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日本が開国をする過程で、阿片戦争に影響されたと聞きました。
それは、どのような面で、影響されたのでしょうか。
また、(歴史にもしもは禁句ですけれど)、阿片戦争がなかったら、
日本の開国はなにか変わったのでしょうか?

よかったら、教えてください。

A 回答 (3件)

アヘン戦争がなければ、開国を急ぐことはなかったでしょう。


 世界帝国の一つである清が列強の侵略を受けたことは驚天動地の事件でした。攘夷派の長州の高杉晋作は一時中国へ様子を見に行き、ひそかに倒幕、開国に変わります。また伊藤博文は英国へ留学し、英国の近代化を目にして、攘夷の間違いを悟って長州藩を説得しようとしましたが、まだ時至らずでさんざんに切り付けられ死にそうになったりしています。
 攘夷であった長州、薩摩が下関戦争、薩英戦争で倒幕、開国に本格的に動くのは、列強の強さをまざまざとも見せ付けられたからです。
 幕府も開国なら開国で押し切ればよかったのですが、井伊直弼は暗殺されるし、攘夷でかちかちの朝廷へ開国のお伺いをたてたため、かえっては国の方針が動きのとれないものになり、薩摩と長州は口で攘夷といいながら、倒幕が終了した途端に開国すると言った詐欺まがいの動きをするのです。
 かわいそうなのは正直に攘夷を信じた武士でした。新撰組も思えば哀れです。
 
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また専門家のokarinsenpaiさんが完璧な答えを出されているので、補足というか、私見を...。



1)鎖国時代オランダは日本にとって唯一の近代文明への窓口であったが、そのオランダですら、西洋の中ではフランスに占領される程度の小国であることは既に知られていた。イギリスが当時世界最強国であることも...。

2)ペリー来航前から、オランダ人によって、欧米列強の動向は幕府に知らされていた。当然、アヘン戦争に付いても知らされていた。

3)ペリー来航前からロシアが再度、開国を要求して来ており、ペリー率いる黒船の到来は幕府にとっては決して寝耳に水でなかった。

4)海外情勢は、蘭学者や幕府重鎮だけでなく、一部諸藩の重鎮等も精通していた。たとえば、薩摩の島津斉彬、水戸の徳川斉昭。徳川斉昭は頑迷極まりない国粋主義者、攘夷論者と思われているが、最近の研究で意外に海外情勢に通じていたことが明らかにされている。

5)これに対して、朝廷の外国嫌いで、且つ、海外の事情に疎かったらしい。

6)大老井伊直弼等は当然、海外の事情にかなり精通しており、まともに戦火を交えることが不可能であることが分かっていた。彼は二枚舌、即ち、夷テキ嫌いの朝廷には、「今は無理だがいずれ必ず攘夷をする」と約束し、外国勢力には、ぬらりくらり逃げながら「開国」の形を取ることになった。しかし、結局「二枚舌」は破綻し、「朝廷をないがしろにした逆臣」、「安政の大獄の最高責任者」として、恨みを買い、水戸浪士の手にかかって桜田門外で落命したのである。

7)相手の強さや、アヘン戦争を知りながらも、下関砲撃事件や薩英戦争まで、攘夷派は「神州日本」は神風によって元寇を撃退し、勇ましい武士の守る特別の「国」であると半ば本気で思っていたようだ。薩長は直接戦火を交えて相手の強さを知り、攘夷から討幕へと急転換していく。

8)実は開国後ですら、攘夷派の武士が振り回す、外国人にとって「恐るべき残虐兵器」である日本刀の威力や、薩英戦争での薩摩軍の奮戦は、外国人に「日本人侮り難し」という意識を植え付けていた。

9)だから、仮に、開国せず、戦争になっても相手を相当てこずらせていたであろう。しかしそれは、神風特攻隊や夜襲と同じで、相手にとっては嫌なものではあるが、戦局に影響を与える程ではなかったはず。何故なら、当時の日本の大砲と英国のアームストロング砲、向うの大型鉄製蒸気船と日本の木造船を比較すれば一目瞭然。制海権は完全に握られ、セコセコ作った防塁も木っ端微塵。正規戦では所詮勝ち目がなく、ゲリラ戦かテロ位でしか対抗できなかったでしょう。

10)仮に、正規戦で負けたとした場合でも、上記のように「日本人侮り難し」と思われていたでしょうから、中国と全く同じ運命を辿ったとは私には思えません。「日米通商条約」は明らかな不平等条約でしたが、明治政府が比較的早期に不平等性を解消できたのも、「日本人侮り難し」ということが欧米列強に分かっていたからだと思います。それには「日本刀の切れ味」が一役かっていたいうのが私の意見です。
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 鎖国中、長崎出島に滞在していたオランダ商館長は毎年、江戸幕府に対して国際情勢を記した「オランダ風説書」の提出が義務づけられていました。

そのため、江戸幕府の要人は「オランダ風説書」を通して世界で何が起きているのか知ることが出来ました。当然、アヘン戦争についても江戸幕府の要人は把握していたはずです。アヘン戦争によって中国がどのような状態になったかを知っていた江戸幕府の要人がペリーの来航に際して、中国(当時は清)のようにならないためにも開国やむなしという考えに至ったということは十分考えられます。
 アヘン戦争後の中国の惨状については開国直後の日本ではよく知られていたらしく、フランスに派遣された江戸幕府の使者が中国に寄った際、イギリス相手に奮戦した中国の将軍を偲んだという話を聞いたことがあります。アヘン戦争が開国に何らかの影響を与えたのかどうかははっきりしたことはわかりませんが、日本の知識人に「このままでは中国のように欧米に侵略される」という意識を植え付け、後の明治維新の原動力になったことは確かです。
 もし、アヘン戦争がなかったら江戸幕府は相手の力がわからなかったはずですから、ペリーの艦隊に対して無謀な攻撃を試み、アメリカと戦争になった可能性があります。もちろん、当時の技術力で日本は勝てるわけはありませんから、日本は戦争に負け、中国のように欧米列強の半植民地あるいは植民地になっていたのではないでしょうか。
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