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どうすれば死ぬことが怖くなれるでしょうか?


以下は質問するに至った経緯等になります。

私が小学生の頃は「死とは、肉体を失って、どこか遠く暗い何も無い所にいってしまうものだ」と考えていて夜中によく泣いてしまうことがありました。

(それは自身が何度か死に瀕したことがあったからかも知れませんが)

中学生になり親友をなくしたり、高校で友達や好きだった先生を亡くすなどして、死というものは終わり、つまり消滅なのだと考えるに至りました。


生きることに意味が無いとは考えませんが、度重なる絶望や挫折等から希望を持って生きることに疲れてしまい、希望を持たずに生きることで生きやすくなるだろうと考え希望を捨てようとしました。

それからか、毎日生きることも空虚となり死への恐怖が消え去ってしまったかのように感じられるようになりました。


しかし、先日散歩をしていたところ、急に目の前へ蜂が表れて自分は反射的に身を屈めてしまうことがありました。

体質的にアナフィラキシーショックになる可能性があるので、つまりは私は死を避けようとしたのだと解釈出来てしまいます。

そこから自分の中には矛盾があると認識しました。

矛盾だと考えてしまう一方で、片や人の死というものは何より怖く、また誰かにそのような思いをさせることになり得るのは絶対に嫌なので自ら命を断つようなことは何があってもしたくはありません。


最近アレコレと考えていると死ぬことが怖くないのが怖くなり、死への恐怖を傍らに感じる必要がある気がして、このような質問をするに至りました。

質問者からの補足コメント

  • このような質問に御解答していただきありがとうございます。

    すみませんが、何かを信じるという行為は対象が何であれそうあるべきか考え込んでしまいます。

    だからといって、この質問自体が無意味なものだとは感じられないのは確かなのですが、、、

      補足日時:2015/07/24 01:03
  • すみません、お礼が抜けていました。
    ご解答ありがとうございました。

    No.3の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/07/25 15:39

A 回答 (7件)

「死」というものは恐怖そのものかもしれません。



質問者様は身近な「死」に恐怖し、それに対抗する考え方をあみだしたのですね。

「生」を軽くすることで、「死」もまた軽くなる。

そう思い込むことで恐怖に支配されずに生きてこれた。

でもそれは頭で考えていることであって、身体まではコントロールできません。

身体は、生きたいと強く願っており、それを変えることはできません。それが遺伝子の命令ですから。

人はみんな、「自分が明日死ぬはずはない」と思って生きています。そう信じ込んで生きています。

しかし質問者様は、身近な人が突然亡くなる体験が続き、そう信じることができなくなってしまったのでしょうか。

生きたいから恐怖するのです。生きたいから苦しむのです。

「死」が消滅だとして、それまで生きればいいのです。

もし明日死ぬとして、今日をどう過ごすのか、生きることを楽しむのも、苦しむのも質問者様次第ではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご解答ありがとうございました。

何となく、言い当てられたような、そんな気がしました。

今は苦しみを楽しんでいるかのように歪んだ自分でありますが、いつか死に恐怖を抱けるように、取り敢えず日々邁進していきたい所存であります。

お礼日時:2015/07/25 18:07

人体の歴史は、人一人が生まれてから死ぬまでの歴史とは比べ物にならない長さです。

死について考える時点で、それについての反応を体は示すことになると思います。
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この回答へのお礼

ご解答ありがとうございました。

ところで、人体の歴史に関わらず、生命って何なんでしょうね?

死にたいと考えたとしても、それとは裏腹に体は一時も休まない。

生きたいと悶えても命は呆気なく尽きてしまう。

片や、自ら命を絶ち得るしや殺人は後を絶つことはない。

それらを含む森羅万象チョコが自然の摂理なんて言えてしまえば、死について考えることも必然で、そこから来る苦しみも必携なのですかね、、、

遺伝子がそうさせたとしても、それに反発が出来ない自分はデジャビュを感じとれば直ぐ変顔をしているのであります。

それも必然ですかね?

短絡的に結んでいきましたが、受け入れたり、信じることに恐怖を抱くのはこういったことから来るのです。

お礼日時:2015/07/25 17:54

死は実なり、生は虚なり。


            司馬江漢

大丈夫・心配するな 生まれる前の世界に戻るだけの単純な話です。

人は有限の生命を以て無限の志望を抱くものなり
ですが諦めも肝心です。

いくら考えても悩んでもしょうがないことはしょうがないし
仕方がないことは仕方がないでしょう
物事は小難しく考えれば考えるほどそういう方向にスパイラルダウンして行くものです。

単純にシンプル化することで解決の糸口は見つけやすくなるものです。

とにかくどこかで割り切って開き直るか・それとも開き直ってから割り切る
かしないことにはいつまでも引きずっていくことになります。

そんなことになると自分の手で自分の首をキリキリと締め上げて
いくような事態になりかねない 最後は精神を病みかねませんよ
死生観はほどほどのところで妥協することも肝要です。

舟のことは船頭さんに任せる
病気のことは医者に任せる
生きる死ぬ 生死のことは神仏に任せましょう

今人誰しも 奇跡的にうたかたの生にあるだけです。
いくら考えても悩んでも 寿命はなるようにしかならない
そんなことにいつまでも固執して悩んでいれるほど
人の人生長くはありません 冒頭の名言を反芻して理解して下さい
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この回答へのお礼

ご解答ありがとうございました。
恐らく精神は大いに病んでいますが、死へと向かっていくための思考をしているのではないです。

死が手薬煉を引いて待ち構えていると分かっていたとしても、自分を誤魔化したくはありません。

いつ途切れるか分からない玉響の命であることは身をもってしても、身近にも見て理解しているからです。

自分には司馬江漢の格言は一生理解出来ないものである気がしてならないです。

すみません。

お礼日時:2015/07/25 16:46

死ぬのが怖く無いとは 健康で捨てる物も無いということかしらん


ある意味 離人症的?
きっと怖いもの無しでしょう?

怖くなる為には 物足りない彼女と満ち足りない結婚をするとなるかも
そして苦労ばかりして 身体も弱くなった時
私がそうでした

捨てる物も無いというのは 最強です
何でも出来る 成功するかも
がんば
栄光を得たりすると 死ぬのも怖くなるかも?

私はまだまだ死ぬ訳にはゆかないかも
死ぬことは怖く無いように戻ってはいます 2-30年くらい掛かって・・
いつか自分に戻るもの・・
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

むしろ、捨てるものが無い状況へ自分を置いているのだと思います。
失うものがなくなるように、希望といった類いのものを自ら捨てているわけであります。
また、怖いものはいっくらでもあるのです。

離人症を調べてみますと、症状の内に思い当たる節もありましたが、どうなのでしょうね、、、

『死にたい』のではありませんが、生きたいのに声高らかに『死にたくない!』と言えるような気持ちにはなり得ないところにあれやこれやがあります。

お礼日時:2015/07/25 16:09

うーん? 宗教的意義と哲学的意義を含んだ、難しい質問ですね。

ただ、「死ぬ」というのは「生きる」という事に直結する重要な事柄であり、衣食住の中にも存在するごく当たり前の道理というもの。生きているからいつかは死ぬ、「生と死」の葛藤は誰にでもある事だと私は思います。しかし、現実として死ぬのが怖いと感じるのはそれこそ当たり前の道理であり、生きとし生ける者の本能であるのも事実です。それなら、何かあなたが関心のある宗教にすがってみるか、哲学書を読んでみるのもいいでしょう。こんな下らない話でよかったら、参考までに頭の片隅に置いて、あなたの今が好転する事を切に願う次第で御座います。
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この回答へのお礼

ご解答ありがとうございました。
宗教上や哲学書の考えは吸収出来るところは取り入れたいと考えています。
ただ、どうしても何かに特にすがってしまうと受けの姿勢になり、つまらなくなってしまう気がしてしまうので神や運命等を信じ込むことはどうしても出来ません。
が、説明のつかない、辻褄の合わないことも経験したことがありました。
そこから余計に疑い深くなり、石橋を叩き割り、叩き割ったものを検証したりしていますが、これは変人ですね。
好転できるように努めて参りたい所存であります。

お礼日時:2015/07/25 15:43

少年よ、目を覚ませ


人は皆、生きてる意味などあるはずがない
生まれてしまったのだから、やむなく生きてるだけだ
証拠にだれが死んでも何も変わらんだろう

死ぬことが怖くなくて生きられんとね
これを解決するには
断崖絶壁に立つ
田舎の夜のお墓の中で寝る
本物のヤクザに喧嘩をふっかける
どーかな
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

生きてることに意味を持たせないと、人の死が浮かばれないんですよね。
それは自分にとっても、誰かにとってもそうなんじゃないのかなと感じられてしまう訳であります。

―――証拠にだれが死んでも何も変わらんだろう

という部分は凄く寂しくなりました。
中々そうは考えられません。

提示していただいたことについては、
断崖絶壁に立つと崖下より吸い込まれる感覚になってしまいますゆえ、近寄らないようにしています。

お墓は、幽霊とか信じてないくせ、夜のカーテンの隙間さえ怖かったりするのでぜったいにムリです。
これは世にも奇妙な物語等の番組を小学生の頃見たトラウマなのかなと思っていますが、、、
893さんに喧嘩を売ったことは無きにしもあらずといったところでしょうか。そのご子息との言い合いはありますが、相手からすれば大変迷惑だと思いますのでやってみません。

お礼日時:2015/07/25 15:06

死への恐怖は3つほどあります


第一は死に至るまでの肉体的な苦痛。普通はこれが一番嫌でしょう
第二。死んでしまえば取り返しがきかない、再生ボタンがないこと。悪い人生であっても1回しかチャンスがないがもしかして未来は希望があるかもしれないからで、ずるずる長引かせるということ
第3。死後の恐怖。死後意識がどうなるかわかりません。宗教観も絡んできます

あなたの蜂に対しての反射は2、痛みと飛んできたボールを避けるための反射行動です。テニスボールが当たって死ぬことはありませんが誰でも反射的に身をかばいます
第3の死後の意識ですがわたしは死後は意識がないと考えてます。つまり寝てるのと同じ、寝てる間は意識がありませんが睡眠をとるたびに意識がなくなるのが怖い というひとはいないでしょう

やはり肉体的な苦痛を想像する が一番強いと思います
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この回答へのお礼

ご解答ありがとうございました。
提示していただいた3つについては
1つ目はよっぽどの痛みでも耐えられてしまうので恐れはありません。
2つ目ははっきりノーと言えませんが恐れることとは何だか自分の中では違う気がします。
3つ目は今はありませんが、友人の死が眠りついてそのままだったので、意識をなくす恐怖を持った人は少なからず周りにいたりします。

意思と体は中々相容れないところがあるのだなと感じました。
余談ですが、バカボンのパパが自分に向かってくるボールをスケッチして顔面食らう描写が浮かびました。ハハハ

お礼日時:2015/07/25 14:46

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