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金閣寺では、一階が貴族、二階が武士、三階が中国を表すと、ある本で知り、とてもすんなり理解でき、腑に落ちました。(「金閣寺/三島由紀夫」では、一階:法水院、二階:潮音洞、三階:究竟頂(くきょうちょう)という記述もありますね。)

一方、日光東照宮は、どうでしょうか? 宮というのですから神社なのかと思いつつ、造作は中国を想起させるものが多い気がします。また、家康も眠っていない、というところで、どのような内外へのメッセージや意図が込められているのか、教えてください。

よろしくお願いします。

A 回答 (2件)

幕府の顧問的な存在であった天海が唱えた山王一実神道の思想を具現化したものです。



山王神道 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/山王神道

現在の姿は家光が幕府の威光を誇示するために装飾を多様に施した結果の姿です。
東照宮の個々の装飾が表している意味は下記をご覧下さい

日光東照宮 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/日光東照宮

>宮というのですから神社なのかと思いつつ、造作は中国を想起させるものが多い気がします。
日本の神社建築には多様な様式があります。

神社Q&A その五
www.cc9.ne.jp/~washinomiya/situmon-05.html

東照宮は上記サイトの中の権現造りというのに相当します。

神社建築:本殿様式・権現造 - 玄松子の記憶
www.genbu.net/tisiki/gongen.htm

>家康も眠っていない、というところで、どのような内外へのメッセージや意図が込められているのか、教えてください
権現思想に基いていますので、遺骸の有無は問題にはなりません。
所謂お寺ではありませんのでお間違いの無きようにお願いします。
家康は東照大権現という権現=神となっています。
北野天満宮も菅原道真を祀っていますが遺骸はありません。

内外へのメッセージという意味であれば創建当初というよりは、後に家光が目論んだ徳川幕府の威光の誇示です。
江戸時代を通じて朝鮮通信使も定期的に参拝しています。
創建当初の意図は、徳川政権を守護する神=権現を祀ったものです。

以上がご質問への回答となりますが、いささか分かり難いかもしれません。

寺院建築といいますと、古色蒼然とした彩色のない建物をイメージされておられませんでしょうか。
古いお寺ほど創建当初は極彩色に近い装飾が施されていました。
イメージとしましては平泉の金色堂や最近再建された奈良の薬師寺などをイメージして下さい。
本尊も金色に光り輝いていました。
とくに密教系では、思想が分かり難いということから思想を具現化した彫刻や仏像が沢山つくられました。
曼荼羅と呼ばれる巨大な壁かけもその一つです。
織り上がった当初は色鮮やかな織物でした。
京都の東寺のように個々の仏像彫刻を立体的に配置したものも作られました
現在は立体曼荼羅などと呼ばれています。
金色に輝く仏像が色鮮やかな衣装をまとった天と呼ばれる守護神に囲まれている姿を想像してください。
長い時を経て彩色された塗料が剥脱して、お線香の煙や蝋燭や灯油の油煙で燻されて現在の姿となっています。
現在彩色された仏様としてよく見かけるのが赤い火焔を背負った不動明王すなわちお不動様かと思います。
任侠のおあ兄いさんの倶利伽羅もんもんもお不動さんの手元にある倶利伽羅からきています。

わずかに往時の面影を残す写真は下記のサイトにあります。

笹野観音 真言宗長命山幸徳院笹野寺 彫刻
sasanokannon.com/sculp.html
写真の番号をクリックすると装飾の拡大写真が見られます

全性寺について - 真言宗豊山派 宮林山 全性寺
www.ota-zenshoji.jp/temple/

寺宝・文化財|重要文化財編|千本釈迦堂 大報恩寺
www.daihoonji.com/jihou/jubun.html
内陣の柱に装飾があります。

これ等でも相当に日本人好みに簡素化されています。
密教が日本へわたってきた当初のものの面影は同じ密教系のチベット仏教やラマ教とよばれる海外の寺院があります。

ラマ教の寺院・雍和宮
beijing.japanese.china.org.cn/2008-11/22/content_16809234.ht...
全体の外観装飾が分かります

北京の夏 ラマ教寺院「雍和宮」 - AIRnet
www.sf.airnet.ne.jp/lisboa/china/3.html
装飾の一部の拡大写真があります

これ等の寺院のイメージから日光東照宮は何か中国的だという印象をもたれたのかと思います。

鎌倉時代に勃興した禅宗が簡素を好みわびさびなどの文化を生みだし今日まで引き継がれています。
つまり平安時代以前と今日とでは、そうとうに寺院の景観が違っていたとお考えください。
家光という人物は相当に個性の強い人物だったようで、これ等の鎌倉仏教の系譜を引く美意識を無視して、日本中の名工とされる彫刻師や指物使を集めて飾り立てたさせた結果陽明門のようなものが出来上がってしまいました。
江戸時代を通じて今日まで欄間彫刻まではやりましたがそれ以上は、どこの寺院や神社も真似をしなかったのは、やはり無理があったのでしょう。

以上ですが分かり難かったかと思いますので、補足をお願いします。
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この回答へのお礼

大変ご丁寧な回答ありがとうございます。
結構な資料数ですので、また次の週末に時間をかけてゆっくり紐解いてみたいと思います。
おそらくどう考えても「ベストアンサー」とさせて頂くべきかと思いますが、想像以上に回答数が少なく…、もうしばらく回答の受付を続けようと思います。重ねまして感謝致します。

お礼日時:2014/09/17 18:04

単純に、江戸の鬼門(北東・丑寅)の方角から邪気が来ないよう、風水的に守るためのモニュメントなのではありませんか。



京都の場合は、比叡山にあたるので延暦寺を置いた、というように。

日光東照宮は、時代の関係なのか、陰陽道(ひいては方角を重んずる風水)の影響が強くなったのか、色彩などを考慮しているのかもしれませんが。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。鬼門は普通に理解できる気がするのですが、神社なのに、中国的な造作、という辺りにどうも、特別な意図があるように思えております。

因みに、足利義満は歴史上、中国への朝貢を行い、稀に冊封を受け入れた人物、と説明され、その政治姿勢が金閣のデザインに反映されていると考えると是非はともかく、非常に分かりやすいです。

家康にも、それとは違った何か特別な意図がなければ、神社に中国風な造作をする理由はない気がします。

お礼日時:2014/09/12 17:59

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