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福沢諭吉は著作の中で、これからの日本は貿易を軸とし、欧米に範をとって近代化を進めていくべきだと強調していました。
明治初期の日本の近代化の中心を担ったのは慶應義塾から排出された人材であり、慶應義塾の教育理念は福沢の方針を貫いて自主独立、また日本国中で最も欧米への造詣が深かった集団を構成していたはずです。
国を動かした官僚や政治家にもこうした人材は多数送り込まれていたはずであり、新欧米の理念は根強く残っていたはずが、それなのにどうして福沢の没後、だんだんと日本は国粋主義的になり、やがては欧米と戦端を開くに至ったのでしょうか。

明治14年の政変で福沢諭吉の学問のすすめは発禁になったと聞いています。なぜなら自主独立の精神が天皇を中心とする国体にそぐわないと見なされたからだそうです。
しかし学問のすすめは大勢の日本人が読んでおり、たとえ発禁になったとしてもその理念を受け継いだ日本人は日本国中に存在していたはずです。どうして日本中に開化、新欧米の理念が蔓延していたのに、だんだんと反動的になったのでしょう。

福沢没後の慶應義塾の動向と、戦争期に慶應義塾はどのような役割を担っていたのか、新欧米を唱えて反戦を主張した慶應出身の学者はいたのか、そしてタイトルの通り、福沢諭吉の理念を受け継いだ慶應義塾はなぜ欧米との戦争を止められなかったのか、ということをお聞きしたいです。

A 回答 (7件)

慶応がそれほど理想的な人材養成機関だった、と言う説も珍しい。


慶応出身者が日本をリードした、と言うのも新説。そういう事実はない。
事実ではないことを出発点に論ずることは意味がない。
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この回答へのお礼

まずは事実ではないという根拠を教えてください。
また、本当の事実とは何なのかということも教えてもらってもいいでしょうか。

お礼日時:2015/11/03 01:42

諭吉の功罪ーー色々外来語を日本語に貢献+特亜の本質を突いてましたね現在も変わらないし、


でも諭吉は欧州遊学中にメーソンに入会してるんですよね、で今の一万札、5千円新戸部稲造も野口英世もメーソン員です、で無いと御札の肖像には成れません日銀は米配下ですので、現黒田総裁.インチキ総理政策見て下さい、円安.株高のアベノミクス政策、反省総括無しでシレット新アベノミクス、年金基金を鉄火場へ何兆焦してるのか*何兆禿鷹儲けてるのか*、こういう仕組みが御札肖像連中からの流れ仕組みです、大東亜戦も高橋五郎氏の天皇の金塊著によると謀略.偽善.詐欺です*ヒトラーも言ってました。
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>明治14年の政変によって福沢門下は官界から追放されました。



>明治初期の日本の近代化の中心を担ったのは慶應義塾から排出された人材であり
>国を動かした官僚や政治家にもこうした人材は多数送り込まれていたはずであり、

言っている事がムジュンしていませんか。


>なぜなら自主独立の精神が天皇を中心とする国体にそぐわないと見なされたからだそうです。

「明治14年の政変」についてどのような知識と認識をお持ちでしょうか。

私は福沢氏が排除されたのは、無茶を言っていた大隈重信と組んでいたからであって、あなたが仰るような理由ではないと思います。


>私はわざわざ福沢諭吉と慶応義塾に的を絞ってそれを聞こうと質問しているのに、それとは関係の無い記述が目立ちますね。

わざわざ福沢諭吉と慶応義塾に明治と戦前への歪曲された認識をこじつけて聞こうと質問しているから、そこまでの話をしなければならなくなっているのだと思いますが。



>同時に学校教科書としても使用禁止扱いになっています。
「福沢諭吉の理念を受け継いだ慶應義塾はなぜ」の回答画像5
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A:>福沢諭吉は著作の中で、これからの日本は貿易を軸とし、欧米に範をとって近代化を進めていくべきだと強調していました。


B:>福沢諭吉の理念を受け継いだ慶應義塾はなぜ欧米との戦争を止められなかったのか、

そもそも福沢諭吉は学問による立国を目指していましたが、戦争を否定してはいないと思います。
貿易を推奨していたからといって、反戦と判断するのは短絡思考だと思います。
質問者様は、彼が範としていた欧米の戦争の原因はどのようなものだとお考えなのでしょうか。


C:>新欧米を唱えて反戦を主張した慶應出身の学者はいたのか、

回答不能(「新欧米」の意味が不明)
脳内造語でしょうか。



D:>明治初期の日本の近代化の中心を担ったのは慶應義塾から排出された人材であり、

Dの根拠を要求します。
慶應が「中心」だとしたら、東京大学(1877年設立)についてはどのようにお考えでしょうか。
そもそも当時は一「私塾」に過ぎない慶應が日本と世界にそこまでの影響を及ぼせると、何故お考えになれるのでしょうか。(慶應「大学」の設立は1920年)


E:>明治14年の政変で福沢諭吉の学問のすすめは発禁になったと聞いています。F:>なぜなら自主独立の精神が天皇を中心とする国体にそぐわないと見なされたからだそうです。

そのような事実を私は知りませんが、誰からお聞きになったのでしょうか。
私は真偽も定かでない出所不明の伝聞情報に、考察する価値を見出せません。
考察された有益な回答を求めるなら、提示する情報には責任をもっていただきたいと思います。



G:>どうして日本中に開化、新欧米の理念が蔓延していたのに、だんだんと反動的になったのでしょう。
H:>だんだんと日本は国粋主義的になり、やがては欧米と戦端を開くに至ったのでしょうか。

GとHの質問者様の認識が誤っているので、質問として成立していません。
なので回答不能です。

当時の日本は、憲法による法治と政党政治により民主主義が行われていました。
当時の欧米が主導する世界では、憲法による法治が行われていない国は、まともな国家とは見做されていませんでした。
その為に、明治期の日本は立憲君主制である帝国憲法を制定して、国家元首(天皇)の権力を制限(実質無力)しています。

帝国憲法の内容も、当時の欧米と比較しても国民の権利が尊重されたもので、野党からも大きな不満の出ない先進的なものでした。(その結果、議会は大荒れになったようです)
これについては↓の私の回答(No2)をご覧ください。

【1881年に大隈重信が主張した早期ね国会開設】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/8984684.html



以上から、戦前が軍国主義だったというのは間違いです。



戦中については、 軍部が~ で思考停止している方が多いようですが、
軍国主義であったと叫んでいる人は、そんな時期の教育を受けてしまったり、調べもしないで上記の極僅かな期間を過剰に言っているに過ぎません。

戦争とは、国の全てを戦争の為に動員しなければ行えないものです。
そのためには、愛国心を盛り上げる為に、自国の正義(戦争の正当化)や民族の優秀性をアピールするなど、使えるものは何でも使います。
同時に、情報を統制し、敵国に利する言論は宣言されます。
これらについては、どこの国でも行っていました。
それに、スパイや工作員による情報漏洩やプロパガンダを許す国など、平時でもありません。

日本が自由のない軍国主義であり、終戦後に連合軍によって民主化されたというのは、GHQによる操作された情報です。(質問の範囲から外れるので説明は省略)


軍部が~の理由としては、いわゆる「統帥権干犯問題」がよく語られるようですが、それすら政党政治が原因になっています。

統帥権とは「軍隊の最高指揮権」であり、帝国憲法では以下のように定められています。

第十一條:天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第十二條:天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム


「統帥権干犯問題」ですが、元々は軍隊が言い出したのではありません。

ロンドン軍縮会議で日本政府が条約を調印したことについて、野党の「政友会」が前述の11条と12条を理由に天皇の統帥権を干犯していると問題化しました。

↑に対して、浜口首相は以下の答弁で退けています。

【最終権限は天皇にあるが、責任内閣制度なので内閣が条約を結んでもかまわない。
これが統帥権干犯なら、外務大臣が外交をするのは外交権干犯になる。】

しかし、この後に浜口首相は暗殺され、以後も軍部は内閣にこの天皇の憲法上の権限によって圧力をかけました。
マスコミや大衆も支持した為に、議会政治の機能が低下してしまいました。

↑の結果、議会で軍の発言力が大きくなったのは事実ですが、それも国民の指示を背景にした議会政治の中での事態であり、民主主義の範囲での事だと思います。


更に「軍部」の定義も問題になります。
陸海軍の総称なのか、陸軍(もしくはその一部)なのか等の他にも、
当時の陸海軍は対立しており政治的主張が一致した皆無です。
その上、両軍内での派閥もありました。
以上から「軍部」の方も独裁など、したくても不可能でした。

確かに軍は「軍部大臣現役武官制」を行使して何度も内閣に圧力をかけてはいます。
(軍部大臣現役武官制:扱いは文官だが武官しかなれない役職。)
これは、軍が軍部大臣を出さなければ組閣ができない&後任が決まらない ということです。

しかし、それによって軍主導の内閣を創っても、他の閣僚との対立による閣内不統一や、官庁の協力を得られないことによる辞職に追い込まれています。

このような状況によって、戦前の政権は短命でした。
敗戦までの8年間に総理7人と9の内閣が生まれています。
(戦時の東条内閣も国務大臣の造反で総辞職しています。)

以上から、当時の日本は ダメダメであっても民主主義であり、国粋主義やら反動やら軍国主義ではなかったと思います。
(本当に軍国主義で纏まっていたら、あんな外交にはならないと思いますし、戦争をするにしても、もっとまともな戦略を決められていると思います)



以上から、質問者様の疑問は、福沢諭吉の思想や明治から戦前の日本に対する無知と誤解によるものだと思います。
「福沢諭吉の理念を受け継いだ慶應義塾はなぜ」の回答画像4
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この回答へのお礼

明治14年の政変によって福沢門下は官界から追放されました。同時に学校教科書としても使用禁止扱いになっています。
出典「学校指導要領は国民形成の設計書」、ほか調べればいくらでも出てきます。
>>真偽も定かでない出所不明の伝聞情報に、考察する価値を見出せません。
自分で調べればわかることをわざわざ聞かないでください。人に聞く前に自分で調べる努力を見せてから回答しましょう。

それとあなたの回答には、私はわざわざ福沢諭吉と慶応義塾に的を絞ってそれを聞こうと質問しているのに、それとは関係の無い記述が目立ちますね。
人がした質問に正確な回答を出来ないどころか、考察に値しないとか、回答不能ですなどと答えている暇があるなら最初から答えないでください。無価値な回答を私が読む労力が増えるだけ迷惑です。

お礼日時:2015/10/23 22:51

陸軍の集団ヒステリー精神と暴力に屈服した。

超暴力集団に対抗できるものはそれを上回る暴力です。結果としてアメリカに叩き潰され、陸軍が解体され多くの国民は喜んだ。
武器を持った広域暴力団(陸軍、特高)に素手の個人は対抗できません。ヤクザの脅し方知ってますか。あなたには親も美しい嫁もかわいい子もいるね。
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理想はあくまで理想でしかない。



世界は刻々と変わっている。

日本も、世界の変化に呑まれて自衛の戦争をしなければならなくなった。

そういうことです。

あの昭和天皇ですら、戦争に反対しておられた。が、

天皇の力を持ってしても、軍部を抑えることは出来なかった。

もっとも、、天皇陛下は、政治に口を出してはいけなかったので

仕方ないといえばしかたないことですが、、。
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創設者の思想が没後も受け継かれていくケースは極めて稀です。


戦争に対しては、相対的に慶應義塾も極めて小さな存在であり、記録に残るようなことはほとんどないかと。
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