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太平洋戦争では、旧日本軍は兵站線を確保せず、食料などの現地調達主義をとったため、現地住民からの略奪・強盗が日常茶飯であったといいます。これは、日中戦争の最初からのことでしょうか、それとも途中からの方針変更でしょうか? 南の島々ではどうだったのでしょうか?

A 回答 (9件)

ほとんど始めから獲れるところがあれば獲る。



歌にもある。

♪輜重輸卒が兵隊ならば電信柱に花が咲く~
始めから兵站など重視していなかったのです。

略奪禁止なんて建前もいいところ、私の父は中国戦線で10年以上も戦い、
最後は東南アジアでしたが、特に中国では、略奪・暴行は日常だったようで、
戦後しばらくはそのようなことを自慢げに話していました。
まもなくそれは具合が悪いとを悟って、それについては一切話さなくなりました。

建前が真実ではない。
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この回答へのお礼

「略奪禁止なんて建前もいいところ、私の父は中国戦線で10年以上も戦い、
最後は東南アジアでしたが、特に中国では、略奪・暴行は日常だったようで、
戦後しばらくはそのようなことを自慢げに話していました。
まもなくそれは具合が悪いとを悟って、それについては一切話さなくなりました。
建前が真実ではない。」

体験者の重い証言は貴重です。ネットでも拡散しないと、ネトウヨとかいう人たちの
美化した虚報に若い世代が騙され、また同じ過ちを犯す元となりますね。
建前と実体の乖離は日本では顕著、その典型が、天皇=神、ですね。
虚構の上に立った栄光、侵略戦争=聖戦、敗戦=終戦、敗走=転進、など、など。

お礼日時:2014/10/05 22:41

<参考>


 軍票は、事実上、通貨ではありません。日本の通貨である「円」との互換性もなく、日本が負けた時は紙くずとなる手形みたいな存在でした。

 軍票は、民間経済がそれなりの規模で存在する大陸に派遣された日本軍で使用されました。
 日本軍が、長期間駐屯して軍票で食糧を徴発続け、次の目的地に進んだ後には、余分の食糧が全くなく、軍票の山が残ることになります。
 食糧を日本軍に徴発され軍票を押しつけられた人が、その軍票で他人の食糧を手に入れようとしても、日本軍に徴発された何十分の一の量の食料しか手に入りません。
 
 東南アジアの田舎に行けば、探せば日本人相手に新品の軍票の札束を、「おみやげ」に売ってくれるところもあります。

 
 反対に、通貨である「日本円」は大歓迎だったようです。
 たまたま、主計に軍票がなく、手もとの「日本円」に余裕がある場合、例外的に軍票ではなく「日本円」で支払われたケースがあるようです。
 海岸地帯の日本の経済活動が活発な所に持っていけば、工業製品を買うこともできるため、軍票とは反対にきちんと流通したようです。

 
 No.5の方の記載にもあるように、中国戦線においては「何年も交代の兵員がこないまま、戦線で戦い続ける。」状態=兵員補給の崩壊です。

 アメリカとの戦争が始まり、太平洋の島々で戦い始める以前に、中国戦線で補給の崩壊が起こっています。
 これは、軍備に劣る「大陸国家」の基本である、決定的な敗北をしないようにしながら、相手の軍の消耗を誘いながら、どんどん内陸に退却していくことで、敵軍の戦争継続を不可能にする戦略です。

 この場合、双方における勝ち負けの認識が異なります。
・大陸国家の方は、「負けなければ勝ち」という勝敗認識。
・侵攻軍の方は、「勝てなければ撤退するしかない。つまり負け。」という勝敗認識。

 
 この補給崩壊の中で、戦争を継続したことで、日本軍兵士の意識がどんどん変化していきます。

・第一次世界大戦時の日本軍に捕虜となった人々の状況
 給料支給・物品購入も可能・遠足あり・近隣住民との交流音楽会あり。
坂東俘虜収容所
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E6%9D%B1% …
青野ヶ原俘虜収容所
http://www.city.kasai.hyogo.jp/02kank/08sisi/hur …

・義和団事件(1900年:団匪事変)
 岡村寧次大将資料
「嘗て聞いたところによれば、北京附近の中国古老は、団匪事変のとき、欧米各国兵が掠奪強姦の限りを尽くしたのに、ただ独り日本兵のみが、軍、風紀森厳にして寸毫も冒すことなかったことを回想し、どうして今の日本兵がかくも変わったのかと痛嘆したという。」
http://www.geocities.jp/yu77799/okamura.html


 中国戦線の長期化で、日本軍の補給余力がほとんど失われた状態で戦争を継続した結果、
・日本軍兵士に対する人権軽視が常態化
  =日本軍に関係する人々に対する人権軽視(兵士自身に対する扱いと同等であっても、人権軽視となってしまう。)
1、慰安婦
2、捕虜
 バターン半島死の行進
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%BF% …


※東南アジアで、水が豊富にあるはずだというような誤解を持っている人もいるようだが・・・
 軍の補給部隊において極めて重要なのが「防疫班」。
 多くの人間が一か所で生活し、寝食を共にするので、大規模な伝染病が発生すれば、大部隊でも戦闘力が無くなってしまう。そのため、「防疫班」の最重要課題が『清浄な水の確保』
 東南アジアで生水を飲めば、コレラ・アメーバ―赤痢などよく知られた病原性のものに感染しなくても、相当ひどい下痢をおこすことは、日常茶飯事。(昔、昭和30年代の日本でも、「旅行に行けば生水を飲まない。」と言うのは、常識でした。)
 バターン要塞のように、長期間の籠城で、食料が尽きて開城と言うような、兵士の体力が低下した状態の場合、生水を飲めば死ぬという状況です。
 ですから、日本軍の防疫班が十分な量の水を供給出来なければ、死者が続出する事態となります。

 
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この回答へのお礼

勝ち続けて奥地へと宣戦を広げることが直ちに負けを呼び込むことだったのですね。
ありがとうございました。

お礼日時:2014/10/08 23:10

実質的には、日清戦争からでしょう。



日清戦争では、兵力不足から、軍属として民間人を雇い軍夫として兵站にあたらせましたが、逃亡やサボタージュで、前線糧秣も不足し、敵に糧を求める羽目になりました。

そこからが、スタートだと思います。

メッケルが輜重の大切さを語りましたが、受講した日本人の感覚では、梅干でも持って行けば良いだろうとの物でした。

貧乏陸軍の日本は、戦闘に関する物、武器だけ精一杯で、必然的に糧は敵に求める物だったのです。

もう、日中戦争時は、国家総動員で、部隊数も急激に増え、大っぴらに、現地徴発が当たり前のことになりました。

作戦計画として、戦略的に行われた、糧は敵に求める作戦こそ、インパール作戦です。

現地住民の意志にかかわらず、略奪が日常茶飯行われた思われている様ですが、必ず経理将校が、対価として、軍票で払っています。それが、時価に合っていたかは別の問題ですが・・・。

変な精神主義の司令官は、兵站を考えませんでしたが、真っ当な司令官は兵站を考えていました。攻勢終末点を良く理解していました。

貧乏日本陸軍には、作戦参謀はいましたが、兵站参謀はいませんでした。
これは、明治から始まっています。

一応、兵站は作戦参謀の領域という事になっていましたが、二の次でした。

陸軍の兵站は、明治のスタートから、つまずいていたのです。
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この回答へのお礼

そうでしたか。どうりで無謀な戦い方がどんどん広がったはずです。
ローマは一日にして成らず、暴挙も前史がありますね。

お礼日時:2014/10/05 22:31

戦国時代でも、兵糧攻めは有効な


手段で現地調達は例えば羽柴秀吉が金にものを言わせて城の近隣の食糧を買い占めて
兵糧攻めを促進したことがあります。

現地調達は
古くから行われていた手段で
それこそ、強奪していました。

ですから
いつからとの
答えとしては
日本軍が明治時代に結成される以前からあった戦法であるところから
最初から
が答えでしょう。
しかし、先に書いたように占領政策においては、占領地の人々との衝突を避けることが
重要なので
兵糧の心配が
なければ、近代では無闇に強奪は
しない方針だったと思われます。

太平洋戦争で
日本軍の占領地域が広大になり
補給がうまくいかなくなった頃は
背に腹は変えられないので

強奪が目立つようになったと思われます
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この回答へのお礼

現地調達と強奪とは、正確には違うものですね。日本軍は建前が前者、実態は後者が混ざる。
本当に地元に迷惑をかけなかったのは、八路軍だけかもしれません。
政治イデオロギーであろうと、宗教であろうと、動物的本能を抑制する「何か」を持つ人間のみが節度をわきまえ己を律することができるのだと思います。

お礼日時:2014/10/05 22:54

>旧日本軍は兵站線を確保せず



ノンノンノン。曲がりなりにも大日本帝国陸軍におかれましては日露戦争にも勝利した一級の軍隊であり、少なくともアジアでは最強、つまり最も近代的な陸軍だったんですよ。だって日本軍以外に(ボロかったとはいえ)戦車を持ってる軍隊なんてなかったんだもの。

例えば補給切れで悪名高いガダルカナルの戦いですが、実は陸軍は結構食糧輸送にも力を入れていて、日本軍の拠点だったエスペランス岬近辺には結構食糧が山積みされていたそうです。だけど実際には「ガ島は餓島だった」なんて話があったわけですよね。なんでそうなったのか。
問題は、「岬の基地から前線部隊にどうやって運んでいくか考える人がいなかった」んです。流通の世界では「ロジスティクス」という考え方があります。「必要な物資を、必要な場所に、必要な分送るためにはどうすればよいか」という手法です。
実は阪神淡路大震災のとき、全国から支援物資が神戸に届けられましたが、それを仕切る人がおらず、避難所では毛布が足りなくて困っているのにどこかのセンターに毛布が山積みになっているなんてことが多々起きたんですね。その反省を踏まえて、東日本大震災のときはあのヤマト運輸が社員を即座に被災地に派遣して、支援物資は集積基地に集めてそこで片っ端から中を開けて中身を分類して整理し、必要なところに運べるように手配をしました。このときの迅速かつ正確な活動は海外の災害対策の専門家からも絶賛された程でした。
そういうヤマト運輸みたいな人が日本軍にはいなかったのです。それが「日本軍の補給軽視」といわれるゆえんなのです。私たちが思い込んでいるほど乱暴ではなかったのですよ。ただ、システムが非合理的でお粗末だったのです。

ただ、この「ロジスティクス」という考え方とノウハウは、アメリカ軍が第二次大戦のときに作り上げたシステムを戦後に流通業に転用したものですから、まあアメリカ軍が本家といえば本家なのです。アメリカ軍というところは本当にこういうところが実に合理的な軍隊なんですな。

日米両軍が想定をはるかに超える長い戦いとなったペリリュー島の戦いでは、前線の兵士が飢えでバタバタ死ぬってことはありませんでした。もちろん補給が受けられないわけですから長く戦えるように食料なども必要最小限で戦っていたわけですから前線の兵士は飢えとも戦っていたと思います。でもインパール作戦のような悲劇はなかったわけです。
それはなぜかというと、事前にそれだけの蓄えをしていたからです。決して補給を軽視して精神至上主義で戦っていたわけではないんですね。

太平洋戦争の日本陸軍には、世間のイメージとは真逆のこんなエピソードがあるんです。
緒戦で大勝利を得た海軍は非常に意気盛んで、戦略会議のときに海軍側は「もーこうなったらハワイ島も攻略しちゃうもんね。陸軍さん、部隊の確保をよろしく」と言い出します。すると陸軍側は冷静に「バカじゃねえの。そんだけの部隊を維持できる補給が続かねえじゃねえか。寝言は寝て言え」とツッコんでるんですよね。

ただ、補給システムはすごーく貧弱ではあったのです。どこらへんがどう貧弱だったかは、話が長くなりますのでお礼で「もっと知りたい」といっていただければ補足いたします。
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この回答へのお礼

「もっと知りたい」です。
説明の補給をお願いします。

お礼日時:2014/10/05 22:46

現地調達は徴発と言います。


これには軍発行の徴発票を添付して徴発された側は金銭に換えます。
基本はこのようにして売買契約を
します。

占領地において
最も重要なことは一般市民に対して不利益を与えないことです。不利益を与えてしまうとその後の占領政策において民衆の不満を招き、うまくいきません。

この基本を守ろうとはしますが
日本が太平洋戦争にのぞんだ時は
軍人が総数として約一千万人おり
国民の十人に
一人が兵士でした。

日華事変の長期化で国民生活は困窮を極めていて兵士への食糧供給も
ままなりませんでしたが国は兵士の食糧供給を優先課題としていました。しかし船で運ぶわけですが戦時中のため船の安全運行が確保されていません。護衛艦をつけてはいますが何隻かは敵の潜水艦に沈没させられました。

また、中国戦線においては、中華民国国民党軍は
清野政策という
非合法な作戦を
採用していて
撤退の際に田畑を焼き払い、日本軍の徴発活動を妨害しました。

内地からの支援物資が届かず、現地調達である徴発もままならない状態に追い込まれた部隊も多々あります。それでも部隊は近隣の昆虫や動物を食糧にしました。また自分たちの食糧さえままならないので捕虜も釈放したり、一部では捕虜を殺害したりもしました。

そういった追い込まれた部隊では
現地民に対して
暴力的に物資を
徴収したことを
否定はできないでしょう。

物資の補給は
内地に物資が豊富にあり
それが安全に船で届き
また現地民に対して徴発という売買契約を行うことではじめて補完されるのですが
内地に物資はなく安全に運ぶこともできず
現地の田畑は焼き払われているような状況下にあれば
それは やむを得ず現地民から
食糧を奪うこともあったでしょう。
事後判断として
それはいけないことだとするのは
簡単ですが
それでは、その
部隊に死ねと
言うのでしょうか?

戦時下の生死が
かかった場面に
おいて
モラルの厳守が
どれほど有効なのでしょうか?

それでも、強行手段は最後まで
取らないでいた
部隊の方が多いのですが

強行手段にでて
現地民を襲撃した部隊もあることは事実です。

それを私は責める気にはなれませんが

この回答への補足

「田畑を焼き払い、日本軍の徴発活動を妨害しました。」

これは日本軍も同じことで、村全体を襲って燃やし、コーリャン畑も焼き払ったと多くの元兵士が証言しています。
戦争という異常事態の中では異常なことが行われます。責める責めないではなく、事実を知りたいのです。この場合、方針の推移としてどうだったかです。

補足日時:2014/10/04 20:03
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この回答へのお礼

書く欄を間違えました。再掲します。すみません。

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「田畑を焼き払い、日本軍の徴発活動を妨害しました。」

これは日本軍も同じことで、村全体を襲って燃やし、コーリャン畑も焼き払ったと多くの元兵士が証言しています。
戦争という異常事態の中では異常なことが行われます。責める責めないではなく、事実を知りたいのです。この場合、方針の推移としてどうだったかです。

お礼日時:2014/10/04 20:04

日本が負けたのは「補給のせい」です


アメリカは当時既に戦場に携帯食料を持ち込んでいましたね

南の島々では最初は食料が届いていましたが
アメリカに徹底的に輸送船を叩かれてからは 現地で調達
しかし現地の食べ物もなくなり日本は飢え死にする兵隊が続出したのです
戦わずに飢餓で死んだ南方の戦地の兵も数万人居たと言われています
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この回答へのお礼

南の島々での餓死率は6割を超えていたと研究者が計算しています。
ありがとうございました。

お礼日時:2014/10/04 20:06

日本陸軍の件ですね。


略奪、強奪は皇軍として禁じられていたので、対価を払っていますよ。
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この回答へのお礼

皇軍として禁じられていたにもかかわらず、不名誉な略奪をし、それを秘匿したと、高齢者たちが死ぬ前に告白しています。膨大な軍票を発行して賄う半面、略奪・強奪は日常茶飯であった由。
わかりました。建前としては、「日本陸軍は略奪、強奪を方針にしたことはない」といえそうです。
ありがとうございました。

お礼日時:2014/10/04 19:19

それ以前から、現地調達は当たり前というより、食料を分捕る目的で戦争を仕掛けるのが一番多いパターンでしょう。


略奪や強盗は現場の暴走でしょうけど、開戦前から、現地調達どころが、鉱物資源や燃料などは占領地で確保して日本へ移送し国内の物資不足をやりくりしようと虫のいいことを考えていたみたいです。
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この回答へのお礼

「それ以前から、現地調達は当たり前というより、食料を分捕る目的で戦争を仕掛けるのが一番多いパターンでしょう。」
それ以前からとはいっても、まさか日清戦争、日露戦争からではないでしょう。あの頃はきちんと後ろから食料を送っていたはずです。戦線の拡大と共に、現地調達主義に変わっていったのでは、と予測します。
戦争を仕掛けるのは食料というよりも、版図拡大と鉱産資源の搾取が目的でしょう。

お礼日時:2014/10/04 19:10

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