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米国が、日本軍による英領マレーのコタバル攻撃を知ったのはいつ(何月何日何時)ですか。

質問した理由: Wiki「真珠湾攻撃 2経過 2.1ニイタカヤマノボレ」から抜粋します。

(引用開始) 真珠湾攻撃に先立ち、陸軍はイギリス領のマレー半島コタバルで奇襲上陸作戦を行っていた。真珠湾とマレーで一方が先行すれば他方の奇襲が成り立たなくなる。しかし源田の案により、暗闇での発艦を回避するため、攻撃隊の発進は当初の予定より2時間遅れとなった。この決定を軍令部が把握した時には命令変更の時間がなかったため、三代辰吉中佐がコタバル攻撃部隊へ伝達しないことにした。これにより、真珠湾攻撃はコタバルの2時間遅れとなった。(引用終わり)

実際は、真珠湾攻撃より約1時間早く英領マレーのコタバルを攻撃しています。
真珠湾奇襲攻撃が成功裏に終わったから良いようなものですが、コタバル攻撃を知った時点で米国は直ちにハワイの太平洋艦隊に連絡するはずです。
そこで、米国が「いつ知ったか」を質問しました。

それからこれは確認ですが、真珠湾と英領マレーの攻撃開始時刻ですが、作戦計画では同時だったのですか、それともコタバル攻撃を真珠湾攻撃より数時間早く行うと計画されていたのですか。

よろしくお願いします。

Wiki「真珠湾攻撃」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%8F%A0% … 

A 回答 (8件)

メインテーマに関しましては、残念ながら、根拠資料を持ち合わせておりませんので、


コタバル上陸の件は当日中に早々にマニラ(米軍)経由でワシントンに伝達されたものと
推測する程度ですが、
「質問した理由」で御提示の引用箇所と確認事項など
ほかについて投稿させていただきます。

>真珠湾と英領マレーの攻撃開始時刻ですが、
>作戦計画では同時だったのですか、
>それともコタバル攻撃を真珠湾攻撃より数時間早く行うと計画されていたのですか。

海軍の構想(訓練)段階では、当初は夜間(暁の闇)の発艦・空襲を想定したようですが、
どうやら南方作戦や真珠湾作戦が具体化(作戦・命令)する以前に頓挫したようです。
GoogleBooks『真珠湾攻撃/淵田美津雄』
(※URL省略/GoogleBooks検索欄「真珠湾 練度」でトップヒット※)
「…最初の計画では、真珠湾攻撃は暁の闇をついておこなう予定であった。…
…多数飛行機の夜間集団行動ができるまでに練度をあげることができるかどうか、
淵田中佐は不安であった。そこで、真珠湾攻撃は、黎明に母艦を進発して、
昼間攻撃ということに計画が変更されることとなった。」

上記だけでは、何時の変更か明確でないため、詰めが甘いのは承知しています^^
下記URLによれば、11月5日作戦計画段階では、
<9/51>対英領馬来作戦条項に時刻・コタバル地名共に無いのに対し、
<39/51>海軍作戦方針の布哇条項中には
「…布哇北方より近接し日出一、二時間前「オアフ」島の北方約二〇〇哩附近にて
全搭載機約四〇〇機を発進せしめ…」とありますから、
昭和十六年十一月五日時点では既に夜間の空襲は断念していたようです。

件名標題:第2篇 開戦時の政戦略/第4章 大本営の作戦計画
[階層]防衛省防衛研究所>陸軍一般史料>中央>全般>概史>
大東亜戦争全史草案 第2編
[レファレンスコード]C13071328800[画像]51
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C13071328800

少し横道にそれますが、下記なども面白かったです。
〇「日米戦争勃発と山本五十六に関する一考察/松川克彦」
『京都産業大学論集.社会科学系列31,2014-03』(249-272)
http://ksurep.kyoto-su.ac.jp/dspace/handle/10965 …

さて本筋に戻りますが、開始時刻等が具体化(作戦・命令)したのは下記のとおりです。

下記「合同協定覚書/昭和16年11月18日付」によりますと、

◆昭和一六・一一・一八
 25A長15A長3FD長南遣F長22Sfg長間合同教程覚書

〇件名標題:第6.上陸開始期日及時刻並に上陸日程
[階層]防衛省防衛研究所>陸軍一般史料>南西>全般>第25軍司令官.第15軍司令官.
第3飛行集団長.南遣艦隊司令長官.第22航空戦隊司令官間
合同協定覚書 昭和16.11.18
[レファレンスコード]C14060011000[画像数]4
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C14060011000
<1・2/4>
第六、上陸開始期日及時刻竝に上陸日程

一、佗美支隊第一次上陸部隊
  X日〇一、〇〇頃(状況已ムヲ得サレハX+1日〇一〇〇以降)
  ヨリ上陸ヲ開始シ拂暁迄ニ三回揚陸シ輸送船團ハ「パタニ」方面ニ退避シ
X日夜以降海軍兵力護衛ノ下ニ更ニ「コタバル」泊地ニ進入シ翌拂暁迄ニ
揚陸ヲ完了ス

続きまして、
下記「機密機動部隊命令作第一號(要旨)/昭和16年11月23日付」によりますと、

〇件名表題:真珠湾作戦に関する計画、命令の要旨
[階層]防衛省防衛研究所>陸軍一般史料>満洲>朝鮮>鉄材関係書類綴
昭和13~昭和14年
[レファレンスコード]C13021005800[画像数]24
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C13021005800
<13/24>
機密機動部隊命令作第一號(要旨)
昭和十六年十一月二十三日 單冠灣旗艦赤城
機動部隊指揮官 南 雲 忠 一
機動部隊命令
一、…
空襲第一日ヲ0330/Xト豫定ス

<18・19/24>
機密機動部隊命令作第三號(要旨)
昭和十六年十一月二十三日 單冠灣旗艦赤城
機動部隊指揮官 南 雲 忠 一
機動部隊命令
布哇作戦空襲計画左ノ通定ム
一、空襲部隊ノ行動

  0130/X、Z點ノ〇度二三〇浬ニ於テ第一次攻撃隊
  〇二四五Z點ノ〇度二〇〇浬ニ於テ第二次攻撃隊ヲ發艦シ空襲ヲ決行ス
第二次攻撃隊ノ發艦終了セバ偏北航路ヲ執リ槪ネ二十四節(※ノット)ニテ避退ス
第一次攻撃隊ハ〇五三〇ヨリ〇六〇〇ノ間ニ第二次攻撃隊ハ〇六四五
ヨリ〇七一五ノ間ニ収容ノ豫定

※「作戦時刻は日本中央標準時に依るべし」※

以上のとおり、
コタバル上陸作戦開始予定時刻「八日01:00<日本時間>」(八日00:00<現地時間>)。
真珠湾第一次攻撃隊発艦予定時刻「八日01:30<日本時間>」(七日06:00<当時の現地時間>)、
真珠湾空襲開始予定時刻「八日03:30<日本時間>」(七日08:00<当時の現地時間>)。
作戦・命令段階に至っては、攻撃開始「同一時刻」には設定されておりませんし、
元々の海軍構想段階でも夜間(暁の闇など)を想定していたに過ぎないようです。

なお、実際のコタバル上陸「01:30」につきましては、
例えば下記によれば日本時間と解されているようです。

〇件名表題:大東亜戦争全史草案 第3編其の1
[階層]防衛省防衛研究所>陸軍一般史料>中央>全般>概史>
大東亜戦争全史草案 第3編其の1
[レファレンスコード]C13071329500[画像]3
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C13071329500
<1/3>

然し英領馬来のコタバル沖に向かった香椎丸第二揚陸団長は、軍機電報を以て、
参謀総長宛「八日一時三十分コタバル東岸に上陸成功す」と報じている。
それは勿論日本時間であつて、正しくは真珠湾攻撃に先立つ一時間五十分前であつた。
即ち開戦の火蓋は、我が南方軍の先鋒たる佗美支隊の英領馬来上陸成功の時を以て、
切つて落されたのである。

ここまでで、
コタバル上陸作戦開始予定時刻「八日01:00<日本時間>」(八日00:00<現地時間>)に対し、
実際の上陸が「01:30<日本時間>」からと着手から半時間、
真珠湾空襲開始予定時刻「八日03:30<日本時間>」(七日08:00<当時の現地時間>)に対し、
実際の空襲開始が「八日03:19-20<日本時間>」(七日07:49-50<当時の現地時間>)で
予定より約10分早め。

さて、御提示のWiki「真珠湾攻撃」の引用箇所は、
ジョン・トーランド『大日本帝国の興亡』 2巻
「一部 開戦の聖断は下る 5 敵艦真珠湾ニ在リ」p.67 からのようですが、
さも急遽変更した如くの記述は、眉に唾する以外ありませんし、
「攻撃隊の発進は当初の予定より2時間遅れとなった。」の記述に至っては、
(作戦が「01:30発艦→03:30空襲」で実際の空襲が「03:19-20」で予定より約10分早め、
からすると、発艦は予定どおりのはず)、一体何時の時点の「当初の予定より2時間遅れ」
なのか、デタラメな記述で終始しています。

また、御提示の「アジア・太平洋戦争開戦に至る日タイ関係/林玉美」<9/12>の
「ハワイ諸島のパールハーバーと英領マレーを同時に攻撃するという戦略であった。」の
「同時」が仮に同一時刻の意味ならアウト、広い意味ならセーフでしょうが、
「直前になって、海軍が夜間のパールハーバー奇襲を断念して、」の
「直前」がどの程度遡るのか定かでないため、結果、何とも言えません。

さてさて、以上 前振りが長くなってしまいましたが、
大人の事情、ではなく文字数制限やその他諸事情により一旦失礼致しますm(_"_)m

頭の中では私、門外漢の私見はハッキリしていますが、
追加投稿用の文案は未定稿のままです(><)

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

Wiki「真珠湾攻撃」の記述を鵜呑みにして質問したのは恥ずかしい限りです。

以下を引用して質問したのですが、あまりにも具体的な説明なのでウラを取らず質問しました。
「真珠湾とマレーで一方が先行すれば他方の奇襲が成り立たなくなる。しかし源田の案により、暗闇での発艦を回避するため、攻撃隊の発進は当初の予定より2時間遅れとなった。この決定を軍令部が把握した時には命令変更の時間がなかったため、三代辰吉中佐がコタバル攻撃部隊へ伝達しないことにした。これにより、真珠湾攻撃はコタバルの2時間遅れとなった。

>「攻撃隊の発進は当初の予定より2時間遅れとなった。」の記述に至っては、
>(作戦が「01:30発艦→03:30空襲」で実際の空襲が「03:19-20」で予定より約10分早め、
からすると、発艦は予定どおりのはず)、一体何時の時点の「当初の予定より2時間遅れ」
なのか、デタラメな記述で終始しています。

よく解りました。
「お礼欄」には後日記入します。

補足日時:2015/01/14 20:33
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この回答へのお礼

毎回詳細に調べて下さって真にありがとうございます。

「国立公文書館 アジア歴史資料センター」を根気よく念入りに調べると求める資料を見つけることができるということがよく分かりました。
分かっていながら自分では積極的に調べようとせず、つい「質問」してしまいます。

「件名表題:大東亜戦争全史草案 第3編其の1」とありますから“草案”ですね。
草案だから面白い箇所もあります。

>然し英領馬来のコタバル沖に向かった香椎丸第二揚陸団長は、軍機電報を以て、
>参謀総長宛「八日一時三十分コタバル東岸に上陸成功す」と報じている。
>それは勿論日本時間であつて、正しくは真珠湾攻撃に先立つ一時間五十分前であつた。
>即ち開戦の火蓋は、我が南方軍の先鋒たる佗美支隊の英領馬来上陸成功の時を以て、
切つて落されたのである。

陸軍関係者が執筆すればこのようになるのですね。
「正しくは真珠湾攻撃に先立つ一時間五十分前であつた」と自慢しています。
公刊された戦史の記述を調べてみようと思います。

『京都産業大学論集』「日米戦争勃発と山本五十六に関する一考察/松川克彦」は面白かったです。
真珠湾攻撃は“極秘扱”だと思っていましたが、そうではないのですね。
全く意外でした。

(引用開始)連合艦隊司令長官がハワイ占領を話題にするくらいであるから、いたるところで類似した会話が行われたことであろうと考えられる。少なくとも連合艦隊では主要幕僚の間だけでなく、士官の間にも公然の秘密となりつつあったと思われる。 (中略)  軍令部がハワイ奇襲と対米英蘭作戦構想を陸軍側に通告するのは、8 月 22 日のことである 。(引用終わり)


コタバル攻撃の情報が米国に届いたのは、真珠湾が攻撃された後のこと(のはず)ですから、米国はそれどころではなかったでしょう。
この時期、米英ともに、特に米国は、日本軍がどこかの地域で戦争を仕掛けてくるはずだと、情報収集に最大限の注意を払っていたはずです。
それなのに“遅い”なと、思っています。

今回も丁寧なご教示に感謝申し上げます。

お礼日時:2015/01/15 21:09

再度、失礼致しますm(_"_)m



前投稿では「私、門外漢の私見はハッキリしています」と申し上げましたが、
暗号解読云々の話を持ち出しますと収拾がつきませんので、
あくまでも日本側の視点に立ったお話とさせていただきます。

あと、前投稿の後に下記の記述に出会しましたが、
〇村川淳一作:日本陸軍航空史
http://lab4.jp.apan.net/nishiko/murakawa/
その13:開戦劈頭の快進撃/
日本陸軍航空史(その13) ~開戦劈頭の快進撃~
村川淳一 08.3.21
<画面:29-30/49>
(2)コタバル上陸
最初の陸海軍協定では、ハワイ空襲が12月8日黎明(ハワイ時間04:30、日本時間00:00)
とされ、その他の正面の攻撃は、これ以降とされていましたが、11月下旬に至って、
ハワイ空襲時刻は、飛行部隊の練度の問題から払暁に変更されました。
しかし、他方面への攻勢は詳細に具体化されていて、その変更が困難ということで、
そのままにされました。

上記では全体の参考文献が六つ掲げられていますが、この箇所の根拠はハッキリしません。

なお、前投稿の「日出一、二時間前「オアフ」島の北方約二〇〇哩附近にて全搭載機
約四〇〇機を発進」のソースが『大東亜戦争全史草案 第2編』だけでは心許ないので、
改めて他を当たって見ましたところ、下記「昭和16年上奏関係書類綴」の中でも
「日出一、二時間前「オアフ」島ノ北方約二〇〇浬附近ニテ全搭載機約四〇〇機ヲ發進」
とあって、「哩→浬」を除けば内容に差はありませんので、
「ハワイ空襲が12月8日黎明(ハワイ時間04:30、日本時間00:00)」の件は、
十一月五日時点に上奏とは別に密約があったのか、
あるいはそれ以前の計画だったのか定かではありませんが、何れにしましても、
十一月五日時点で公であったのは「日出一、二時間前…発進」の方です。

〇件名標題:兵棋ニ依ル作戦計画御説明ニ関スル件 昭和16年11月8日
[階層]防衛省防衛研究所>陸軍一般史料>中央>作戦指導>上奏>
昭和16年上奏関係書類綴 巻1 昭和16年9月~16年12月
[レファレンスコード]C13071024900[年代域]昭和16年[画像数]28
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C13071024900
<4・5/28>

さてさて、
コタバル上陸開始予定時刻「八日01:00<日本時間>」(八日00:00<現地時間>)と、
真珠湾空襲開始予定時刻「八日03:30<日本時間>」(七日08:00<当時の現地時間>)との
両方が「同一時刻」ならば理想的なのかもしれません。
しかし、どうなのでしょう?

・「大東亜戦争全史草案 第3編其の1」
標題:第3篇 進攻作戦/第3章 布哇作戦
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C13071330000
<21/30>
…若し途中に於て発見せられた場合に於ては空襲決行日の二日以前ならば
空襲せずに引返すことゝし決行日の前日ならば強襲を行うべきか
又は引返すべきかは当時の情況により決定する如く考えられていた。

上記の如く、二日以前なら発見されれば引き返し、前日ならば情況により判断の
余地はありますね。
でも、
真珠湾第一次攻撃隊発艦予定時刻「八日01:30<日本時間>」(七日06:00<当時の現地時間>)
以降、百機以上が編隊を組んでハワイに向けて南下、
哨戒機や一隻の船にでも発見されれば、何時交戦になってもおかしくはありませんので、
発艦時点を基準に考えてもおかしくないように思います。

駆逐艦ワードやレーダー捕捉の件は省きますが、ある意味奇跡としか思えません。
戦略上ではハワイ攻撃が有り得ても、戦術を考慮してしまいますと、
航続距離・補給問題、魚雷浅瀬問題、哨戒リスクなど諸々を重ね合わせると
現地ハワイやワシントンを含め多くは実現は無理と高をくくっていたのでは
ないでしょうか?

なので、コタバル上陸情報がハワイ、ワシントンに届いたとしても、
フィリピン危機は浮かんでも、ハワイ危機には直結しないように思います。

以上 前振りが長くなってしまいました^^
肝心のメインテーマに言及出来ず申し訳ありませんm(_"_)m
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございます。

Wikiの記述
「しかし源田の案により、暗闇での発艦を回避するため、攻撃隊の発進は当初の予定より2時間遅れとなった。この決定を軍令部が把握した時には命令変更の時間がなかったため、三代辰吉中佐がコタバル攻撃部隊へ伝達しないことにした。」
は、いったいどこから出てきたのか、図書館でいろいろ調べてみましたが、そんなことを書いている本はありませんでした。
ジョン・トーランドの『大日本帝国の興亡』 2巻に出ているそうですが、まさか著者の創作ではないでしょうから、「三代辰吉中佐」の話は何の話と混線しているのか気になりました。

それにしても 吉備国際大学社会福祉学部研究紀要 「アジア・太平洋戦争開戦に至る日タイ関係」には、「直前になって、海軍が夜間のパールハーバー奇襲を断念して、午前3時30分(ハワイ時間の午前7時30分)に変更したため、……」と書いてありますが、この“直前”とは、説明文全体の流れからどう解釈しても出撃当日または前日となりますね。
この論文の著者にどういう意味なのか、聞いてみたいです。

今回も大変お世話になりました。
今後ともよろしくお願いいたします。

お礼日時:2015/01/16 20:36

質問に対する答えが抜けていました。



日本軍の進軍について、その日の内にワシントンには報告されていた。

これらが、ハワイに全て転送されていたかは疑問です。

いつ何時にハワイがコタバル上陸の詳細を知ったかは、当日中は無理でしょう。

ハワイは、日本軍の上陸作戦があるかもしれないので、慌てていて他の地域の情報には、目もくれなかった。

実際に、コタバル上陸を知ったのは、日本軍上陸作戦の危機が去った後でしょう。
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海軍の真珠湾攻撃は、深夜の攻撃の予定でしたが、確実性を高める為断念し、早朝攻撃に切り替えました。


これにより、コタバル、ハワイ同時攻撃は断念され、コタバル攻撃は、そのままの攻撃時刻が予定通り行われる事に変更なく、コタバル攻撃が先行される事となりました。
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コタバルからハワイへの通報により、真珠湾攻撃が防げなかったか?


についてですが、コタバル→ハワイに直通連絡ルートはありません。
コタバルは、まずシンガポールに通報します。
そこからは、オーストラリア経由です。
その後の経路は、直接ハワイなのか、サンフランシスコ経由なのか、またはサンフランシスコから更にワシントン経由なのかが、分かっていません。
ルーズベルト大統領が、日本の開戦を知っていながら、ハワイ、フィリピンに、意図的に第1弾を日本にさせる為、警報を流さなかったと言われる事から、ワシントン経由の可能性が高いでしょう。
別国であること、司令系統が違う事から、コタバル上陸から1時間2時間でハワイが身構える事は不可能です。
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この回答へのお礼

しつこい質問者に付き合ってくださってありがとうございます。

「コタバルからハワイへの通報により、真珠湾攻撃が防げなかったか?」とは聞いていません。
そこまでは考えていません。
せいぜい「ハワイの太平洋艦隊も何らかの対応策を採ることができたのではないか」程度の想像です。

この時期、米英ともに、特に米国は、日本軍がどこかの地域で戦争を仕掛けてくるはずだと、情報収集に最大限の注意を払っていたはずです。
そんな状況下で「西太平洋のコタバルで日本軍が戦争し始めた」情報がいつ頃米国に届いたのか、大いに興味があります。
ハワイだけではなくフイリピン駐留米軍にも直接影響があるのですから、真剣さの度合いを知りたいです。
なにしろ20世紀初めには、世界の英国領土(英、豪、カナダも当然)は英国の通信会社の海底ケーブで結ばれており、しかも軍事優先で使用されていましたから。
もちろん英米間大西洋横断海底ケーブルも1857年に敷設されています。

お礼日時:2015/01/12 12:46

ithiです。



どうやら、Wiki真珠湾攻撃によれば、外務省は日本時間の午前1時に国交断交手続きを行う予定だったようですね。だけど結果的に攻撃が2時間出撃が遅れたため、30分程度の遅れになっています。これが「だまし討ち」といわれるゆえんですが、時間的には初期の計画ではほぼ同時に行う予定だったと思われますが、機動部隊のほうが夜間発艦を嫌ったため2時間の遅れが生じた。しかし、この当時、2時間程度の遅れでハワイの太平洋艦隊及守備隊が完全な警戒態勢に入れるかといえば、大いに疑問です。確かにアメリカ軍にとっていくらか怪しい事件が多発していますが、彼らはおそらく日本軍を相当見くびっていたと思います。だから、気が付かなかったのでしょう。多分チャーチルが8日のうちにルーズベルトに伝達したしても、ワシントンにそれが届くころには、真珠湾は攻撃されていたでしょう。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございました。

お礼日時:2015/01/12 13:13

コタバルとハワイでは、6時間の時差があります。


日本は、対英国戦は、宣戦布告せずに強襲する事を決めていました。
大本営発表も『西太平洋において、入れり』ですから、ハワイの事ではなく、マレー作戦の事を指しています。

コタバルは深夜、ハワイは早朝と決められ、最初からコタバルが先に攻撃予定です。

コタバルでは、上陸用舟艇の乗船にとまどり、実際に上陸する予定時刻は、遅れています。
また、輸送船も、航空攻撃により、3隻の内1隻沈没、2隻も直劇弾を受けて、一時退避して一部資材、機材を喪失し、全部隊の上陸には、時間がかかっています。
主に、歩兵の突撃だけで、行われました。

実際、日本軍の強襲は、最初は混乱し25のトーチカ、鉄条網、航空攻撃、砲撃に悩まされましたが、
昼になり、形成は逆転し、強襲は成功し、夜襲により飛行場も占領しています。

米国が、いつ知ったかについては諸説ありますが、当日中としか言えません。
資料が特定できず、ゴメンナサイ。

少なくとも、コタバル→ハワイは直結ではなく、オーストラリア経由なので、
ハワイ空襲に、米国が備える時間はありませんでした。

以上で、答えになっているでしょうか?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>コタバルは深夜、ハワイは早朝と決められ、最初からコタバルが先に攻撃予定です。

ここが分かりません。
6時間の時差があることを見込んで、「コタバルは深夜、ハワイは早朝」と決められたのであれば、「作戦計画時の攻撃時刻」は同時刻ということではないでしょうか。
「最初からコタバルが先に攻撃予定」とする理由が分かりません。
下記資料では、「直前になって、海軍が夜間のパールハーバー奇襲を断念して、午前3時30分(ハワイ時間の午前7時30分)に変更したため、英領マレー奇襲は1時間30分先行することになった。」と説明されています。
質問ではwiki「真珠湾攻撃」を引用して「(真珠湾)攻撃隊の発進は当初の予定より2時間遅れとなった」説で質問しましたが、資料によっていろんな時間・時刻が出てきます。
「最初からコタバルが先に攻撃予定」であれば、真珠湾から目をそらすメリットがあるだろうと判断したのでしょうか。
日本が戦争をしかけてきたという情報がハワイに伝わるリスクに比べてメリットの方が大きいという判断でしょうか。

吉備国際大学社会福祉学部研究紀要 (13) 2008-03 「アジア・太平洋戦争開戦に至る日タイ関係」
http://ci.nii.ac.jp/els/110006633593.pdf?id=ART0 … 


>コタバルでは、上陸用舟艇の乗船にとまどり、実際に上陸する予定時刻は、遅れています。

このことが日本軍とりわけ真珠湾攻撃隊には幸いしました。
もし、波静かでスムーズに乗船できておれば攻撃時刻が早まり、その情報が英米により早い時刻に伝わることとなり、ハワイの太平洋艦隊も何らかの対応策を採ることができたのではないかと思いました。
そこで、コタバル攻撃の第一報がいつ米国に届いたのか、知りたくなりました。
ちなみに真珠湾奇襲成功の暗号「ワレ奇襲に成功セリ」は、奇襲攻撃の3分後に東京・大本営は受信しています。


>米国が、いつ知ったかについては諸説ありますが、当日中としか言えません。

諸説あるのであれば、いくつかの例を教えて下さいませんか。

お礼日時:2015/01/11 19:47

kouki-koureisyaさん、こんばんは。



どうやら、日本陸軍は英国に対して宣戦布告なしで戦端を切ることを最初から予定していたようですね。ここのところも海軍とは違うみたいです。ハワイ空襲は日本時間の12月8日午前2時40分です。初めて気が付いたのですが、攻撃は空襲ではなく、日本の潜水艦に対するアメリカの駆逐艦の攻撃からのようですね。それに対して、コタバル攻撃は午前1時20分でした。ハワイで空襲が起きたのは2時間後になるのですね。正確なことはチャーチルの第二次世界大戦回顧録に記載されていると思いますが、アメリカを戦争に引き込もうとしたことや12月8日に英国が日本に対して宣戦布告しているところから、その8日のうちに知らせたと思います。
詳細は下記のURLを参照ください。また、マレー作戦では宣戦布告をしないうちからの奇襲が意図されていたので、数時間は早く行うことが予定されていたと思います。


マレー作戦
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AC% …

チャーチル
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3% …

真珠湾攻撃
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%8F%A0% …
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>マレー作戦では宣戦布告をしないうちからの奇襲が意図されていたので、数時間は早く行うことが予定されていたと思います。
>コタバル攻撃は午前1時20分でした。

資料によって時刻はマチマチですが、wiki「マレー作戦」では、
「午前1時30分、コタバルの海岸線で英印軍第8旅団6,000名との交戦が始まった。」とあります。
この午前1時30分はコタバルの現地時間だと思います。
時差を正確に理解できませんが、日本時間では8日午前2時30分だと思います。
日本の特殊潜航艇が“国籍不明の潜水艦”として米軍に発見されたのが日本時間午前2時40分(ハワイ時間7日7時10分)です。

ハワイ時間7時10分には、第一次攻撃隊がハワイに近づいている頃です。
この攻撃隊は、質問にも書きましたが
「暗闇での発艦を回避するため、攻撃隊の発進は当初の予定より2時間遅れとなった」そうです。
予定どおりであれば、コタバル攻撃より真珠湾攻撃の方が先だったのではないか、という疑問です。

お礼日時:2015/01/11 19:39

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