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伊勢物語を読んでいて、小野の雪の小野は、比叡山の裾野だと云ふことですが、大原、山科、大津に小野が有り、木地師の祖伝説によると滋賀だと云ふ。

伝惟喬親王墓が大原にあるので、大原の小野だろうとずっと思っていたのですが、どうなんでしょうか?

質問者からの補足コメント

  • やはりそうですよね。しかし、Wikipediaの
    惟喬親王の項
    貞観14年(872年)病のため出家して素覚と号し、近江国滋賀郡小野に隠棲。
    木地師の項
    9世紀に近江国蛭谷(現:滋賀県東近江市)で隠棲していた惟喬親王が、周辺の杣人に木工技術を伝授したところから始まり、日本各地に伝わったと言う伝説がある。
    で迷った。
    大原から近江に移ったとすれば合点がいくのですが…
    因みにおらが町には小野小町の…という所が多数有り、山科の小野も其の一つとのこと。
    愚詠
    かき分けて行く先知れぬ笹の原小野とはいはじかへす涙は

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/03/02 22:05
  • 感謝
    貴殿の御回答読む毎に面白き。浅学の小生にとって原典を御提示頂く嬉しさよ。
    今後図書館で確認し,語りあえるにや。
    貴殿の質問は、見つつも小生には答ざらむや。

    愚詠
    小野の雪きえなば探す草の原跡をみつけし友の後追ひ

    No.4の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/03/04 23:21

A 回答 (5件)

『伊勢物語』第83段(『古今和歌集』970)は、先日「忘れては夢かとぞ思ふ」といふタイトルで質問したばかりです。

地名の考証については、私の能力の及ぶところではありません。たちまちは、手持ちの文庫本からパクリ回答をしておきます。

石田穣二訳注『伊勢物語』角川文庫79ページ
「愛宕郡の小野。修学院から大原にかけての地。惟喬親王隠棲の地である。」

久曾神昇訳注『古今和歌集』講談社学術文庫(四)122ページ
「京都市左京区一乗寺付近」

佐伯梅友校注『古今和歌集』岩波文庫225ページ
「京都市左京区八瀬の地」

窪田章一郎校注『古今和歌集』角川文庫219ページ
「京都市左京区。八瀬、大原のあたりで、比叡山の西麓。」
この回答への補足あり
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「補足」拝見いたしました。

滋賀県といふ説は初めて知りました。ネット検索は不得手ですので、少しだけ見てみました。

http://blogs.yahoo.co.jp/hikojuro/24625598.html

上記のサイトに京都説と滋賀説の両方が記載されてゐて、京都説を支持してゐるやうです。文献として『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』『日本紀略』『本朝皇胤紹運録』が示されてゐますが、持つてゐませんので、もう少し調べてみます。

小野小町伝説は、御指摘のとほりあちこちにありますね。それだけ魅力的な話なのでせう。

歌がお得意なのですね。「小野」探しもたいへんです。どこかに掛詞でもあるのですか。Oh, no.ではありませんよね。
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回答番号1,2のplapotiです。

きちんと調べたわけではないのですが、京都説の根拠のひとつは、『和名類従抄』なのだと思ひます。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2544218?tocOp …

上記サイトの「コマ番号31」愛宕郡(おたぎぐん)のなかに「小野」の地名が記載されてゐます。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2544219?tocOp …

他方、こちらの「コマ番号3,4,5」の近江国のデータには「小野」がありません。滋賀郡に「真野」はありますけれど。

『伊勢物語』『古今和歌集』のほかの注釈書を見ても、どれも京都説でした。Wikipediaが滋賀説を採用する根拠が不明です。私としては、一般的な解説のとほり、京都でいいと思ひます。

もう少し調べてみます。何もわからず、泣く泣く来にける、になりさうですけれど。
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またまたplapotiです。

回答番号3の追記ですが、山城国愛宕郡以外にも、山城国宇治郡や丹後国竹野郡にも「小野」がありました。質問文中で御指摘のとほり、山科も候補です。いづれにしても「比叡の山の麓」といふ表現にいちばんふさはしいのは、大原あたりです。

地名事典や人名事典にあたつてみたのですが、やはり通説にしたがつてゐました。『古代地名大辞典』(角川書店411ページ)の「小野郷 京都府京都市」を引用しておきます。

*** *** *** *** ***

「和名抄」山城国愛宕郡十二郷の1つ。訓は「乎乃」。現在の京都市左京区のうち、比叡山の西北にあたる山間地帯。..........西行に「みやこちかき小野大原を思出るしばのけぶりのあはれなる哉」の歌があるが(山家集)、都に近い山里であるこの地は、貴族の人々の隠棲の場所としても知られる。「保元物語」が「惟喬親王は清和の御門に位をあらそひまけて、御出家ののちは、比叡山の麓小野といふところに引籠給ひしかば」と記すやうに、惟喬親王の隠棲は著名であり、「源氏物語」にも「みやす所、もののけにいたう患ひ給ひて、小野といふわたりに、山里持給へるに」(夕霧巻)」とか尼らが「比叡坂本に、小野といふ所にぞ、住み給ひける」(手習巻)などと見える。
この回答への補足あり
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木地師など近江の問題に関しましては、



〇「史料としての傳説/柳田國男」
『史学 Vol4(No.2)/三田史学会/1925.5』(161-228頁)
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoon …
<25/68>(185頁6行目~)
近江に現存する惟喬親王の御異傳に關しては、近江輿地誌略以下の鄕土誌に、
若干の記述を見ないものは無いが、要するに取留めの無い話のみであつた。
特に此問題の研究書として、會津に於ける宮城三平氏の高倉宮御墳墓考に該當するものは、
田中長嶺氏の小野宮偉績考を随一とする。

(※『小野宮御偉績考/田中長嶺/近藤活版所/明33.8』)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780616/6

此書は明治三十三年の八月、本居黑川栗田等當時の史學界の耆宿、或は谷鐵臣、
品川彌次郎、其他の大家の題辭を冠して、堂々として出版せられた立派なる著作で、
其經營辛苦は優に講學者の範とするに足るものであつたが、
缺點を申すならば研究方法の無視であつた。
筒井八幡宮に屬する一切の文書を、無判別に信用したことであつた。

偉績考の斷定に從ふと、親王は貞觀二年、即ち御弟宮御即位の次の年の三月に、
水無瀨の閑栖を立ち出でたまひ、漂然として近江の山村に遊びたまふ。
御供の面々には藤原實秀、後に小椋の姓を下されて、緣起類には小椋太政大臣とある人、
筒井の神主大岩某が家の始祖である。或は阿野大納言と稱する阿野某、堀川中納言と傳へ
らるゝ谷後某などもあつた。秀麗なる山水をめでゝ、土民に命じて假
<26/68>(186頁)
の宮所を結構せしめたまひ、暫く御滯留ある間に、此地は古樹老木に富めり、
之を棄置くは國の寶を空うするもの也と仰せられて、轆轤の挽きやうを教へて日用の食器
を作らしめたまふ。轆轤は卷物の軸の紐に倣ひ、或は又櫧の実の[うてな]を見本となされて、親王自ら之を發明したまふとある點は、奈良に一百萬基の三重小塔などもある以上は、
信じ難いことだと田中氏も謂つて居る。

それから今一つ、是は相應に重要な點に於て、
土地の人が田中氏に讓歩せねばならなかつたのは、十九ヶ年の小椋御在住と、
此山中の御所に於て薨去なされたと云ふ主張であつた。
偉績考では此地の要求を二ヶ年に制限し、其後京に還つて伊勢物語にある御歌どもを
詠じたまひ、やはり洛北の小野宮に於て、御隱れなされたことに改めて居るのである。
斯くして出來る限り中央の記錄と一致させ、此傳説を信じ易からしめたのは、
大なる恩惠のやうに見えるが、しかも内々は其が所謂有難迷惑であつて、
成るべくは此書物の澤山賣れてくれぬやうに、祈らねばならない人もあつたのである。…

※下記は手元の下書き段階では各項目本文抜粋済みですが、
字数制限を超過しそうなので各項目名のみにとどめ、本文は省略しました。
未読でしたら、お時間の許す時にでも御覧いただければ幸いです。※

・『大日本地誌大系.第2冊/大日本地誌大系刊行会編/大正4.1』
「山州名跡志卷之五 愛宕郡」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879427/95
<95/309>(116頁下段4行目~117頁下段13行目)
○惟喬親王塔
○御所内
○今宮

・『大日本地誌大系.第3冊/大日本地誌大系刊行会編/大正4.4』
「近江輿地志略卷之三十一 志賀郡」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879431/131
<131/217>(240頁下段10~13行目)
○小野村
※近江国の中では最も比叡山に近い「小野(村)」ですが、
惟喬親王との関連記述は有りません。※

・『大日本地誌大系.第6冊/大日本地誌大系刊行会編/大正4.9』
「近江輿地志略卷之七十三 愛智郡」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879446/96
<96/244>(181頁上段15行目~下段16行目)
○蛭谷村
○筒井正八幡神社
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879446/97
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879446/98
<97・98/244>(182頁上段1行目~184頁上段16行目)
○君畑村
○大皇大明神
○惟喬親王墓

上記「史料としての傳説/柳田國男」・「近江輿地志略/寒川辰清」
両氏の記述を合わせ見る限りでは、
少なくとも近江の問題は払拭出来るように思いますが、如何でしょうか?

以上 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^
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この回答へのお礼

たくさんの資料を有難うございます。図書館で確認します。

お礼日時:2015/03/15 13:16

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