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関ヶ原の戦いの前、伏見城の留守居を巡って鳥居元忠と島津義弘の間で争いがありました。
「家康殿から伏見の留守居を任されたので城を明け渡してほしい」と言う島津と
「留守は自分が任されている、島津が来る事は聞いていない」と言う鳥居
これがきっかけで東軍加担だった島津は西軍に付くわけですが

これは
・島津が「家康から伏見の留守居を任された」と言うハッタリだったのか?
・家康が島津を懐柔するために島津だけに「伏見を任せる」と吹き込んだのか?
・元々、島津が伏見に入る手はずだったのを直前になって鳥居が心変わりして拒んだのか?

真相はどこにあるのでしょうか?

A 回答 (1件)

鳥居元忠の守る伏見城は、真っ先に西軍が狙う処ですから、全員戦死の覚悟があるものだけで固めていたようです。

同じ徳川の武士でも、無駄死にさせたくない若手の参加を拒絶しているのですから、他家の援軍は必要ないどころが邪魔でしょう。
 島津家は、完全に西軍側というより、中立よりやや西軍より。東軍が勝った場合も想定して、いろいろと外交的な手を打った一つでしょう。
 小早川家が、西軍東軍、どっちについてもいいような位置に陣を構えたのと同等のことを島津も考えてたはず。
 伏見の留守居は、平時と非常事態とでは、違うでしょう。ふだん、ヨイショのご機嫌取りで家康が言ってたかもしれません。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2015/01/07 19:42

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