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家族や友人・親友が「坂本竜馬はグラバーたちに操られていた」とか「日本は間違った道を歩んでいる」とか「アメリカは世界中を腐敗させてるとんでもない国だ」とか言っても、なんといってもテレビやラジオなどの公共メディアが言ってることの方が正しいですよね??

友人たちがそう言ってもやっぱりテレビなどを信じてしまいます。間違っていますでしょうか。間違っていたらご指摘お願いします。

A 回答 (6件)

63歳主婦です。



龍馬が上京した19歳の時、アメリカのペリーが日本に来航しました。

「ペリーを開国の恩人」だと思う人は、余程おめでたい人です。

ご存知の通り、アメリカが日本に開国を求めたのは、日本に友好親善を

求めたからではありません。

アメリカの国益に日本を従わせるためです。

軍艦四隻を浦賀の沖にズラッと停泊させて、大砲筒先を浦賀の町に

向けて、武力を背景にアメリカ大統領の国書を「ここで直ちに受理

しろ」と浦賀奉行所に迫ったのです。

浦賀奉行所は「ここは外交を扱う所ではない。長崎に行ってくれ」

と応答しますが、ペリーは「ここですぐに受け取れ!

受け取らないと戦争をするぞ!」と言って脅します。

幕府は、このアメリカの軍事的威嚇に屈服しました。

のちに発行された「ペルリ提督日本遠征記」の三巻に

「もしも、日本政府が協定を拒絶するなら(開国を拒絶するなら)

日本帝国の属国たる大琉球島をアメリカ国旗の管理の下に

置こうとしていた」と書かれています。


日本が、開国を拒絶したら、沖縄を占領するつもりだったのです。

ひどい話です。

これがアメリカの魂胆です。 当時の時代認識として、日本を含めた

有色民族は人間の内に入らなかった。人間以下。

猿やチンパンジーの親類とみなされていたのです。

日本人は、白人から yellow monkey(イエローモンキー)

と呼ばれていました。

ですから、こんな人間以下の猿は、徹底的に根絶しなければならない、、

ということで、広島、長崎に原爆が投下されたのです。

そうしたアメリカの砲艦外交に徳川幕府は屈服したのです。

このような土下座外交を行う江戸幕府が続けば、

必ず、植民地属国として日本は欧米の餌食となり、

植民地属国として支配されていたでしょう。

ペリー来航以来、龍馬は学問にも真剣に打ち込みます。

幕末の生んだ一大天才、佐久間象山にも弟子入りして

西洋砲術も学びます。

そして土佐に帰ります。土佐では、大きな運動が起こります。

龍馬の親友・武市半平太を首領とする土佐勤王党が結成されます。

目的は「尊皇攘夷」。

天皇を敬い外国を排する。

土佐藩の主な郷士はみんな土佐勤王党に参加します。

土佐藩では、藩主・山内家の家臣を上士、それ以前の国王・長宗我部の

家臣を郷士と呼んでいました。

この上士と郷士の身分の違いは大きかったのです。

この上司士に郷士の身分の人間は、反抗することも出来ませんでした。

上士の侍に郷士の者が殴られ蹴られても仕返しも出来なかったのです。

この身分の低い郷士の土佐勤王党は、藩主山内容堂によって大弾圧を

受けます。

「身分の低い郷士が、生意気に何をやってる!」ということですね。

結局、土佐勤王党は二つに分かれます。

土佐に残って土佐藩を変革しようとする武市半平太の一派と、

土佐藩を見限り尊皇攘夷の中心藩である長州に走る脱藩組です。

土佐勤王党の四天王と呼ばれた

武市半平太、坂本龍馬、吉村虎太郎、中岡慎太郎のうち、

武市半平太以外の三人が脱藩します。

吉村と中岡は長州に行き、龍馬は長州に行かないで勝海舟に

弟子入りします。

脱藩は、大きな罪です。その藩から抜ける、、ということは

もう、地球の外に飛び出すような大きな罪でした。

残された家族にもお咎めがきます。

家族は、大反対をしますが、龍馬は、

自分は、吹けば飛ぶような存在かも知れないが、

愛する祖国の危機、国難を日本人として見過ごすことは出来ない、、

止むに止まれぬ大和魂、、龍馬はこのような人間になって

いたのです。

勝海舟は、徳川幕府の高級官僚です。

日本の海軍を作ったひとです。

そこに龍馬は弟子入りします。

龍馬は、海舟から、次の事を聞かされます。

①日本をインド・支那(清)の二の舞にしないこと。
東洋の二大文明国、仏教を生んだインド、儒教を生んだ支那。
日本のお手本だった両国も欧米列強に侵食されてどうにもならい
状態である。日本を絶対に欧米の植民地にしてはならない。


②そのために挙国一致の統一的日本を作らなければならない。
当時の日本は徳川幕府と二百数十の藩の連合体制です。
藩はなかば半独立国です。
だから日本を狙う欧米列強にとって、この日本の国家体制は非常に攻 めやすい。
だから今、日本人同士がいがみ合ってる場合ではない。


③日本を侵略せんとする欧米を打ち払う攘夷を断行するために、
強力な黒船に対抗出来る海軍を作らなくてはならない。

龍馬も同じことを考えていました。

尊皇攘夷の龍馬が、徳川幕府の大官僚である勝海舟に弟子入りした

ものですから「幕府を倒す尊皇の気持ちを忘れたか」と同士に疑われ

詠んだ歌があります。

「世の人は われをなにともいはばいへ

わが為すことはわれのみぞしる」


攘夷とは、日本を侵略、支配せんとする欧米に民族の自立、独立の

精神です。

龍馬は、その攘夷の精神を決して忘れなかったのです。

その証拠に長州藩が先頭に立った攘夷戦争に心の底から同情、共鳴、共感したのです。

長州藩がどうして攘夷戦争を行ったか。

明治維新の歴史に興味のある人は、長州藩の行った攘夷戦争は

もうメチャクチャ、無謀と思ってる人が多い。

しかし「何故それをやったか」が大事なのです。

ペリーが来航して、日米和親条約が結ばれ、日本は開国しました。

日本が、もっと弱かったら、欧米列強は、一気に日本を植民地として

支配したでしょう。

しかし、欧米列強は日本は他のアジア諸国と比較すると手強いと

判断しました。

最終的には完全に我が物に出来るであろうが、当座は通商貿易による利益

を日本からむしり取ろうと考えたのです。

そこで米国のハリスがやってきて徳川幕府を何度も威嚇して、

ついに日米和親条約を結ばせました。

しかし、これは大変日本に不利な不平等条約でした。

日本に関税自主権がない。

貿易をして外国の製品が入ってきます。自国の製品を守るために、

例えば日本の米を守るために外国から入ってくるお米には

税、高い関税をかけます。それを関税自主権といいますが、

日本には認められなかった。

もう一つは、領事裁判権、治外法権ともいいます。

これを相手国に許した。

不良外人が日本で犯罪を犯す。

独立国家ならば日本の裁判所で日本の法律に基づいてその外国人を

裁きます。しかし日本の法律でアメリカ人を裁けない。

アメリカの法律に基づいて裁くというものです。

そんな馬鹿な話はありません。

この不平等条約を徳川幕府の役人は外交知識が無いため、

ころりと騙されて結んだ。

しかし、この条約を調印するに当たって、徳川幕府は一応諸大名に

意見を聞きます。

このしかし、御三家のうち、水戸と尾張の殿様が反対したので、

この反対を押さえつけるために、この条約の御裁可を時の天皇

孝明天皇ー明治天皇の御父君ーに一任します。

天皇が許可すれば、さすがの水戸と尾張の殿様などの反対派も納得する

と思ったのです。

が、孝明天皇は立派な方でした。直感的にこの条約を結ぶことは

日本の国体に致命的なひびが入り、やがて亡国の憂き目をみる恐れがある

と反対されたのです。

にもかかわらず井伊直弼はこの条約に調印しました。

ですから、国内法的には立場から言うと、無効という論理が成り立ちます。
そこを長州、吉田松陰の弟子たち、久坂玄瑞、高杉晋作等が

責め立てたのです。

幕府は「これは正当です」と反論出来ない。

正当でないと認めた以上は破棄すべし、、ということになります。

しかし、もしそれを断行すれば諸外国は決して納得せず戦争を

しかけてくるでしょう。

だから徳川幕府は欧米列強との戦争を覚悟して、文久三年(1863年)

五月十日を期して、条約を破棄し攘夷戦争を行うという重大な

決断を下したのです。

この徳川幕府の決定に従って、長州藩は下関沖を通る外国船を

砲撃したのです。

龍馬は、長州藩が行った攘夷戦争に全面的に賛成します。

ところが、武力は外国の方が断然上。

欧米に反撃され、長州は危機に陥ります。

その時、龍馬は「長州を助けよ!このままでは長州の領土が外国に

奪われる!」と訴えました。

しかし、この龍馬の意見に「長州藩のやったことはあまりにも

無謀、無茶だよ」と言われてしまう。

「現在、天下の形勢をみると長州は異国に負けてしまう。

そうすると、長州は、異国のものとなり、取り戻すのに難しくなる。

傍観している場合ではない。不平等条約を破棄して今いる

外国人を一応全部帰国させるべき」と龍馬は言っています。

「長州藩のやったことは、無茶で無謀ではあるが、長州は国のために

死を決して戦ったのである。その気概と勇気は称賛されるべし。

ただ、傍観していたのでは、他国に長州は乗っ取られてしまう。

幕府の役人に圧力をかけてて外国人を帰国させるべし。

欧米が応じなければ全国一致して欧米と戦争をすべし」

と坂本龍馬はかたっています。

これが龍馬の真実です。

日本政策研究センター主任研究員 岡田幹彦氏の講演会で

以上の話を聞いてきました。


この立派な孝明天皇を毒殺したのが、岩倉具視です。
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アホがいるんだな。

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「その根拠を示せ。

坂本竜馬の身辺調査でもしたのか?」と問いただせばいい。誰も答えられない。
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いろいろな意見があります。


自分で判断しましょう。
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盲信は危険です。


諫早湾開拓水門が良い例でしょう。
水門を作る時は、農業の発展のためには良いと言って、メディアも散々持ち上げたでしょう。
いざ水門を閉じたら、漁業に悪い影響が出たと言って、メディアも政府を散々叩いたでしょう。

農業も漁業もどちらも訴訟を起こしても、メディアはその時その時の状態だけに反応しています。
そして今どうしています、脱業も漁業もどちらも勝ったのですが、政府はどっちの判決に従っても、保証は払わなければなりません。

こうなったら、メディアも諫早湾の水門のことには、一切触れなくなりました。
メディアは正しいか正しくないかではなく、今の状態を書いていうだけですから、貴方がどちらの判断をするかです。
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ネットでもいいので、ご自分で調べて事実確認しましょう。



あなたが信じた事実があなたの事実です。
他人やテレビがどうというのは関係ありません。

よく韓国の歴史認識が間違っていると多くの日本人が思っていますが、それは日本で、それ以外の事実を知っている人が多いからです。
韓国ではそういった知識も手段もないのです。
まして日本語読める韓国人は少ないですし、英語でも日本語サイトほどアジアの歴史記述サイトはありません。
なので、彼等のいう歴史認識もまた彼等の国では事実なのです。
中国も同じです。

どんなにクーデターで生まれた国でも己のアイデンティティーの為に、過去の歴史を美談化神聖化します。
韓国でも同じです。
どんなに酷い歴史であってもです。
それが人間です。

なので、坂本が実際にはグラバーに操られていたのか、坂本がグラバーを利用したのかは、それは本人同士の気持ちの上のことでしょう。
そんなのどっちでもいいことです。

問題なのは、それまでの日本人は、戦争は武士の行う行為であって、民は守られる存在だったという社会通念を、平等の名の下に、民に戦争を教え込んで参加させたことに問題があります。
坂本は、それをライフル銃の中古輸入で行いました。
丁度、世界大戦前の旧式銃が、フランスやアメリカで有り余っていたからです。
正に渡りに舟で、日本へ集まりました。
そのせいで、金本位制の日本の貨幣制度と米経済制度が崩壊しました。
自治体は、己で稼がなくなり、世界で唯一成功した社会主義制度は終わったのです。
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