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キリスト教の戒めの中に同性愛などを含むLGBTなどを否定する要項がありますが、以前ニュースでクリスチャンの両親がトランスジェンダー(性同一性障害)の息子に対して激しく叱責して否定して、その息子さんが自殺してしまったことがありました。
このようなことから戒めが全てでないと考えをもつようになりましたが私の教会の先輩教会員の方があくまで知恵の言葉や戒めを守ることが最前提でものごと考えることが大切をおっしゃっていました。
たしかにニュースででてきた両親の対応は良くなかったですが、だからといって女の子になっていいって言ってもいいわけではないともおっしゃっていました。
私は少し模索しています。
私もGIDでLGBTの当事者です。
私の場合はMtXなので服装も異性のものを着ることがありますので戒めを守っていないことになります。
他にも純潔の律法は結婚してからなら行為に及んでもオーケーでしょ。
しかし、欲に押されて安易な早期結婚をしてしまい、スピード離婚&子供は片親だけ。
たしかに知恵の言葉も戒めも破っていませんが、人としてあまりよろしくないように思います。
ちなみに私は末日聖徒です。
聖書以外に聖典を持つことが異端と言われている教会です。
しかし、今回はそういったことで論議するつもりはないので、文頭の内容だけでのご返答をお待ちしております。
戒め、知恵の言葉を守り続けて人としての良心を失ってしまったら日の栄にいけないと私は独断で考えています。
皆さんはどのようなお考えをお持ちでしょう。

余談ですが、末日聖徒はたしかに祝福を感じます。
もちろんモルモン書も同様に。間違いなく聖典のひとつです。
これは願いでもありますが、末日聖徒がどういう目的でできて歴史背景をあまり知らず、まわりに流されて非難してくださらなければ幸いです。
この教会員のかたもクリスチャンです。

少し脱線してしまい失礼いたしました。
ご回答よろしくお願いします。

A 回答 (2件)

どうも、元クリスチャンです。


一応聖書を勉強していたので、同じ土台では話せると思います。

トランスジェンダーは極めて難しい問題でしょうね。聖書時代にもいたことはいたでしょうが現代よりももっとマイナーな問題だったハズですし、それが人間の頭の中の脳という物質の障害だなんて思いもつかない時代だったでしょう。
確かに聖書では同性愛を非としています。「男同士で寝るもの…は神の王国を受け継がない」という聖句があるからです。ですがそれが“障害”であるなら別の対応をすべきかと思います。
冒頭で仰ったニュースに対して言うのならば「同性間の性行為は咎められるべきだが、同性に対して恋愛感情を抱いてしまうということそれ自体を咎めるべきではない」と思います。それは障害であって本人のせいではないからです。言い方は悪いですが「行為に及ばないウチは障害に対して正しく配慮してあげるべき」と思います。
組織も聖書時代よりもはるかに多様化してきている障害などに対しての対応を模索しているんだと思いますよ。でも組織である限りホイホイ変わることが出来ないから、一教会員は不条理を感じるのでしょう。

>他にも純潔の律法は結婚してからなら行為に及んでもオーケーでしょ。
純潔の律法、というのが具体的に何を指しているのか今一つわかりませんが、聖書は別に性行為自体を否定しているわけではありません。夫婦間のみに与えられた特権、として書かれています。性行為を、過度に汚れたものや卑しいもののように捉えるのはそれはそれで神様の本意ではありません。神聖な、愛の表し方と捉えるべきです。ただ、夫婦間のみに認められた、という条件が付くだけ。

離婚に関しても、聖書はそれ自体を罪としているわけではありません。聖書において離婚が認められるケースはどちらかが姦淫を犯した場合のみ。即ち不倫して別の誰かと肉体関係を持った場合のみ、に限られます。
それ以外の理由でも、別に法的に離婚する分には罪とはなりません。法的に離婚したのちに別の誰かと肉体関係を持った瞬間に罪となります。
姦淫による離婚以外は、法的には離婚しようが神様から見ればまだ二人は夫婦だからです。

>欲に押されて安易な早期結婚をしてしまい、スピード離婚&子供は片親だけ。たしかに知恵の言葉も戒めも破っていませんが、人としてあまりよろしくないように思います。
その通りでしょう。ただ、聖書には「若さの盛りが過ぎるまで交際、結婚は控えるべき」というアドバイスがあり、「結婚は神聖で強固なものであり、姦淫以外での離婚はできない」というアドバイスがあり、「子供には両方の親が必要である」というアドバイスがあります。
罪、ではありませんが、全然アドバイス聞かないヤツ、ということにはなりますね。
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仏教でも、”釈迦の教えさえ、千年もすれば変わってしまうだろう”という文言がありますが、人間の罪に対する意識も、社会背景の移り変わりに従ってどんどん変化してゆく様子です。



聖書には、姦淫の女は石打の刑などというくだりがあります。離婚も罪でしたが、アメリカでは50%の夫婦が離婚をしています。”神の教えへの冒涜”の意識はどんどん薄れていっています。そして、同性愛者同士の結婚、さらに、トランスジェンダーの子供たちへの教育、と問題がさらに進んでゆき、今まで、噂話でしかなかったものが、社会問題に取り上げられて、自己の性に関する認識の違いは、タブーではなくなりつつあるように、私には感じられます。

個人の尊厳を尊重するならば、それが当然の流れといえます。

当代のローマ教皇も、”同性愛問題については、私が審判を努める問題ではない。それは、神に委ねる”という風に、前世紀の常識からは、一歩も二歩も譲歩するコメントを出されておられました。

農業や放牧を生活基盤としていた聖書時代の社会では、子供を沢山作ることが、家族が豊かになるための必要条件でしたから、後裔を生み出すことのない同性愛やトランスジェンダーが、”破壊的=罪”と見られたのは、納得できることなのですが、二千年経って、いかんせん、時代遅れの部分もあります。

ただ、私が読む限り、イエス・キリストの口から出た言葉、たとえ話や教えは、いつ、いかなる場合に読んでも、新鮮に心を打つことが多いと思います。”神を敬い、隣人を愛せ”というのが基本です。トランスジェンダーの方々も、隣人であることに変わりありません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
たしかに時代の移り変わりで変化している戒めがあるように時代によってなのかもしれませんね。

お礼日時:2015/05/11 11:13

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