前回、「尾張兵が弱い」といわれる根拠について質問したのですが、どれも「尾張兵が弱い」事を前提にした回答ばかりでした。
「尾張兵が弱い」といわれていることからその理由を後付けしたものではなくて、たとえば、当時の文献にかかれているとか、理由つまり根拠が先に来て、だから尾張兵は弱いのだと証明されるものがあれば教えてください。

A 回答 (4件)

確か、司馬遼太郎の「国盗り物語」に尾張兵について書いてあったと思います。


これについても司馬遼太郎の推察を抜け出さないかも知れませんけど、司馬さんなら裏付けをもって書いてるかも知れませんね。

司馬さん曰く、尾張は肥沃な土地と開けた海のため産業なども発展していることから、人々が裕福であるため、他の貧しい地域に比べるとハングリー精神がない。そのために弱い。

その逆で日頃から厳しい生活を強いられている甲斐の兵などは強い。美濃も尾張ほどに開けていないため同様です。

とのことだったと思います。当然こんな言葉では書かれてはいませんでしたが。

しかし、考えてみれば「そうかもな」という気はしますよね。

戦国時代初期の軍隊は兵農分離も進んでいないわけで、当然、足軽などは普段は農民として働いていたことでしょう。すると、自分の本業で裕福であれば、「戦争なんて洒落臭い」ってなもんじゃないでしょうか?

蛇足ですが、そういう意味では現代では日本兵が最弱かも知れませんね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
司馬先生の作品は説得力がありますからね。あくまで「小説」として読まないといけないのでしょうが、つい、それが真実であるかのような錯覚を起こしてしまいます。

お礼日時:2004/07/03 18:04

古文書に「尾張兵が弱い」という記述、またはそれを推測させるような記述は無いと思います。



私も以前より「尾張兵が弱い」というのは根拠薄弱で、#2さんの推論のように、後にそう解釈した方が物語として面白いとか、信長の偉大さをわかりやすくさせるために屁理屈をこねている類、という理解をしています。
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この回答へのお礼

回答有難うございます。
そうですね。「講釈師、見てきたような嘘をいい」のたぐいでしょうか。やはり江戸期などの講談によって作られたイメージでしょうか・・・

お礼日時:2004/07/03 18:00

私自身いろいろ考えてみたのですが、逆から考えたらいかがでしょうか。


例えば武田信玄が戦上手とか武田軍団が戦国一の騎馬軍団とか言われるのは何故か?
これは「甲陽軍鑑」の影響が強いのですが、武田家滅亡後甲斐の武士たちは徳川家に入り中核になっていきます。
「甲陽軍鑑」は高坂弾正虎綱の口述を、能役者大蔵彦十郎が筆記し、弾正の没後、甥の春日惣次郎によって書き継がれ、最終的には信玄麾下の西上野小幡一族(赤備で知られる)の流れを汲む小幡勘兵衛景憲が編集・整理したものと考えられており、彼の門下からは、北条氏長、山鹿素行などが出ています。
甲州流が、徳川家兵制の骨格をなしたこともあって、江戸時代を通じて『甲陽軍鑑』は数多くの版本、写本となって流通し、武士たちの間で熱心に読まれていたらしいです。
さて、こうした背景を考えると、主人公である武田信玄は英雄として高い評価をし、敵役の織田信長は低い評価を受けます。
戦の天才:武田信玄が勇猛な騎馬軍団を率い、数だけ多くて臆病で忠誠心のない尾張兵をなぎ倒していく、そんな図式が見えてきます。
勿論三河兵の悪口は言えませんから、徳川の軍団は常に尾張兵の楯になって勇敢に戦います。
私の考えでは「尾張兵が弱い」と言われたのは、この『甲陽軍鑑』が読まれるようになった江戸時代からではないかと思います。
多分講談等になるに従い、尾張兵は武田軍団の1/5くらいとか、段段酷くなり、それが定着したのでは。
因みにこうした背景がありますから、江戸期には信長は非常に評判の悪い武将でした。
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この回答へのお礼

なるほど、確かに信長に対する評価は以前は「冷酷無比」など悪いイメージが多かったですね。近頃ではかなり見直されて来てますが、「甲陽軍艦」が元では、というのも頷ける気がします。
今まで「甲陽軍艦」は資料的価値が低いものとして、手元にあるもののあまり目を通していませんでした。
江戸時代には神君家康を引き立てるために、あるいは信長が引き合いに出された可能性もありますね。
山鹿素行はけっこう戦国武将に対して平等評価をしているので、そこまで気がつきませんでした。
有難うございました。

お礼日時:2004/07/02 09:24

当時の文献とかは、わかりませんけど・・・


尾張兵は、合戦に弱かった。
戦場で織田家の軍勢が崩れたのは一度や二度ではない。美濃侵攻においては数え切れないほどの敗北を喫している。
これが、一番尾張兵の弱さを示していると思う。
美濃を取るのに、すごく時間がかかっているのだ。
その後も、越前侵攻では全軍総崩れとなり、姉川決戦では戦線崩壊寸前まで追い込まれている。
 他にも石山本願寺、紀伊衆、伊勢一向一揆… 織田軍と全面戦争を戦った有力な勢力は、どこかで必ず一度は勝利を得ているのではないかと思う。
(後半は、尾張兵と限らないが・・・・自滅)

この回答への補足

美濃侵攻について・・・孫子の「これに角れて有余不足のところを知る」を実践し、美濃に関するデータ集めをしていたのでは、という意見があります。根拠としては、大敗はしていないこと。また、大敗しない程度にぶつかって揺さぶりをかけ、相手の崩壊を待つのも孫子の教えにかなっている。

姉川について・・・わざと崩壊を装い、敵を包み込んで撃つ。これも孫子にありますが、あまりに織田軍の崩れ方があっけなさ過ぎるために、この説を唱える学者もいます。

また、目に見える勝ち方は善ではないという、孫子の教えもあります。

補足日時:2004/06/30 13:37
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
後半は上方兵とおきかえてください。

お礼日時:2004/06/30 13:57

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