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「これのどこが美しいというのだ?」
『イフィゲネイア』の上演のあとで、かの幾何学者が語った。
「あれでは、何も証明されていないではないか!」と。
ギリシア人はこのような趣味とは無縁だったのだろうか?少なくともソポクレスでは、「一切が証明されて」いる。
(フリードリヒ・ニーチェ『喜ばしき知恵』第二書81 村井則夫訳 河出文庫 154ページ)

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現存するギリシャ悲劇では、『イピゲネイア』の作者はエウリピデスなのですが、ソポクレスは何を証明したのですか。

A 回答 (2件)

こんにちは。


お礼有難うございます。「ヨーロッパの根底を理解している」などとは言えないのですが、ニーチェの原文をまず探しまして、気になる語、「Feldmesser」と「Iphigenie」の2語で検索したところ、「ゲーテ時代に関する研究」(ヨスト・シッレマイト著)という書物が出たのです。
https://books.google.co.jp/books?id=1pflZdPVj3sC …

著作権のある書物なので、一番読みたいページが閲覧できなくなっていて残念でしたが、とにかく、ニーチェのこの文章の出典は、Claude-Adrien Helvétius(クロード=アドリアン・エルヴェシウス)の「De l'esprit(精神論)」(1758年)だということです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AD% …

調査しようと思ったのは、「幾何学者」というのが誰のことなのかという疑問が起きたからです。古代ギリシャの人かと思いました。ニーチェの原文を見ると、Feldmesserとなっているのですが、この言葉を見てすぐに連想するのは「測量士」です。それが引っかかったので、先ほどのような検索をしました。エルヴェシウスの「精神論」は、ショーペンハウアーも「意志と表象としての世界」を書く前にかなり読んでおり、書き込みや、二重、三重に下線が引いてあるところがあるそうです。Feldmesserは、フランス語のgéomètreの訳語で、Geometerの代わりにこの語を当てるというのは、1880年頃には普通とはいえないようです。最初私は、「幾何学者」は誤訳かと思ったのですが、最終的には「幾何学者」で正しいことがわかりました。ニーチェの蔵書にも「精神論」はあったのですが、フランス語の原書などはなく、この翻訳1冊のみということです。これは、1760年に、フォルケルトという人物のドイツ語訳で出たもので、Feldmesserの語のほかに、原文で能動態になっているところを受動態で訳しており、ニーチェもそれを踏襲しているなど、細かいテキストの問題があります。引用されたのは、「精神論」第6章「du bel esprit」で、訳はしませんが、場所の特定のために、引用しておきます。

Ils sont presque tous, plus ou moins, semblables à ce géometre devant qui l’on faisoit un grand éloge de la tragédie d’Iphigénie. Cet éloge pique sa curiosité ; il la demande, on la lui prête, il en lit quelques scenes, et la rend en disant : pour moi, je ne sais ce qu’on trouve de si beau dans cet ouvrage ; il ne prouve rien.
http://fr.wikisource.org/wiki/De_l%E2%80%99Espri …

最後の「il ne prouve rien.(それは何も証明していない)」が、フォルケルト訳で「da doch nichts in demselben bewiesen wird」と受動態になっており、ニーチェもこれをもとに「es wird Nichts darin bewiesen!」と書いています。エルヴェシウスの「精神論」は、今のところフランス語の原文しか見つけられないので何とも言えないのですが、どうもここでは、コルネイユやラシーヌなどに対する無理解を批判しているような感じでもあるので、ここから「ギリシャ的な趣味」へなぜつながるのか、ニーチェ自身の思想をアフォリズムとして書くための下敷きにしただけではないのかという疑問を持っています。エルヴェシウスの方には、ソフォクレスは出てきません。ラシーヌの「イフィジェニー」を探して見たところ、フランス語のテキストに、英語の序文がついているものがありました。英語の訳はちょっと遠慮しますが、ラシーヌの戯曲とギリシャ悲劇の比較がかなり詳しく書かれているようです。たとえば、ラシーヌの場合はプロットが細部まで入念に準備されており、曖昧なところがないのに対して、ギリシャ悲劇の場合はもっと簡潔で、個々の性格については、観衆の想像力に任せているということが書かれていました。ほかにもかなり細かい比較があり、この英文を読破すれば、ニーチェの言わんとするところがある程度わかるかもしれません。

Racine: Iphigénie(序文10ページ以降)
http://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=mdp.390150 …

なお、「幾何学者」はだれかという点ですが、「イフィジェニー」初演の翌年に没した、ジル・ド・ロベルヴァルであるようです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%AB% …

そして、Montuclaという数学者が18世紀に書いた数学史では、ロベルヴァルを弁護して、「イフィジェニー」に関するエピソードは、ただの作り話かもしれず、あるいは、作品が本当に面白くなかったので、自分の趣味の例を、「幾何学的冗談」とでもいうやり方で挙げただけではないか、という記述があるようです(最初にリンクを張った、「ゲーテ時代に関する研究」の559ページ)。

調べていくと、半分おもしろく、半分ややこしいですが、ラシーヌとギリシャ悲劇の比較は面白そうです。ラシーヌは、残念ながら持ち合わせていません。「ギリシャ悲劇全集」全4巻はあるのですが、大昔、芝居を見に行ったときに何か一つ読んだ程度で、とても回答できるだけの知識がありません。
ここはこのぐらいにして、あとでほかの御質問の方にうかがいます。
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この回答へのお礼

きはめて詳細な追加回答に感謝してをります。Tastenkastenさんは検索能力も高いうへに、資料を充分に消化したうへで、ひとつの見解として文章にしてくださるので、説得力があります。それにしても、知らない人がたくさん登場してきます。ニーチェの理解は、蜀山人以上に厄介です。一般に言はれてゐるやうなことは、かなりニーチェを誤解してゐるのではないかと日頃思つてゐるのですが、ますますそのやうに感じました。先日の小林秀雄とは異なり、ニーチェは古典文献の専門家ですから、どこまでが本心で、どこまでが冗談なのか、私のやうな素人では見極めがつきません。

>「幾何学者」はだれかという点ですが、「イフィジェニー」初演の翌年に没した、ジル・ド・ロベルヴァルであるようです。

幾何学者の名前までわかるのですね。作り話だとすれば、御本人は苦笑してゐることでせう。

>ラシーヌとギリシャ悲劇の比較は面白そうです。

ラシーヌ『フェードル』とエウリピデス『ヒッポリュトス』を比較すると、題材は同じでも、雰囲気はまつたく別物で、神話の世界における神の役割が失はれたために、人間の性格へのきづかひが必要になつたのではないかと推測されます。「機械仕掛けの神」も古代においては便利なものでした。神によつて人間の活動が制限されるといふ見方もありますが、私は逆に、神のせいにすることで、人間の姿を何でも描くことが許されたのではないかと思つてゐます。ほかにセネカ『パエドラ』もあるのですが、積読なのでこの機に読んでみるつもりです。

>Claude-Adrien Helvetius(クロード=アドリアン・エルヴェシウス)の「De l'esprit(精神論)」(1758年)

「何も証明されていない」の出典までお調べくださり、ありがたうございます。歴史カテゴリのアレクサンドロス大王や、哲学カテゴリの孔子に回答したのですが、さつぱりわかりません。アレクサンドロスのほうの質問者は誠実な考への人のやうで、もしお判りでしたら、お願ひします。

アリストパネスの影響もあつて、エウリピデスとソポクレスの比較だとばかり思つてゐたのですが、フランスとギリシャの相違だつたのですね。いつもながら、Tastenkastenさんの的確な御指摘には、まゐります。

お礼日時:2015/04/26 16:12

今日はもう遅いので、明日もう一度確認しますが、ニーチェのこの文章は、Helvétiusという人の著作に基づくのではないかと思います。

「イフィゲニア」は、エウリピデスのものではなく、ラシーヌの作品である可能性があります。Helvétiusの著作とラシーヌのIphigénieの内容が確認できないと、何を言おうとしたのかわからず、回答不可能で終わるかもしれません。
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この回答へのお礼

御回答ありがたうございます。ソポクレスの名がでてくるので、エウリピデスだと思ひこんでしまひました。ニーチェの語り口にだまされてはいけない、と注意はするのですが、いつもはまつてしまひます。エウリピデスには『アウリスのイピゲネイア』『タウリケのイピゲネイア』の2作品が現存してゐますから、単に『イフィゲネイア』では変だとは感じてゐたのですけれど。ラシーヌは『フェードル』しか読んだことがありません。もちろん日本語訳で。岩波文庫の旧版のほうです。新版の解説をみると、御指摘の『イフィジェニー』についても記載されてゐました。Helvétiusについては、まつたくの無知です。ニーチェは読者が古典作品の知識があるものとして記述してゐますので、私のやうな者ではなかなかついてゆけません。かういつた著作を的確にとらへることができるのは、Tastenkastenさんのやうにヨーロッパの根底を理解なさつてゐる方なのでせう。

ニーチェ『喜ばしき知識』の新しい翻訳が目に入つたので買つてきたのですが、すこぶる読みやすい日本語です。ドイツ語原文と比較してゐませんので正確さについてはわかりませんが、訳本が気に入つたので、この中から何件か質問を立てました。有名な「神は死んだ」は、もう不要でせうけれど。世間一般でとらへられてゐる意味は違つてゐると思つてゐます。

お礼日時:2015/04/26 07:43

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