自受用報身なる日蓮というブッダそのものなり。唱題すれば誰でも実感して分かる。何ものもこの真理のチカラを体現せずして神が何たるかを知ることは出来ない。
(A‐3)★ 神は霊ではなく宇宙の法則である。
☆ 宇宙の法則というのは 一般に人間の思考・認識の問題におさまる。それを神と言うのは あまりにもくだらない。
(A‐3‐1)★ 神は幽霊などではありません。
☆ あまりにも幼稚である。幽霊とは何かについても 重々伝えてある。
(A‐3‐2)★ 真理の探求をせずただただ非思考の庭に漬かっている限り、何が何だか分からないから抜け出すことはできません。
☆ 《神は宇宙の法則だ》だの《神は幽霊などではありません》だのと言っているようでは たしかに非思考の庭が何であるかを理解することはむつかしいかも知れない。
(A‐4)★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
本尊に対して題目を唱えるとは偶像崇拝といってアホのやることである。
彼らなりに非思考の庭を目指しているわけである。
真理の探求ではない。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 《宇宙の法則 / アルケーの神》 これは 紙でつくった本尊ではなくそういう形のある偶像ではないが けっきょく思考の問題におさまるのなら《観念の神》であって 観念の偶像崇拝であるにほかならない。
《非思考の庭》は ひとが《目指す》ものではない。神の名を受け容れたときに成るものである。もともとその潜在するチカラもしくは磁場がひとに生まれつきあったと想定されるもの。アートマン(霊我)。タターガタ・ガルバ(如来蔵)。ブッダター(仏性)・自性清浄心。
この非思考の庭を《目指す》などという理解では 《真理の探究ではない》。
(A‐5)★ 自己催眠とは非思考の庭を求めて漬かり続けることである。 / 真理の探求ではありません。
☆ 《非思考の庭》が分かっていないのだから 無理はないのかも知れない。
★(A‐4)本尊に対して題目を唱えるとは偶像崇拝といってアホのやることである。
☆ 紙に文字を書いた物を偶像とするということは 神の仮りの(偶)かたち(像)なのだから そのことをわきまえていれば 偶像崇拝にはならない。
法華経の文面そのものではなくその《文底》なる真理だとか 生命の奥なるチカラと言っているのだから その神は 霊であり目に見えない。そのチカラが――わが非思考の庭をとおして(たとえば アートマンなる霊として・またはブッダターなる霊として)――はたらくと言っているのだから 特に問題はない。
問題は それが唯一の神であって――ここまでもまだ問題はない―― それ以外には神はないと言い出したときに起きます。神は 日蓮なる久遠仏の生命なるチカラであって それ以外は 偽物でありダメだと言い出したときに起こります。
南無妙法蓮華経は 神の単なるひとつの補助線であるということをもう見ないように・見えないように・意識しないように 自己催眠をかけた。補助線がすでに正解であると見なすように 自己催眠をかけた。蛸壺をみづからつくり そこに閉じ籠った。あとは この煙幕によって他人の言うことに聞く耳を持たなくなった。
☆☆ > どうです? アルケー教と似ていませんか?
(A‐6)★ だから万物の根源、宇宙の法則、アルケーを除いて如何なる神も存在しないと結論できるのである。
(A‐6)(その全体)★ ~~~~~~~~~~~~
アルケー教ではなく、正しくは人の道である。
アルケーとはもともとは万物の根源を意味した。
古代より万物の根源が何であるかについて多くの哲学者が問い求めてきた。
人の道は万物の根源は宇宙の法則であると理解した。
そして万物の根源、宇宙の法則は神であると悟ったのである。
だから万物の根源、宇宙の法則、アルケーを除いて如何なる神も存在しないと結論できるのである。
あくまでも真理の探求によって得られた結論である。
非思考などではありません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ そのように《思考して認識が得られた》と言っているのではありませんか? これが 観念の偶像に対する崇拝です。思い込みとも言います。つまりは 自己催眠。そして しゃべる蛸壺と化す。
結論:
《アルケーの神 / 宇宙の法則》 これは 《南無妙法蓮華経》とまったく同じ自己催眠による万物根源而蛸壺之神である。
信者の数と資金力とが ちと違う。
>《アルケーの神 / 宇宙の法則》 これは 《南無妙法蓮華経》とまったく同じ自己催眠による万物根源而蛸壺之神である。
だから自己催眠ってのは非思考の庭に漬かることだって。
非思考、非思考、非思考、非思考、・・・・ってやってるうちに催眠にかかるってゆうアレのことです。
オウム信者らがよくやってたでしょ。
瞑想しながら時々空中浮揚しようとして跳ね上がったりするアレです。
本尊に向かい太鼓を打ち鳴らし南無妙法蓮華経を繰り返すのも同じである。
カルトってのはみな非思考を求め、非思考の庭に漬かりたいのである。
およそ真理の探求とは無縁の代物である。
哀れであると云う以外ありません。
No.17
- 回答日時:
非思考の庭は 人為的に成るものではありません。
とにかく神を・その名を心に受け容れたとき わが心に確かに非思考の庭が成る。
《神の名を受け容れる》のは 人為的な行為ですが 神は 非経験の場であり この経験世界を超えています。
何が何だか分からないナゾを受け留め受け容れる。だけです。
ということは 想定として すでにひとには生まれつき自然の本性として そのような神に呼応するような庭があったとも言えます。
ナゾですから 何が何だか分からないという意味で 霊という言葉を用います。
神の霊とは アートマン(霊我)とも言い ぎゃくにアン‐アートマン(無我・非我)とも言い またブッダター(仏性)=タターガタ・ガルバ(如来蔵)=自性清浄心とも言います。
そういう想定です。
この想定が わたしが神の名を受け容れたときに 実現します。潜在的であったアートマンが 顕在化します。
それだけのことです。
酒を飲もうが 瞑想に耽ろうが そうではなかろうが ’受け容れる(つまり 信じる)以外の人為的な行為は関係ありません。
日蓮ないし S 学会は 本尊に対して題目を唱えることによって このブッダターがはたらくと言いました。そして これのみによるのだと。道は 日蓮の言う方法のみであると。
これを 自己催眠だと言います。そして その蛸壺におさまったまま もう出て来ません。ひとが声をかけてやっても もう聞く耳を持ちません。自分の催眠にかかったその状態を永遠に繰り返ししゃべりつづけるのみとなってしまっている。しゃべる蛸壺です。折伏する機械としての蛸壺です。
どうです? アルケー教と似ていませんか?
>ということは 想定として すでにひとには生まれつき自然の本性として そのような神に呼応するような庭があったとも言えます。
我々は真理の探求という深く果てしない精神の働きを通してのみ神に近づくことが出来るのである。
そして神は万物の根源、宇宙の法則であるアルケーの神であることが分かるようになるのである。
何者も真理の探求なくして神が何たるか知ることは出来ない。
>ナゾですから 何が何だか分からないという意味で 霊という言葉を用います。
神は霊ではなく宇宙の法則である。
神は幽霊などではありません。
真理の探求をせずただただ非思考の庭に漬かっている限り、何が何だか分からないから抜け出すことはできません。
>酒を飲もうが 瞑想に耽ろうが そうではなかろうが ’受け容れる(つまり 信じる)以外の人為的な行為は関係ありません。
だから神は信じるものではなく感じるものだって。
> 日蓮ないし S 学会は 本尊に対して題目を唱えることによって このブッダターがはたらくと言いました。
本尊に対して題目を唱えるとは偶像崇拝といってアホのやることである。
彼らなりに非思考の庭を目指しているわけである。
真理の探求ではない。
> これを 自己催眠だと言います。そして その蛸壺におさまったまま もう出て来ません。
自己催眠とは非思考の庭を求めて漬かり続けることである。
真理の探求ではありません。
> どうです? アルケー教と似ていませんか?
アルケー教ではなく、正しくは人の道である。
アルケーとはもともとは万物の根源を意味した。
古代より万物の根源が何であるかについて多くの哲学者が問い求めてきた。
人の道は万物の根源は宇宙の法則であると理解した。
そして万物の根源、宇宙の法則は神であると悟ったのである。
だから万物の根源、宇宙の法則、アルケーを除いて如何なる神も存在しないと結論できるのである。
あくまでも真理の探求によって得られた結論である。
非思考などではありません。
No.16
- 回答日時:
こんばんは。
☆☆ 非思考の庭
☆ という言葉がこわいのですね。
だから それを承けてしきりに自己催眠の煙幕を張ろうとする。
パニクるのであれば 仕方がないのかも知れない。・・・
>☆☆ 非思考の庭
☆ という言葉がこわいのですね。
いやいや非思考の庭という言葉はなかなかいい言葉ですよ。
非思考のイメージが良く現れていていい表現だ。
べつに怖いものではないでしょ。
なぜ人は酒を飲むのか。
非思考になるためでしょ。
一時的にせよ非思考の庭は楽しいものだ。
禅僧は無の境地を目指し日夜瞑想します。
これも非思考の庭を求めてやってる訳である。
そもそも人は死ねば土に帰り非思考になる訳だし、非思考の庭とは元の居場所に戻るのだと思えばよい。
No.15
- 回答日時:
私は熱心な日蓮宗徒とは言いがたいです。
正月月には家の神棚に祭っている神様の神社に行き、家族で家内安全の祈願をして貰います。各宗派の総本山も訪問しました。数え切れないほどのお寺に行っていますが、どこのお寺にも行って拝みます。両親の法要とお盆には日蓮宗の僧侶に来て貰います。お寺から行事のご案内を貰いますが、遠慮しております。両親の命日の法要の後に僧侶は少し話をされますが、両親が極楽に居ると言われると嬉しさはあっても僧侶に失望してしまいます。
私の底意地の悪さは持って生まれたものなので治りません。私は余程のことがないと匙を投げません。人間がひつこいので何回でも同じことを言います。会社でもそうしてきました。そうしないと研究開発ができなかったのです。
No.13
- 回答日時:
こんにちは。
☆すでに書いたように法華経の境地は目線の高さにあります。悪く言えば人を見下ろす上から目線です。私はこのことが割と心地良くも感じるのです。
◇一種のエリート主義、これも問題。
───S学会のヒトなんかは、「法華経は大学のレベルなんだ。その入門段階の小学~高校の段階の奴等には…」とか、おっしゃったりする───
そして、
《法難のロジック》とセットなんですよ、この法華経のエリート主義。
も~どこまで行っても、法華経or日蓮教はカルト的(笑い)。
実は、日蓮教の人々こそ、釈尊のもとを立ち去った高慢の比丘なのかもしれない。
法華経を目にしながら、法華経の教えに目を閉ざし、耳を傾けようとしないのではないか。
こうした真摯な反省があるのか?
この立場は、
常不軽菩薩品 第二十
で否定されている。否定されなければならない。
地踊の菩薩じゃ~困るんですよ。「地踊のホマレ~♪」と歌って、喜んでいるうちは全然、お話にならない。
目指すべきは、地踊の菩薩ではなく、常不軽菩薩のはずだ。
今となっては、どうでもいいな~。
俺は、とうに、日蓮教の人たちにさじを投げてるから。
ここでウンチクをば一つ・・・。
常不軽は、鳩摩羅汁の誤訳、あるいは改竄。
常不軽はsadAparibhUtaだから、
sada(常に)+bhUta(軽蔑される)
で、
常被軽菩薩などと漢訳されるべきもの。
本当は、常に人々から馬鹿にされていた菩薩なんでさ~。
だ・か・ら、
法華行者は、人々から常に馬鹿にされても、その人を怒ったり、蔑んではいけない。
罵りの言葉など論外!!
日蓮を筆頭に、日蓮教の人々にこんな気構えがあるんかいな~。
「法華読みの法華知らず」になっているんじゃないかいな~。
六波羅蜜の《忍辱》が全然足りていないんじゃ~、ないかいな~。
☆眠り猫」さんは良く知るがための反発心があるようですが、寛容さも必要と思います。
◇どうしようもなく底意地が悪いけれど、
救いようがないほど屈折しているけれど、
わたしは結構、辛抱強くて、寛容な性格でさぁ~。
既に投げ出したサジを、
「やっぱ、投げるのはよくないな」と拾い直しにゆくくらいに(笑い)。
>☆すでに書いたように法華経の境地は目線の高さにあります。悪く言えば人を見下ろす上から目線です。私はこのことが割と心地良くも感じるのです。
◇一種のエリート主義、これも問題。
───S学会のヒトなんかは、「法華経は大学のレベルなんだ。その入門段階の小学~高校の段階の奴等には…」とか、おっしゃったりする───
カルトに引き寄せられハマる人々ってのは多方は共通の理由、共通の性格があると思っています。
その理由の第一はまず人間の弱さだと思う。
人間的に弱いから簡単に洗脳されカルトにハマってしまうのでしょう。
更に弱い彼らは集団の一員になれば集団が自分を守ってくれるし、孤独から解放されると思い込んでいる。
しかしカルトとは所詮人を利用するだけのものであるから信者を守ってやる訳はない。
適当に利用し、利用できなくなると判るとこんどは逆にイジメにかかるものです。
それに気付いてカルトから脱会した人、脱会しようともがいている人は数知れない。
またカルトの一員として積極的に活動していても理不尽な教えに従わねばならず人身は次第に荒廃する。
同じカルトメンバに囲まれていても孤独から解放されるどころか増々孤独を感じているはずである。
だからカルト集団ってのは結局のところ洗脳された可哀想な人達なのです。
また既成宗教ってのは大なり小なり皆カルト的なものを含んでいるものです。
だからわたしは既成宗教なんぞクソ喰らえと思っています。
やはり宗教とは自らの思想と哲学に基づき自分で築きあげてこそ意味があると思っています。
その結果として人の道というものに辿り着いた次第です。
No.12
- 回答日時:
お邪魔します。
日蓮プロパーについて書かなければ 品位を落とすようです。
1. じんるいにとって神は ひとつです。
2. 名前は違っていてもいいわけで ただし神は ひとつです。有る神のほかに《無い神》をふくめて 神は ひとつです。
3. 神がいくつもあったら たまったものではありません。というよりも もしそうだとしたら 人間が ブラフマンなりヤハヱーなりとして 別々の神を知り得たことを意味します。すなわち人間の思考能力の内におさまるものがただこの神あの神と呼ばれたに過ぎません。これは 見解が相違するというだけの話に帰着します。
4. ちょっとした理論の神あるいは観念の神 これはもし好意的に見るならば 神本体の説明書きです。ただひとつの神を理解しようとして引いた補助線です。補助線としての見解が相違するのは あり得ることですから。
5. ここで神と言っているのは 例を挙げれば 独り満ち足りている存在としてのブラフマンやあるいは ダルマ・カーヤ(法身)としてのブッダあるいは キリスト・イエスの神を言います。
6. 神は 人間にとって既知ではありません。名前や説明書きが得られているだけです。また 未知としてやがて知られるようになるだろうというものでもありません。それなら 人間の認識しうる観念におさまります。さらにあるいは 不可知でもありません。不可知は 知り得ないと知ったのですから やはり認識におさまります。
7. 神は 非知です。知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾです。
8 さて日蓮も この単なる補助線としての《観念の神――観念のブッダ――》ではダメだとさとったところがあります。ただしいダルマの蓮の経のその文章だけでは ただの説明書きに過ぎないと見破った。
9. よって 神ないしダルマとしてのブッダは 如来寿量品第十六の本門の文底に秘されていると言い出した。文章には 神はいないと。それは あくまで補助線が引かれているに過ぎないと。
10. よって 何て言いましたか 久遠仏だとか何とか言っていますね。そのような神本体=ダルマ・カーヤなるブッダは それを名づけるに仮りに南無妙法蓮華経だと明らかにした。
11. ここまでなら 何とかついて行けます。ところが この南無妙法蓮華経なる神を そのまま神本体だと言いきってしまった。おれの見つけたブッダこそが・そしてそのブッダのみが 神であると。
12. つまり そこで 自己催眠を起こした。もうその蛸壺からは外に出て来なくなった。
13. アルケーの神と いっしょぢゃないの?
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