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最近、心を痛めている人に自己責任を振りかざす人が多くありませんか?

たとえば、東北の震災・津波、今夏の広島の土石流、今秋の御岳山の噴火。
古くは、何年か前のリーマンショックのときの製造業の大量失業者など。
本来ならば、見舞いや慰めの言葉を発するところなのに、自己責任だと来る。

自己責任という言葉には、本来悪意はありませんけど、見舞いや慰めの言葉もなく、自己責任という言葉を浴びせるのは自業自得、ざまあみろという罵倒ですよね。

心を痛めている人に自己責任を振りかざす人は何を考え、どういうつもりでそう言ってるのでしょうか?

そういう人は、たとえば、知人が病気で入院したときも、見舞いに出向き、開口一番、「自己責任」と
言うんでしょうか?

その心理を教えてください。

日本人はいつからこんなに卑しくなったんでしょうか?こんなんで日本は大丈夫でしょうか?

A 回答 (12件中1~10件)

素晴らしいご指摘だと思います。



今に始まった事ではなく、日本人は「自己主張」ができない人種なんです。

だからこそ日本では「この人は自分の考えをしっかりと持っている」なんて言うだけで、その人が立派な人に扱われてしまうのです。
海外でそんな事を言っていたら、笑止千万でしょう。
それぐらい、日本人はしっかりとした自分の考えを持っていないのです。

そして、日本人における「しっかりとした自分の考え」とは、すなわち「他人を批判する」事に過ぎません。
つまり「自己責任」とは「自業自得」と言って、その相手をあざ笑っているのです。
それが、その人にとっての「立派な自己主張」なのです。

相手をあざ笑う事が自分の自己主張、今の日本は狂っています。
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早く逃げればよかったのに、バカだなァ、なんて仮に心の中では思っても、だからと言って「自己責任」という言葉は思いつかないですね。

少なくとも私の場合は。これは人間性の問題で、質問者さんもその辺を問うておられるのではないかと思います。懸念されている事、よく分かります。人には寛容、自らには厳しく生きたいものですね。
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私たちの子供のころは.「自分で責任持てない事はするな」



「自分の責任内で.行動するよぅに」と教えられました。

修身教育です。

御岳山の場合,噴火の瞬間を携帯で撮影して避難せず亡くなられています。

避難した人は助かっています。

これを何と説明しますか。
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人に迷惑をかけて平気な人間が多くなって来ています。

そういう人間には「自己責任」と言ってやりたくなるのも無理からぬ話ですね。世の中そんなにうまい話がそうざらにはころがっていない。にもかかわらず繰り返されますね、原野商法などなど。

御嶽山の件で「自己責任」が叫ばれたのは、あれがスポーツだからです。もし調査活動などでたまたま噴火に遭遇した場合なら殉職ものです。私は山男の一員として御嶽山の犠牲者が「自己責任」と非難されるのは耐えがたいですね。沢山の人が登る富士登山!気を付けてください。富士山は火山です。休火山という概念は死語です。何時噴火してもおかしくない。犠牲者になっても「自己責任」が叫ばれたらいやですよね(笑)。言いたいことは、御嶽山犠牲者自己責任論が叫ばれ、得をしている者、責任の所在をうやむやにぼかされ軽減されてほっとしている者は誰か、そういう背景が私にはあります。

別の例。ある原発が再稼働しそうですが、再稼働した直後に割と近くにある火山が爆発、巨大な火山弾が原発を直撃。救助しなければならない多くの人間。しかし辺りは一面高濃度の放射線で汚染されていて簡単には近づけない。わずかずつしか救助出来ない。優先的に救助されるべきは誰か。当然原発に反対していた人です。救助に向かう人間も非常なリスクを負っています。さて原発大好きといっていた再稼働賛成派は見殺しにされるべきか?「自己責任」の論理から言えば見殺しが正解でしょう。しかしそれが正しい判断かどうかは別問題です。

海外旅行に飛行機を使ったとして、その飛行機が墜落し犠牲者となってしまった。そういう場合はどうでしょうか?恐らく「自己責任」が叫ばれることはないでしょう。飛行機は墜落すればまず助からない、それが分かっていて旅行という楽しみのために乗ったのだから、理屈から言えば「自己責任」に関して御嶽山の場合とどこが違うのか?「自己責任」を叫ぶにしろ、反対の立場を採るにせよ、そこには色がついていると思うのです。


おっしゃる通り、仮に「自己責任」として責めるにしろ、タイミングもあります。言い方も工夫しないといけないと思います。

世の中他人を攻撃する風潮が強くなって来ていますが、まず自分自信にたいして厳しくする必要があります。「給料があがらない」のも「自己責任」です。「嫁さんとうまく行かない」のも「自己責任」です。「自己責任」論者が増えれば世の中良くなること請け合いです。ただ残念ながら自らに厳しい人間はそう多くはいないことですね。単なる他者攻撃の終わる人が多いということです。
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2度目の捕捉質問に返信



質問者さんは「自己責任」って言葉に偏見と言うフィルターをかけて考えてるからだと思う。

「自己責任」がそんなに悪い言葉なのだろうか?

自分がしでかした事に対して自分が責任を持って処理または対応する事の何処にマイナーイメージが有るのでしょう?

個人的にした事だから「自己責任」、複数人及び集団でした事なら「連帯責任」、国家がした事なら「国家責任」だ。

自分でした事の結果に対して責任を持つべきと言われればその通りだし、誰かのせいにするのはおかしい。これは否定される事では無い。

ある人物が博打に狂って借金した挙げ句自殺した。

博打をする事は自己責任、借金も自己責任、働いて返済せずに死ぬのは自己責任からの逃避。

これだけなら寄り添う部分は何も無い。

だけど何故ある人物は借金してまで博打をしたのか?実は彼には難病の子供が居てその高額な治療費を作る為だった……なら?

「子供に罪は無いよね」ってなり、寄附なり福祉が支援する事になる

例が妥当かどうかは分からないが……突き放す「自己責任」と寄り添う互助の関係。

※酔っ払ってるので支離滅裂かも、ご免なさいm(._.)m

日本は大丈夫なのでしょうか?に対するanswer

大丈夫です。まだまだ日本人の心優しさは世界標準を凌駕していて海外の人々にとって宇宙人かと思わせてるぐらいですからね
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横からお邪魔します。


昔、逗子開成中学(旧制)ボート部の遭難事件というのがありました。校則違反、定員オーバーで漕ぎ出したボートが七里ガ浜沖合で遭難し12人の少年が無くなった事件です。漁船が連日、百隻、二百隻出動、駆逐艦まで出動、おまけに当時時皇太子だった後の大正天皇までが乗馬で駆けつけられたというのですから大騒動でした。このような事件の後には大概美談を打ちけすようなものがついてくるのですが、この事件に関しては余りありません。追悼会の時も慟哭の声頻り、兄妹校の数学担当教諭三角鈴子が作詞した「真白き富士の嶺」が愛唱されました。おそらく当時「自己責任」などという言葉は少なくとも表面には出ていなかったのではないかと推察されます。しかしもし今あのような事件が起きていたなら、恐らく「自己責任」という言葉が表面に躍り出ていたことでしょうね。親は自分の子供が馬鹿な事をしても「自己責任」を追求するよりもまず先に子供を救うことを考えます。親の心中には「自己責任」などという言葉は浮かばないと思います。そして戦前は赤の他人であっても「自己責任」は表面には出てこないことが多かった。それはやはり教育勅語の効果かもしれないですね。

最後に、「自己責任」!この論理を徹底すれば全ての人の現在の在り様はほとんどすべてが「自己責任」ということにならないですか?
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捕捉質問に返信



普通、一般人の常識と言う範疇に照らし合わせて

「どうしてもっと注意深く行動出来なかったの?」と同情しながらも万が一の時に多くの人に迷惑をかける事を予測したり考えたりしなかったのか?と言う腹立たしさが先にたつからでしょう。

古来、日本人の持つべき矜持とは「人に迷惑をかける様な事を慎む」と言う自重の精神です。

誰もが子供の頃に親から教えられた筈です、人に迷惑を掛けない……は子供が大人へと成長する過程に於いて人として最低限身につけて置かなければならない不文律。

そして日本人の日本人たる所以とも言える「互助の精神」困ってる人を見たら手を差しのべる、そこに特別な理由等ありません。

「互助の精神」の根底には「人に迷惑を掛けない」様に気を付けていても思いがけず他人に迷惑を掛けてしまう、また他人の手助けを必要とする事象が起こってしまった時に「お互い様」って想いがある。

それに反して、万一の時は他人に迷惑を掛ける事を省みる事もしない浅慮で個人の自由を謳歌して引き起こした結果に対して人々は

「同情しながらも、それと同等以上の苛立ちと腹立たしさを覚える」

それが「そんなの自己責任だよね!」と言う心理状況に繋がるのでしょうね。

この回答への補足

ご丁寧に返信ありがとうございます。
納得した点と理解できない点があります。
納得した点は、互助から来る批判である点。これは、なるほどと思いました。
理解できないの点は、自己責任というある意味では、突き放しと、互助が相容れない気がすることです。

補足日時:2014/11/23 20:34
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自由と責任は一体です。


自己責任とは個人の自由の事を言います。

ヾ(@^▽^@)ノ

つまり、自己責任と切って捨てる右も、個人の権利や自由を求める左も、実際は似たような主張をしてるってわけですw
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>日本人はいつからこんなに卑しくなったんでしょうか?こんなんで日本は大丈夫でしょうか?



教育勅語を暗誦する必要が無くなった頃(端的に戦後)からで、もちろん大丈夫な訳がありません。"教育勅語"はさすがに時代錯誤のように思えますがその精神はなかなかのものだと思いますよ。

最近また道徳教育をどうのこうのと言っていますが、はてさてどうなることでしょうね。家庭での親自らの実践教育(口先ではなく自ら人生いかに生きるべきかを身を以て教え育む)と学校での道徳教育、この二つが全うされれば日本は良い国になると思うんですがね。

もっとも親自身がすでにどうしようもない人間、というのが多くなってきました。そういった親の子供はどうなるでしょうか。私はこの現象を堕落の世代間濃縮と呼んでいます。金だけが全てという生き方の人間が現実に存在します。ブタと本質的には変わりがないのですが、そういう人間は、そもそもいかに生きるべきか、なんて考えもしません。またそういうのに限って生命力が強いんですよね。半世紀後の日本、どんな人間が生き残っているか、今真剣に考えるべき時です。
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「可哀想だけど自己責任だよね」だったら質問者さんは納得されるのですか?



詳しくは記しませんが日本国憲法では義務と権利を国民に付与しています、しっかり義務を果していてもいなくても公共の福利や利益を害さない限り個人の自由と権利は侵害されない。

山に登るのも自由、例えそれが噴火の危険性があってもです。

海にサーフィンに行くのも自由、例えそれが台風の影響で10メートルの高波であってもです。

外国に行くのもほぼ自由、例えそれが内戦で銃弾が飛び交っていてもです。

ヨットで盲目の方と連れ立って太平洋横断にチャレンジするのも自由です。遭難する危険性が有ってもです。

そして個人がそんな自由を謳歌した行動の結果、火山が噴火した、高波に拐われ行方不明になった、ゲリラや反政府勢力の人質になった、エンジントラブルで漂流してしまった………。

じゃあそれらを何と言えば良いのでしょうか?

「可哀想だけど、全て自己責任だよね」ではないの?

御嶽山の時の捜索費用は幾ら?波に拐われた人を捜索する海保の費用は?人質になった者の為に政府が動かす人的労力とその費用は?
ヨットで遭難した方を救出する為に飛ばした海自の水上機とそれに命をかける隊員達の危険を換算すれば幾ら?

個人の自由を謳歌して起こった万が一の結果で「それは自己責任だから……」と国や自治体が手をこまねいて無視した事が有っただろうか?答は否、多額の税金がそこに投入されるのです。

全てはお金では無い、って言ってはみたものの……またそれを勿体無いとは言わないまでも……「残念で可哀想だけど、自己責任だよね」位は言わせてよ!

イラクや国際紛争地に派遣された自衛官にもしもの事が有ったら?
税金を幾ら投入しようとも国は最善を尽くす必要が有ります。

そして私は「それは国家責任だよね!」って言いますが…何か?

この回答への補足

>「可哀想だけど自己責任だよね」だったら質問者さんは納得されるのですか?

事案発生後、時期的にただちに責任を議論する必要があれば、それで良いと思います。

>具体例・・・じゃあそれらを何と言えば良いのでしょうか?

自己責任に間違いないです、それを議論するのも間違っていないです。
しかし、事案発生後、時期的にただちに議論する必要がありますか?
借金取りだって、債務者が死んだら、しばらくは、取立てを控えるものです。
直ちに、議論を始める理由や動機、心理を教えてもらえますか?

補足日時:2014/11/23 16:52
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