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禅に詳しい方、教えてください。

"Not Always So." サンフランシスコ禅センターの創始者である鈴木俊隆老師の著作ですが、日本語に訳すとどういう言葉になるのでしょうか。 書中に、これは曹洞禅の教えで、英語では3語だが日本語では2文字で成る言葉だという説明がありました。

よろしくお願いします。

A 回答 (6件)

ちょっと考えてみたのですが、恐らく「恁麼(インモ)」という言葉ではないかな、という気がします。


無常というだけなら別の表現が一般的ですし、#2のご回答へのお礼を読むと、明らかにそのような内容とは思えません。

恁麼というのは、もともと中国で「そのよう」といった意味で俗に使われた言葉です。
仏教では一般に、「真如」や「如来」など、真理の意を表すのに「如」という言葉を使いますが、特に禅では、この「如」に代えて「恁麼」という言葉を好んで使ったのです。両方とも「そのようである」というニュアンスを持っていて、意味が近かったためです。

もともと「そのよう」を意味する「如」や「恁麼」が真理を意味するのは、特に禅が、主客(主体と客体)、迷悟(迷いと悟り)といった相互依存的な概念で世界を二分することで成立する認識を嫌い、こういった二項対立型の思考(禅では「対待の二見」といいます)を離れようとしたからです。

簡単に書ききれませんが、このような思考を突き詰めていくと、分析・分断を常とする言語による世界認識を否定することになりますから、コミュニケーションの不可能な絶対主観の立場に陥ってしまいます。これを避けて他人とのコミュニケーションを図りながら、なおかついかなる認識上の限定性をも離れた境地を表現しようとすると、結局「そのようである」という言い方しかできなくなるわけです。

「恁麼」は必ずしも曹洞禅だけの言葉ではありません。しかし、道元禅師は正法眼蔵などの中でこの語をわりと多用しています。眼蔵には、「恁麼」という名の巻もあります。

他にも、有名な「仏性」の巻の冒頭あたりに、釈迦の「一切衆生、悉有仏性」の言葉を引用して、六祖慧能禅師の言葉である「是什恁物恁麼来(これ、なにものかいんもにきたる)」という問いにはその意味がを見事に説かれている、と絶賛しています。
また、「古仏心」の巻では、南陽慧忠禅師の問答の解説にこの「恁麼」の語が出てきます。
ある僧に「古仏心とは何か」と聞かれ、師は「瓦礫だ」と答えた、というはなしですが、この問答を道元は、「そのものは恁麼(そのよう)であり得ており、あのものは恁麼(あのよう)であり得ているという、真実のものの有り様を見事に言い尽くした問答だ」
、とこれまた絶賛しています。

恁麼というのはこのように、人間のありとあらゆる限定から脱した、あるがままの姿を捉えるための言葉として使われているのです。はっきり書いてしまえばこの言葉は、どこかに「変わらない真理がある」とする“真理の呪縛”からの自由を求める言葉でもあります。
(禅では、無常を越えたところに変わらぬ真理がある、などという考え方を全く取り上げません。六祖禅師のように「無常は仏性なり」とするのですから)

鈴木禅師の言葉を、文字通り「そうであったり、そうでなかったり」ととってはいけないと思います。そう読んでしまうと、あたかも、私という不動の主体が変化する客体を観察しているか如き情景ととられかねません。
師の言葉の真意は、「恁麼」という言葉を成立させる前段階に意識を向けさせるものではないか、という気がします。つまり、主体―客体という認識構造(さらには主語―述語という英語の言語構造)がほぼ無自覚に埋め込まれた西洋人に対して、自分が自明視しているものの見方が限定的なものであるということに目を向けさせ、認識を一旦カッコに入れさせるための揺さぶりを狙っているように思えるのですが。
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この回答へのお礼

恁麼。 初めて知る言葉で、大変勉強になりました。 詳しく説明していただき、ありがとうございます。

>どこかに「変わらない真理がある」とする“真理の呪縛”からの自由を求める言葉でもあります。

法話の中の「道元禅師は『水は水だ』と誰かが言っても『そうとは限らない』と言われる」という部分はまさにそのことを指摘しているようです。 

師はこの法話を「この世界の様々なことに惑わされるな。自分自身にも惑わされるな(Don't be fooled by yourself either)」というメッセージで〆ています。 この易しい言葉で語られた法話に深い教えがありそうだと感じていたのですが、ご回答をいただいて少しわかりかけてきました。 ありがとうございました。

お礼日時:2004/07/01 07:31

さて、おもしろいですね。

禅師の法話も聞く側の体験や知識、心によって、宇宙観をストレートに、無常ととる人、恁麼するという心のキャッチボールとして、能動的にとらえる人、などなど、・・・。

でも、いずれも当たりてあり間違いである?。

破顔微笑。  老師と生活を共にしながら、知識を得ないと。禅はもともと、知識では、計れない。

禅とは、読書のみでは、理解しにくいかも・・・・。

夜坐で、僧堂の木版の「示云、無常迅速也。生死事大也。暫、存命の間、業を修し、学を好には、只、仏道を行し、仏法を学すべき也」を打ちながら、果たして今日の24期間は48時間分は世の役にたち、働いたろうか・・・?と考えたものです。

読書モ良し、体験も良し・・。回答がつくと良いですね。
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この回答へのお礼

何回も書き込んでいただき、ありがとうございます。 おっしゃるとおり禅は読書による知識だけでは理解しきれないように思います。 

この本の和訳版が出るとしたら、どのような題がつけられるのか。 その書名が回答ということになるのでしょうか。

 

お礼日時:2004/07/01 07:43

つまり、黙して禅、只、只。



「禅」を現在進行形で、命をかけて行えば(生きるということ)、良き過去の形成の序となり、未来に向かっても「禅」の効果(生かされる)が期待される。それゆえ、もっとも、今、この瞬間をひたすらに生きること、これ禅なり。
一期一会、喫茶去、

中道これ禅。

難しいですね????無常ゆえ、生死あり。
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参考程度に


「無常」という言葉は対比語として使われてますね。この世の全てのものはうつろい行くものであっていつまでも同じものではいられない(これが無常または無常観ですね。)しかし、その中で変わらない真実(真理)がある。うつろい行くものにとらわれた人生を一度捨てて(これが無我観ですね。)その変わらない真理を掴みなさいということが修行の道ですね。真理を掴むことが悟りを得るということですからくるくる変わるものは真理ではないですね。鈴木老師は何を掴んでたんでしょうね。ちよっと不明ですね。
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この回答へのお礼

書き込んでいただいてありがとうございます。 またわからなくなってきました。 

この本は鈴木老師の35の説法で構成されていて、Not Always So と題された説法は、書名にもなっているのに、老師の言葉の奥にあるメッセージが私には明確に掴めないのです。

もう一度読みなおしてみます。 

お礼日時:2004/06/30 14:34

曹洞宗と言うことですから「道元」の言葉から



「示云、無常迅速也。生死事大也。暫、存命の間、業を修し、学を好には、只、仏道を行し、仏法を学すべき也。・・・」

からの「無常」かと思います。
「無常迅速」の意味は「人事、世間、一切の事象は速やかにうつろいゆく、過ぎ去り行く」と言うことで、
本来は思い立ったら直ぐに出家しなさい、時はあっという間に過ぎてしまうから、あれこれ考えてる暇は無いですよ、という意味に使われたようです。
多分現代に置いては、雑事に気をそらさず、自分のやるべきことを専心してやりなさい、時はあっという間に過ぎるから遊んでる暇は無いですよ、という意味でしょうか??
ご承知のように禅の問答境地は大変難解で、私のような半端者では本来の正確な意味は分かりませんが、たぶんと言うことで。
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この回答へのお礼

出典まで書いていただき、ありがとうございました。

 
修行者が「これが正しい禅道だ」と思ったとしても、道元は"Not quite right"と言うだろう。 … "It may be so, but it is not always so." という部分の解釈なのです。

何かをつかんだと思ったらその一瞬後にはもうそのものは同じ状態ではないということでしょうか。 それが「無常」ということなのですね。

お礼日時:2004/06/30 11:39

無常?

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この回答へのお礼

あまりに早く回答をいただき、びっくりです。  「無常」。 なるほど。 文脈からいってこの言葉かもしれません。 ありがとうございました。

お礼日時:2004/06/30 11:23

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