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鳥羽伏見の戦いの敗因はなんですか?

A 回答 (4件)

すでにこのコーナーでも同じ質問と回答がありますが、近年のことなのに諸説があります。

武器の差だと言う説もありますが、徳川軍は立派な西洋式軍隊と武器を装備していました。
大阪の徳川軍が京都の薩長連合軍を征伐するために京都に向かう途中、鳥羽伏見で両軍が激突したのです。なかなか決着が付かずに深夜にまでなったのですから互角の勝負だったのです。
偽の錦の御旗とか、薩摩の大砲の威力とか、徳川慶喜の弱腰とか言われますが、徳川の敗因は分りません。徳川軍が劣勢になってからのことが情けなかったのです。しかし徳川方の淀城で建て直しを計ろうとするが、その城に入れてもらえないのです。徳川の情けなさが現れています。最後は軍艦で慶喜は江戸に逃げ帰る。
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 ものすごく大雑把にいうと、戦意と戦術の差。

巷間言われるような兵器の差はあまりなかったようです。

薩長方(5000名)主兵装:(当時の)新式銃である先込め型ライフル銃
幕府軍(歩兵隊6000名)主兵装:先込め型ライフル銃、一部には最新鋭の後装型ライフル銃
 野戦砲はいずれも4斤山砲。

 装備の質では幕府(歩兵)側がやや優秀、兵員数でも上回ります。幕府側にはこれに加えて旧式装備ながら各藩兵が10000名加わりますので、質的にも量的にもかなり優位といったところ。

 じゃあ何で負けたんだというと、記録等で読むところでは、幕府歩兵隊は銃に弾を込めずに戦場に侵入したとか、薩長軍の歩兵が三方に保塁を築いて射撃態勢で待ち構えていたところに行軍体系で進んだとか、もうデタラメ。要は戦の緊張感のない素人兵士が、的の待ち構えるなかに漫然と突撃したという形のようです。戦う気のない兵士と、戦い方を知らない指揮官ばかりであった、というのが敗戦の大きな理由かと。
 大将の逃亡とか錦の御旗とかはこの幕府歩兵が大敗した後の話なので、主原因ではないでしょうね。
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 幕府方最高指揮官の徳川慶喜が、戦う気がないのに、現場指揮官クラスが押し切って戦いを決行したということですね。



 最高指揮官で、政治家でもある徳川慶喜は、戦いをどのような形で終息させるかまで考えていたはずです。
 短期決戦で薩摩・長州を圧倒出来ないならば、第二次長州征伐の時のように、長期持久戦になります。
 
 隙あらば植民地にしてやろうというイギリス・フランスの行動を見れば、日本全体の運命に責任がある徳川慶喜には、長期持久戦と言う選択肢は取れなかったでしょう。

 『勝てぬ戦は、やらぬが勝ち』
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兵器の新旧の差



最新鋭の機関銃に木刀で立ち向かうのと同じです
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