アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています。

維新後の西郷隆盛は政治力を失い、しばしば現実とは遊離した言動をするなどして周囲からは人が変わったようだ、と言われたようですが、そもそもそれが西郷の本当の能力だったのではありませんか?

西南戦争勃発の際、弟の西郷従道が、「幕末の兄の業績は私や大山巌などの献策によるもので、桐野利秋らに補佐された今の兄は大したことはない」といったような発言をしていますね。
また、勝海舟は西郷を指してのことではないが、「勢いを背負った者は実体よりも大きく見える。時代が定まってしまえば大した人物でない場合がしばしばある」とも言っています。
西郷は、もちろんそれなりに有能だったのでしょうが、薩摩人や日本人が好む雄偉な風貌と人好きな人物像により、周囲が勝手にその能力以上に持ち上げてしまった。
幕末の西郷の実力とは、要するに薩摩藩、薩摩士族の力であって、西郷個人の実力ではなかった。
その人となりを見るには、その人がどういう人を重用しているかも一つの判断材料と言いますが、軍事も政治も無能な桐野利秋や篠原国幹、チンピラのような辺見十郎太らを可愛がり重く用いた西郷は、しょせんはその程度の人間だった。
遣韓論での敗退や下野後の無気力な行動、西南戦争の完敗がその全てを物語っています。
多少、大袈裟な表現をしましたが、西郷に対するこの評価は妥当ですか?

A 回答 (5件)

西郷隆盛の能力は、そのカリスマ性にあると


思います。
人に担がれる能力ですね。

人を集めることが出来る、求心力です。

こういう人は、実務能力があまりありません。

人を集めることは出来ますが、具体的な戦略、
戦術となるとまるでお粗末になります。
それを補うのは参謀であり、側近であるわけです。

求心力のある人物がいて、有能な補佐官がいる。
そうして初めて大きな仕事が出来るのです。
どちらかが欠けても、ダメになります。

そういうことで、質問者さんの指摘は当たっている
と思います。
    • good
    • 2

私が知ってる程度て゛上野.鹿児島の銅像は別人です、暗殺恐れて写真撮らせたのは1.2回ですーその一つが大室寅之佑を中心に奇兵隊力士隊等との集合写真の端に写ってるのが本物の様ですね。


で西南戦争の真の原因は長州田布施朝鮮系政府との路線違いからかと、西郷は半島征伐で田布施系は半島保護派で、後の半島統治に日本東北等のインフラ放って置いて現代価値で50兆から100兆も半島に血税は明治政府有力者の祖国が半島だと見る方が正しいかと、血税を半島にの言い訳で露南下の防波堤とか言ってますが、であれだけ未開だった半島にインフラ等しても、現代のこのザマですねー。
    • good
    • 1

それだけでは、妥当と言えるかどうかは、


わかりもはん。

ただ、西南戦争が負ける戦だったと判って起こしたとか、
西郷が担ぎ上げられて、仕方なく立ったとかは、
歌舞伎か何かの世界で美化されたんじゃないのかな?って思います。

熊本城さえ奪えれば、九州の諸大名が反政府を打ち出すであろう。
そうすれば、全国で特権を奪われた士族が反乱を起こして、
政府を転覆することができる。とそれなりの戦略を打ち立てていたからです。

西郷さんは、無能といえば、無能かも知れませんね。
薩長同盟も、すっぽかすし、
どう見ても、決断力のある時代のリーダーって感じがしませんよね。
のらりくらり、強い者の味方~って感じがしてならないです。

征韓論も、ちょっとね。
朝鮮王国の事情を知っていれば、征韓論って発想にならなかったと思います。
これまで、徳川家は「王」という名で、対等な立場を築いていたにも関わらず、
いきなり、天皇、「皇」という王より上の立場で親書を送っても、蹴られるのは、
当然です。
そうとも知らず、無礼だーって征韓論を唱えるなんて、愚の骨頂でしょ。

人情に厚かったっていうのも、薩長同盟成立のエピソードを見たら、そうでもないように
思えるし、単に勢いでわーってやる人でも無さそうだし。
だからと言って大久保利通みたいに策を弄する人でも無さそう。。。

単に、公武一体政策のとき干されてたっていう理由だけで、担ぎ出された人に
思えてならない。って言うのは言い過ぎかな?
    • good
    • 0

西南戦争は 負けるべくして負けた 戦いです。


戊辰戦争で 無くなった戦士の碑を作り 九州に帰った時点で 終わっていたのです
本人の意に反して 政局にかり出され 仁義あつきが故の 西南戦争です
実力など伴わなくても人に担ぎ出された人間の行く末は武士として死に場所を求めていた
としか思えません
歴史学者や物書きは 書くのが仕事で 書かないと金になりません
死んだ人は反論出来ないので好き勝手な仮説を立てます
それに振り回されず自分の中で納得のいく歴史を見ましょう
    • good
    • 1

時代の変化(武士の存在を否定)についていけなかった。


薩長同盟の長州側、桂小五郎も、維新後は愚痴ばかりこぼしてしたそうです。
倒幕→(仮)薩長政府の立役者だった二人は、薩長幕府でない新政府の形に不満があったのだと。

維新後、政府要人が渡航し、西洋の政治を学んできた結果、居残り組との間に思想的な溝が出来た。
渡航組は、居残り組の代表格の隆盛を排除せざるをえなかった。
 歴史は勝者によって創られる原則が、隆盛の後半生にも適用。

隆盛の一番の長所は、漢の高祖、劉邦や、三国志の劉備のように、多才な人材を集め、一つにまとめる能力。
維新までは、それで薩摩藩を束ね、薩長同盟や江戸城の無血開城という功績を立てた。
 新政府になってからは、逆にその影響力を恐れ警戒されて、新政府内でめだつことが出来なかった。
 隆盛という神輿を担いだからこそ、西南戦争があれだけの規模になったともいえます。
当時、没落した武士による反乱っぽいことが多発してましたが、どれもすぐ鎮圧されてます。
    • good
    • 1

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!