プロが教えるわが家の防犯対策術!

長い間、自分の心理について悩み、考え、苦しみ、心療内科、精神科、カウンセラーを訪ね、家では本を読み、やっと自分の問題の核心に近づいてきたように感じています。私の問題は、簡単に言うと、家族から心理的虐待を受けつづけ、他者から愛されるためには自分を消し、ひたすら他者に奉仕しなければならないのだと学んだこと、さらに、善悪の判断が逆転しているために、自分を愛そうとする人を嫌い、自分を傷つけようとする人に善意と愛情を期待して近づいていくのだが、最後は決まって見捨てられ傷つく、ということを繰り返してきたことです。自分の中にある、何か得体の知れない、巨大な「恐怖」を感じられるようになりました。人間に対する恐怖です。その恐怖を感じないように、感情を抑圧し、他者から離れ、人の言うなりになり、自分を責め、社会の道徳や決まりを必死に守ってきました。このように、必死でしがみついてきたものから、少しずつ少しずつ自分を離してゆくと、自分には全く何もないことに気がつきます。でも、何もなくても、確かに生きをして存在している魂がある、とは思えます。ここが出発点なのかと感じています。

質問は、次の通りです。
いま、感情を感じ取る訓練をし、自分を中心に置き、自分の存在を感じる、ということを課題に毎日を過ごしているのですが、同時に、心がほっとするのでよく読む仏教の教えの中に、「自分への執着を手放す」というものがあります。物事はすべて変化するのであり、永遠絶対の価値があるものはない。すべての欲しがる気持ちを捨て、すべては無常、無意味と理解する、そこに苦しみから解放された無我の境地がある。間違っているかもしれませんが、このように理解しています。

自分の気持ち、感情をしっかり感じ取る、自分を大切にする、ということと、「自分への執着を手放す」ことが少し矛盾していうようにも感じられるのです。両方可能になる考え方はどういうものなのか、これについて教えていただきたいのです。どうぞ、よろしくお願いします。

A 回答 (8件)

上から言うようですが、きちんと積み上げて、


努力されていることは素晴らしいことかと思います。

お辛い経験からきちんと自分と向き合われ、
努力されてきたことも素晴らしいと思います。

徐々に強くなって、いい方向へ向かわれている
のではないかと思います。

「感情を感じ取る訓練をし、自分を中心に置き、
自分の存在を感じる、という」課題はこれまでの
過程から現在の質問者様に必要な課題なのかも
しれません。

ただ、現在質問者様がそのなさっていることことと
「自分への執着を手放す」ことが矛盾してもいいし、
両方可能でなくてもいいのではないでしょうか。

繰り返しますが、質問者様がなさっていることは
現在の質問者様には必要なことかもしれません。

なぜ自分への執着を手放すのかについて私見を
書かせていただきます。

さしあたっては、自分(が何かについてはおいておき
まして)へ執着すると、自分を守らなければならなく
なります。

ですから、その大切な自分が快く感じるものへ執着も
しますし、大切な自分が苦しみ、嫌なことを恐れます。
快く感じるものが得られなければ、苦しみます。
そもそも苦しみを嫌っているので、苦しみは辛いです。

ということは、自分へ執着しなくなれば、快楽や苦痛にも
執着しなくなり、「自由」みたいになるのでは
ないでしょうか。

苦しくても「悪く」ないみたいな。
むしろ我執が苦しみの原因なので、苦しみを
なくすには我執をとるしかないので、苦しみは
我執を焼き払う炎としてむしろ好都合みたいな。

このことを苦しみからの解放と呼ぶのではないかと
今は考えています。

さて、或る意味では自分を大切にしていない人など
いないかと思います。自分を大切にできなくて
苦しむ人は実は(普通誰でもですが)自分に執着して
いるからその大切な自分が大切にできなくて、
傷つけられると苦しむのではないでしょうか。

自分を大切にできない人を批判しているのでは
ありません。私自身もどちらかというと、自分を
大切にできていないタイプです。

しかし、そもそも自分を大切にしているか、
していないかは或る意味ではあまり重要ではない
のかもしれません。自分を大切にしている方が、
楽だとは思いますけれども。皮肉ではなく。

だとして、どうすればよいか。
一生懸命がんばる。
というのが、私の現在の結論です。

「自分の気持ち、感情をしっかり感じ取る、
自分を大切に」しながら、その自分への執着を取って
行くことを視野にいれられればいいのでは
ないでしょうか。

以上、自分を棚に上げて話しました。

「自分に忠実だなんて言う人に限って、自分を大切にして、
自分を破ろうとしない。大事にするから、弱くなって
しまうのだ。己自身と闘え。自分自身を突き飛ばせば
いいのだ。炎はその瞬間に舞い上がり、あとは無。
爆発するんだ。全身全霊が宇宙に向かってパーッと
ひらくこと。それが『爆発』だ。」岡本太郎
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この回答へのお礼

お礼が遅くなってしまいました。

「どちらでもいい」というのは、その通りかもしれません。
何かを決めないと不安になる、というのも執着の一つのような気がします。

「自分を大切にする」というのは、私にとって積年の謎、課題で、
考えてみれば、大切にするはずの自分がないのですから難しいわけです。
普通の方にはわかりにくいと思いますが、
存在を無視されつづけて小さい頃を過ごすと、
本当に、自分の存在を自分で感じられないのです。

悩み続け、苦しみ続け、その結果手にしたものが何もない、
何という人生なのだろうと思うばかりですが、
それでも自分はきっと、
こういう人生を一生懸命生きることが使命だったのだと、
思おうと思います。


全く、「上から」言われている感じはしませんでした。
解答ありがとうございました。

お礼日時:2014/11/23 14:41

わたしも苦しいとき、



仏教を分かりやすく説明している(住職さんの)HPに救われたことがあります。

彼らの歴史は古く、

人に伝える文章や、語り自体が心地よくなるように配慮しています。

住職さんのHPは、等身大の人間として自分の考えを書いているのですが、

読んでいるだけで気持ちが落ち着くんですよね。(頭が軽くなる)

どうも、文章と言うのは、その人の心の状態を伝える力があるようです。

ですので、心が軽いときに書いた文章を(自分で)とっておき、

それを自分で読み返すことでと、頭の疲れが取れることがあります。


頭の良い人は、頭が軽くて涼しい感じがしています。

この人が発する言葉の調子や話題。

それを文字として残し、他の人が読むことで同じ状態に移行できるようです。


また、音読して拍子を作ると、体調が良くなる場合があります。

ナンマイダー、ナンミョウホウレンゲッキョウー

は、何と3拍子、8分の6拍子でできておりまして、

これを繰り返すと(音感が無い人でも)音楽に触れたのと同じ、

リラクゼーション効果が生まれます。


人を癒すための工夫は随所にあるようです。

改めて考えてみますと、今の科学的検証にも適合しており、

ありがたい物だったんですね。



さて次に、仏教が伝える考え方を紹介してみます。(私の理解ですが)

最初の理論は、因縁果報というらしいです。

単体で存在する性質(鍵穴)があり、これに鍵となる作用が重なって、

定められた変化を及ぼす。つまり物理法則をさしています。

物理ジャンルに囚われず一般化すれば、因果という表現になります

作用の部分を縁として、因縁果が正しい表現らしいです。

報とは、人がこれを観測したときの感想を伝えたものです。

現実は因縁果ですが、報は感想でして現実じゃないです。

ところが経験したような錯覚を引き起こします。

ここを間違いだとし、損を生み出す原因としています。

人の思考のすべては、誰かが作った報を元にされています。

実際は未経験であり、同じにならない。

そこで、報が生み出す無益について説明してみましょう。

仏教は、

「人ってどうせ死んじゃうんでしょ? 何でなの? 納得いかないよ!」

と言う命題に本気で悩んだお釈迦様が作ったと聞いています。


その結論ですが、

「仕方がないこととして納得するとしても、

 苦しんでそうなったか、楽しんでそうなったかの違いはあるだろう」

と言うことみたいです。

これだけ(苦しみが多かった人生)は損をしているとして、

(普通の人よりも)拘ったんでしょう。


仏教を紐解くと、

「実際には何も起きていないのに、心が自分を苦しめる余計な損」

ばかりに言及しているとわかります。

「人間の心には、どうもそういう性質があるらしい?」

としており、否定していません。


確かに、

「人の心が完成しており、人を苦しめない」

と誰が保障したのでしょう?

わたしたちは、

自分の考えや衝動や欲求は自然なものであり、

これを満たせば自分を楽にすると思い込んでいます。

ですが、もしこの回路(自然な衝動を作る)がぶっ壊れており、

実際は不幸にするための衝動ばかりがおきる仕組みであったら?

生物ですから、そうなっていても仕方ないわけです。

人が作ったものじゃないですから。

だとしたら、気付かないで従えば、従うほど苦しみが増しますよね?

私たちが自分と呼んで認識してる心の声は、

自己を消滅させるための機構のようです。


ほとんどの人は、いずれは寿命に従うつもりでしょう。

しかし、生きている間もこれが無作為に動いて、

余計な損をさせてくれるのは迷惑な話です。

しかも、この無意識に働く機構は、

必ず大事なときにミスを混入させ、

安定して幸福であるとき、、不幸に成るような打ち手をしてきます。

私たちは逆らえずこれに制御され、一定以上の幸福を手に入れられないように

調整されているようなのです。


お釈迦様は、

これらの正体や特徴をつかみ、対処することを考えたと言うわけです。

ですので、

自己を滅して諦めることで苦しみから逃げることを説いていません。

ちょっとでも嫌だと感じること。

ありますよね?

しかしこれは、その瞬間が苦痛なのであり、損をしています。

しかも、その損は、

自分の中に同居している、全く不要な存在が、

勝手に作り出しており、これは元から入らない物であったと認知したわけです。


これは他の人にも問いたいのですが、

苦痛ばかりに焦点をあわせて、そこを思い出させ、

追体験をさせようという衝動が自分の中にありませんか?

合理的に考えると、追体験をしても何もかわりませんよね。

してもしなくても実害は無い。

ですが苦痛だけは繰り返し増やしてくれます。


合理性で他に影響が無いならば、辞めるに越したことはありません。

悩んで動けないのと、眠って動けないのと、結果は同じです。

ですが、後者のほうがマシですよね。


では、

例えば食事や睡眠をとって、

満腹感とか疲れが取れた喜びを追体験し、反芻して喜ぶ衝動もありますよね?

これも合理性ではしてもしなくても変わりません。

ですが、苦しんで死ぬか、楽しんで死ぬかと言う命題では、

鮮明な違いになります。


よく考えると、この二つは同時にできませんよね?

ということは、苦しみを反芻したいという衝動と、喜びを反芻したいと言う衝動。

どちらを採用するかと言う自分の選択だけになります。

どちらも現実は変わりません。

他人から見るとボーっとしているだけに見えます。


ですが、

「苦しみを反芻して何度も考えることが必要であり、

 そこから希望が生まれる。だから、良いことなんだ」

と語る何かがいませんか?

実際は、苦しむだけであり、何も保障されません。

大概の人は、苦しむだけで何も変わらないと結論付けることが難しく、

負い目を感じてしまいます。


しかし合理性で考えれば、

他人に迷惑をかけたとき、それを忘れようとした自分に負い目を感じるべきであり、

そこに誰も関わっていないのに、

苦しむことを辞めた自分に負い目を感じるのは非論理的ですよね。


つまり、

他人に迷惑をかけたことは都合よく忘れようとするのに、

実誰も気にしていない状態で、自分の中の悪い部分を見つけて自傷する、

そういう衝動があるということです。


これを逆にすると良いですよね?

誰かに掛けた迷惑は、相手の損失を補って気遣い、

それ以外は自分の健康を気遣って、休息する。


多くの人の実際は、

自分にかかった迷惑を忘れられず、自分の損失を補って気遣い、

暇があれば(寝てれば良いのに)そればかりを考えています。

(というか、人はデフォルトで壊れているので練習しないと必ずそうなる)


これは訓練で調整する必要があります。

自分への執着と言うのは、

自分を傷つけて、苦しませようとする非合理的な衝動です。

さらに、

他人を気遣う時間を減らそうとする衝動のことです。

この衝動は、手段として、

・敵対する
・興味をなくさせる
・自分の不幸を思い出させる

のいずれかを強制し、他人を気遣う行為を邪魔します。

(他人を思う気持ちが足りないのではなく、
 
 そのチャンスを減らされているという考え方)

これも自分に内在する一つの機構であり、回路です。

これを停止させないと、余計な苦痛が続くという事です。

これを自分への執着を無くすととらえます。

同時に喜びを反芻する力を増しておきます。

これをしたとしても、世の中に迷惑を掛けません。

心と言うのは相反することを同時に出来ません。

ということは、

喜びを反芻していることで、苦しみを反芻する衝動を邪魔できるわけです。


さて、苦しいときと嬉しいとき、

どちらのとき、人に迷惑を掛けますか?

現実的には前者なのですが、

楽しいことをしていると負い目を感じるようになっています。

まるで、

「自分は人に迷惑をかけること=楽しみ」

と疑ってないようですよね?

自分を悪人だと決めているわけです。

さて、この論拠の無い決め付けは、いったい誰がしたのでしょう?

この疑わない自我とそれを望まない自我がいます。

これは別人格ですので、前者の自我を自分ではないとして否定することが大事です。

これを消し去っても、合理性では世の中に影響を及ぼしません。

この手段として、

ご飯が美味しいとか、体が疲れたとか、

とくに体の感覚に対して喜びを見出すのがもっとも効果的です。

というのは、

苦しみを生み出す自我は、世の中とか人とかを話題にするのが大好きです。

これを捨てるためには、

肉体の快感、感情の快感を味わい、

さらに肉体の苦痛や感情の苦痛を蔑ろにせずに、

恐れないで味わうことです。これも勿体無い感覚だと自覚することですね。


現実を、無常として流転するので拘るなという意味は、

継続して観察すべしという警告であり、

一度知ったから分かったと言うなという意味です。

仏教は丹念に現実を見て、そのつど喜びを得ようと指導しており、

「もう経験したので分かっていると言う」

論法を否定しようとしているだけです。

都度味わう。快感を楽しむことこれが、楽しんで死ぬこと。

以上、ご参考になれば
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この回答へのお礼

わかりやすく書いていただきありがとうございました。


こころのどこかに、苦しいことにばかりフォーカスし、楽しいことには罪悪感を感じる仕組みがあると、感じます。それが自動発動するので厄介ですが、訓練して変える努力をしようと思います。

私の場合、楽しんで人生を過ごすのも、「人生は楽しまなければいけない」という義務になってしまい、いつも力が抜けない感じです。

人生はいっさい苦である。苦=意味がないこと と、どこかのページで読み、それはきっと、「人生は苦しみの連続なのだから、苦しくてもしょうがない、あるいはそれに耐えて生きるのだ」という教えではないと思っています。「人生には意味がない」というのも、投げやりになることではなく、何かポジティブな意味があるのではないかと考えつづけています。あるいは、考えるのではなく、感覚的なもので、いつか何かの拍子にわかる、あるいは気がついたら体得していた、ということになるのかな、とも思います。


「もろもろの事象は過ぎ去るものである」ということばも、「明日は明日の風が吹く」以上の、もっと深い別の意味があるのではないかと思っています。過ぎ去り、変化するはずなのに、ずっと捨てられないものがある。金縛りにあったように自分の意志とは違う行動をとってしまう、親からの洗脳を、少しずつ自分からはぎ取っているところです。あと何年の命なのか。人とつながれず、苦しいと思うばかりの人生で、そこに何の意味もない。

太陽がかがやき、風がそよぎ、小鳥が鳴く。そこにも何の意味もない。意味を探すことに意味がない。




とても参考になりました。
ありがとうございました。

お礼日時:2014/11/17 02:04

「自分の気持ち、感情をしっかり感じ取る」ということにおいて、執着の薄い感情もあれば、煩悩にまみれた感情もあり、それらがランダムに勝手に浮かんでくる、という実感はあるでしょうか。


もしそういう見取りができているようであれば、そこには、「すべての欲しがる気持ちを捨て」ようとする自分や、「自分への執着を手放す」事のできた理想の自分という三つの自分があると考えられます。

なんとなくそんな感じがわかるようでしたら、
下記サイトの「偽我埋没・善我確立・真我誕生」についてのところに「両方可能になる考え方」が載っているかと思います。
http://www.gla.or.jp/tamashiinogaku/termiology.h …

恐怖心や、自分への執着がなぜ心の中に生まれているかについては、「三つのち」のところに参考となる考察が載っております。
http://www.gla.or.jp/tamashiinogaku/termiology.h …

また、恐怖心を超えて菩提心に転換する道も確立されていますので、興味がおありでしたら、自己診断チャートで、自分の性格について考えを深めてみてください。
http://www.gla.or.jp/practice/lifestyle/diagnosi …
この先生の講演会も参考になるかと思います。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなりました。

わたしの場合、自分の感情を感じるということがまだなかなか難しいのです。他人の感情ならよく感じられて、初対面の人でも以心伝心のように感じ取ってしまいます。すべての根元には「恐怖」があるのだと思っています。なので、色々な感情がランダムに浮かんでくるという実感にはまだ至っていません。もう、とにかく、訳もなく、何かが怖いのです。


参照のページ、これから少しずつ読ませていただきます。

ありがとうございました。

お礼日時:2014/11/12 00:11

質問部分にのみ回答します。



僧侶ですが、無我の考え方がちょっと違うように思います。
自分への執着を手放すということによって、全ては無常・無意味と理解する・・・だとすると、単なるニヒリズム(虚無主義)になってしまいます。
大乗仏教系のお経には、ニヒリズムに陥っては駄目だよと書いてあります。

あと、自分を大切にし、自分の気持ちや感情をしっかり感じ取りながら、自分への執着を手放すことは矛盾していないらしいですよ。

私自身はそこまでの境地に達したことはないから判りませんが、考えている自分(=心)こそが自分だと思っているのは、「雲」みたいなうつろいゆくものを自分だと思うのと同じだそうです。
青空にはその時々にいろいろな雲がわき起こるように、その時々の感情や状況によって変化する心は、自分の一部ではあるけれど、けっして自分の全てではないということですね。
だから、雲を否定するだけでは、青空の心境には近づけないそうです。
いくら払っても、雲は常にわきおこります。

例えばですが、瞑想する時、何も考えないようにしようとしても、1分もすると何か考えている自分に気づくはずです。
座禅の時、それを防ぐために、息を数えますが、いくら集中しようとしても、1~2分もすると、足が痛いとか、背中がかゆいとか、そういえばあれはどうなったっけ・・・とか、何か考え出している自分に気づきます。
やってみれば判ります。
それと同じです。

自分自身の嫌なところも良いところも全て、ありのままに受けいれていくと、やがて青空の意識に達するようになり、その二つが両立することができるそうですよ。

前半部分について一言。
自分を否定するだけでは、雲をいつまでも追い払おうとしてあがくのと同じです。
自分を認め、受けいれることから始めたらどうでしょうか。

あくまでも私の個人的な見解です。参考までに。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなりました。

とても参考になるお話でした。仏教をきちんと勉強したわけでもないのですが、好きで、本を読んだりしています。小さいころから、好きな物の取り合いになったりすると、バカバカしくなり相手の好きにさせていました。それを自分では「大人の判断」と自画自賛のように「良いこと」と思っていたのですが、挙句の果てに自分が本当に欲しいものが何なのか、まったくわからなくなりました。

いま、自分の気持ちを感じる訓練をし、好きなものを好きなものと言ってもいいのだという許可を自分に与えても、世界は変わらないのだ、ということを経験していますが、それと「自分への執着」が同じことのように思えて、質問したのでした。


>自分を大切にし、自分の気持ちや感情をしっかり感じ取りながら、自分への執着を手放すことは矛盾していないらしいですよ。

>青空にはその時々にいろいろな雲がわき起こるように、その時々の感情や状況によって変化する心は、自分の一部ではあるけれど、けっして自分の全てではないということですね。



・・・この部分を何度も読み返しています。両方、両立するということですね。自分を感じる。自分を感じ取る。自分を受け入れる。そうして、それから、それは自分のすべてではないと理解する。もっと広い自分を想像する。やはり、入り口は時々刻々変化する自分をきちんと感じ取るということでしょうか。

わたしは、人や世界への恐怖のせいか、意識がいつも外に向き、向いている以上に自分から飛び出しているように感じていて、自分が自分と一緒にいられないのです。まずは自分に向き合うことなのですね。


とても参考になりました。

ありがとうございました。

お礼日時:2014/11/12 00:05

すいません、再投稿です。


ちょっと説明が足りなかったのですが、

○怒りや悲しみ、憎しみ、恨みつらみ…
これらネガティブな感情も感じきることによって
自分を肯定的にとらえられるようになります。
そうすると心が安定し自然に手放せるというか、
前向きな気持ちになり、体が楽になります。

私も練習中ですけどね。
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執着は依存とも捉えられます。


依存している時はその対象に感情も感化されてしまっていて、
中々、自分の本当の気持ちに気付きずらいです。
だいたい隠れている本当の気持ちは
怒りや悲しみ、憎しみ、恨みつらみなどが多いですが。

なので、自分の感情をしっかり感じきれるようになると、
外の世界を自分の気持ちで見ることができ、
それが執着を手放した状態となります。

「しっかり感じ取る」というのが大切で「手放し」につながります。

>自分を愛そうとする人を嫌い、
→本当の愛情を受けてきていないから怖いんだと思います。
(または不足している。)
なので「愛=怖い」という観念になっているのかも知れません。
ただこれらは後天的なものなので、トレーニングによって変わります。

>自分を傷つけようとする人に善意と愛情を期待して近づいていくのだが、
最後は決まって見捨てられ傷つく、ということを繰り返してきたことです。
→「なじみ深い感覚」というやつですね。
子供の頃心理的虐待を受けてきて、それが体になじんでいるので、
そちらの方についついいってしまう癖があるようです。
おそらく家庭でも、身近な人に愛情を求めにいって、
虐待という形で返ってきていたのでそういう癖がついたのだと思います。

虐待ってだいたいそういうもので、親はしつけとか都合のいい言葉で、
愛情のつもりで接しますが、はたからみたら子供を痛めつけているだけ、
という展開です。

愛情に善悪はなく、ただ愛情を与えるべき人間が与え下手だったり、
いびつなものであったりすると、質問者様のニーズが適切に満たされず、
愛情不足につながったりもします。

○人間に対する恐怖。
幼少期は自分の力で出来ることはとても限られているので、
誰かに頼ったり甘えたりして生きていかなければいけません(当然のことです)
それが身近な人は甘えたり助けたりしてくれるものだと思い接したら虐待をされた、
ということでは恐怖感がつきます。
幼少のころは家が「世界のすべて」ですので、
世間に出ても「世界は怖い、人は怖い」という感覚が無意識に宿ります。

「捨てられて人間不信になった猫」の気持ちを想像するとわかりやすいかと思います。

その恐怖はちょっとずつ感じていけるといいですね、
実際に世間が怖いわけではないですし、それは頭ではわかっていると思います。
「怖い」という感情を感じながらも「実際には何も起きない」というのも体験していくと
徐々に「怖い」という感覚が軽減します。

○確かに生きをして存在している魂
→見守ってあげてください。

なんにしろ頭ではわかってくるんですが、難しいのは「体験」ですね。
初めて自転車に乗る時、初めて飛行機に乗る時、初めて~はなんでも怖かったりします。
ただ自転車にしろ飛行機にしろ乗れるようになると怖さは軽減します。
これも体験によって「大丈夫だ」というのを体で覚えたからだと思います。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなりました。

>「しっかり感じ取る」というのが大切で「手放し」につながります。

そうですね。
少しずつ、奥の奥の方にある感情が上の方に上がってきたかな、という感覚があります。
袋の内と外をひっくり返すような。
人の前でも、怒りを表せるようになってきました。
それでも周りにいる人たちはいなくならない、わたしを見捨てない、
これは、初めての経験です。
(自分の気持ちを表すと母親が泣く、その場からいなくなる、という幼少期のトレーニングがありました)


>「怖い」という感情を感じながらも「実際には何も起きない」というのも体験していくと
徐々に「怖い」という感覚が軽減します。

感情を表しても何も起きない、
好きな人を選んでその人のところに行っても、怒られない、
(母は、私が祖母のところに行くと、私を柱にしばりつけました)
そういう経験を積んでいます。


世界が、あたらしい色に見えてくるようです。


少しずつ頑張ります。

ありがとうございました。

お礼日時:2014/11/11 23:38

普通の人を見習ったらどうでしょうか。

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私は専門家ではないのですが、少し考えてみました。


両者は両輪なんではないかな?と感じました。


悲しく(他にも、怒りでも喜び等の喜怒哀楽に)なった

気持ちを感じる
(じわじわ実感するなど)

感情を実感できた、と、
手応え?が得られる

これをコツコツ重ねていくと、なぜか自己肯定が起きてきています。
つまり、それって、自分を大切にしたことになるんだと思いました

ここまでが自分の内面に意識を向けている段階として。


次に「意識を『自分の内面』以外に向ける」と。
外に向ける、と。
例えば、お掃除をしたり仕事をしたり、とかも。

それはすなわち、
(自分の内面へ向いた意識に対する)執着を、手放すことなんではないかな?と。


補足です、
私の経験で申し訳ありませんが、
感情を感じるトレーニングを重ねていて、いつしか「山ってこんなに青かったんだなぁ」等と思う瞬間が起きました。
そのときに、諸行無常が少しだけ、感覚的に理解できたと感じました。
言葉にするのは難しくて、本当に感覚的でした。


もしご参考になったら幸いです。
稚拙な文章で申し訳ありません。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなりました。

おっしゃる通り、感覚的なところがあるのでなかなか難しいですね。
子どもの頃、どのような環境にいるかによって、
自分を肯定することが自然にできる人間と、全くできな人間ができるという事実に、
恐ろしさを感じます。

自分の内に向ける意識と、外に向ける意識を区別するというのは良い発想ですね。
やってみます。


とても参考になりました。
ありがとうございました。

お礼日時:2014/11/11 23:26

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