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独我論が本当なら、労働する意味はないですよね?労働は、他人のために働くのだから。

他人が、ロボット人間なら、労働しても、意味ないのでは?

労働は、時間の無駄ということになるのでは?

A 回答 (7件)

観念論によれば、自我とは環境認識の事であり、全宇宙は自己の内にある。


「労働する意味はない」という時に、既に素朴唯物論的な「自我とは独立
して“外”に物体はあり、そこからの影響によって二次的に認識が生じている
=自己とは肉体」という考えが先入している。

一般の生活における“実感”である、「自分の外に独立した先入的&確定的な存在
があり、二次的に意識を生じている」という素朴唯物論は、否定されているのだ。
無=不確定性無限=カオスの潜在的認識可能性(感受表面の量子相互作用=現在
(光速)=仮説的時空への無の射影)からの、自我仮説(記憶=過去(超光速)=時間
の流れ)と空間仮説(予測=未来(光速下)=空間の広がり)の相補分化として、
この世界は得られているのだ。

全ての存在は、量子的な不確定性に基づいており、無限に詰め込むと存在確率
の山が平らになって、無と等しくなる。
この「絶対無=不確定性無限」において、その無限の闇に認識体の仮定断面
(潜在的認識可能性)の運動(時系列化=プランク定数hの収束=物体収縮=
宇宙膨張)を想定すれば、相対的に無の風は光になり、認識体はその光(感受
表面(潜在的認識可能性)での量子相互作用パターン)の向うに、自己の補完
(相補的不確定性)としての宇宙を認識するのだ。
自我仮説(記憶=時間の流れ=過去=超光速)と空間仮説(予測=空間の広がり
=未来=光速下)の相補分化。
つまり、自己存在成立のための必要として(不確定性原理の相補性に基づく)
環境は認識されるのだ。

「他人」とは、その「潜在的認識可能性」を時系列化するプロセスの射影と
しての、時系列外の「認識可能性」である。
そうした原理的な時系列化において、本当は昨日の自分も遠くの他人も量子的
に不連続であるにもかかわらず、「他人の痛みを自分のように感じる」という
精神疾患の一種として、過去の異なる認識可能性(宇宙膨張=物体収縮=プラン
ク定数hの収束)を自己=過去(自我仮説)とする事で、意識(空間仮説)を
派生させているのだ。
自我成立のための相補的な環境性において、先に触れたように他人も必要の一環
(社会生命的自覚)であり、また環境との物質循環も伴い、自己の生命性の拡張
としての自覚化=愛による自律的社会行動において、肉体的有限性も寿命の有限
性も超えられる(真の生きる目的たる最大充足の達成)。
「独我論が本当なら、労働する意味はないです」の回答画像7
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#1です


#2の方に指摘されましたが、まさにその通りですよね。失礼しました。

独我論を信じようとするときに陥る矛盾として一番重要なところは、おそらく「自分の思うとおりにならないことがある」ということでしょう。この場合、そういった事柄を排除することが可能であれば、自身をさらに正当化しうるわけです。

極小の独我論は「自分自身」という殻の内部のみに正当性を見出すので、思った通りにならないということを排除することが非常に困難な事態にぶつかることが多いでしょうから、周囲との軋轢は、ほぼ常に発生するでしょう。
そういった意味で、ご質問の「労働しなければ生きていけない」という年齢・状況に事態に至るまでに、通常の独我論は自分自身で否定せざるを得なくなるはずです。

でも、そういった年齢・状況になる以前に「他人がロボット人間ではない」という状況を認識せざるを得ない事態は、日常多くあることでしょうから、通常は独我論に固執し続けることが、非常に困難な状況に陥っていくわけです。
たとえば宿題をせずにいても勝手に宿題が終わっているという事態には決してならないとか、多くの人々と交流せざるを得ない状況に住み続けている限り、本当に些細な出来事が数多く積み重なっていくので、自分自身で否定せざるを得なくなるでしょう。

しかしながら、周囲がそういった事態を援護する体制にあれば、独我論は否定されずに独裁者へと成長してしまう可能性はあるでしょうね。独裁者であれば、労働は自分以外の国民の仕事とすることが可能です。とはいっても、多くの場合、独裁者も一人では生きてはいけないという政争の只中に巻き込まれるでしょうから、短命に終わることが多いでしょう。

極小の独我論は、個人単位ですが、思索のある部分のみに特化すれば、複数の人間を巻き込みつつ、永続性を保つ独我論が存在し得ます。
その思想(教義)内部(境界内部)のみが真であり、外部は敵だという思索全般です。
その思索・教義を信じないもの(外部)は悪魔の手先だという考えに相当します。
「敵」とか「悪魔」とかいった概念ではなく、そういったものは「そもそも存在し得ないもの」と同等の画面上の仮想標的としてしか見えていない状況に信者を置くことも可能です。
「生死」の境界を取っ払った思想を構築し、死後も思想・教義内部で生き続けていると信じさせることができれば、さらに強大な(広義の)独我論へと広がることでしょう。
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>《独我論が本当なら、》(1)労働する意味はないですよね? (2)労働は、他人のために働くのだから。

(3)《他人が、ロボット人間なら、》労働しても、意味ないのでは?(4)労働は、時間の無駄ということになるのでは? 

この上の文章で《独我論が本当なら、》《他人が、ロボット人間なら、》がどう関係しているのかがわかりません。

「②労働は他人のために働くのだから、④労働は時間の無駄ということになるのでは」「②労働は他人のために働くのだから、①労働する意味はないですよね」といいたいのでしょうか。

労働は他人のために働くというばかりではないです。ロビンソンクルーソーのような場合でも労働はしますし、犯罪で受刑して強制労働する場合も労働はします。多くの場合、生産労働に限らず労働は自分のために行うことが多いです。 http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/235884/m0u/ 家族を養うためとか、他人のために主として労働するヒトもいることはいますが、少ないです。 家族や障害者の援助のために労働する場合でも、そうすることが自分の存在感、人間としての誇りや生きがい、働きがいになっていることもおおくて、そのような自分にとっての価値を感じられないで労働を継続的にやることの方がケースとしては希でしょう。

独我論って、ネットで出て来るのは、「認識論における一つの方法論」のようです。 「この認識の方法論が本当である」「その認識の方法論は本当ではない」ということが、「労働に意味がある、労働は無駄である」と直結することは少ないと思います。
http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/36.html
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おじさんです。


「労働は、他人のために働くのだから」
→少し違うと思います。
労働は自分のために働くことです。
もちろん、家族のため、社会のため、という広がりはあるのですが、基本は自分が生きていくためです。
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経済を精神論で語ってもなんの解決にもなりません。


世の中はあなたの内面世界は見てくれませんので。
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独我論が本当だとしても、表面的な現実はなにも変わりません。

食べていくためには働かないといけないと思います。たとえ労働に意義がないとしても、自分が生きるためにために働く必要があるわけです。

No.1の回答は質問者の方が独我論者であることを前提にしておりますね、質問の主旨からはそのように断定はできないと思います。他者の意識を信じているからこそ質問をしているわけです。
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独我論が本当なら、教えて!gooにて質問する意味はないですよね?質問するということは、独我論を疑っているのだから。



他人が、ロボット人間なら、質問しても、意味ないのでは?

質問は、時間の無駄ということになるのでは?
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