プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

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いつ?
1.当時
2.戦前
3.戦後
4.その他(年代など)

どこで?
1.中国
2.韓国
3.アメリカ
4.日本
5.その他(書面、口頭、議会など)

誰から?
1.蒋介石
2.李承晩
3.トルーマン
4.マッカーサー
5.その他(具体名)

一応、例として仮に挙げておきました。
あった、なかった、その他ありますので、詳しい方お願いします。

A 回答 (9件)

質問文には「何を」が抜けていますね。


いわゆる南京大虐殺ですが、南京市街地だけか、南京市周辺を含む広範な地域なのか、被害者は捕虜だけか住民もか、住民もだとしたらそれはゲリラ(便衣隊)狩りの結果か略奪の結果か、陥落直後だけか陥落時から数カ月間の話か・・・という、被害者数だけではなくほとんどの項目でその内容は論者によって時代によって、随分と異なります。
しかも、南京陥落前に撤退直前の中国軍による略奪があり、それも日本軍のせいだとされたと主張する人までいます。

あったと確実視されることは、南京が陥落した直後に日本軍による捕虜の扱いが、現在の基準からいって望ましいものではなかったということです。
といって、当時の世界中のどの軍でも、この辺りの事情は似たようなものです。
また、便衣隊の捜索と逮捕もされています。

事実としては、ここまでしか信憑性のある話はありません。
数万人規模の民間人虐殺が起こった、などと主張されることがありますが、食料消費が陥落直前から直後にかけて減っておらずむしろ増えていることから、かなり怪しいです。

ところで、ティルマン・ダーティンのインタビューを見ると、
・日本軍は上海から南京に至るまで、全く虐殺・略奪の類をしなかった。
・南京陥落後、漢口を占領した際にも、全く虐殺・略奪の類をしなかった。
と明確に言っています。南京だけが何故虐殺・略奪があったとされたのか、しかもその虐殺・略奪が横行する南京になぜ住民が逃げ出さずむしろ戻っていったのか、実に不思議なことです。


こうした怪しさがあるという認識の下で、本編に入ろうかと思います。
既に回答にあるティルマン・ダーティンが第一報を出していますが、それよりも数日前にA・T・スティールがシカゴ・デイリー・ニューズで報じています。
国際政治の場に出されたのは、カイロからポツダムまでの各会談・宣言ではなく、第二次大戦後の戦犯を裁くための法廷の場(いわゆる東京裁判の場)でした。
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ネトウヨの大将は大虐殺を否定するために、大虐殺肯定派のサイト(

http://www.geocities.co.jp/yu77799/)から、否定派の東中野修道の説だけを引き写すという挙に出た。しかし、そのサイトは、東中野の誤りをこれでもかとばかりに徹底検証しているのである。大将は姑息にも、東中野の説であることを隠して受け売りした。
とんだ悪用をされた「南京事件-日中戦争 小さな資料集」であるが、大将のコピペ元は下記のページらしい。

東中野氏の徹底検証2 - ベイツ=中華民国顧問説
http://www.geocities.jp/yu77799/bates1.html
〔引用開始〕
東中野氏は、「諸君」2002年4月号所収の「南京大学教授ベイツの”化けの皮”」との論稿の中で、「ベイツは中華民国政府の顧問だった」という断定を行いました。〔中略〕
どうやら、「明らかになった」という断定の材料は、誰が切り抜いたのかも、いつのものなのかも、何新聞なのかもわからない、一片の新聞記事の切り抜き、ということであるようです。〔中略〕
「ベイツ=中華民国政府顧問」説は、「根拠不明、裏付け資料なし、従って真偽も不明」としておくのが、無難なところでしょう。〔中略〕
東中野氏の記述によれば、ここには「勲章授与」の理由までは書かれていなかったようですが、それをいいことに、氏は、あたかもベイツが「中華民国顧問」であったことが「勲章授与」の理由であるかのような印象をつくりだしています。
〔引用終り〕

東中野氏の徹底検証3 - ベイツ文書と新聞記事
http://www.geocities.jp/yu77799/bates2.html
[引用開始]
東中野氏は、南京事件の第一報であったダーディンやスティールのニュースソースが、実は「ベイツレポート」であった、と論じます。[中略]
東中野氏はどうやら、ベイツは「中華民国顧問」だった。ダーディン、スティールは、「中華民国顧問」たるベイツが作成したメモをもとに、記事を執筆した。従って、「記事」は実像を正しく伝えたものではなかった、というストーリーを読者に印象づけたいようです。[中略]
しかし既に触れた通り、 「ベイツ=中華民国顧問」説は、根拠の薄いものです。[中略]
ダーディン・スティールらが「ベイツ・レポート」を受け取ったことは事実としても、彼らの記事は基本的には自分たちの広範な取材に基づいたものであり、また、東中野氏の言う「酷似」箇所は外国人たちが概ね共通の認識としていた事項に過ぎない、ということが言えると思います。
[引用終り]

そもそも南京事件を論じる時、大将のように東中野修道の説をよりどころとするなんて、慰安婦問題で吉田清治の説に依拠するようなものだろう。昔ならともかく、化けの皮が剥がれた今となって、まだコピペするとは。
東中野は歴史学者であり資料解釈のプロのはずだが、下記URLの東京地裁判決(2007年)では、「被告東中野の原資料の解釈はおよそ妥当なものとは言い難く、学問研究の成果というに値しないと言って過言ではない」と判断された。東中野らは名誉毀損で400万円の支払いを命じられた。控訴・上告して最高裁まで争ったが、一審通り400万円の支払いが確定した。
一方、慰安婦問題では、吉田清治が「韓国済州島で現地女性を強制連行した」などと「告白」した。その後、1993年に発表された河野談話は、政府見解だけあって周到に練られたらしく、吉田の説には依拠していない。同談話は、官憲による連行を指す「官憲等が直接これに加担」という文言を、朝鮮半島のパラグラフの中に入れなかった。

夏淑琴さん名誉毀損訴訟 東京地裁判決 - 15年戦争資料@wiki(ピッポ氏による)
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/737.h …

「慰安婦」決議採択、日本政府に謝罪要求 どうして?
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/3120401.html
[引用開始]
吉田清治(元山口県労務報国会動員部長)の済州島体験記も現れた。「衆院・予算委員会・昭和60年02月14日」では、佐藤観樹議員が吉田の『私の戦争犯罪』を朗読して、政府の見解を問い質している。
しかし、それは流言蜚語やフィクションの類だったことが判明する。秦郁彦が現地調査して吉田の記述内容を突き崩し(1992年)、吉田は有効な反論ができず仕舞いだった。
〔中略〕
河野官房長官談話が出たのは93年で、すでに吉田の疑わしさは気付かれており、吉田証言が崩れても大きな影響はないように、談話は組み立てられている
[引用終り]

アメリカの韓国慰安婦問題支持
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8580854.html
[引用開始]
嫌らしいほど周到だと思うのは、「官憲等が直接これに加担したこともあった」という文言を、「当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、」の後に置かず、別のパラグラフに置いたことである。[中略]
韓国の人にしてみれば、「官憲等が直接これに加担」の文言を、ぜひとも「当時の朝鮮半島は我が国(日本)の統治下にあり、」の後に置いてほしかっただろう。それなのに河野談話は、「(業者が)甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して」募集した、と一般論を繰り返すに留めたのである。
この談話(93年8月4日発表)の直前の7月26日より30日まで、日本政府は韓国ソウルで元従軍慰安婦の16名から聴取を行った。そのなかの数名は、日本軍人に強制連行されたという話だったらしい。しかし、河野談話はそれを採用しなかったことが、前述のパラグラフの件から分かる。
[引用終り]
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南京『大虐殺』となるのは、1960年前後からです。


それまでは南京事変は、戦勝国が敗戦国をさばいた、東京裁判においても戦争中の交戦違反にとどまっています。つまり、戦争時にはよくあること、という事件です。
本当に今の中国が言っているような『大虐殺』があれば、東京裁判では最もやり玉にあがり、ナチスのユダヤ人狩り同様『人道に対する罪』とされたはずですが、それがないということは、『大虐殺』は事実とは反するということでしょうね。
ところが、1961年に家永三郎が編集した『新日本史』(三省堂)では「南京大虐殺(アトローシティー)」と表記され、それが教科書検定にはじかれて、家永が裁判を起こしたあたりから、この事件は政治の道具になっています。
1956年に刊行された『世界歴史事典』および、1961年の『アジア歴史事典』などでは、「南京事件」とされていますが、1966年には毎日新聞記者五島広作と下野一霍の共著『南京作戦の真相』(東京情報社)が、1967年には洞富雄が『近代戦史の謎』(人物往来社)が、1968年には家永三郎が『太平洋戦争』(岩波書店)では、軍人・記者の回想録や洞の著書を引用しながら「南京大虐殺」について記述して、一躍世に問われるようになりました。(年代などは、wikiより)
つまり、南京大虐殺は、アメリカのウォーギルトインフォメーションプログラムによる教育で洗脳された日本人左翼による自作自演です。ちなみに従軍慰安婦問題も同じような流れです。
アメリカの日本人に対する反日教育の手際の良さがわかる事件ですが、ようやく最近になって、こういった虚偽の歴史は見直しても良いという風潮ができつつありますね。
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自分の主張を正当化する為に、相手を侮辱的な名称で呼び印象操作をする人間はレイシストと呼ばれても仕方がないと思います。


私なら、自分の回答を引用するときは、そう断ってNoも明記します。
それに、資料の不足により虐殺の規模が不明な事を語るのに、他人の説の概要だけを説明しておいて、証拠隠滅のせいするなら、引用する意味すらありません。
文章によっては閲覧者が、それらの他者の「学説」と自分の「意見」を混同される危険すらあります。
(詐欺師や詭弁化は、よくそのような手法を使うそうですが)


質問の主旨ですが、質問に回答もせずに、ごりっぱな意見や有り難い薀蓄を垂れ流すマネはしたくないので確認しますが、
【(内容の真偽に関わらず)南京事件の報道された時期】であって、「南京事件の真偽」ではないということでよろしいでしょうか。

まず本当にあった方の南京事件ですが、(画像も参照)

【南京事件 (1927年)】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BA%AC% …
《南京事件(なんきんじけん)は、1927年(昭和2年)3月、蒋介石の国民革命軍の第2軍と第6軍を主力とする江右軍(総指揮・程潜)[1]が南京を占領した際に起きた日本を含む外国領事館と居留民に対する襲撃事件。
―中略―
このうち日本領事館では、警備の海軍陸戦隊員は反撃を禁じられていたため[4]、館内の日本人は一方的に暴行や掠奪を受けた。日本側の報道によると、駆逐艦「檜」などから派遣されていた領事館警備の陸戦隊の兵力は10人しかなく、抵抗すれば尼港事件のような民間人殺害を誘発する危険があると考えられたため、無抵抗が徹底されたという[3]。正門で歩哨に就いていた西原二等兵曹が侵入者を制止しようとした際、群衆は「やっつけろ、やっつけろ」と連呼しながら銃剣で突きまくり顔面や頭部をめった打ちにして負傷させたという[3]。根本博陸軍武官と木村領事館警察署長は金庫が開かない腹いせに銃剣で刺されて負傷、領事夫人も陵辱されたという。領事館への襲撃のほか、係留中の宿泊船(ハルク)の警備についていた後藤三等機関兵曹は狙撃により射殺されたという[3]。事件後の被害者の証言によれば、当時の30数名の婦女は少女にいたるまで陵辱され、指輪をつけていた女性は指ごと切り落とされたという。ある女性が暴兵のために一室に連れて行かれようとする際、「どうぞ助けてください」と必死に叫んだが、警備兵は抵抗できず、見捨てざるを得なかったという[5]。》

↑の日本の対応は、対支宥和政策の影響でもありました。
しかし、この結果、それまでは英国中心に行なわれていた支那の外国排斥運動(テロ)の矛先が、その後は日本に向けられるようになってしまいました。

回答
いつ?:1927年3月24日以降、すぐ
どこで?:日本
誰から?:日本政府だと思います。


関係著書については、↓があります。

1938年:「シナ大陸の真相」(K・カール・カワカミP109-110)
(しかしながらこの融和的な日本の政策にもかかわらず中国は、日本との通商条約を一方的に破棄すると日本に通告してきたのである。中国は日本と妥協しようとする望みはかけらも見せなかった。

 1925~27年にかけて、暴力的な反外国(特に反英)暴動が揚子江南部のいくつかの省に広まった。これはついに1927年3月24日のあの恐ろしい南京暴動に発展し、この暴動で全ての外国領事館と多くの外国企業、住宅、キリスト教の施設などが略奪された。殺害された外国人の中には米人の南京大学副学長、二人の英人、仏人と伊人の司祭一人づつが含まれていた。多くの外国人の女性たちが筆舌に尽くしがたいほどの暴行を受けた。)

「日中戦争」(児島襄著 より抜粋要約)
《1927年の南京事件では、南京の日本領事館にも50人程の支那兵士が乱入し、男女の別なく衣服を奪われ財布・時計・指環は例外なく奪取されたほか、次々に衣服をぬがされて身体検査をされた。
女性の場合は下着までぬがされて「忍ブベカラザル」検査さえされた。

森岡領事は荒木大尉を自室に呼び「気の毒ながら各兵の階級章及び帽子の如き標識を一時取り去られたし」と言った。
荒木大尉は血相を変えた。国民を外敵から守るのが軍人の本務、それを戦うなと言うだけでなく軍装まで解けと言う。

「度を過ごしたる無抵抗主義」は、却って相手の増長心を刺激し暴行を激化させる。
そう思ったが「在留民の生命が風前の灯だから」と病床に深々と頭を垂れる森岡領事を見て承知した。

(荒木大尉はその後自殺した)》



嘘の方の南京事件については、他の方の回答でよいと思います。

この問題では、↓の外国人記者の記事が資料として出される事があります。

南京攻略前に、外国人ジャーナリストは外交関係者とともに南京を去っており、南京陥落時にいたジャナーリストは、ダーディン記者(NYタイムズ )、スティール記者 (シカゴ・デイリー・ニューズ)、ロイター通信のスミス記者 、AP通信の記者の数人だけでした。
そして、彼らも12月15日に南京を去っています。
(彼らが見たという処刑ですが、15日はまだ戦闘中であり、敗残兵の処刑は合法です)

後には、20数名の欧米人(アメリカ人16名多くは宣教師)が残り、
多くは安全区国際委員会、国際赤十字南京委員会のメンバーとなりました。

そして、南京戦のときのダーディンは句容に行っており、南京に帰ったのは14日の夜でした)

【F・ティルマン・ダーディンの記事】(いわゆる南京事件について)
http://www.geocities.jp/yu77799/durdin.html

↑の彼の記事ですが、南京に残り安全委員となったぺイツ教授からの情報によるものです。

「南京事件資料集 第1巻」(南京事件調査研究会編訳 105p)
1938年1月5日、上海のアメリカ総領事ガウスからワシントンの国務長官宛の「祕密扱い」の報告書簡(出典:Record of US Embassy to Chinam Correspondence American Embassy Nanking)には次のように記されている。「南京大学のシール・ペイツ博士(社会学および歴史学の教授)が書いた日本軍占領後の南京の状況に関するメモを同封する。本メモの写しは、『シカゴ・デイリー・ニューズ』 のアーチボルト・スティール氏が当総領事館の館貞に手渡したものである」


そして、ペイツ教授は中華民国政府顧問でした。

「南京大学教授ベイツの"化けの皮"」(「諸君!」2002年4月号)
(そのティンパーリと反日的な点で同志関係にあったベイツも、中華民国政府顧問であったことも次の史料から明らかになった。それを証明したのが、イエール大学で私が発見した小さな新聞記事の切り抜きであった。写真説明は次のようになっている。
「中国の首都南京の城門を攻める日本軍の砲撃がこだまするなか、それに怯むことなく、オハイオ州・ハイアラム出身の南京大学歴史学教授にして、中華民国政府顧問のマイナー・サール・ベイツ博士(写真)は、城壁で囲まれた南京城内の自らの持ち場を離れることを拒否した。アメリカ大使館は、ベイツ博士が最後の瞬間に逃げることを許可し、彼に、城壁をよじ登って降りるさいの縄ばしごを提供した」


ペイツ教授は、東京裁判で市民12,000人の虐殺を主張した事で、1946年にも中国の国民政府から勲章を受けています。



中国については、あの国は、自分のした事さえ日本のせいにするので、ネタにできる事を知らないはずはないと思います。

【黄河決壊事件】(嘘の南京事件の半年後)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E6%B2%B3% …
《黄河決壊事件(こうがけっかいじけん)は日中戦争初期の1938年6月に、中国国民党軍が日本軍の進撃を止める目的で起こした黄河の氾濫である。事件当時は黄河決潰事件と表記された。中国では花园口决堤事件(花園口決堤事件)と呼ばれる。犠牲者は数十万人に達し、農作物に与えた被害も住民を苦しめた。
―中略―
中国国民党は当初から「黄河決壊事件は日本軍が引き起こしたものである」との発表を行っていた。6月11日午前、中国国民党の通信社であった中央社は「日本の空爆で黄河決壊」という偽情報を発信した。6月13日には全土の各メディアが「日本軍の暴挙」として喧伝した》
「南京大虐殺の初出典はいつ、どこで、誰から」の回答画像6
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南京大虐殺は



国民党のプロパガンダのために雇われた、

イギリス人記者、ティム・パーリー

によって流されたプロパガンダ記事

それを、上海で傍受した日本は

大成果として日本に電信発信。

まんまとアメリカにそれを傍受される。

笑いますよね。

日本は、昔から情報戦に弱いですよ。他人を信用する国民性だからでしょうね。
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この回答へのお礼

オランダからの手紙を信じ、
ソ連の中立を信じ、
そして、今日はアメリカの安保を信じ、
中国の儒教を信じる(もう信じなくなった?)

裏切られても、先にこちらが信じ手やらねば、
相手からは信じられることはない。


とはいえ、お人好しが過ぎますね。

お礼日時:2014/08/25 23:44

南京虐殺事件が世界に発信されたのは


いつ?
1.当時。1937年12月17日(掲載されたのは18日付)

どこで?
1.12月13日から15日まで滞在した南京を脱出後、上海ウースン沖に停泊するアメリカ砲艦オアフ号艦上より

誰から?
「ニューヨーク・タイムズ」のF・ティルマン・ダーディン記者によって

これは第一報であり、また脱出まで3日間の見聞のみですが、これが初出です。
当該記事の最初のところだけでも、次のごとくです

 >南京における大規模な虐殺と蛮行により、日本軍は現地の中国住民および外国人から尊敬と信頼が得られるはずの、またとない機会を逃してしまった。

 >中国当局の瓦解と中国軍の崩壊により、南京の大勢の中国人は、日本軍の登場とともにうちたてられる秩序と組織に応える用意ができていた。日本軍が南京城内の支配を掌撞した時、これからは恐怖の爆撃も止み、中国軍の混乱による脅威も除かれるであろうとする安堵の空気が一般市民の間に広まった。

 >少なくとも戦争状態が終わるまで、日本の支配は厳しいものになるだろうという気はしていた。ところが、日本軍の占領が始まってから二日で、この見込みは一変した。大規模な略奪、婦人への暴行、民間人の殺害、住民を自宅から放逐、捕虜の大量処刑、青年男子の強制連行などは、南京を恐怖の都市と化した。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

この回答が一番古く、当時最新の時間のものですね。
第三国から見れば、処刑は虐殺に見えてもおかしくありません。

去年だったか?名古屋市長が父?祖父?から聴いた話を持論として展開しました。
南京で終戦を迎えたが、中国人からはよくして貰い、帰国した。だから、もしも南京で大虐殺を
日本軍が行っていれば、石を投げられたり酷い目(殺されるなど)にあっていただろう。
と、いうことは南京大虐殺は無かったのでは?というものでした。

戦争中ですから、細かな事件は起きていたでしょう。

しかし、犠牲者は数万人が妥当な数字で30万人はとても計算が合わない。
その他、中部大学の武田先生のブログはとても説得力があり信用に足りるものです。

お礼日時:2014/08/25 23:53

昨今、ネットではびこっているネトウヨ的思考によれば、「30万人でなければ大虐殺ではない」という。

十数万人や数万人なら「中虐殺」、それより少なければ「小虐殺」だそうだ。
しかし、それは気違いじみた考え方で、一般には通用しないのではないか。多数不法殺害すれば大虐殺というのが、常識的な用語法だろう。
その大虐殺の一部は米国の新聞記者によってほぼリアルタイムで報道され、翌月には中国共産党の機関誌にも載った。

最新の南京大虐殺の犠牲者は何人という意見が有力なのでしょうか?
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/2745625.html
〔引用開始〕
南京事件の犠牲者数について
笠原十九司の『南京事件』(岩波新書)では、事件の期間・場所を幅広く定義しようとしている。また、不法殺害(=虐殺)の範囲も広く取ろうとしている。そのように試算して「十数万」というのだから、つまりその辺りが犠牲者数の上限なのだろう。新資料が出てくれば話も変わり、笠原が「あるいはそれ(20万)以上」というのはその含みと思われるが、今のところは「十数万以上」という概算である。
一方、秦郁彦は戦闘詳報(旧日本軍の公文書。部隊ごとに作成して上部機関に提出する義務があった)などを積算して、「約4万人」という数字を出した。しかし、戦闘詳報の多くは失われているのに、残りを積算して全体像が分かるのか。推計も必要だろう。また、秦は保守的で政府寄りの立場である。東大法卒、大蔵省を経て防衛庁防衛研究所教官、大学教授という経歴からも察せられよう。おそらく、犠牲者数はこの「4万」を下回りそうにない。
というわけで、冒頭で「頭悪そう」と暴言を吐いたわりには、私もずいぶん安直であるが、「4万人以上、十数万人以下」だろうと思う(新資料が出てこない限り)。幅があるのは、資料が散逸して推計するしかないため、また不法殺害の範囲が定まらないためである。

公文書の散逸
公刊戦史ではどう述べているのか? 「日本には公刊戦史もないのか」というと、防衛庁防衛研究所編纂の『戦史叢書』がある。約百巻から成り、私は南京事件の時期と見当をつけた巻を図書館で読んでみた。しかし、ろくに記述がない! 道理で、南京事件関連の本に公刊戦史からの引用が見当たらないわけだ。
代わりによく引用されるのは、偕行社による『南京戦史』、『南京戦史資料集』である。偕行社は陸軍将校の親睦・研究団体で、陸軍唯一の公認団体だった(戦後は解散した後、親睦会的な団体として再発足)。ただし、引用するのは偕行社の「1~2万人説」に賛成だからというより、資料集として重宝だからであろう。その『南京戦史資料集』の中に次の記述がある。

「昭和十二年十二月十三日以降、南京を占領した後の日本側の公式記録はにわかに乏しくなる。作戦命令、戦闘詳報などは当然としても、占領地行政や軍法・軍律関係の記録も殆ど発見されず、僅かに松井、飯沼、上村日記など個人的記録から断片的に推測されるに過ぎない」

「日本側の公式記録はにわかに乏しくなる」のは、証拠隠滅を疑わざるを得ない。隠滅しすぎて、逆に冤罪を晴らすこともできなくなったという皮肉な結末であろう。
〔引用終り〕

南京事件-日中戦争 小さな資料集(ゆうのページ)
http://www.geocities.jp/yu77799/nankin/shoho.html
〔引用開始〕
まずよく誤解されるのですが、「南京事件」というのは、例えば数万人なり数十万人なりを一箇所に集めて、まとめて機関銃なり銃剣なりで殺した、という事件ではありません。基本的には、数多くの中小規模の「事件」の集積です。
〔中略〕
秦(郁彦) 南京事件の場合、日本軍にもちゃんと法務官がいたのに、裁判をやらないで、捕虜を大量処刑したのがいけないんです。捕虜のなかに便衣隊、つまり平服のゲリラがいたといいますが、どれが便衣隊かという判定をきちんとやっていません。これが日本側の最大のウィークポイントなんです。
〔中略〕
南京には、陥落当時、5人の外国人報道関係者(ダーディン、スティール、スミス、マクドナルド、メンケン)が残留していました。彼らは、12月15日にオアフ号にて南京を去りますが、その時に、「処刑光景」を目撃しています。
『ニューヨークタイムズ』 一九三七年十二月十八日
F・ティルマン・ダーディン
捕虜の集団処刑は、日本軍が南京にもたらした恐怖をさらに助長した。武器を捨て、降伏した中国兵を殺してからは、〔中略〕
上海行きの船に乗船する間際に、記者はバンドで二〇〇人の男性が処刑されるのを目撃した。殺害時間は一〇分であった。処刑者は壁を背にして並ばされ、射殺された。
〔中略〕
『シカゴ・デイリー・ニュース』一九三七年十二月十五日
A・T・ステイール
〔中略〕南京を離れるとき、われわれ一行が最後に目撃したものは、河岸近くの城壁を背にして三〇〇人の中国人の一群を整然と処刑している光景であった。そこにはすでに膝がうずまるほど死体が積まれていた。
それはこの数日間の狂気の南京を象徴する情景であった。
〔引用終り〕

同サイト - 中国共産党は知らなかったか
http://www.geocities.jp/yu77799/nicchuusensou/gu …
〔引用開始〕
当時武漢で発行されていた中国共産党の刊行物、週刊誌『群衆』です。
『群衆』民国27年1月1日
短 評
人類共棄的敵軍暴行
敵軍的暴行不自最近開始『九一八』前即已製造種種惨案我民衆 『九一八』敵軍在我東北華北残暴横行已為世所共知 而沿京滬線尤其是在南京城市的大開了人類有史以来空前未有的血腥残暴獣行紀録 這不僅是向中国全民族宣戦也是向全人類宣戦敵人的兇悪残忍血洗了人道正義引起了全世界全人類的憤怒仇恨
(『群衆』 第一巻第四期 (民国)二十七年一月一日出版)
*「民国27年」は、「1938年」または「昭和13年」。

<井上久士氏による日本語訳>
人類のともに斥けるべき敵軍の暴行
 敵軍の暴行は最近開始されたものではなく、「九・一八」以前にすでに各種の残虐事件がひきおこされ、我が民衆が虐殺された。「九・一八」に敵軍がわが東北・華北ではたらいた残虐な行為は、すでに世の共に知るところとなっている。
 しかし、南京・上海沿線、とりわけ南京市の大虐殺は、人類有史以来空前未曾有の血なまぐさい残虐な獣行記録をつくることとなった。これは中国の全民族に対する宣戦にとどまらず、全人類に対する宣戦でもある。敵の凶悪な残忍さは、人道と正義を血で洗い、全世界・全人類の憤怒と憎悪をよびおこした。
(『南京大虐殺否定論13のウソ』P66)

早くも、日本軍による南京占領の翌月には、このような記事が出てきます。同時期の中国国民党系の『大公報』には「南京虐殺」についての記事が数多く見られますので、情報源は、『大公報』と同様、南京から逃げてきた人々の話であると推定されます。
〔引用終り〕
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この回答へのお礼

事情を知らない第三者の見方は当事者にはわかりませんね。
この記者は後日、自分の書いた記事の真実性を検証したのでしょうか?

たとえば、夫婦喧嘩は犬も食わぬということと同じではないでしょうか。

お礼日時:2014/08/25 23:58

>いつ?


>3.戦後

>どこで?
>4.日本

東京裁判で。

>誰から?
>5.その他(具体名)

GHQから。

詳しくは、以下を。

http://home.att.ne.jp/blue/gendai-shi/tyugoku-no …

因みに「日本軍の南京入城を喜ぶ南京市民たち」と言われている写真があるそうだが、歴史的には「捏造」と言う事になっているらしい。
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この回答へのお礼

これはGHQが原爆の死者数を過小評価する為の引き合いに出されたものという見方ができますね。

お礼日時:2014/08/25 23:55

初出展はわかりませんが


東京裁判ではじめて発表されたものですから
最初の出展は
それを報じた新聞社で

その新聞社系統の雑誌だと思います
南京では日本軍の統治の素晴らしさを安全地域代表のラーベさんが表彰しているし

また当時交戦中の中華民国からは
別の件で国際連盟に提訴はあったものの南京での事件をとりあげたものはありません

アメリカは戦後の材料とすべく
シカゴタイムスで南京の事件を報じてはいますが
これは既成事実作りとみるべきでしょう

しかしながら、中島部隊の日記などには、捕虜を虐殺する内容もあり
全くなかったと
まではいいきれませんが
捕虜虐殺の理由はあまりにも捕虜が多人数で食糧も与えられず
かといって解放するとまた軍籍に戻るために虐殺したとあります

その捕虜虐殺を多く見積もっても
数万人程度の虐殺で
この虐殺は日記の証言からあったと思います

ただ中国や東京裁判で言われたような30万人の虐殺はとても理由がつきません

また東京裁判で
行われた証言や証拠とされた写真はデタラメであると戦後判明しております

もとより日本が戦ったのは中華民国なんですが戦後、中国共産党と内乱をおこし東京裁判での中国の代表は中華人民共和国でした。戦争当該国でもないのに事情を知っているのは疑問があります。

この30万人という数字はアメリカの原爆被害者の数と同等であり
アメリカが原爆投下の正当性をはかるために粉飾されたとみるべきです
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2014/08/25 23:56

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