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芸術は、その人の個性が重要だと思うのですが、ピカソの絵は個性と言えるのでしょうか?

物凄く緻密で上手な絵を追求した先で、それを崩すやり方を発見する。これはピカソだけに限らない、何かへの到達に至る一つの方法論のような気がします。

難しそうですが、何か気づいたり、感じたことがあれば、お教えください。

A 回答 (15件中1~10件)

noboundさん おはようございます。

No.4で回答したものです。

どうやら質問者様の疑問から脱線した回答をしてしまったようなので、再投稿いたします。

評論家の小林秀雄に言わせると、絵を見るときは心を真っ白な状態にして絵画を鑑賞し感動することが大切で、作品についての薀蓄を知ってから、絵画を観ても心が曇り絵の本質というものにはせまれないと言ったそうです。

ですから、その考えが正しいのなら、先の投稿のように多視点がうんぬんなどといってピカソを観ても私はピカソの絵の本質がわかっていないのかもしれません。

ちょっと脱線しますが、小林秀雄は自宅にゴッホが命を絶つ数日前に描いたと考えられる、麦畑にカラスが飛んでいる絵を気に入り複製画を飾っていたそうですが、オランダで本物を観た時、これは創造でなく破壊だ、本物より私の家に飾っている複製画のほうが断然いいと評論して、美術界から絵の良さが本当にわかるのか!と批判を受けたそうで、美意識がどこまでだったかはわかりません。美と感じるか醜と感じるかは人それぞれと思います。

本論に戻りますが、小林秀雄が、ゴッホの絵を観た時に使った、創造と破壊と言う言葉にピーンときたのですが、ピカソの代表作であるゲルニカを観た人々は、もしかしたら、戦争という破壊行為(醜)を、ピカソの絵の中にそれまでの絵画を破壊(醜)した形で創造(美)して描かれていたのに感動したのではというのが、素人の私の考えで、そのために人口に膾炙したのでは?と考えます。

ピカソの文献は読んだことはありませんが、おそらく真っ白な心でピカソの絵をパリ留学中に観て感動したと思われる岡本太郎の言葉を添付します。

何だこれはと惹きつけるもの。燃えたぎるものが芸術だ!

この回答への補足

小林秀雄の記述が、「どう生きるか」という次の問いにつながったので、ベストアンサーに。

補足日時:2014/09/03 10:43
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この回答へのお礼

 小林秀雄は好きで、いろいろ読んでいますが、「ゴッホの手紙」はまだ読んでいません。
 小林秀雄の特集本を読んでいたら、

 「沈黙の力に耐えよ」

という表現がありました。ゲルニカの前でじっと見入ってしまう感じですね。芸術に至る道は、沈黙でしょうか。
 
 「創造と破壊」も難しいテーマでまだまだよくわかりません。さらに考えてみます。いろいろ興味深い内容ありがとうございました。

お礼日時:2014/08/20 21:47

こんにちは。




わたしは、ピカソの絵がわからない一人です。
絵についての解説などを読んだり、聞いたりすれば、「ほ~、そうなんですか。それは、すごいですね」と有り難がるふりはしますけれど、
内心、「こんなものの何処がいいんだ」と思っておりやす。


☆芸術は、その人の個性が重要だと思うのですが、ピカソの絵は個性と言えるのでしょうか?
◇芸術に限らず、表現は個性の現われでしょ。
ピカソの絵は、それまでの西洋絵画や造形美術の常識や伝統的技法を破ったとは言えるのでしょうが、
所詮はデフォルメでしょ。

日本のアニメやゲームの二頭身キャラだって、これに負けはしない。
 ―――ピカソの絵と日本の二頭身キャラ、どちらが世界の人に受け入れられ、愛されているか、勝ち負けの結果は、戦う前にすでに出ている!!―――
古代エジプトの不自然な姿勢での「コッチ向き」の人物画表現だってある。
世界各地で発見される、先史時代の地母神像だってデフォルメ芸術でしょ。
 ―――日本の縄文土器の一つである火炎土器を見よ。何だか分からないけれど、人の心をとらえて離さず、しかも、生命力に溢れているではないか!! 遮光器土偶だってあるじゃないか!!―――

「何がピカソだ」と、私なんぞは思ってしまいますが(^^ゞ

遮光器土偶
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%AE%E5%85%89% …



☆物凄く緻密で上手な絵を追求した先で、それを崩すやり方を発見する。これはピカソだけに限らない、何かへの到達に至る一つの方法論のような気がします。
◇日本の芸事に関する言葉に、「守・破・離」という言葉がありますよね。

~~~~~~
守破離(しゅはり)は、日本での茶道、武道、芸術等における師弟関係のあり方の一つ。日本において左記の文化が発展、進化してきた創造的な過程のベースとなっている思想でもある。
まずは師匠に言われたこと、型を「守る」ところから修行が始まる。その後、その型を自分と照らし合わせて研究することにより、自分に合った、より良いと思われる型をつくることにより既存の型を「破る」。最終的には師匠の型、そして自分自身が造り出した型の上に立脚した個人は、自分自身と技についてよく理解しているため、型から自由になり、型から「離れ」て自在になることができる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%88%E7%A0%B4% …
~~~~~~


以上、
ピカソの芸術をまったく理解できない人間の戯言でした。

この回答への補足

守 破 離 は、「道」の重要な過程であることがわかりました。

特に、「破る」ことについて、いろいろ考えるところがありそうです。

補足日時:2014/09/03 10:38
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この回答へのお礼

日本の浮世絵も、ヨーロッパで評価されているそうなので、別にヨーロッパに引け目を感じる必要はなさそうです。

進化は、確かに型から自由になることで起こるということですが、そういえば「破る」「離れる」という、最初の質問の意味がまだよく解っていない気もします。ピカソの場合、どう破り、どう離れたか?ただ若い時から絵が上手かったそうなので、個性以前に天才だったということです。

天才が努力をすると、歴史を変えるということでしょうか。

ありがとうございました。

お礼日時:2014/08/27 22:28

人にはどうしてもわからない世界というものがあるんだということを教えてくれるものの中の一つですね。


すみません。
なんとかわかることができるかと訪問してみたのですが。
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この回答へのお礼

 もしかすると、他者の芸術性を、いろいろ解釈することは無意味かもしれません。

 よくわからないけど、じっと見て感動する。それでいいんですね。ありがとうございました。

お礼日時:2014/08/20 21:53

 No.10を承けます。




 ★ (No.10補足欄) 醜であるピカソの絵が、美と芸術の主流になった理由は何だとお考えでしょうか。そこが知りたいところですね。
 ☆ 美術史やそれについての評論に見識はありません。

 作品は 理屈抜きにただただ見るだけの鑑賞法による者であるに過ぎません。


 ピカソの作品が売れるようになったし評論においても―― 一部の反発をよそに――絶賛されるまでに到った。このことについて考えるところを述べます。

 ホームランが出れば言うこと無しなのですが クリーンヒットでも人びとは目が覚めます。
 
 このような目覚ましは ふつう《まこと》であって 《うつくしく》 さらには《よいもの》であると考えられて来たと思います。

 ところが――端折った議論になりますが―― まことでなくても事実であればよく 《よい》かどうかは人それぞれだと考えられるようになり おそらくその結果 うつくしさの判定基準が変わった。おそらく 画商と評論家らが人為的に変えようとした。社会一般も それについて行った。

 このような流れについては 絶対の真理が人間には捉えられないということ・つまりは 相対的な真実――主観真実とそれの或る程度の共同化――にわれわれは甘んじるしかないということ。と考えて うべなうべきことであるとも思われます。

 さらには いわゆる善と悪との二項対立によってものごとを考え切って捨てるような思考にはおさらばするのも いいことでしょう。善悪の彼岸が 何よりものぞまれます。

 そして 《うつくしさ》は どうか?
 
 なでしこジャパンの優勝というホームランは やはりうつくしいものと感じると思います 一般に。

 ところが みにくさも うつくしさの内であるという思潮が流行り しかもメイン・ストリームにさえ成った。という歴史および世界の人びとの問題です。




 いちばんの問題点は ひとがそのものごとを見知って ブラヲーとかあっぱれとかと言ったりして目を覚まされることにあるのではないでしょうか?

 とすれば ふるくからのナラハシ(エートス)によれば《みにくさ》を表わすと見なされたようなものごとが 人びとの目を覚ました。という事件にあるのでしょう。ゆえに 美学である。あたらしい美意識である。美意識が広がったのだと。




 果たしてそうか?
 どんどん端折りますが 危険球を投げることは 醜悪です。盗塁は 盗人のようであってもクリーンヒットです。イチローのファインプレーは 醜悪ゆえに目を覚ますものだとは言えない。そうではない。・・・といろんな場合があると思われますが さしづめ醜が美の範疇に入ったというのは 故意に・しかも分からないようにデッドボールを受けて出塁することがひとつの例として考えられます。

 ピカソは そういう要素はないでしょうか? サルタンバンコには そういう要素はわたしには感じられません。



 結論です。人びとの心が そのように変わった。ピカソ売り出し大作戦の中身が 人びとの心に――その目を覚まさせたのでなくても――うったえたのでしょう。

 要するに 世の中の指導者たちは ろくなことをしない。市民たちをくだらないところへ引っ張って行くだけだ。・・・といった気持ちが心に充満して くさってしまった。そこへ とても見ていられないひどい醜さが これでもかこれでもかと出されてくることによって 言ってみれば《目覚まし》というよりは《眠気覚まし》の永劫回帰が 博覧会としてテレビなどのショーとしておこなわれるようになった。

 不一にて。

 
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この回答へのお礼

 ちょっと、日本の戦時中に近いということでしょうか?

 当時の指導者が、市民を戦争に巻き込んだように、ピカソを売り出そうとする人間が、人々を、醜さに<眠気覚まし>させてしまった。
 
 野球の、故意のデッドボールに近いという例えも面白いんですが。

 自分なりに、醜なるピカソが売れた理由をさらに考えたいと思います。ゲルニカを醜とは思わないんですが、悲愴という面はありますね。ありがとうございました。

 

お礼日時:2014/08/19 00:16

え?個性と思いますけど。


画家はみんな各人の個性がありますでしょ。
あの絵はピカソにか描けないと思います。
どうみても個性なんじゃないのかなあ。
そうゆうことじゃないのですか?
勘違いだったら、すみません。
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この回答へのお礼

 ありがとうございます。

 「誰でもピカソ」という番組がありますが、訓練しだいで、誰でもピカソのように描けないかということなんですが。

 吉本隆明は、10年?くらい毎日訓練すれば、誰でも作家になれるといっています。生まれ持った個性と、訓練されてできた個性を一応分けています。

お礼日時:2014/08/19 00:03

 こんにちは。



 わたしも分からない口ですが――そしてすでに過去にこのピカソ問題を問うています―― 分からないということは これが 絵か? これが 芸術か? という疑いを意味するものと考えます。


 ということは おそらく当然のごとく絵は絵描きの《個性》の現われなのでしょうが そのさまざまなかたちに成って表わされる個性の中からは すでにジャンルの違いを――分からん派のわれわれにとっては――つくられてしまったと言わねばならないような美の方法が出て来た。いうことにほかならないと考えられます。



 議論を端折りますが 要するに絵はうつくしさの問題だと思っている者にとっては すでに《ゲルニカ》は別のジャンルに移ってしまっている。こう考えます。ひとことで言えば 醜が 美意識のうちに入って来たと。

 こう考えるなら それぞれの美意識で――つまりは そのあたらしい絵画論は 理屈を述べるという美学でしょうか――それぞれの絵や芸術をたのしむ。こうなるし じっさいに現代ではなっているものと思われます。




 問題は このあたらしい美の派閥が たとえ広義の美と芸術において主流を占めるとしても それだけが唯一のうつくしさなのではないということ。これではないのでしょうか。

 つまりは われわれは人間であるなら 高い値のつく主流派の芸術観にすべからく従うべしという議論があるとするなら まさしくこの阿呆な議論が問題なのではないでしょうか?

この回答への補足

一応お礼は早いもの順にしたいと思いますが、いろいろな見識をお持ちだと思いますので、さらにお聞きしたいのですが、醜であるピカソの絵が、美と芸術の主流になった理由は何だとお考えでしょうか。そこが知りたいところですね。

補足日時:2014/08/16 22:03
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この回答へのお礼

 ありがとうございます。

 またNo,12のほうでお礼したいと思います。

お礼日時:2014/08/18 23:50

ピカソは個性派というよりは、新境地を開いた画家と言えるのではないでしょうか。

空間を操る、テクスチャを編み出す、当時にしては最前衛にあった画家、それがピカソなのでは?
学術的に見て、ピカソは重要です。
一方ゴッホは、個性派と言えると思います。色彩に対する信仰心とさえ言えるものが感じられます。
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この回答へのお礼

 ありがとうございます。全くそのように思います。

 個性はいつの時代にも個性ですが、時代の最前衛にあったピカソは、学術的に重要ですね。

お礼日時:2014/08/18 23:47

観て判らないならば、聞いても無理



目を捨てよ
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この回答へのお礼

 ありがとうございます。

 ただ見るだけではなく、観察せよということでしょうか?

お礼日時:2014/08/18 23:36

 間ですね。

デッサンは8歳で完成されてるので、それは他の画家でも同じ。偉そうにいうことになるけど、ピカソは絵の間の取り方が上手い。あれはなかなか真似できません。
 例えばきれいな写真を額に飾ったときに、いちばんいい位置ってありますよね。また、画面に対して写真が小さかったら、どんなにいい写真でも今ひとつに見えます。デッサンもどれだけ正確でも、描く位置が悪ければ、ヘタに見えるのです。ましてやキュービズムたる崩した描き方で絵として「見れる」ように完成するのは至難の業です。つまり、美術館で飾っても、「一応置いてても何にも格下に感じない」ように見える。
 絵の難しさって実はここです。賞をとるにも、「ぱっと見」でまずは惹きつけなくちゃいけないんですから。「何これ」とがらくたではないけど、気を引くように思わせた時点で、彼の勝ちです。
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この回答へのお礼

 崩しながら、「見れる」絵を完成するのは至難の業

 ここですね、肝は。崩しながら、人を惹きつける。

 へたうま絵の極意みたいなものでしょうか?

 間とか、線とか、プロにしかわからないものがありそうです。
 ありがとうございました。

お礼日時:2014/08/18 23:43

以下のとおりお答えします。



実は私も以前、「ピカソが分からない」と感じる者の一人でした。
バルセロナにあるピカソ美術館を数回訪れました。驚きました。

(1)ピカソが子どものころ、なぐり描きした紙切れや教科書の余白などを見て、「栴檀は双葉より芳し」とは、まさにこのことだと思いました。

(2)習作の類もいっぱいあるのですが、線描のデッサンがあって、それもほとんど「一筆描き」なのです。壁にへばりついて丹念に見ると画布から筆が離れたところが見当たりません。つまり、勢いにまかせて一気に描いたようにしか見えません。ところが、数メートル離れて見ると、それが絶世の美女なんですよ!「彼の頭の中は、一体どうなっけいるんだろう」と感動したものです。(絵葉書なりと欲しいと思って探しましたが、見つからず、落胆したことを覚えています。)

(3)絵画史上、印象派あたりまではもっぱら「描き方」の進化でしたが、キュビズムでは、オブジェに根本的な変更を加えました。すなわち、外界の物体を描くのでなく、その物体を見る画家の主観を描くようになったのです。

(4)それまで画家の目は、外界の物体を可視光によって捕える「取り込口」でしたが、キュビズムでは、主観を吐き出す「飛び出し口」になりました。

(5)多くの画家が、存命中は絵が売れず貧困にあえいでいますが、ピカソは例外でした。キュビズムは当時の潮流の先端に乗り、大いに人口に膾炙しました。ピカソは、描けば描くほど高値で売れたので、「もう、お金は見たくない!」と言ったとか言わなかったとか…。ああ、あやかりたい!

以上、羨望まじりの憧れと個人的感情をこめて、ご回答まで。
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この回答へのお礼

 私もプラド美術館で、「ゲルニカ」を見たのですが、当時はぼーっとしていたので、細かいピカソの人生遍歴など、目に留まりませんでした。

 やはり、キュビスムを産んだことが、ピカソのピカソたる所なんでしょうね。キュビスムの詳しい内容はまだよくわかりませんが・・・ありがとうございました。

お礼日時:2014/08/18 23:32

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