No.5ベストアンサー
- 回答日時:
No.4です
わざわざお礼を記入頂きありがとうございます
お礼の中に追加のご質問がありましたので、説明させて頂きます。
>ということは、幕府は住所に関して、町人地には町名を付けるが、武家地・寺社地には町名は不要で、通り(道路)名で表示すればよい、と決めていたのですか。まさにお聞きしたいのは、その理由です。
幕府は住所表示などということに関しては特段に決めていません。
幕府にとって行政上いちいち屋敷の住所等は必要としませんでした。
幕府が武家を管理する際には居住地ではなくあくまでも所属が主体でした。
誰の配下であるのか、或はどの組に所属しているのかという観点だけです。
寺社も本末制度という制度が設けられていて宗派ごとに系列化されていました。
どの宗派に属している寺院であるかという観点だけです。
幕府が行政上宗派に所用があれば、宗派の窓口である触頭と呼ばれる寺院に連絡するだけです。
江戸時代といいますのは、幕府や大名即ち武家階級は軍事組織です。
軍事組織を統制するために必要な仕組みは詳細に定めていましたが民政は全て村落や都市の自治組織に一任していました。
江戸時代といいますのは、この自治組織が高度に発達していた時代です。
農民や町民の統治はこの自治組織が請け負っていました。
年貢などの納税も個人単位ではなく村や町単位で定められていました。
詳しくは下記サイトをご参照願います。
江戸の自治 - nifty
homepage2.nifty.com/kenkakusyoubai/zidai/ziti.htm
町年寄 - Wikipedia
homepage2.nifty.com/kenkakusyoubai/zidai/ziti.htm
武家地というのは個人の資産ではありませんでした。
あくまでも土地屋敷は幕府の資産です。
現在でいえば公務員の官舎のように支給されたものです。
幕府が武家個人を特定する際には組織内のどこに属しているかが重要でした。
どこに住んでいるのかは議論の対象にはなりませんでした。
学校の教室の表示は部屋番号ではなく、使用しているクラス名ではありませんでしょうか。
同じ考え方です。山田〇衛門の屋敷という考え方です。
△町△番△号に住んでいる〇衛門がどうのこうのという捉え方はしていません。
訪問先の特定や書状などの送り先を御心配されておられるようですが
御指摘の日暮里豊島辺絵図をよくご覧下さい。
此遍足立郡三十六ヶ村
組合新堀村
但し
下日暮里ノ里ト云
上記の注意書に注目して下さい。
足立郡〇〇村△△寺という言い方で充分目的は達成されるのではありませんか。
この地図の場合はご丁寧に寺の横に一々村名が記入されています。
地図中央の浄正寺のような大きな寺院であれば、日暮里の浄正寺で充分ではありませんでしょうか。
地図の右側の武家地や寺社地がある道路に注意して下さい。
坂の名前が記入されています。
日暮里の〇〇坂上の△△様のお屋敷で充分目的は達成できるのではありませんでしょうか
坂の名前は、書きだしの頭が上で名前の末尾が下として記入するルールになっています。
名前の向きを見れば坂の上下が分かるようになっています。
武家屋敷や寺院名は名前の書きだしが正面です。
名前の向きを見ればどこが入口か分かるようになっています。
土地を資産として取り扱っていたのは、農民や町民いわゆる庶民でした。
自己の資産の所在地を明確にする必要があったのは庶民です。
この結果極めて多くの町名が創られていました。
その地域の地名をどうするのかは農民や町民の問題でした。
地名というものは元来自然発生的に決められるものではありませんでしょうか。
江戸の街も深川などの埋め立て地を除けば古来からの地名が沢山あります。
家康は無人の荒野に街を作ったわけではありません。
浅草の浅草寺も創建は645年すなわち大化改新の年です。
縄文時代から沢山の人が住んでいた地域です。
坂や原、岡など目立つ地形には全て名前がついていました。
村落も沢山ありました。
参照
荏原郡 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/荏原郡
蛇足
江戸時代に公的に百姓、町人などと認められていたのは地主です。
土地を所有していない人は現在でいう公民権を一切持っていませんでした。
土地を持たない人は、納税の義務も権利も認められていませんでした。
江戸や大阪京都などでの祭礼の費用も地主が負担していました。
つまり、長屋の熊さん八っあんは税金の心配もお祭りの寄付の心配も一切ありませんでした。
そのかわり、奉行所など公的機関に出頭する際には地主さんかその代理人である大家さんの同行が必要でした。
土地の権利証は沽券と呼ばれていました。
沽券を所有しているかいないかで、村や町に対するあらゆる責任負担が決められていました。
この沽券の売買も村や町の地主達の了解が必要でした。
個人で勝手に売買はできませんでした。
町民や村人から認められなければ、幾らお金を出しても沽券は入手できませんでした。
この沽券がどの土地に関するものであるのかというときにだけ現在の住所表記と同じ意味がありました。
沽券状など無縁の熊さん八っあんは日常的には現在のような住所などまったく必要がありませんでした。
住んでいる長屋の場所を人に聞かれて教える程度のことでした。
再度のご丁寧な回答、真にありがとうございます。
「なぜ、寺社地には町名がないのですか」という疑問でしたが、本末制度で宗派ごとに系列化されていたので、どの宗派に属している寺院であるかという観点だけが重要であった、ということですね。
そのため、幕府にとっては寺の町名を必要としなかった、ということですね。
よく解りました。
住民サービスのために幕府が寺の住所・町名を整備するようなことはしなかったし、また寺側でもたとえ寺が集住する地域であっても町名を求めたりしなかった、ということで納得しました。
>足立郡〇〇村△△寺という言い方で充分目的は達成されるのではありませんか。
幕府は寺に町名を付与しなかったが、寺は「〇〇村△△寺という言い方」を自称しても幕府のお咎めはなかった、ということですね。
実際、町中にも寺はありますから、寺の住所にその町名を使うのが自然です。
「寺には町名がない」という前提で質問しましたが、前提が怪しくなってきました。
調べてみます。
No.10
- 回答日時:
少し此の場を借りて言いたい事を補足します。
場を荒らす事をお許し下さい。
>そもそも、読み書きの出来ない人が大多数を占め、郵便という伝達方法がまだ完全では無い状態では、ほとんどの人が江戸を離れませんし、ほとんどの人が字が掛けなかったので住所は必要としません。
日本は江戸時代の庶民の識字率は50パーセント程度(49~54)で、当時の世界の常識を大きく超えていました。
武士階級はほぼ100パーセントの識字率ですが、此れを当時のヨーロッパ貴族の識字率と比べてみると面白いです。
飛脚制度は全国網を形成しており、充分な流通が確保されていました。
馬を使う事が禁止されており、人夫頼みの輸送手段しかありませんでしたが、各地に「駅」が常設されており、全国網は完備されていました。
此れも当時の識字率の低いヨーロッパと比較してみては?
字が書けるからこその郵便システムです。
旅行に繋がる人間の移動は日本でも大きく制限されており、ほぼ禁止されていると言って良いのですが、寺社への参拝は目こぼしされていました。
やじきた道中記が示す様に、庶民の旅行熱は非常に高かったのです。
更に言えば、「出版事業」が在るという事は、読める人間と需要の存在の事実が無ければ説明が付きません。
日本以外の国で同様のシステムを持った国が有ったら、教えて欲しいです。
さて、年貢の話も聞いてみたいモノですね。
以上、質問者様、場を乱しました事を陳謝します。
No.8
- 回答日時:
>天守のない城は絵にならないですね
そうではなくて、存在自体が何も描かれていないのです。
というより、どうやら描かれた物が発見されていないようですので、描く事自体がタブーだったと思われます。
見えているのですが、描く事は出来なかったみたいです。
ついでに地名についてのトリビアを一つ。
東京都板橋区の高島平は、かつて武州「徳丸が原」という地名だったようです。
其れが天保12年5月9日に長崎奉行の高島秋帆が西洋砲術の演習を行った事で、高島が演習を行った平野となり、地名が変わったようです。
つまり、地名は町人が付けていた一つの証左となっております。
江戸幕府は地方分権制を布いており、其々の土地・住民に自治権を認めていました。
端的な例を挙げれば、実は江戸時代の年貢は現代の税金よりもはるかに安く、その代わり生活の福祉等を負う責務も領主は持っていませんでした。
意外に思うかもしれませんが、現代の我々の生活には様々に税金が掛けられており、生活インフラに関する見えない税金を勘案すると、関税やガソリン税、相続税等で課税されており、インフラの為の支出は膨大なのです。
但し此れは天領の場合の話で、国によって違いますし、また商人に直接の課税が出来なかったので、平等な税制では無い事を付記します。
つまり事実として伝えたい事は、庶民・農民の住地は、住む人間の裁量で維持され、其の生存権の保障の為に年貢を納めていた訳です。
年貢とは自治権の購入費な訳ですね。
ちなみに商人も制限を受ける点では同様で、程度の違いがありますが、何くれと要求をされる事は珍しくは無かったようで、其れは商売をする為の費用と言える物でした。
伊能忠敬の日本地図は重大な国家機密とされました。
国際的には海岸線の公開は領土の明確化の為には必須なので秘匿は無意味なのですが、当時の幕府には陸戦の感覚しかなく、「地」図を公開する等は考えようも無い危険な行為だった訳です。
ですので、「大日本沿海輿地全図」を国外に持ち出そうとした「シーボルト事件」が起こる訳です。
中々に現代人とは思考のパターンが違いますね。
ご指摘ありがとうございます。
>というより、どうやら描かれた物が発見されていないようですので、描く事自体がタブーだったと思われます。
>見えているのですが、描く事は出来なかったみたいです。
なるほど!そういうことですか!!
ご回答を読み返しますと、そういう文脈で書かれていますね。すみません。
質問魔の私には「描く事自体がタブーだったのですか」という質問ができそうです。
>つまり事実として伝えたい事は、庶民・農民の住地は、住む人間の裁量で維持され、其の生存権の保障の為に年貢を納めていた訳です。
>年貢とは自治権の購入費な訳ですね。
「年貢とは自治権の購入費」なるほど!
年貢は“お上”から巻き上げられるものだと見るのではなく、多角的に見なければなりませんね。
よく解りました。
No.7
- 回答日時:
面白い話を思い出したので、補足(蛇足?)です。
明治維新の際に江戸に大量の官軍(地方出身者)が、町に溢れました。
其の時は江戸の奉行所等に看板は無かったそうで、地方から出て来たばかりである官軍は町に不案内な為に看板を付けて回ったという事です。
江戸っ子は生まれた時から暮しているので、看板は無くとも問題が無かったようです。
其の為、看板をかけて回る官軍の事を「無粋」と嘲笑ったとか。
ちなみに確か江戸時代の町の地図は存在していますが、幕府発行の市内図は軍事上の理由で無い筈だと思いました。(私が知らないだけかもしれませんが)
浮世絵等にも江戸城の姿は描かれてはいませんし、また地図に因っては縮尺等はいい加減で、目印となる建物が誇張されたサイズで描かれた物も見られます。
再度のご回答ありがとうございます。
官軍が看板を掛けて回った話は面白い!
さもありなん。
>浮世絵等にも江戸城の姿は描かれてはいませんし……
天守のない城は絵にならないですね。
No.4
- 回答日時:
住所表記のルールが現在と違っていました。
現在のイメージでの住所表記としてであれば、お寺だけではなく大名屋敷や旗本屋敷にも住所表示はありません。
通りといいますか道路に名前がついていました。
この名残りは現在の京都市の住所表記に残っています。
何分にも徒歩で歩くだけの時代ですので、その地域の居住住民の習慣的呼称が優先されました
この道路の名前も現在のように起点から終点まで同じということはなく、それぞれ別な名前で呼ばれていました。
古い江戸時代の地図を見ますと、里俗に〇〇と云う、というような表記がされています。
お寺が集結していた、浅草の浅草寺前から上野へ向かう通り(現在の浅草通り)には
「此所里俗ニ稲荷町ト云又新寺町併云又土ブ店ト云」
と延々と説明書が書きこまれています。
同じ場所でも別な地図には一番上野に近いお寺(広徳寺)の前の通り(現在の浅草通り)に
「下谷広徳寺前ト云」と書きこまれています。
町人居住地のように人家が密集している場所は、現在と同じようなイメージで道路に囲まれた地域を一つのブロックとして町名が付けられていました。
下駄やと傘屋がならんんでいたので「てりふり町」などというシャレのめしたような町名もありました。
江戸の街の拡大にともない強制的に地域をそっくり移転させましたので。元〇〇町とか新〇〇町いう町名が沢山あります。
有名なのが花魁がいる吉原です。時代劇などで有名な吉原は新吉原です。
吉原の場合には元の場所に元はつかずに他の町名にかわりましたが、移転先には相変わらず新がついていました。
同じ町人地でも、日本橋周辺の大店が軒を並べているような所では、道路に区分名があるだけです。
「本町一丁目 同二丁目 同三丁目」と地図の道路部分に記載されているだけです。
道路の両サイドに地名は記入されていません。
時代小説で有名な八丁堀は地名ではありません。
あくまでも「掘」の名称です。
云うなれば、八丁堀の近くの町御組屋敷に住むお役人ということになります。
地図上の表記は組屋敷ですが、一軒の屋敷ではなく、夫々の役人ごとの自宅が並んでいました。
>地方から江戸の寺に手紙を出す場合は、住所をどのように表示したのですか。
このような場合には、本寺末寺という制度が整っていましたので、地元の同じ宗派のお寺に聞けば何と呼ばれているところにあるのかはすぐに分かりました。
地元で分からなくても江戸の同じ宗派のお寺へ送れば回送してくれました。
一般には、現在で言えば郵便物を取り扱う飛脚屋の元締めである飛脚問屋は、地名の俗称や寺院の名称や大店の場所は熟知していました。
飛脚問屋は地域ごとにありました。
蛇足
江戸時代に厄介なのは地名だけではなく表札という習慣がありませんでした。
大名屋敷や武家屋敷には表札というものがありませんので、誰が住んでいるのかは外部の第三者には一切分かりませんでした。(市販の江戸地図で確認する以外に方法はありませんでした)
知っている人は知っている、知らない人は知らないということがごく自然な状態でした。
有名な話が、幕末に江戸へ進駐した薩摩の兵が江戸見物に出かけて、帰りに自分の薩摩屋敷が分からず、場所や帰り道を聞いて江戸っ子に徹底的にバカにされました。
(自分の現在地が分からなければ地図は役に立ちません。たどり着いても表札がありませんから確認できません)
長州毛利公の藩邸は、江戸城横の現在の日比谷公園ですので長州兵は迷うことはなかったようです。
TVの時代劇で武家屋敷に表札がかかっているのは全くの間違いです。
演出上、誰の屋敷か事前に視聴者に分からせるためには、止むを得ない演出かとは思います。
裏長屋の場合には、管理上住人の名前の一覧を長屋の露地の入口に張り出していました。
現代の感覚でいえば、マンションの郵便受けのような感じです。
もっとも最近の大都市のマンションはこの習慣もなくなり、部屋の表札も出さないようになってきています。
江戸の武家屋敷と同じ状態に戻ったんですかね~
参勤交代で江戸へ出てきたご家来衆は競って江戸の地図を買いました。
武家屋敷には一軒一軒氏名が記載されていました。
一年間自分が使うと同時に貴重なお土産でした。
ご回答ありがとうございます。
>住所表記のルールが現在と違っていました。
>現在のイメージでの住所表記としてであれば、お寺だけではなく大名屋敷や旗本屋敷にも住所表示はありません。
>通りといいますか道路に名前がついていました。
ということは、幕府は住所に関して、町人地には町名を付けるが、武家地・寺社地には町名は不要で、通り(道路)名で表示すればよい、と決めていたのですか。
まさにお聞きしたいのは、その理由です。
日暮里豊島辺りには田地に小さな寺が散在していますが、たんぼのあぜ道を通って行く感じです。
日暮里豊島辺絵図
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1286677?tocOp …
>地方から江戸の寺に手紙を出す場合は、本寺末寺という制度が整っていましたので、地元の同じ宗派のお寺に聞けば何と呼ばれているところにあるのかはすぐに分かりました。
地元で分からなくても江戸の同じ宗派のお寺へ送れば回送してくれました。
そうですね、よく分かりました。
No.3
- 回答日時:
江戸時代の寺は、其の敷地・範囲が大きかったので、其れ自体が場所名ですね。
また、寺請制度もありましたから、どちらかと言うと寺が庶民の生活の中心です。
管轄も寺社奉行で、大名も町奉行も直接には手を出せず、寺社奉行は時代によって将軍や老中の直轄でしたし、また老中への出世コースでした。
という位寺は優遇されていましたから、敷地内に畑もありましたし、普通の寺なら其れ自体が既に目印です。
ご回答ありがとうございます。
大きな城下町では寺を集住させて「寺町」としている例が多いです。
江戸でも例えば日暮里豊島辺りには小さな寺が集まっていますが、町名はありません。
なぜ町名を付けなかったのか、という疑問です。
日暮里豊島辺絵図
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1286677?tocOp …
>管轄も寺社奉行で、大名も町奉行も直接には手を出せず……
ということは、寺社を管轄する寺社奉行にとって、寺社に町名が無かったとしてもなんら支障が無かったということかも知れませんね。
No.2
- 回答日時:
寺一つが一つの住所だから
町人町では何丁目という区切りがあって、そこに長屋があって、その中に何世帯もありましたが
寺は、それ自体が何丁目という区切りの大きさもしくは町と同じ大きさでしたので、町名を付ける必要はありませんでした
浅草の○▲寺と書けば、それに該当する寺は一つしか無かったですから、それで届きます。
http://map.goo.ne.jp/history/map.php?st=100&kr=16
ご回答ありがとうございます。
>寺は、それ自体が何丁目という区切りの大きさもしくは町と同じ大きさでしたので、町名を付ける必要はありませんでした。
江戸時代後期の江戸には2千近い寺があったと思いますが、全部が全部、大きな地所をもっていたとは限りませんよね。
町人地の側であればよいですが、武家地の中にある寺では武家地にも町名がないですから、
不便なこともあったのではないか、という疑問です。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1286666?tocOp … 今井谷六本木赤坂
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1286667?tocOp … 東部青山絵図
No.1
- 回答日時:
お江戸八百八町というほどだった江戸なら、どこどこ町の地先にある○○寺、でも十分特定できるでしょうし、飛脚もそのくらい土地勘はあったでしょう。
寺社を描いた地図(今は古地図)があったわけですし。江戸の範囲-天下の大江戸、八百八町というけれど
http://www.soumu.metro.tokyo.jp/01soumu/archives …
『江戸といっても、町地は町奉行支配、寺社地は寺社奉行支配、武家地は大目付・目付支配…というように、複雑な支配系統がありました。』
「外郎売」の口上(せりふ)でも、
『 拙者親方と申すは、お立ち会いの中に、
御存知のお方も御座りましょうが、
御江戸を発って二十里上方、
相州小田原一色町をお過ぎなされて、
青物町を登りへおいでなさるれば、
欄干橋虎屋藤衛門、
只今は剃髪致して、円斎となのりまする。 』
と、町の名前を目印にして、居所を特定していたのですから。
「ういろう売り」本文
http://www.geocities.jp/actartcreator/shiryoushi …
ご回答ありがとうございます。
>どこどこ町の地先にある○○寺、でも十分特定できるでしょうし、飛脚もそのくらい土地勘はあったでしょう。
飛脚はそうでしょう。
手紙を出す方は、「どこどこ町の地先にある○○寺」では難儀したでしょう。
しかし、実際には町名なしで済んできたのですから、大きな支障はなかったのでしょう。
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