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1. 《コミュニケーションする意図を持たない人は 人間以前である》と岩井克人が
述べています。この見解について 感ずるところ・思うところを述べて ご意見をおし
えてください。
 
 2. 少々旧聞に属しますが 柄谷行人との討論形式による共著『終りなき世界―90
年代の論理』で 岩井克人が 次のように発言しているところです。

 △ (岩井克人:《人間以前》について)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 日本人が《偽善》を嫌うという話ですが それは日本人の世界宗教性のなさというこ
との裏返しなわけですが 同時に 日本人が世界的な意味でコミュニケーションを拒否
していることの裏返しでもあるわけですね。

 いま柄谷さんが 人間は偽善者であるほかはないと言われたんですが その場合の人
間とは 世界と言語を使ってコミュニケーションする意図を持つ人間という意味なんで
すね。そういう意図をもたない人間は ある意味で人間以前の存在なわけですね。もち
ろん 日本人であったり イラク人であったり アメリカ人であったりはするんだけれ
ど 人間ではない。
 (柄谷行人・岩井克人:『終りなき世界―90年代の論理』1990 p.131 )
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 3. 質問者としては この――もしそうだとすれば――コミュニケーションが成立
し得ないような人間関係において とうぜん 広い意味での社会的な身分の上下関係か
ら来る下の者のこうむるストレス これが 問題になると考えます。

 4. そのことを取り上げたいという意図が むしろあります。要するに 権限のあ
る人は 普段は 立派に振る舞うのですが どこかでは その不平や愚痴としての意識
をただただ排泄するという部分もみられるようで これを受け止める側――《アース役》
――のこうむることのあるストレスという問題です。
 
 5. ですが・しかも その前に《ある意味で人間以前の存在》という規定について
思うところを述べてください。あるいは 解説してください。

 6. あらためて噛み砕いて復唱するなら 次のように言っているものと思いますが。

 (あ) 人間はたとえ偽善者となっても 言葉を用いて相手とのコミュニケーション
 はおこなうものである。絶やさない。
   
 (い) ところが これを絶やす場合がある。一般に 日本人のことである。

 (う) 偽善者を嫌うという傾向がある。

 (え) それは ひとつに《世界宗教性の無さ》から来ると考えられるし また コ
 ミュニケーションする意図を持つのことのない《人間以前の存在》であるからだと考
 えられる。

質問者からの補足コメント

  • 44. 民主制が 歴史の終焉だと捉えられるという世界の展望についてのひとつ
    の見方が 提出されたことがあります。

     45. これは イスラーム原理主義が 壊しつつあります。

     46. むしろそれでも民主制が固められるための過渡期だと見る人がいるかも知
    れませんが 過渡期というのは むしろ本番なのだと考えるべきだとも思います。

     47. 只管打坐を掲げ 念仏による往生を説く思想のかたちは 形式先行主義で
    あるようにも見えます。

     48. アメリカの統治政策によっては 農地解放や労働組合の育成があるように
    思います。
     
     49. さらには《ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(戦争につ
    いての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画)》があったとも議論されて
    います。

     50. 支配体制とそれが富の集中を手段とすることについて 同感です。

     取り急ぎにて。

    No.7の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/11/29 17:55

A 回答 (8件)

お礼と補足ありがとうございます。


引用文が、柄谷氏と岩井氏の対談だったので、回答というより、柄谷氏と岩井氏を読み解くような感じになって、本題とは逸脱した形になってしまったかもしれません。
引用文が、一部を抜き出していたために、全体の論拠は、引用文とはかなりずれてしまっていたかもしれません。
ただ、その後の柄谷氏と岩井氏の著作からは、当たらずも遠からずの読み解きにはなっていたような気がします。
まず、「人間以前」に関しては、岩井氏の人間(人では無く人間)に対する認識自体が、(社会的)人間に基づいているので、当然、社会活動としての、「人間」たらしめているのは、【その「媒介」によってお互い同士を「普遍的」な人間として関係させる「社会的実体」としての言語・法・貨幣である。】としています。(これはコミュニケーションと言って良いでしょう)
したがって、「人間以前」とは、(社会的もしくは、普遍的)人間で無い状態と言えます。
柄谷氏の「偽善」については、世界宗教(多くはキリスト教を意味する)が要求する「善」に対する姿勢であると言えます。
柄谷氏自身は、(世界的もしくは、国際的)人間は、偽善(これは、すべて善であるわけでない状態を意味していて、善では無いと言う意味ではないです)であっても、理念として「善」に向かうべきである。
したがって、すべての(完全な善に到達出来ないならば)(世界的もしくは、国際的)人間は、偽善者となる。
「露悪性」については、正直に本音を言ってしまうと言う事が、問題だとしています。
ここら辺は、憲法論議になってしまうんですが、第9条について、日本が押しつけられた憲法なので、実体として機能しない(自衛隊の存在)はしかたないと発言する事は、露悪であって、「人間」としては、おかしな言動であるとしています。
憲法第9条は、至上の善を表現しているわけです。(絶対非戦)
そうであるならば、偽善であっても、憲法第9条は、日本人の理念として絶対であるが、最低限の自衛は行うと明言するのが「人間」としての言動としては正しいと言う事です。(最終的に世界平和が実現すれば、非戦は維持できるので矛盾しません)
要は、日本人が理念を持たないで形式だけで話しているのは問題だという事を述べたにすぎません。
これは、国際的な本音と建前という二面性を上手く利用している、諸外国の偽善性を、日本人が上手く使えない事を意味します。
実を言えば、憲法第9条は、カントの神の存在証明と似通った存在なわけです。
カント自身は、論理的に神の存在証明は不可能だと結論づけました。
ただし、「人間」が「善」に向かう事を義務付けられた存在だとしたら、それを保証する為に「神」は存在すべきだと言う事に気付いたわけです。
「非戦」は、完全に実施する事は、困難でしょう。 ただ、人類が「非戦」になる事が「善」であるならば、理念としての「非戦」は存在すると言う事です。
そういう意味であれば、憲法第9条は、存在する価値があり、国際的にこれを否定する事は出来ません。
柄谷氏の、「日本人」認識としては、理念や主体が無い形式的な国家が、終わらない日常として、綿々として続いてきたと言う事のようです。
これは、日本が外国文化を拒絶してこなかった事から、判断しているようです。(ある意味、変成と言う形で、自己に取り込む事による最大の拒絶が行われたとも言えます)
つまり、日本に文化侵略出来た外国は存在していないと言う事です。(日本は外来文化を変成によって、日本のものとしたので、結果的に日本文化として根付いてしまうと言う事です)
これは、一方的な見方かもしれませんが、外部から見れば、ある意味「日本人」という形式的なプロトタイプが存在して、自然と一定の行動に進んでいくように感じとられる事になります。
それが、日本の社会が自然と育んできた特性なのかは、不明です。
この対談の結論としては、「日本人」が積極的に「外部」へ向かう衝動を持たない事の問題点の指摘と言えるでしょう。
ここで、「人間以前」に戻れば、その形態は「野獣」(コミュニケーション不在の衝動的存在)となるのが、西欧的発想なわけですが、何故か、「日本人」の場合は、「野獣」では、無く、閉鎖した独特の様式や秩序をもった社会であったと言う事です。(実際問題、江戸時代の鎖国は、日本を「野獣」にはしませんでした)
文字通り、「鎖国」しただけで、外国の干渉も、外国への干渉も行わない「非戦」を実現し、国内においても「非戦」のシステムを実現したわけです。
これに関しては、是非を問う事は難しいですが、柄谷氏は、対談の時点では、「外部」との関わりにおいて、問題点を明確にすべきと考えていたようです。
問題点は、日本の社会構造が、理念や主体なく構成され、一種の自然調和的協働状態を安定的に成立させ、その根本的な構造は古代から綿々と続いていて、極端な転換を誘発する、原因や対象を持ち得なかった事なのでしょう。
現代においては、「野獣」として行動する国家も存在し、それらは明確な理念を持っています。
ただ、「野獣」であれば、国際的にはそれを非難や糾弾する主体が存在します。
日本は、経済的・軍事的にも、世界的にも大国なわけです。
本質的な影響力は大きいと言えるでしょう。
ただ、日本の特質として、日本が国際的にリーダーシップを取る事は、あり得ないでしょう。
国際的には、日本の理念が見えないからです。
また、世界が日本のようになる事は当分無いでしょう。(世界は、まだ世界宗教にしばられているからです)
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

63. 岩井の議論について 同感です。

64. 《言語・法・貨幣》 いづれもその起源があいまいです。経験的な事物として
はっきりしているにもかかわらず。

65. おっしゃるとおりそのような成り立ちのこれら三つのものは けっきょくコミュ
ニケーションの問題であり その世界への《入り》を拒むなら――つまりは 消極的に受
け身だけの姿勢でむしろ自覚のないまま付き従っているだけなら――それは 《人間以前》
の状態にある人間であると。

66. 人間以前の状態にあるところの人間であることに間違いはないのですが。

67. 柄谷の議論は 受け取っておられるところとして そういうことだと思うのです
が どうもわたしには はっきりしませんし すっきりしません。

68. 煮詰めて言えば 《ホンネを言っても(≒露悪をおこなっても)よいとしても
そのとき同時につねにタテマエをも語っている(≒偽善でよいからそうする)べきだ》と
いうような主張に感じられます。

69. 岩井が《日本人はレイシストだ》といった発言をしていてそれを承けてこの柄谷
による《偽善》論が出ているようなんですが そしてたぶんそこから(18)での《アメ
リカ人の卒の無さ》としての偽善説につながるのだと思います。

70. それよりも(26)のご指摘が わたしには神秘的ですね。

71. そして 次のご指摘に通じます。:
  ★ これは、国際的な本音と建前という二面性を上手く利用している、諸外国の偽善
性を、日本人が上手く使えない事を意味します。

72. 言いかえると 憲法論議は 中国の覇権主義にどう対処するかに尽きるのだと。

73. 沖縄がまづ先住民としてみづからを自覚し植民地状態から独立すること ここへ
と中国がそそのかすという戦略に対してです。神学・哲学として説明なさった内容は こ
こに行き着くのだと。

73. ★ ある意味、変成と言う形で、自己に取り込む事による最大の拒絶が行われた
とも言えます
 ☆ その通りに思います。それが 日本教総本山のもとに仏教支部やキリスト教支部・
マルクス教支部も所属しているという実際なのだと思います。

74. 後は次の問題に尽きるのでは。
 ★ 世界は、まだ世界宗教にしばられている
 ☆ 日本人は《一神教の偽善》に免疫があるかも。

お礼日時:2015/12/01 07:47

お礼ありがとうございます。


実際に、柄谷氏と岩井氏の対談を聞いて見ました。
どうも、この対談の主題としては、世界の終焉においては、形式的な社会構造に移行して、日本の江戸時代のような社会になると予言した経済学者の意見が、その根底にあるようです。
日本が偽善を嫌うと言うのは、余談なわけですが、人間以前と言う意味は、形式を重視して、個々の日本人は人間としてより、形式を守る為に行動するようになると言う事のようです。(対談の中では、日本が会社をあたかも人間のように扱う、法人資本主義が中心である事にも言及されています)
もちろん、その予言自体がすべて的中しているわけでも無いし、これからどうなるかはわからないです。
ただ、ニュアンスとしては、国際的な平和が実現したならば、世界人類共通の目標をどこに置くかが不明になると言う事のようです。
江戸時代は、徳川体制により、諸大名に消費(浪費)を行わせて、富の集中を防ぎ、徳川の為の平和を維持していたわけです。(公平・不平等は別として、徳川以外では、富の再配分が行われていたわけです)
資本主義自体は、実体が無い、経済行為でしかないわけですが、何故か形式主義には適した構造である事が指摘されています。
どうも、西欧と日本においては、そのようなコミュニケーションギャップが存在している事自体が問題だと言う事のようですね。
それが、国家レベルなのか、日本人個人の問題なのかは、不明確ですが、日本人が自由な人間として見られない事の原因になっているのは確かでしょう。
歴史的に、日本人が形式重視な観念を持つようになったのは、江戸時代以後だろうと思われます。
少なくとも、戦国時代、室町時代、鎌倉時代には、そこまでがちがちの形式主義は存在していないように思われます。
鎌倉時代の武士道にしても、御恩(報酬)を元にした主従関係であり、忠誠を誓うといった、観念的なものではありません。
戦国時代も下剋上はあたりまえですね。
明治維新が、本当の革命であれば、これらの江戸時代体制は崩壊したはずですが、実体は徳川の大政奉還による、統治者の変更でしかなかったわけです。
依然として、日本人は形式主義を強めていったと言えるでしょう。
昭和20年の敗戦も、その変化の契機になるチャンスとは言えましたが、アメリカの統治政策により、日本は従前の体制(軍部を除く)を維持する形となりました。
ある意味、細かな変動はあっても、江戸時代の体制がそのまま継続しているとも言えるわけです。
現代においては、終身雇用制の崩壊などによって、再度の変化のタイミングが来ています。
柄谷氏と岩井氏の対談は、1990年ですから、すでに25年の歳月が経過しています。
西欧の情勢も変わっているわけですから、現在の日本がどのような立ち位置にいるかも変化しているでしょう。
安倍首相の考えは、国際協調と国際競争力の強化のようです。
現在もコミュニケーションギャップが存在するのか、はたして、形式主義が人間性の否定につながるのかは、検証の必要があるでしょう。
世界的な国家構造として、不平等な自由主義リベラリズムが正しいのか、預言された江戸時代的スノビズムに世界が移行していくのか議論になるでしょう。(実際は、そのように移行していないと思われます)
注目すべきは、江戸時代が大家族同居禁止の政策によって、核家族化を進めていたと言う事です。
これ自体は、秀吉も行っていました。(秀吉が家康より長生きして、豊臣時代を固めていたとしても、大阪時代となっただけで、体制は江戸時代とは変わらなかったでしょう)
平和を維持するには、富の集中は支配体制のみとする必要があると言う事です。(アメリカもそれを理解しているから、世界警察として、アメリカ以外の富の集中を排除する政策を取っているわけです)
完全な平和が実現した時、人間が何に向かって生きていくかは、哲学的な問題でしょう。
ただ、世界はまだその状態にはなっていません。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

 51. 正直に申せば 岩井の発言を取り上げたのは ひとえに《人間以前の存在》と
いった・やや過激な表現を使っていることに注目したのでした。

 52. じつはわたし自身もこの表現を使っていて その取扱いや評価を聞きたいとい
う浅はかな動機もからんでいます。と告白しておきます。

 53. そしてその表現は 何より《コミュニケーションの拒否》と言いますか 人と
人とのマジハリに問題点を見ているので その点は正面から取り上げたいし取り扱いたい
ことです。

 54. 社会における人間関係としてのコミュニケーションと言えば けっきょく歴史
のすべての分野にわたっているとも見られて来ます。たぶんそういったところから 今回
こうして 日本人の・そして世界の人びとの歴史というものを全部扱うようになったのだ
と思います。

 55. (42)に触れた問題点のほかに――こうやって日本史を検証してもらったこ
とと並んで―― たとえば古いかも知れませんが 《恥ぢ》の問題を論じると意外と 世
界との突き合わせにしても 見方がはっきりしてくるのではないかとも ふと思いました。
 
 56. もし武士が 多少の偽善の要素をも含みつつも 損得よりは恥ぢを行動の指針
とするとしたら この思想(≒生活態度)は いまどうなっているのかです。
 
 57. 長いあいだのゆるみ・たるみがあったにせよ 幕末には武士のたましいが 古
いものだとしても よみがえりました。

 58. そして右往左往したとしても 試行錯誤の結果は 曲りなりにも 戦時には国
際法を遵守する国際社会の一員としての国家となりました。
 
 59. 待っていたのは 帝国主義間のあらそいであった。戦後は 特に経済的なグロ
ーバリズムの大波がやはり待っていた。

 60. きわめてうわっつらの議論になってしまいますが ここでひとつに《恥ぢ》の
問題が 立ちあがってくるのではないか。とも ふと思いました。

 61. つまりは もう恥ぢの文化などは消えていて あとは 大波やツナミの中にで
も実利主義において棹差して行くしかないのか。

 62. ★ 完全な平和が実現した時、人間が何に向かって生きていくかは、哲学的な
問題でしょう。 / ただ、世界はまだその状態にはなっていません。
 ☆ と言うとき。

お礼日時:2015/11/29 20:44

お礼ありがとうございます。


集団内でのいざこざは、当然ありますが、それが外部からなされた時は、集団として自衛するという事です。(これは西欧でも同じかもしれません)
ただ、集団の為に個人を犠牲にすると言うのは、近代ではあまり無いでしょう。
当然ながら、このようなコミュニティーでは、集団のルールが重視されるので、個人的な行動者は村八分になる可能性は高いと言えるでしょう。
そういう意味では、個人主義が突出した人にとっては、集団は規制の手段でしかないわけです。
そのような人にとっては、村社会が存在しない都会は、それらの規制から解放された場所となっているわけです。
ですから、これらの事項は、良い面もあれば、悪い面もあるわけです。
集団が個人を排除するには、それなりの理由が必要です。
一般的には、集団のルールに従わないとかでしょう。
オフィシャルに勝手に排除は出来ません。(それはよほど狭いコミュニティーでなければ難しいでしょう)
個人の好き嫌いなどは、当然ありますが、日本の社会でそれを行えば、変人と言われるだけです。(むしろ、そのような人の方が人間的に排除される可能性は高いです)
簡単な例えは、「出る釘は叩かれる」と言う事です。
国際的に考えれば、日本の社会は非常に安定しています。(失業率が高まっても暴動が起きない事からもあきらかです)
ただ、自殺者は例外的に多いです。(これが、村社会を重視する心情によるのかどうかは、解明すべきでしょう)
また、日本人の幸福度が低いのも事実です。
これが、高度に安定した社会を作った代償なのかも検証した方が良いかもしれません。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

 35. まぁ いちゃもん師と擁護論とのあいだでは 真理は中間にあるのかも
知れません。

 36. 日本社会やその中のさまざまな組織が安定しているというのは やはり
こだわりますが 除け者の問題にある。あるいは KYというように・除け者にな
らない前にクウキによってその場が調整され続けているからかも分かりません。

 37. まさにエア・コンディショニングですが わたしが見るところ こうい
った《和の手法》も おそらく経験科学による説明が必要になって来ているのかと
思います。国内的にもではないでしょうか。

 38. 言葉で説明してしまうと もうエアコンは効かなくなるということかも
分かりませんが。それでも この《説明の必要》論は 国際社会の中にあって欠か
せなくなって来ているとは考えます。

 39. 《出る杭は打たれる》に対して 《声のデカイやつには もっとしゃべ
らせろ》とか言うことわざがあるとかどうとかと聞きますから どちらについても
その理由づけを いちどあらためてしておくことは 国際交流の上で大事なように
感じられます。

 40. ★ 日本人の幸福度が低いのも事実です。/ これが、高度に安定した社
会を作った代償なのかも検証した方が良いかもしれません。
 ☆ 見解を同じくします。《安定した社会をつくった。なら 多くの人がしあわ
せを感じていていいではないか》というのは 理由のない疑問ではないからです。

 41. ということは 哲学にとっては これまでのように理論の研究からさら
に進んでそれらを 文化や生活世界の具体的なことがらと照らし合わせながら ロ
ーカルとグローバルとの関係の再形成がすすめられて行くでしょうか。

 42. 集団と個人 オモテとウラ タテマエとホンネ ムラ社会ないし古くは
共同体の問題 いろいろ議論され研究もされて来ましたが 考えてみれば お隣の
問題のふたつの国についても その内情が分かって来たのは まだまだ最近です
残念ながら わたしとしては。
 
 43. ということからも・と自分を基準として言ってしまえば 生活感覚をも
って二つないしそれ以上の国や文化をしっかりとあらためて比較対照して行くこと
が欠かせないでしょうか。

お礼日時:2015/11/28 23:40

お礼ありがとうございます。


これは、質問の回答と言うわけでは無いですが、西欧文化で理解出来ないのが、「村八分」と言う言葉でしょう。
日本人の場合は、村(ある一定のコミュニティー範囲)でのルール逸脱者に対して、100%の阻害は、しないで20%は集団の一員として扱うと言う事です。(葬式と消火活動は協力すると言う事です)
この概念は、善・悪の2元論とは相いれないわけです。
これは、日本社会としては、最大の制裁なわけですが、外国だったら、文字通り「村十分」が普通の概念です。
ある意味、西欧社会から見れば、生ぬるく、あいまいな行為と言えます。
現代社会においては、これらの制度は無くなっているわけですが、日本の場合は敵・味方が曖昧で、あくまで所属する集団が重視される傾向があるのは確かです。
近年は、そのような事例は少なくなりましたが、集団が集団構成員を守るという姿勢は、社会活動でも重視されていました。
必ずしも、国際的なデフォルトとは言えませんが、個人主義が徹底した場合は、あくまで個人が自衛すると言う考えが強くなるのは確かです。
ただ、諸外国でも、家族などの最小単位ではそのような事は当たり前です。
日本のように、地域・会社・国などの単位で、集団が構成員にそのような対応をする事は無いでしょう。
ただし、日本も西欧的な社会に変質しつつあります。
でも、まだそのような考えはあると言えるでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

 28. 村八分ですが 以前はわたしもそう思っていました。ですが――今回も
ヰキぺで確認しましたが―― その《二分》とも 死体の腐臭を防ぐためや延焼を
まぬかれるためというように 自分たちの都合でそうしているみたいなんです。
 100%の疎外みたいなんです。どんなもんなんでしょう。

 29. まあ もっともムラの中に住み続けることが出来るというだけでも 西
欧社会とは違うと考えられますが。

 30. ★ 日本の場合は敵・味方が曖昧で、あくまで所属する集団が重視され
る傾向があるのは確かです。
 ☆ またまたいちゃもんをつけますが これも微妙なように感じます。
 《所属する集団》が行動や思考の単位となるというのは 分かります。
 問題は じつはウラでは・ホンネとしては 《敵と味方》に分かれるという場合
が無きにしも非ずではないか。

 31. あるいは・と言うより やはり先ほどのムラハチブのような問題ではな
いだろうか。つまり《いじめ》でしょうか。ひとりの人間を疎外すると決めたら
集団の全員が《きちんと》それを実行します。じめじめとしたやり方が取られると
思います。

 32. ですから ワルモノになって言うとすれば 《自衛》の行動は 集団が
集団じしんについても成員の一人ひとりについても 集団としておこなうわけです
が そのときにも・一般に普段でも その中でひとりの除け者がつくられていると
いうことはあり得るのではないか。

 33. 個人としての自衛は 下手と来ていますから 除け者にされた人はたま
ったものではないでしょう。

 34. この場合は 真理は中間にあるではなく 真理は東と西との両方を合わ
せまとめて 互いに批評し合いそれぞれが独自の基礎哲学をまとめあげる・・・こ
とが望まれるでしょうか。いえ 分かりませんが。

お礼日時:2015/11/28 22:38

お礼ありがとうございます。


質問文の引用文の範囲では、何故日本人が国際的コミュニケーションを取らないか(取れないか)は読み取るのが困難ですが、岩井氏の他の著作では、日本人がセルフイメージとして意識するのが日本人であり、人間では無い事が原因だと書かれているようです。
つまり、そのものずばりの、引用文の中に書かれている人間以前の状態にあると言う事なのでしょう。
必ずしも、国際的な標準とは規定しえないキリスト教倫理観としての人間を客体としてコミュニケーションを行っている国際社会において、日本人としての立場のある意味ナショナリズム的な客体で交渉しているならば、それはコミュニケーションのルールを逸脱していると判断されても仕方無いわけです。(必ずしもこれが悪い事ではないですけどね)
単純に言えば、グローバルな視点で議論しているのに、ローカルな視点で回答していれば、意思の疎通というより、議論自体が成り立たないわけです。
一例として言えば、国際的な安全保障の議論をしているのに、ローカルな憲法論議で回答していたら、最初から議論に参加するなと言われても仕方無いわけですよね?(自国憲法が理由なのは仕方無いにしても、それならば議論に参加する必要は無いわけです)
一例は、国際的に問題になる事項ですから、記載しただけで、憲法論議の是非を目的としているわけでは無いです。
岩井氏の論点は、善にあるわけでは無く、西欧的なセルフイメージとしての人間が自立した個人像である事に対して、日本人がセルフイメージする日本人が、日本と言う国の構造に立脚した国民としての立場である事が問題だと言う事のようです。
要は、自立した個人では無く、日本人として行動してしまう事が、自由な人間として見られないと言う事なのでしょう。
これを日本人の島国としての閉鎖性として捉えるか、文化・情緒としての和を大事にし、国民としてのあるべき姿を保つ性質として捉えるかは、受け取る側の判断によると思います。
西欧の先進国の国民は、人間としての偽善性は持ち合わせているわけです。
キリスト教などの倫理観でも、個を捨てても奉仕する事は美徳と考えられているはずです。
でも、実際にそのような行動をする人は、先進国では皆無でしょう。
彼らにとっては、集団や他者の為に自決するような人は狂信的な殉教者としか思われないと言う事です。
今の日本人でも、多くの人はそのような行動はとらないです。
でも、大災害がおこっても、略奪や利己的な行動をする日本人はほとんどいません。
そういう面では、集団を大切にする倫理観は、いまだ持ち合わせていると言う事です。
別にこれ自体を悪と見なす人は、諸外国でも少ないでしょう。
あえて言えば、日本人が偽善的でなく、本質的な善をもっているから、露悪も気にしないと言う事なのかもしれません。
外国から見たら、それが日本人の神秘性であり、また怖い面でもあると言えるのでしょう。
コミュニケーションが取れないと言う事は、相手が理解出来ないと言う事です。
西欧的社会にとっては、日本人の本質はいまだ未知で理解不能な部分があると言う事なのではないでしょうか?
日本人は、コミュニケーションをとろうとしていないのではなく、あくまで日本人として行動しているだけと考えた方が自然なのかもしれません。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。
 われながら ちょっと面白そうな主題を扱ったものだと思いました。

 22. 次の分析とまとめは ことの本質を撞いていると思います。
 ★ 岩井氏の論点は、善にあるわけでは無く、西欧的なセルフイメージとしての
人間が自立した個人像である事に対して、日本人がセルフイメージする日本人が、
日本と言う国の構造に立脚した国民としての立場である事が問題だと言う事のよう
です。
 
 23. ★ 国際的な安全保障の議論をしているのに、ローカルな憲法論議で回
答していたら
 ☆ つまり ローカルな議論はそうだと承知していて議論し しかもグローバル
な物指しとしても同時に議論を深めて行けばよいのにと思えてなりません。へんな
皮肉を言えば 《ツー・トラック作戦》ですね。

 24. あっ ただし次のご指摘にかんがみれば 問題はもっと複雑なようです
ね。
 ★ 要は、自立した個人では無く、日本人として行動してしまう事が、自由な人
間として見られないと言う事なのでしょう。
 これを日本人の島国としての閉鎖性として捉えるか、文化・情緒としての和を大
事にし、国民としてのあるべき姿を保つ性質として捉えるかは、受け取る側の判断
によると思います。
 ☆ これは 痛いところを突かれました。つまり われらが国のローカル路線は
グローバルな普遍性を持ちうるかも知れないではないかというご議論ですよね。

 25. たぶんそのための先決問題は きちんと説明をするということでしょう
ね。ムラの生活世界をそのまま《輸出》してもよいわけですが おそらく取り扱い
説明書が必要になると思われます。それがないと 端からバカにされ《迫害》さえ
受けるかも分かりません。

 26. ★ あえて言えば、日本人が偽善的でなく、本質的な善をもっているか
ら、露悪も気にしないと言う事なのかもしれません。
 外国から見たら、それが日本人の神秘性であり、また怖い面でもあると言えるの
でしょう。
 ☆ ここらへんは わたしは口をつぐんでみなさんの意見をお聞きしたいですね。

 27. ★ コミュニケーションが取れないと言う事は、相手が理解出来ないと
言う事です。
 ☆ なのでしょうね。ということは 機械的に哲学するなら 《理解し合うため
に まづは話し合いのテーブルにつけ》となります。どうかなぁ。

お礼日時:2015/11/28 21:39

質問文がちょっと難しすぎますね。


全体のイメージが最初はわかりませんでした。
柄谷氏の主張は、日本人が偽善を嫌い、露悪的である事に問題があり、「世界的な宗教感=善であるべき」という意味でのコミュニケーションを拒絶している→人間以前であると言う事のようです。
この事自体は、確かに事実ですが、偽善者と言う言葉は、キリスト教的概念では、善をおこなう事をアピールして善行を行う事です。
また、日本人の持つ偽善者と言う意味は、単純に聖人君子のふりをしている、人間性に乏しい者と言う場合が多いです。
質問に関しては、以下のように思います。
1・2、質問文で引用されている文章の主張は、国際的コミュニケーションにおいては、善が前提とされるので、善を至上としない日本人の行動は、世界的には人間性の欠落と捉えられるであろう。(この論点においては、現象の受け止め方でしかないので、単純に日本人は善悪を両方持ち合わせているが、世界的に正論と思われる善行を行わないと解される可能性がある)
柄谷氏の主張は、偽善は善をおこなうだけ、ましだと言う事です。(実際に善をおこなえれば、それで良い)
世界的には、(オフィシャルには)人間は性善である事が望まれると判断するのが、人間であると理解されると言う事ではないでしょうか?(偽善か偽善でないかよりも、善であるように見える必要はあると言う事です)
3・4、これはモラハラを想定しているのでしょうか? どちらにしろ、コミュニケーションが存在していないのならば、人間としての交流は無いわけですから、1・2とは無関係のような気がします。
単純に、コミュニケーションの問題です。
たとえれば、上司と部下でどのような関係性を持つかと言う事でしょう。 1・2の人間という意味とは違うのではないでしょうか?
5・6、ここら辺の表現は、1・2の主張とはちょっと異なると思います。
・国際的に人間と認められたいならば、偽善であっても、善であるようにふるまうべきである。
・日本人は、国際的なそのような考えを理解していない(もしくは無視したい)ので、善であるようにふるまわない。
・日本人は偽善を嫌う。(偽善者は、他人がそう言うだけで、本人は偽善者と認識しているとは限りません)
・日本人の宗教感は、世界的な性善であるべきという感覚とは違う。(単純に主張するのが下手なだけかもしれません)
本来は、キリスト教は、キリスト教的偽善(善をおこなう事をアピールする事)を禁じているので、世界的な宗教感と言うのとは、教義が違います。
むしろ、日本人が実際に行動している事の方がそれに近いと思います。(特に主張する事無く、やるべき事を行う事)
ただ、国際的コミュニケーションにおいては、そのような美徳は、何をしているのかわからないと言う事になります。
また、対外的に国内の政治家の露悪を批判しないのは、ある意味実務的ですが、宗教的な倫理観の欠乏と捉えられると言う事でしょう。
日本人だって、国内的には建前を重視しているんです。
ただ、それは表向きで、実際は腹を割って話せば、それは通用しません。
諸外国だって、実体はそうです。
ただ、オフィシャルには、取り繕ってはいるわけです。(それを偽善と呼べばそうです)
単純に、日本人が国際的なコミュニケーションが下手だと言っているだけのような感じがします。
それが、自覚的に国際的なコミュニケーションを拒否しているのか、意図せずそのような行動をしてしまうのかは、日本人の文化や情緒の問題のような気がします。
ただ、国際的と言っても、国もいくつもあるので、先進国だけで判断するのも、ちょっと問題はあるような感じがしますね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

 14. ★ 3・4、これは・・・コミュニケーションが存在していないのならば、人間
としての交流は無いわけですから、1・2とは無関係のような気がします。
 ☆ 端的に述べますが たぶん同じひとつの《マジハリの欠けている現状についての原
因》が モラハラとそして偽善者嫌いとに行き着くのではないかとは思いましたが。

 15. (1.2.)については 《国際的コミュニケーションにおける善の前提》と
日本人の持つ《善》の価値としての位置づけがちがうといった点など 示唆されるものを
感じました。
 
 16. 柄谷氏の主張についても おっしゃるところが合っていると考えます。

 17. したがって 次のご指摘に見解を同じくします。:
 ★ 偽善者と言う言葉は、キリスト教的概念では、善をおこなう事をアピールして善行
を行う事です。また、日本人の持つ偽善者と言う意味は、単純に聖人君子のふりをしてい
る、人間性に乏しい者と言う場合が多いです。

 18. ★ 世界的には、・・・偽善か偽善でないかよりも、善であるように見える必
要はあると言う事です。
 ☆ このご議論はそのまま受け留めざるを得ないと思います。アメリカ人などは この
手口に長けているように見えます。おそらくその上で 再考する余地はあるのではないか。

 19. あるいはつまり 哲学を 理論と実際とに分けて 後者の思想や政治力学にお
いて 《善をおこなっているように見せること》が優勢な現状であっても 前者のほうも
そうではない基礎理論の構築において同じ程度に踏ん張りどころではないかとも考えられ
ます。

 20. 残る論点は さらに議論を呼ぶものではないか。:
 ★ むしろ、日本人が実際に行動している事(特に主張する事無く、やるべき事を行う
事)の方がそれ(*偽善をめぐるキリスト教倫理)に近いと思います。
 ☆ という素朴で讃えるべき現実があるにもかかわらず 国際場裏においてコミュニケ
ーションがしばしば上手く行かないという問題であるように見られます。

 21. ★ それが、自覚的に国際的なコミュニケーションを拒否しているのか、意図
せずそのような行動をしてしまうのかは、日本人の文化や情緒の問題のような気がします。
 ☆ どうでしょう。後者なら それとして説明すべきでしょうね。

お礼日時:2015/11/28 16:09

当たらずとも遠からずって言った所でしょうか。

上記の事は正しいですが、その逆も正しいのです。判断の物差しが人の価値観という曖昧なものだからです。俗に言う詭弁というやつです。

こういうのは相手の考えを聞き、自分の考えを深めるぐらいが丁度いいのです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

 9. 資料として判断するにはまだ不足ではないのか。といったところでしょうか。
 意を汲んで受け取るとしたらです。

 10. ただし ひとつの事由ははっきりしています。《コミュニケーションする
意図を持たず それを拒否している》ことが問題であると言っていますから。
 
 11. たぶん 《世界宗教性の無さ》という論拠が これだけでは あまりにも
説明不足であるというところではないかと考えます。

 12. これらふたつの論点について いまの情況で もし何か考えるところがあ
るとしましたら 再度お考えになって述べてもらえたらとも思います。

 13. 岩井は 《詭弁》は弄していないと思いますよ。

お礼日時:2015/11/28 14:03

過去にマッカーサー元帥が正鵠を得た発言をしています。



民主主義の成熟度について「アメリカがもう40代なのに対して日本は12歳の少年、日本ならば理想を実現する余地はまだある」と述べた。
上記「12歳」発言は、1951年5月5日に米上院軍事外交委員会において上院議員 R・ロングが行った「日本とドイツの占領の違い」に関する回答として行われたものである。マッカーサーは次のように回答した。

1.科学、美術、宗教、文化などの発展の上からみて、アングロ・サクソン民族が 45 歳の壮年に達しているとすれば、ドイツ人もそれとほぼ同年齢である。
2.しかし、日本人はまだ生徒の時代で、まだ 12 歳の少年である。
3.ドイツ人が現代の道徳や国際道義を守るのを怠けたのは、それを意識してやったのであり、国際情勢に関する無知のためではない。ドイツが犯した失敗は、日本人の失敗とは趣を異にするのである。
4.ドイツ人は、今後も自分がこれと信ずることに向かっていくであろう。日本人はドイツ人とは違う。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%B0 …
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

 7. そうですね。スペースが少ないゆえ ただちに反論〔のみ〕です。

 ▲ (ご回答内のヰキぺ:マッカーサーのアメリカ議会証言録) ~~~~~~~
 引退後の1951年5月3日、上院軍事外交共同委員会で・・・答えている。

 There is practically nothing indigenous to Japan except the silkworm. They lack
cotton, they lack wool, they lack petroleum products, they lack tin, they lack rubber,
they lack great many other things, all of which was in the Asiatic basin.

 They feared that if those supplies were cut off, there would be 10 to 12 million
people unoccupied in Japan. Their purpose, therefore in going to war was largely
dictated by security.

(日本は産品がほとんど何もありません、蚕を除いて。日本には綿がない、羊毛がない、石油
製品がない、スズがない、ゴムがない、その他多くの物がない、が、その全てがアジア地域に
はあった。
 日本は恐れていました。もし、それらの供給が断ち切られたら、日本では1000万人から
1200万人の失業者が生じる。
 それゆえ、日本が戦争に突入した目的は、主として安全保障(security)によるものでした。)

 秦郁彦は、小堀桂一郎などの東京裁判批判を行う論客たちがこの発言を「(マッカーサーが太
平洋戦争を)自衛戦争として認識していた証拠」として取り上げる論点であると指摘している。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 8. 良かれ悪しかれ日本は そうとすればドイツと同じく《安全保障上 自分がこれと信
ずることに向かってい》ったのではないでしょうか? すでに成人には達していたのでは?

お礼日時:2015/11/28 13:56

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