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お願いします 

浄土宗と浄土真宗の教義とでは どの辺のところが異なるのでしょうか?
できれば根本的に違うようなところがあるのでしたら教えて下さい。

よろしくお願いします。

A 回答 (3件)

根本的な教義は、阿弥陀仏への「他力本願」なので、違いは無いです。

(阿弥陀仏におすがりすると言う点では同じ)
浄土真宗の場合は、信心・念仏は阿弥陀如来の働きにより生じると考えるのが違いです。
勤行については、浄土宗は「専修念仏」、浄土真宗は「信心」と言う違いがあり、浄土真宗は僧侶に対して「無戒」である事が大きな違いになります。
後は、御本尊の形が違ったり、御本尊の両脇の掛軸の違い、日常読むお経は違います。
その他、細かい違いは色々あります。
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この回答へのお礼

>浄土真宗の場合は、信心・念仏は阿弥陀如来の働きにより生じると考えるのが違いです

浄土宗の専修念仏は修行(自力)の側面がある それとの違いからなのですね
その違いの底には大きな意味がある?  それが教義の中心になっているようでしたら 基本的に大きな違いがある? そういうことになるのでしょうか?

このたびはありがとうございました 参考になりました。

お礼日時:2015/09/24 07:33

△ 念仏は行者のために 非行非善なり。

(歎異抄 八)
  △ 他力には 義なきを義とするとは申し候ふなり。(末燈抄 九)
  △ 《念仏には 無義をもつて義とす。不可称・不可説・不可思議のゆゑに》と仰せ候ひき。(歎異抄 十)
  △ 〔親鸞:自然法爾(じねんほうに)章(御消息)〕~~~~~~~

   自然といふは

   《自》はおのづからといふ。行者のはからひにあらず。
   《然》といふは しからしむといふことばなり。

   しからしむといふは行者のはからひにあらず 
   如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。
 
     * 爾(に・じ):しかり。そうである。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 と親鸞が言ったところに 根本的な違いがあると思います。
 念仏は アミターバ・ブッダを義と捉えその思いをふくむハカラヒにおいておこなうものであればそのゆえに往生とは関係ないと言うのですから もし法然が《念仏をとおしてすくわれる(往生する)》と言ったとしたら 根本的な違いだと考えられます。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2015/09/27 11:36

どちらも教義は同じ。



例えば、財布が大事な事は誰でも同じ。
法然聖人は、「財布は大事だよ」と説き、親鸞は、財布から中身を取り出し「お金は大事」だよ説いた。
つまり、法然の教えをより民衆に噛み砕いて分かり易く説いた。そこの違いです。
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この回答へのお礼

教義は同じなのですね

基本的な大切なところで2宗の教えは違っていると テレビで言っていたものですから質問しました
そうなんですね ありがとうございました。

お礼日時:2015/09/24 07:32

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