たとえば、キリスト教では、「生きることは神の意志」です。
「神から与えられた試練」といってもいいですが、とにかく生きなければならない。
生き続けることが、神の御心に叶うことだから、どんなに辛くても、「生きることが正しい道」です。
じゃ、仏教は、生きることについて、なんと言ってるのだろうか?
というのがこの質問の動機です。
シッダールタ王子は、生老病死の四苦に直面して、こんなにも辛いのになぜ人は生きねばならないのか?と疑問を抱き、出家しました。
いろいろあって、菩提樹の下で座禅を組み、悟りを開いて、平常心を得た。
私の理解では、これが仏教の始まりだと記憶しているのですが、
で、
「人は生老病死の四苦を負って、苦しくとも生きなければならない」という問いへの答えは何なのでしょう?
「悟りを開いて、平常心を得れば、生老病死は怖くない」と言われても、凡人は、やはり苦しい時は苦しいし、生老病死は、イヤでコワいです。
それに、怖くなくなったとしても、「なぜ生きなければならないのか?」という問いの答えにはならないと思うのです。
「人はなぜ、生きなければならないのか?」
仏教では、なんと教えているのでしょうか?
教えてください。
No.16ベストアンサー
- 回答日時:
仏教学部出身です。
仏教はそもそも啓示宗教ではないという点と、
釈迦は、衆生救済を一切唱えていません。
釈迦は、まず大前提として、
「人は生まれながらにして、業(罪)を持っている。」
なので、
「人生とは苦である」
と、教えています。
私は大学の最初の授業で、この点でつまづきました(笑
当時の講師によると、この大前提は、数学によると、
「1+1=2」である。
なので、これが理解できなければ、何も理解できない。
とおっしゃってました。。
その苦しみは、死んでも逃れることができません。
輪廻転生により、前世の業がそのまま引き継がれるからです。
そこから逃れるには、その理から脱出しなければなりません。
それが、解脱です。
仏教とは、悟りを開き、輪廻転生から解脱して
仏(神に近い存在)になることを
目的とした教えなのであります。
なので人々の救済なんていう観念は、元よりないのです。
仏教の歴史では、釈迦が入滅した後、大乗仏教と、今までの仏教と
2手に分かれました。
大乗仏教とは、大きな船で周囲の人々を乗せて、救いを求めようという物です。
救い=解脱なのですから、みんなで仏になりましょうってことです。
仏教徒にも、パトロン(お金)は必要です。
パトロン(檀家)にも、同じような修行をしろとは言えません。
なので、ながーい歴史の中で、いろんな解釈が生まれ、
今や衆生救済が、主な役割みたくなってますが、
元々、そういうわけではないのです。
日本の仏教は、「大乗の2乗」と言われくらい衆生救済がメインです。
なので、結論を言わせて頂きますと、仏教においての「生きる」とは、
「苦しみ」でしかないという事になります。
そこから抜け出すために、どうすれば良いのか、を教える宗教なのであります。
神のような超越した存在にならない限り希望はないという事です。
ちなみに私は、最後までついていけず、学業を放棄しちゃいましたw
>仏教はそもそも啓示宗教ではないという点と、
ユダヤ・キリスト教とは根本的に違うわけですね。
生きていく上での「教訓」のようなものを示すわけではない、と。
>釈迦は、衆生救済を一切唱えていません。
そうなのですか! もう、ビックリです。
お寺で座禅の後、
「自ら仏に帰依したてまつる。当に願わくは衆生とともに、大道を体解して、無上意を発さん。」と三帰礼文を唱えていましたから、「衆生とともに救済を求める」ものだと思っていました。
「衆生救済」の概念は、釈迦にはなかったのですか。
極めて個人的なものだったわけですね。
それぞれが、それぞれで、自身の救いを見出せ、と。
その道は並大抵ではないよ、大変だよ、ということなのでしょうね。
まあしかし、パトロンが必要、そこで方便、というのは長い歴史を思えば解ります。
ありがとうございます。
No.21
- 回答日時:
時間の流れを縦軸として、世の中の広がりを横軸とする。
その接点としての、アナタが居て、アナタが其れを認識している。
アナタの認識がなくなれば、その接点は消え、縦軸と横軸は消滅します。
シッタルタゴーダマは『 開 い た 人 』に、修行の元で?成ったと言われています。
縦軸と、横軸から、解放され見えた世界から、語られたのが、仏教の元と成りましたが、原始仏教は、彼に近づく為のモノでした。
彼のように、縦軸と横軸から解放され、その接点の消滅(死)すら、受け入れる事が出来るような状態?へ、と、たどり着く為に、開いた人成る事を目指しているのだと、認識しております。
開かれ、涅槃にて、仏となる。
と、閉じている僕には、此処までしか、話せません。
回答ありがとうございます。
>原始仏教は、彼に近づく為のモノでした。
シッダールタ自らが、他者に近づいて、「救ってやるぞ」と働きかけるのではなく、
救われたい人自身が、自分から「彼に近づく」わけですね。
「自ら生きようとしない者」は、仏教の埒外ということでしょうか?
「縁なき衆生は度し難し」ともいいますしね。
シッダールタが言ったかどうかは、わかりませんけど。
たしかに、彼は、自分の子供を「障り」と名付け、自分の国の存亡の危機を見捨てて出家しましたからね。
「自分の救済=開いた人になる」が唯一の目的だったのでは?という感じはします。
あくまで、偏狭な私の解釈にすぎませんが。
No.20
- 回答日時:
実に良い質問を立てて下さいました。
私もずっと同じ疑問を抱いていました。
大病を経て体には障害が残りましたが、生きながらえています。
50歳を迎え法名も頂きました。
遺言書も認め思い残すことはありません。
一つ判明したことは、煩悩が無くなるとこれほどまで楽になれるのかということです。
生まれてきた理由も生きる意味も気にならなくなりました。
質問をお褒めいただいて、恐縮です。
>生まれてきた理由も生きる意味も気にならなくなりました。
「生きているという自然」に身を任せることができれば、楽になるでしょうね。
筋肉に「力を込める」ことよりも、「力を抜く」ことの方が難しい、ということを最近気づきました。
心も同じなのでしょうね。
腕一本の脱力さえも難しい私は、まだまだ、煩悩のとりこ。
心の脱力への道ははるか、なようです。
回答くださってありがとうございます。
No.18
- 回答日時:
NO16です。
追記です。「衆生救済」の概念についてですけど、
日本の三大仏教といわれる(信者が多い)浄土真宗、曹洞宗、日蓮宗のうち、
浄土真宗の祖、親鸞と、曹洞宗の祖、道元は、
檀家に対して否定的でした。また政治とは絶対関わらないと、強く拒否していました。
仏教とは、自ら精進するもので、他人を救済するものではなかったからです。
他人を救済したいのなら、まずは自分が仏になって、その力を得ていてからだ!と考えていたと思います。
親鸞に至っては、修行も何もしない。というのは浄土宗とは、釈迦を信仰するのではなく、阿弥陀如来を信仰する宗教です。阿弥陀如来がまだ菩薩(人と仏の間)だった頃、私が仏となったあかつきには、私の名を唱えるものすべてを私が作った極楽浄土の世界へ連れて行く。もしその願いが叶わなかったなら、わたしは仏にはならない!と唱えています。で、阿弥陀如来は仏になったので、南無阿弥陀仏と3回唱えるだけで極楽浄土行きが決定する。っていう信仰なので、何もしない。人々の救済も決定してるので、何もしない。
その結果、道元の道教も、親鸞の浄土真宗も、室町時代には廃れます。人々から忘れさられるのです。
ところが、浄土真宗は布教の天才、本願寺蓮如が現れたおかげで、瞬く間に全国に広まります。曹洞宗も、瑩山という天才によって、政治的地位を確立します。
マスコミの中の言葉で、「宣伝しないものは、存在しないに等しい」というのがあります。布教活動を否定はしません。しかし、本質は違うのです。
十数年前、京都の大谷学派が、現代の仏教の方針を模索して、インドを巡り釈迦に関する書物を買い漁った時期があります。
そのとき、彼らも話しています。
「仏教とは、本来冠婚葬祭をするための物ではない。現代のニーズに合う何かがきっとあるはずだ!」
現代のニーズって・・・って当時思ったけど、、、、
釈迦の罪は、本質的なところを全て曖昧にしたまま入滅してしまった点です。
なので、いろんな都合の良い解釈が生まれ、それは現代でもどんどん新しい解釈が生まれるっていう点です。
高級外車乗り回してる坊主さん。存在するには宣伝(布教)は絶対ですよねw
>釈迦の罪は、本質的なところを全て曖昧にしたまま入滅してしまった点です。
衆生救済ではなく、「自らが生きる苦しみから開放されること」が目的だったのであれば、本人が納得していればそれでよかったでしょうね。
他の人に対しては、「私はコレで救われました。私を見てマネをしてください。」と釈迦なりに精一杯、自分を「事例」として開示したのでしょう。
>「仏教とは、本来冠婚葬祭をするための物ではない。現代のニーズに合う何かがきっとあるはずだ!」
私が座禅に通っていたお寺は曹洞宗だったと思いますが、住職さんが、そのような考えでした。
「キリスト教会の扉は、すべての人に向かって開かれている。お寺も葬式仏教に閉じこもってはいけない。大衆に扉を開くべきだ」と。
それで、「子供向けの座禅会」とか「大人向けの座禅会、声明の会」などを開いていました。
そうした経験もあって、「今、命を捨てようとする人に、「生きろ!」といいたい時、仏教はなんと言って説得するのか?」と思ったのです。
回答ありがとうございます。
No.17
- 回答日時:
2回めです。
お礼の中で気になるところがあります。
>私は、「ある因縁があって、その親のところに生まれたのだ」といった考え方を好まないので、「訳の分からない中で」の方が納得しやすい気がします。
「一切は無である、一切は空である」と説く仏教の、底知れぬ深淵をのぞき込んだような気がします。
縁起というのは佛教の根本教説です。これを否定しては佛教ではなくなってしまします。風が吹けば桶屋が儲かるような1本棒のようなものではなくて宇宙全体が関係し相互作用しているのです。ですからあらゆるものが関与しているのです。
あなたの存在に私は無関係ではありません。逆にあなたがいなければ私もいないというのが縁起です。
「人はなぜ、生きなければならないのか?」
この質問には答えが出ないのです。答えられた答えに「なぜ」が出てきてしまいます。私とあなたが繋がっているという話をしましたが、それで生きなければならない答えになるわけではありません。私が「生きろ」といったところでそれで生きなければならないことにはならないのです。
>宇宙全体が関係し相互作用しているのです。
これでしたら、解ります。
「縁起」というのは、本来そのような意味なのですね。
「縁あって、その親のところに生まれたのだ」といった言い方は、わりに、「感謝しなければならない」とか「おかげさまの心を持つべき」といった話に結びつきやすいのが、私はイヤなのです。
すみません。
私は、不信心者ですし、そういった「感謝話」と「宗教の解釈」を結びつけるのは、釈然としなくて落ち着かないのです。感謝話になると、それで話が終わってしまうので。
>それで生きなければならない答えになるわけではありません。
はい、解ります。
再度の回答をありがとうございます。
No.15
- 回答日時:
「人はなぜ、生きなければならないのか?」
その答えはありません。
生まれさせられ生かされて生きているだけです。
お釈迦さんも十二因縁で無明から始めておられます。訳の分からない中で生まれてしまったのです。
だから、生きなければならない理由は自分の中では見出すことはできません。
しかし、生きている、折角だから生きている以上意味のあるものにしたい、生き甲斐を得たいといろいろ考えるのが人間という動物です。
それでそこのところで佛教にもいろいろ教えがあるのですが、残念ながら生きなければならない理由はどこにもありません。
生きなければならない理由がないなら、死ななければならないという理由もありません。そこでどう生きるか、どう死ぬかという話になるのです。
>残念ながら生きなければならない理由はどこにもありません。
私は、「生かされている」ことへの感謝をしない不信心者ですが、「生きなければならない理由はない」とハッキリ言われると、「やっぱりそうか」と深いため息とともに、納得のようなものを感じます。
>訳の分からない中で生まれてしまったのです。
これにも納得を感じます。
私は、「ある因縁があって、その親のところに生まれたのだ」といった考え方を好まないので、「訳の分からない中で」の方が納得しやすい気がします。
「一切は無である、一切は空である」と説く仏教の、底知れぬ深淵をのぞき込んだような気がします。
ありがとうございます。
No.14
- 回答日時:
#3,8,10です
一神教的世界観と多神教的世界観の両面から「生きる」という概念を記述していると思っているアニメがあります。
既にお読みになられているかもしれませんが、「風の谷のナウシカ」のコミック版(原作、全7巻)です。
物語の全体構成は多神教的世界観が主軸となっていますが、全世界からの遺物としての科学文明系と未来に生きるべく残された卵、そしてオーマと名付けられた巨神兵は、一神教的世界観の残渣として捉えることができます。
その両者の間にて苦悩するナウシカが選択した第7巻での道は、一神教的世界観や多神教的世界観とは別の視点に立脚せざるを得なかった、まさにブッダが選択したであろう「この世をもかの世をも望まない」に極めて近い選択肢に思えてなりません。無論、宮崎駿氏の究極の創造の世界なので、念話や死後の魂が沢山でてきますが、ラストにて「生きねば」という言葉で締めくくられている物語でもあり、本質問を考察するうえで、非常に参考になることと思っております。
稚拙ブログでは、下記にて、少しばかり考察を加えております。
人は何のために生きているのか。。。風の谷のナウシカ・考。。。
http://jinen.exblog.jp/16878881/
回答ありがとうございます。
ブログ拝見しました。
>何の夢も、何の望みもなかったならば、人は、生きる望みを失って、死に絶えるかもしれません。
私も、ある時期から、「人は希望がなければ生きられない」と思うようになりました。
どんなにかすかで、不確かな希望であれ、未来に希望を見出すことで人は生きることができるのだろう、と。
「希望を失う」あるいは、「希望を探し続けることに疲れ果て、もう耐えられない」と思ったとき、人は生きる意欲を失い、死を選ぶのだろうと思っています。
この質問を立てたのも、
希望を失い、「死にたい」という人に対して、
キリスト教は、「生きろ。生き生きて死んだ果てには天国がある」と、天国というニンジン(希望)をぶら下げて叱咤激励できる。(天国=神の国が死後にしか実現しない、という考え方は、キリスト教的には間違っているのかもしれませんが、私は信者ではないので、たとえばアンデルセンの「マッチ売りの少女」の絵本的イメージです。ご容赦願います)
では、仏教は何というのか?
と考えた時、私には、有力な仏教的ニンジンを思い浮かべることができなかった、からです。
ナウシカは、アニメは何度も見ましたが、原作は読んでいません。
大変興味深く、ぜひ読んでみようと思います。
有意義な回答を何度もいただき、ありがとうございます。
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回答してくださった皆様、ありがとうございます。
皆様の回答を読み、ユダヤ=キリスト教と仏教は成立した時点での趣旨が全く違う、ということがわかりました。
仏教には、「生きろ」ということについて特別なメッセージはなく、
おそらくは、「生きても死んでも苦からのがれることはできないよ」ということなのだろうと、理解しました。
言い換えれば、「死んだからといって、苦から逃れられるわけではない。だから、生きるのが辛いからって死んだって、楽になんかならないよ」と。
この言い方が、「もう死にたい」と思い詰めている人に対して、どれだけ有効かどうかは不明ですが、その人が冷静ならば、「じゃ、どうすればいいんですか?」という疑問がわき、「修行をなさい」という展開にもなりうるかな、と思います。
私自身、もう少し、仏教について深く知りたい、という気がしてきました。
どうもありがとうございました。
ベストアンサーを選ぶのに、大変迷いましたが、
>その苦しみは、死んでも逃れることができません。
>輪廻転生により、前世の業がそのまま引き継がれるからです。
と、平易に解説してくださったNo.16様をBAとしました。
全ての回答が、私にはとても意義深く、勉強になりました。
回答者様全員に、心より御礼申し上げます。
ありがとうございました。