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キリスト教を念頭に置いてますが、他の宗教の回答でも感謝します。

創造主、全知全能である「神」は本当にいますか?

かつては「いた」という過去形でもいいです。

ニーチェの「神は死んだ」というとこまでくくるとちょっと大きくなりますが、これは「いた」という事で解釈してもいいのでしょうか。

「信じている」から「いる」ことになるのですか?
信じなくとも「いる」のですか?

うまく説明できないけれど、なんだか頭のなかでもやもやします。

A 回答 (30件中1~10件)

例えば、インド発の宗教では、神という存在は実際にいたことになってますね。

少なくともそう主張する宗派がある。その神々の中には全知全能というタイプもいたのかもしれない。でも、その方が全知全能かどうかを我々はどうやって知ることが出来るのでしょうか? その方が全知全能であると分かる事自体、矛盾してはいませんか?
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全ての存在は対象があって成り立ちます。


神がいれば必ず悪魔も存在することになります。
それは善があれば悪があるのと同じことです。
人間の都合で善悪は判断されます。
善悪の基準は神が決めているのではなく人間です。
善と悪とははっきりしたものではなく、その時の状況などで変わるものです。
イスラム国にとってキリスト教国などを攻撃することは、聖戦であり善です。
キリスト教国にとってイスラム国の攻撃は、テロであり悪です。
イスラム国もキリスト教国も一神教ですから、同じ神です。
同じ神がそれを信じる人間同士を争わせるのは矛盾しています。
本当に神がいるのならばこのような矛盾は起きないはずです。
ニーチェがいうように神は死んだといえるのではないでしょうか。
例えば人間のテクノロジーが発展して、人工知能の感情をもったロボットを作ったとしよう。
そのロボットは繁殖できるようにもなり、しまいに人間も地球上からは絶滅してしまいます。
ロボット達は未来に存在するが、それを作った人間は死んでいないのです。
ロボット達にとって人間は創造者であり神なのです。
これはSF映画でも見たほうが勉強できるかもしれないですね。
AIという映画やブレードランナーという映画が参考になるので観てみてください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AC …
https://ja.wikipedia.org/wiki/A.I.
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「神」と言う語句の意味は実に幅広い。

キリスト教の創造主から松下幸之助もいまは「神」ですし、AKB48は生き神様ですかね。キリスト教では創造主を神と呼んでいるし、神道では自然霊も先祖も神ですし、日本では偉人も神として祀ります。
これら全部間違いではないんですよ。というか「神=GOD」と限定させるほうが本来の神の定義に反しているのです。
本来の『神』の範疇には創造主も、天使も、弟子も、聖人の一部も悪魔さえも入ってしまいます。つまり本来の意味からすれば「一神教など存在しない」のです。
神とは「人智を超えた存在」と言う意味です。スキージャンプの葛西選手はレジェンドと呼ばれていますけど、彼も日本流に言えば「神」なのです。
葛西選手も二宮尊徳も松下幸之助も応神天皇も吉田松陰も実在します。だから「神は実在する」は正しい。

次に全知全能の神(=主)と言うものが存在するのかといえば存在するともいえるでしょうね。ただし、聖書に描かれたものを主だと考えるなら無理があります。既にカトリックの世界でも多くの人は「聖書は神の世界を人間に示すための手段」としか考えていません。聖書が人間が編纂したものだという認識が広がっています。でもそれは創作ではなく特定し難いものを幾つもの証言からまとめたものだと言うことです。
神が何らかの大きな意思、エネルギーだと考えていけば、存在しないわけはないと考えても不思議でもありませんでしょうね。
居ないとか居たとか言う考え方は、私にとって見ればせせこましい神の定義でしかなく、そんな小さな概念の神を神と呼ぶのであれば「そんな神などハナから存在しない」ともいえます。
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真実の言葉は簡潔であるらしい。



火の無いところに煙は立たない、とよく言いますが、この簡潔な言葉は真実を表していると思えます。

だから、やっぱり、居るんではないでしょうか。
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私の理論では、神は存在します。



数式で示すと、時間の正体、神の数式、(T)=(M±)±(E) となります。。

(T)とは、宇宙であり、時間の正体であり、神の正体です。。
(M)とは、物質です。
(E)とは、エネルギー、すなわち、E=MC^2 、 (MC^2)です。。

つまり、この世は、物質MとエネルギーEが互いに変換を繰り返しているのですね。

これは、(物質Mによる、有 )と (反物質、エネルギーE = 無 )の、せめぎ合いを示していますね。

。。。

有と無の、せめぎ合い。。繰り返し。。
。。。

まるで、オスとメスのようではありませんか??


。。。

宇宙時方程式 (T)=(M±)±(E)

これが、宇宙の正体であり、時間の正体であり、神の正体です。。

。。。

。。。

では、今日は、この辺で。。

ごきげんよう。

逆転地蔵。。

。。
。。
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「神はいるのか?」


→いるでしょうね。
ただし、多くの人が信仰している神です。
信仰していない人には、神はいないし、必要もありませんね。
「信じているから、いることになるのですか?」
→その通りです。
「信じなくとも、いるのですか?」
→いません。
ニーチェの考えも、単なる一人の考えです。
ニーチェが多くの人達を代表しているわけではありません。
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№11&13&23のおぎないです。



 ○ 全知全能で至高の善だと見られる神が 創造主としてつくった人間の世界に どうして善のほかに悪があるのか

 30. 《無い神》派は どうでもよいと見なす《天地創造》の――けっきょくは一つの補助線として引かれた――物語について考えます。物語を編んだからには 辻褄の合うように説明するか それともその補助線を捨てるかしなければならない。

 31. でも かんたんです。神の善は 至高であり絶対であるが 人間の善は 相対的なもので 移ろい行かざるを得ない。よって その――存在としての・あるいは基本的に自由意志としての――善は 朽ちるべき(朽ちることが出来る)ものであり 傷をつけられ得て 欠けが出来る。

 32. すなわち 人間は 善なる神に似せて造られたけれど その善は 絶対ではないから 損傷が出来 欠けて来る。何によってか? おのれの意志によってである。意志の自由は おのれ自身の善を傷つけるという自由度をも持つ。

 33. エワとアダムが おのれの心にさからうというウソをつきイツハリを侵した。この自由度において 善なる存在のその善は 損なわれた。その損傷行為と結果としての善の欠け これを 負の善という。ひと言では 悪と言う。

 34. すなわち 悪の出現は 人間の自業自得である。この自由意志ないしその自由度は 神があたえたものである。すべて〔と言ってよいほど〕その意志自由にまかせたわけである。

 35. ただし 悪とは その名でよぶ《善の損傷または負の善》なる現象があるだけである。《悪》という独立したものが 善のほかにあるわけではない。善に敵対するものが――それをやはり物語として《悪魔》と呼んで話を 補助線として編む場合はあるが――実際に存在するものではない。おのれの意志における自由度から来るのみ。光も曲がる。

 36. かくて 人間の世界は 有る無しが経験事象としてあり 時間的に因果関係においてコトがはこばれ その思惟や行為には 善と負の善(つまり悪)とが入り組みつつ混ざり合っている。

 37. 神は 善悪の彼岸でありそれとしての善である。時空間を超えているので 因果関係から自由である。経験的に有るとも無いとも 人間が決められない存在である。

 38. この神について 人間は仮りに表現して《有る》派と《無い》派とに分かれて 互いにそれぞれ自己表現しつつその派としての文体を築きつつ意志疎通を図って行く。

 39. 《有る神》派の中では その神の名がそれぞれ違う。それぞれ自由に決めたかたちの呼び名で呼んで――おのおのの《非思考の庭》にて――いだくに到っている。

 40. 人間の住むこの世では 人びとが互いに縁起共生してこの《悪》の共同自治を図ってその生活をいとなむ。神が見ているかどうか どう見ているか。・・・
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№11&13です。

創造主いかんと善悪の問題のふたつの主題についておぎないます。まづ前者から。

 ○ 神は 創造主か?

 21. 神は 《有る神》派から見れば 《創造主 あるいはその属性として全知全能》と呼べる。これが 結論です。《無い神》派から見れば そうであろうと無かろうとどうでもよい。(つまり 無神論派がもし有神論を否定するならそれは阿呆である。自分が神になったとうそぶいたことになる)。

 22. 《非経験の場》として想定される神は たとえ《無い神》派から見ても 《それを知り得るか知り得ないかは知り得ないナゾ》としての《非知》であることに間違いないしそのことに変わりなし。

 23. そこから 派生する概念としては必然的に《全知全能や至高の善あるいは愛や慈悲》といった属性を有する《創造主》であるという見方――もしくは物語――がみちびかれます。

  (1) 想定:非経験の場:経験事象としての有無を超えており因果関係から自由なものとして。
  (2) その概念的説明:非知:知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ

  (3) 非知は 《知り得るか知り得ないかが知り得ない》なら 知り得る場合の可能性を排除していない。
  (4) したがって 人間はそれについて 《有る・いる》と表現する場合と《無い・いない》と規定する場合とがあると捉え ふたつの神論に分かれる。いづれの選択も 互いに同等であり 自由である。

  (5) ということは この非知なるナゾについて 人間はあたかもその正解を求めてのごとく 解明にあたる。つまりは 非知ならばどこまで行っても正解には到らない(つまり到るか到らないかが知り得ない)のだが 言わばその補助線を引く。
  (6) 補助線とは 昔の人びとにあっては 神の《依り代》のことである。山がかんなび山として 岩が磐座(いはくら)として 木がひもろきなり神木として捉えられたことは そのように神を知ったと見なして補助線を引いたのである。これを 依り代と呼んだ。いわゆる偶像も依り代である。

  (7) 概念による説明も 補助線なのである。神を仮りに――経験合理性で理解しうるように――認識し表現したもの。
  (8) 非経験の場・非知――これを受け容れた(信じた)なら わが心に非思考の庭が成る――であるなら:
    ( a ) 絶対・無限・真理 〔ちなみに《無い神》も絶対なのである〕
    ( b ) これを擬人化して 絶対者
    ( c ) ならばそのチカラないしハタラキは 全知全能と見た
    ( d ) 至高の愛・慈悲・善・正義をその属性とすると捉える
    ( e ) かくて 世界のすべてを造り得ると捉えられた
    ( f ) 造物主としてその世界創造の物語が編まれた
    ( g ) ・・・(さらにつづく)

 24. これらの補助線としての認識は すべて仮りの表象として人間が持ったものである。

 25. 神を心に受け容れる(信じる)というのは あくまで非知を対象としており受け容れたあとも《非思考》として存続するものであるからには これらの補助線としての説明概念を信じるのではない。補助線としての認識を持ったとしてもそれは 神を信じた(あるいは信じないと信じた)ことを意味しない。

 26. もし《神は愛である。義である》と言っても それは 人間が持った仮りの認識であり方便である。一般に神についてのオシエは 人間が勝手に神について知ったと見なして引いた補助線なのである。

 27. われわれ人間は 神を――非知として――受け容れ信じるのであって いっさいの補助線として持たれているオシエや偶像は 神ではない ゆえに信じるものではない。ちなみに 《かみ》という言葉も 神本体ではなく その補助線である。

 28. オシエや偶像には 理念や倫理規範あるいは 聖なるものだとかとうとぶべき精神だとかの《観念》も入る。それらは 神ではない。

 29. 《無い神》派が 科学を《真理・絶対》として振りかざしても 相対的な真実としてなら問題ないが 神としているならマチガイである。科学の真実もすべて 《無い神》にとっての補助線である。
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人間が考える程度の事、全てを実行出来る強大な


知性と力は存在しました。地球の過去数千万年・・・
3個の偉大な精神が在った。

しかしながら47年前にそれらの精神でも帰還不可能
の遠くに旅立ちました・・・人間世界に介入し神と称え
られた3個の精神。 その時いらい地球に神は居ない。

地球は人間に任されました・・・
次の偉大な精神が生まれて来るまで・・・
たとえそれが人間で無くとも後を行く偉大な精神。

神が地球を去った事さえ知らない宗教団体の奴隷に
なる腹つもりは私に在りません。神の住まいは空っぽ
で誰でも入れます。錠はついていない・・・

ただ、その場所に行くのが非常に困難で不可能に近い。
人間の面倒を見るなんて私は嫌・・・だから入らない。
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他の方の回答を良く読んでいないので、ダブっていたらゴメンナサイ。



仮に創造主の全知全能の神が存在するとします。

ではその創造主である全知全能である神はいったい誰が造ったのでしょうか?

聖書にはその記述が無いと思います。

私にもあなたにも産んでくれた親が存在します。

そしてその親にも親が存在し、そのまた親が存在し、そのまた親が存在し、ずっとさかのぼっていくと、いったい何にたどり着くのかという問題もあります。それが神だと言う人もいます。

この、とてつもなく広い宇宙はどうやって始まったのか。

自然や夜空を見あげる時、なぜ人は美しいと感じるのか。

私は生命が生きている事自体が奇跡だと思います。

そういう意味で汎神論的な神の存在は感じますが、創造神という観点では最初の「創造神を造ったのは誰か」という命題が解けないので、創造神はいないと思っています。

補足になりますが、日本の神道における神は全てこの世に存在した人間です。明治神宮は明治天皇、伊勢神宮は天照大御神(実在の人物)など。ですので昭和天皇は戦前は現人神(アラヒトガミ)とされていました。
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