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今日のNHK大河「花燃ゆ」を見ながら不思議に思ったのですが、なんで藩士でもなかった「医者坊主」が急に京都で朝廷を動かして、長州藩の攘夷の先頭に立てるんでしょうか。

「大河ドラマをもとに語るな、このド素人が!」というのはひとまず置いといてください。
いずれにしても、ただの塾生?が突然、長州藩攘夷の中心人物の一人に踊り出たのです。その要因、経緯等、ご教示いただきたくよろしくお願いいたします。

A 回答 (2件)

大河ドラマは見ないし、詳しいことは知らないのですが、長州藩には上級武士であるか下級武士であるかで差別することがそれ程ひどくなかったようです。

もちろん、婚姻のときなどは、格の同じような家同士でする、それはありましたし、基本的に上下関係の厳しい江戸時代の社会ではありました。
 久坂の場合は武士ですらないですが、医者はまぁ、江戸時代は実際のところ、武士みたいな感覚で世間から扱われてました。
 蛤御門の変の後、つまり、久坂の死の後に長州藩で大活躍した大村益次郎(おおむら ますじろう 靖国神社に銅像が立ってますね)も身分を言えば医者です。それも、長州藩のお殿様がいる、日本海に面した萩城下に住んでた医者じゃなくて、瀬戸内海側の田舎の鋳銭司(すぜんじ)という所のしがない医者でした。それが、土佐藩に仕えていた時に実力を買われて(ヘッドハンティングされて)長州に戻り、第2次長州征伐では長州藩の軍事総指揮を取り、な、なんと天下の幕府軍を破り、倒幕に大きく貢献しました。
 久坂も実力、人柄を買われて、いろいろな場面でいろいろな人から引き立ててもらったようです。引き立ててもらうには、引き立ててくれる人がいないといけません。キラッと光る人を見つける目を持った、引き立ててくれる人たちがいたのです。引き立ててくれる人たちの一人が、吉田松陰であり、周布政之助(すふ まさのすけ)でした。
 他にもいたようですが、この周布政之助には特に引き立ててもらったようです。長州藩の藩政改革で活躍した人です。長州藩は、他藩もそうですが、何度か藩政改革を行っています。その中で一番有名な改革を行った、村田清風(むらた せいふう)という人がいますが、この人の系列(かわいがった人)の一人が周布政之助でした。
 周布(すふ)は農兵を作ることを提案し、作りました。農兵は他の藩でもありましたが、武器を持つのを武士だけに限定しない、農民にまで国防の役割をやってもらう、これが高杉晋作の奇兵隊へと自然とつながって行きます。(高杉晋作は身分に関係なく集まった奇兵隊を作ったことで有名ですが、決して身分制度を否定し人はみな平等だなどと考えていたわけではありません。江戸時代の人間にとって身分制度は空気のように当たり前で、高杉はむしろ身分にうるさいほうの人でした。自分が家老の家柄に生まれたので。)
 周布(すふ)政之助はいろいろと改革をしましたが、農民として生まれた伊藤博文を含む5人の若者を英国へ密航、留学させるという、国法無視、幕府無視のことを推進したのも周布政之助でした。(もちろん他にもこの密航留学を推進賛成した藩幹部はいましたが。)
 伊藤博文は農民の生まれで、足軽の息子です。足軽なんて、まともな武士からすれば、「足軽なんか武士じゃねぇだろ。」な身分でしかありませんが、なんと選ばれて藩主様の御命令を拝しエゲレス(英語)へ留学!
 国(長州藩)のためなら、あれもやろう、これもやろう。お国(長州藩)のためなら何でもアリィ~、ってことです。ま、合理的と言いますか。

 長州藩(毛利藩 もうりはん)は、遠い昔、関ヶ原の戦いで負けて中国地方ほぼ全部だった領地を今の山口県1県の面積に減らされました。たくさんのサムライも要らなくなり、相当数のサムライが藩内各地に散らばって実質的な農民になります。身分的には武士は武士なんだけど、お殿様から禄(ろく)は出ない。仕方がないので農業する。
 吉田松陰のお父さんの日記が残っていますが、ほぼ「農業日記」状態。吉田松陰のお父さんは城下町から川を渡ったところに住んでいましたが、長いこと禄が無い、無禄の武士で毎日毎日農業やってたんです。
 藩内の山奥やへき地に住んで農業ばっかやってる人でも、「うちは武士。いざとならば、お殿様のために駆けつけまする。」と思って、先祖伝来の甲冑の手入れを怠らない、いわゆる郷士がたっくさんいたのです。実際、幕末に米国の商船が日本海沖に姿を現し、薪と水を求めて近づいて来たのに対し、在郷の武士(日頃は漁業と農業)がすばやくヨロイカブトに着替えて大砲をぶっ放しています。反撃されて人家燃やされちゃってますけど。(旧日置町(へきちょう))
 幕末に長州藩が外国からやられるわ(下関戦争)、幕府からはやられるわ、朝敵にまでなっちゃって、もう藩滅亡だというときにエネルギーを結集して、歴史を動かせたのは、いっぱいいた郷士とその意識に日頃から触れていた藩民の存在によるところが大きいかもしれません。
 こんな感じで、長州藩において身分は普通にあるのはあったけど、割りとゆる~めの感じだったようです。そして繰り返しになりますが、実力のある人間を引き立てて「やらせてみよう。」「羽ばたかれよ。」という人たちがいたってことですね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
なんだか、ものすごくわかりやすかったです。
正反対なのが土佐藩ですね。
長州藩には出る杭を伸ばす土壌があった訳ですね。

お礼日時:2015/05/27 21:16
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この回答へのお礼

最悪ですね

お礼日時:2015/05/27 21:12

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