プロが教えるわが家の防犯対策術!

正月早々、良いテレビ番組を見つけました。「奇跡のレッスン」というタイトルで、一流のスペシャリストが子供達を一週間教育するというコーチングの番組です。
私が見たのはバスケットボールの回でして、「運命は自分でコントロールするんだ」という様な言葉がコーチの口から出ていました。カッコええなぁ、、俺もこんなコーチ受けたかったなぁ、などと思いながら見ました。自信のなかった子供達の表情が明るく変わって行くのが印象的でした。他の回の紹介では、「自分で見つけた答えは一生忘れない」→(子供が自分で答えを見つけるのを待つ)とか、「出る杭は下から押し上げる」と言うのもありました。
当方、いつもこのサイトで回答者の皆様にお声かけていただき、「レッスン」を受けている身ではありますが、あらためて尋ねたいと思います。

良いコーチ、先生に巡り会えた方もそうで無い方もいると思いますが、自分が諭された言葉や、自分なら子供達にこう語る、という言葉を選んで、ご回答頂けると嬉しいです。

質問者からの補足コメント

  • そんな大した大人に離れていません→そんな大した大人にはなれていません

    誤字修正です。

    No.5の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/03 16:25
  • 先祖の話、早速アマゾンでポチりました^^v
    読んでみますね。

    No.20の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/05 01:01
  • 一応、齟齬があるとよくないと思い、冒頭の1〜4についてお答えします。
    1.そういう場合もあるかも知れない事を考慮するが、私自身はそういう事は思っていない。
    2.これは1.に同じ。
    3.良い教師はやる気を引き出すと思っているので、そう思っています。
    4.始め、大体の事は自分でやれないが、できる様になると信じて精進すれば、大体の事はやれるようになる。多くの人から、或いは自分よりも劣った人からも学びは得られる。この様な考え、スタンスです。進度やスピードはまちまちで、一を覚えて十を知る事もあれば、十を教わりニしかものにできない事もある。

    No.30の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/07 01:26
  • 皆様へ。
    この質問は、スレッドが更に伸びないかぎり、来週いっぱいで締め切らせていただこうと思います。どうぞよろしくお願いします。

      補足日時:2016/01/07 22:03
  • 女王先生ですか^^; 
    一話だけではなんとも言えませんが、、、歪な教師だとは思います。生徒を締め付けるタイプのようで、あまりいいとは思えませんでした。このような教師が居て良いのか悪いのか、、現実には変人教師というのは居ますから、それこそサイコロさんの言う距離感でもって対処するのが良いのかなと思います。

    No.64の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/13 01:23
  • ウィトゲンシュタイン関連のご投稿を少しですが咀嚼しました。現代哲学における身体の肯定的な捉え方と、行為へのパースペクティブというものに着目しました。この度の質問は、スポーツのエキスパートが子供達のコーチをするという番組についてでして、身体の捉え方とパースペクティブという観点から繋がりそうかな?と思いましたが如何でしょう。もうちょっとウィトゲンシュタイン関連の方も読み直してみますね。

    No.75の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/15 14:44
  • サイコロさん、どの職業が偉いとか、そんな話をお礼欄に書いてしまいましたが、流石にそれは無いかと思い直しました。スルーしてください。サイコロさんを侮る様な事を言ってしまいました。

    No.78の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/15 16:00
  • #96の投稿が、残念ながら息をしておりません。
    その全文を保存しておりますが、短い補足のスペースですのでそれを全て掲載することは出来ませんし、運営の方針も尊重したく思いますので、宛先のない短いコメントをして彼が存在したことを記録したいと思います。
    #96に記された内容は、現代教育のあり方と、素敵な歌と、空想の酒席でした。
    褒めることについて生徒が天狗になって後、人ん話をきかなくなり伸びなくなるというVTRの件ですが、私は、出来るから褒めるのではなく、出来ないから褒める、ってのが褒めるタイミングだと思うんです(マグジーもそうしてた)。凹んでいる子のモチベーションや自信を回復してやる効果が得られます。
    カントアイさんと猪突さんの酒席ですか。座を同じくすれば異なる意見もいい肴にきっとなると思います^^あほなも同席させていただければ、そこでもあほなことを言いますよ(笑)。

      補足日時:2016/01/17 22:13
  • すみません。今読んだGOOからのメールに、今回は削除理由が明記されていました。理由は、個人情報だということです。おそらく、他の方のブログのURLを転載したことが引っかかったのだと思われます。

    No.99の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/17 23:33
  • えー、ついに2月になりましたね^_^
    月日の経つのは早いです。
    投稿も落ち着いてきたので、そろそろ閉める準備に入ろうかと思います。
    私の感想としましては、多くの方のお話を聞いて、自分自身を振り返るに、友達には恵まれたが、教師には恵まれなかったのかなという事があるも、教師の像というものをこのQAを通じていろんな角度から知ることができ、視野を広げることができました。皆様ありがとうございます。

    BAの選定に数日をかけますので、皆さんから頂いた回答を楽しみながら振り返りつつ、これかなー、というものをBAとしたいと思います。

    ながらくこのQAにお付き合い、盛り上げてくださり、重ねて御礼申し上げます。
    m(._.)m

      補足日時:2016/02/01 17:36

A 回答 (142件中1~10件)

師匠は沢山居ますが、師事していただいたのは3人です。



動きを間近で見ながら生きた話しを聴き、知識を得て
後は、自分で咀嚼しながら確かめていきます。

1を受け取ると、10を展開するほど掘り下げるので
諭されたことがありません。
基本が「盗む」ことで上達してきたので、スタンスがかなり違うようです。


子供達には、聴くことで接しています。
聴くことで彼らは、より深く考えて行くようになります。
それで、理解が早くなります。

情報として、必要な分だけは与えることにしています。
基本情報が無いと、思考が組み立てられないからです。

子供には、自分で考え選択肢を見つけて、判断・実行に至ることを目的とし
失敗したら、そこが一番いい学びになるのでほっておきます。
答えが出せない子には、一緒に考えて行きますね。

大人にはコーチしますが、固定観念を外すためですね。
思い込みで失敗してドツボにはまるので、子供より手間が必要です。

語るのは自分の失敗談と、切り抜けた体験など
上手くいかなかった話しです。
上手くいった話しは、参考になりません。

大切にしているのは、小さなことでも認めること。
一緒に喜ぶこと。
次のステップ・次の事柄など、先を目指すことを忘れないこと。

後は、その場の具体的なことで変わるので「これ」と言うのは無いです。
言い換えれば、そんな時の全部が「これ」で構成されます。
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この回答へのお礼

早速のご回答有り難うございます。

なるほど、カントアイさんの流儀に接せれた気がします。
私の場合は、頭でっかちになりやすいので、自分でやる、手を動かすということを意識しています。実体験でないと身につかないと思うからです。

聴くことで接している、これはいいですね。番組では、背中を押してやることを一つのコンセプトにしていたようですが、傾聴もなるほど、良い方法だと思います。信頼関係を築く第一歩ですね。内気な子供の話を聞き出すのも、傾聴に当たるのだと思いました。

大人は、なまじ自分のやり方が固定されてしまっていることが多いので、大人をコーチするのは難しいでしょうね。子供は大人の影響をもろに受けますが、大人はそうではないですから。

語る話の選び方や、気持ちを共有すること、先を目指すこと、など、どれもカントアイさんの流儀を表しているんだなと受け取りました。

確かに具体的なことはその場その時で為すことですね。質問には具体的な例示を盛り込まなかったので、そこら辺は例示を添えていただいても、やや一般的であってもいいかなという、この度の質問でした。

繰り返す練習によって獲得するセカンド・ネイチャーや、能力を最大限発揮するマキシマイズなどという言葉が番組内で飛び交っていて、とても新鮮でした。人生の示唆を得られる素晴らしい番組だと思いました。

お礼日時:2016/01/03 00:40

とても沢山あったはずなのです。

その時、その環境、その心境に応じた言葉だからこそ、心の琴戦に響いたといった記憶のみがあります。多くは今から思えば、陳腐な名言とか諺とかです。

たとえば、高校の国語のテキストにて、大岡昇平の「野火」の冒頭だったかに、「たとひわれ死の影の谷を歩むとも(ダビデ、詩篇23:4)」が記載されていて、音読時に、いたく感銘を受けたことを覚えています。この言葉が残っているのは、私のプロフィールを含め、書き残しているからに他なりません。

ポジティブな性格とネガティブな性格と、記憶に関連する研究が多くなされているようですが、比較的、ネガティブな言葉が多く記憶に残っていて、ポジティブに影響を受けた言葉の記憶が少ないのは、多くのポジティブな記憶以上に、ネガティブな記憶が衝撃的な事柄だったからかもしれません。
また、「大人」という年齢に達してから随分経ちますが、こちらが意図して子供達にかける言葉の多くは「???」といったレベルでスルーされることが多いのも事実です。逆に、それほど意図していない状況で、思わずかけた言葉が記憶に残っていると言われたこともあります。

・・・と、古い記録を探っていたら、下記のような記述(日記の断片)がでてきました。非常に青臭いところがありますが「ゆとり教育前」の、いわゆる受験戦争時代をかいくぐって生きていた時代の言葉達です。回答とは程遠い言葉達ですが、何がしかの参考になるかもしれないので載せておきます(ネット上、未公開のものでした)。

当時、ネガティブな記憶が大量に蓄積された脳裏に、一言のポジティブな滴下は、どのような言葉であれ、砂漠のオアシスのように感じられたのかもしれません。
それゆえ、すぐに吸収され、跡形もなく、すぐに蒸発してしまったのかもしれません。
いずれにしても記憶の彼方です。直接お役に立てないで申し訳ございません。

===>>> 以下、個人的な日記からの転記
971208
大人になるとは、純粋な心を失うことであると、誰かが言ったように記憶している。
全てを理想的に解決する手だてを失い、妥協に基づく協調がなされるとき、人は解決の糸口として、互いに受け容れ合うことを学ぶ。
あらゆる物事を、順次、俯瞰的に受け容れざるを得ないとき、人は、いわゆる大人になってゆく。
失うべくして失っていく、個人の過去の遺産とともに、心の偽足も引きちぎられ、萎縮していく。
果たして、いわゆる大人になったものが、心の底から他人に同情などするであろうか。
現実の酷さを隠して、偽りを知りつつ大人は、純粋であろうはずの子供に、「人類は自由、平等、博愛」などと、教え続ける。生存競争のなんたるかを教えようともせず、自然に学ぶであろうことを期待しながら。
あらゆる生活共同体単位で、様々な生存競争が繰り広げられる。それは、緩やかな締め付けが始まったときから、急激に沸騰し始める。しわ寄せは弱者に向かうが、表向き救済されることが暗黙裏に認められている集団に対しては、大声を上げるものは少ない。
様々な知能レベルの策略が、マス・メディアを搾取する。きれい事は大衆受けし、真相は忌み嫌われる。大衆による合意が全てであり、それ以外の何ものも正義足り得ない。神は、その神を信ずる大衆による正義を立法化する手段に過ぎず、信仰の拠り所は教義に存在する。いかなる試みがなされようとも、個々の人の心に基づいて、あらゆることが理解され、感じとられる以上、神は人の心すら越えることができずにいる。形而上学的な全ては、思考の断片すら存在しない場合、全く存在しない。人の理解を超えたものを、人が理解できるわけが無く、人の理解の範囲でのみ、そのものをとらえることが出来るだけである。

980512
子供は、自らなし得る限りの力を使って精一杯生きているというのに、大人は当事者足り得ず、彼らが未だ経験することのない、未来の時間に話をすり替えてしまう。
底辺をレベルアップする事で均質化しつつある義務教育は、ゆとりを求めようとしても不可能なカリキュラムを子供たちに押しつけることとなる。
新たな技術、情報があふれ返る時代に、生きるために、過去に得られた知識以上に学習しなければならない彼らにとって、限られた時間のなかでは、もはや一時の休息すら、落ちこぼれの原因と化す。
自己の経験談:「人生について、将来について、悩む時間すら惜しいと考える時期があった」

980814
過去の上に立ち,現在を見据え,時の流れを見極めて,未来を掴まん。(中学生時代)
常識としてもっと大切なことがあるにも関わらず,一つのことが大切だと強調しすぎると,強調され過ぎたもののみ意識してしまい,本来重要なものの理を見失ってしまうことがある。これは,実体験の乏しい学生において強く見られる傾向のものである。
私は,学生時代に,あまりにも過去という対象物にのめり込みすぎた。今は,現在と,少しの未来にのめり込んでいる。老いたときには,さらに深い未来にのめり込むことだろう。

990309
私は,今,旅立とうと決心している。
幼い頃から見続けていた,夢の正体を今,ようやく分かり始めたような気がする。あの,どうしようもない不安感の原因が何であるのか。
自分の行動範囲を元にして作り出した,架空の町の中で逃げまどい,それ以上の空間には決して到達することの無かった夢。
夢の世界での様々な制約は,住み慣れた町への心の束縛がもたらしていた。
一度,壮大な旅をする必要を感じている。

あらゆる人は,不完全なまま,完全を目視し,安定と繁栄を願望しつつ,存続していく。いずれ,全てが破壊され,消失していくことをしりつつ,生きていくために,努力し続ける。

991105
私は,集団の中で,生活することになれていないのだろう。父が言っていたように。
真理(と思われる)の言葉が,頭をかすめ続けるのに,いざ,言葉として残そうとすると,あっという間に消え去ってしまう。いつものごとくに。
おそらく,書き残す必要がないか,書き残すにはまだ未熟な思考なのだろう。
<<<===
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この回答へのお礼

とてもプライベートな言説を記載していただきありがとうございます。
98年、99年ごろ、私は高校生でした。
高校の頃は、もっぱら詩を書いていました。ロマンにひたって、世界を素晴らしいものだと捉えていた頃です。ただ、その世界には大人の社会は含まれていなかったのですが。
それがネガティブだったかポジティブだったかといえば、閉じているという意味でネガティブであり、世界が好きだったという意味ではポジティブだったと思います。そのポジティブが昂じて、高校の終わる頃にバックパック一つで世界を少し旅行しましたが、その、ネガティブ(逃避)でもありポジティブ(出立)でもあった旅行が、思春期を終わらしたのではないかと自分では思っています。

人の心に何時、内面と外面が生じたのか私はわかりませんが、その狭間で悩み、また遊んだ思春期の頃が、後々の人生に大きく影響したのは、多くの人に同じことが言えると思います。

子どもたちに掛ける言葉で、不意について出た言葉の方が印象に残っているというのは、きっとそのとおりなのだと思います。いい言葉を言おうと画策したりするのは、ちょっと違うかなと。

お礼日時:2016/01/03 15:31

>自分で見つけた答えは一生忘れない →(子供が自分で答えを見つけるのを待つ)



だから小学生辺りまでは、子供たちをバスケットやサッカーや野球や競泳のように大人が決めたルールでやるようなクラブに入れるのは考えものなのですね。やはり、子供たちを同学年だけで遊ばせないで、同じ住宅街の5、6才から小学6年生が一団となって、馬跳びや缶蹴りやSケンや鬼ごっこなど、大人がやらないような遊びをやらせなくちゃならぬ。

そうすると、低学をいたわり、いじめっ子から守ってくれ、さらに、皆を引っぱって行く人望の厚い小6のガキ大将が輩出する。また、その都度の子供の数に応じて遊びのルールを変更する必要に迫られるので、子供たちは大人に与えられたルールを無視して自分でルールを工夫できるようになる。

そんな形で子供たちのルールは自然発生的に出来て来るので、新しく引っ越して来た子供は、今まで住んでいたところの違ったルールを持ち込んだりする。当然そこでもルールの間に齟齬が出来るので、それと折り合えるような新しいルールの工夫も強いられる。だから、規制のルールでがんじがらめの一流のスペシャリストなんかに指導されなくても、遊びの中から自然に自分で答えを見つけられるようになる。

可哀想に、ある意味、そんなことは子供たちに任せておけば皆自然に経験できたはずなのに、小学生の時から大人のやるスポーツを親たちが子供にやらせてしまうので、大人の真似をするばかりで、自分で答えを見つけることができない連中が増えてしまって、あほなさんが感銘を受けたようなテレビ番組が持て囃されているのではないでしょうか。

子供でなく、大人の生きざまで私が自分の先生から感銘を受けた語録を『プリゴジン語録』

http://ameblo.jp/texas-no-kumagusu/entry-1193447 …

として載せておきましたので、参考にして下さい。
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この回答へのお礼

最近の子供はいろんなスポーツをさせてもらってますよね。私も自分たちで遊びを作って育った口ですが、結局のところ、子どもが嫌々やるのではなく、夢中になれるんだったらそれで良いのだと思います。ルールの定まっていない遊びであれ、ルールの定まったスポーツであれ。アメリカでも、子どもたちが野良でスリーオンスリーなどをしているのを見聞きしますが、けっこう年齢に幅を持って遊んでいるようですし、スポーツと遊びの境界など、子どもにとってはけっこう曖昧なものなのかもしれませんね。

マグジーという有名な元NBAバスケットボール選手がコーチの回を私は見たのですが、バスケの技術だけでなく、どんどん子どもたちのメンタルにアクセスしてゆく姿が印象的でした。マグジーいわく、「私はNBAの選手を育てに来たんじゃない。子どもたちに人生の成功者になって欲しくて来たんだ。」
中学の部活ともなると、けっこう強制力が働いて辛かったりするのですが、辞めたいと言っていた子どももぐんぐん成長してゆく姿を見て、やっぱ先生が違うとこうも違うのかと、思いましたね。部活の監督にマグジーがアドバイスしたり、大人にとっても良いコーチになっていました。最近のNHKは面白い番組が多いです。

ご紹介いただいたブリゴジン語録ですが、
>「人類がどれほどの成果を成し遂げて来たかを教える授業は最悪の授業だ。そんな授業をすると、二流な学生しかついて来なくなる。我々にはまだ何が解っていないかを教えなくてはならない」

これが気に入りました^^
子どもたちは可能性の宝庫であり、だれもが未知への冒険者です。自分自身に対しても、世界に対しても、楽しく、勇気を持って進んでいって欲しいですね。

お礼日時:2016/01/03 15:49

お礼、ありがとうございます。




>質問には具体的な例示を盛り込まなかったので、そこら辺は例示を添えていただいても、やや一般的であってもいいかなという、この度の質問でした。

残念ながら、より具体的でなければ明示ができません。
一般化されると、言葉はより抽象化されます。

そうなると受け取る側って、ピンとこなかったり
自分なりの想像であるので、その人の知る範囲を超えられません。


映像の良いところは、体験が無いことを疑似体験することで
受け手側として自分が存在できます。
過去と重ね合わせ、体験がより活き活きします。

文章は、小説などは想像を膨らませての疑似体験ですが
この類は、重ねられるぐらいリアルさが必要です。
ですから、本人がその時どこを見てどう感じているかで響くものが変わります。

映像は具体的、小説は能動的、リアルであれば相手の息遣いまでが
コミュニケーションの手段で伝えて行きますから、体験レベルになります。


感じ取る領域まで引き上げることが肝心ですから
そこまでの具体例って、あまり書けません。

以前、猪突さんがゆとり世代の学生に啓蒙した話しは
非常に共感できましたが、それは相手が具体的に想像できて
立場の違いの元で、マスに対しての発言だからです。

個に対してだと、状況や立場や心境を先に描かなければ
詳細が掴めないし、詳細が掴めても相手の立場に立てる人でなければ
自分との比較が始まり、受け取れません。

つまり、受け取り側が受け取れる形で提供する必要性が出てきます。
ですから、個人単位の一般化を上げることって基本やらないです。

てな理由で、申し訳ない。


ついでですが、ゆとり世代は指導してると思考力の欠如を多く感じます。
自分を答えに導けない感じですね。

与えられた課題、思考が体験から組み立てて次を予測しての行動でなく
思考が過去の体験を検索して、妥当であるような行動を当てはめてみる。
ゆえに行動の背景が説明できない。

なんとなく行動を選んでいるから。

過保護と過干渉が背景にあるような気がしています。
ゆとり世代は、彼らにゆとりがあると言うよりは
親にゆとりがあって関わりすぎて、答えを与えられすぎて
自分で出せないから自分に自信がなく不安で、上を目指すことを
望まないように感じることが多いです。

新しいことに対応できない、応用がきかない感じですね。
個人差はありますが、チャレンジに対応できない人数が多すぎです。

心当たりがある方は、自分で思考力を磨く経験を。
マニュアルでは無く、小さな経験を積み重ねることです。
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この回答へのお礼

>てな理由で、申し訳ない。

いえいえ、私が無理を言ったのかもしれません^^;

ところで、私の友達にゆとり世代の方がいるのですが、彼は独自の表現で物事を表すことに長けていて、思考力もけっこう深いです。ゆとり教育を問題視する方も少なく無いですが、ゆとり教育の実態を知らない私は、ゆとり以前に日本の教育自体を刷新する時が来たんじゃないかなと思っています。しかし、それを実施するだけの人材が確保できないのだろうと。

教育が人の人生に非常に濃く関わっていることは否めませんが、それを覆すだけのメンタルパワーも、人には備わっているのではないかと思うこの頃です。

お礼日時:2016/01/03 15:54

出したくても“杭”を持たない。

(私のこと)

やる気の有る子供や、能力有る子供たちには有効なレッスンの様ですが、子供の頃の私がこのレッスンを受けても途方に暮れるだけかな、と思います。
“杭”が無かったから。あるいは気付いていなかったから。
自分が何をしたいのか分からない状態でしたね。

たぶん私の様な者には手取り足取り教育が必要なのかも知れません。また子供心にそうして欲しいと、思っていたかも知れません。

今、思い返すと好きなことは結構有ったので、それこそ良き指導者に出会わなかった、ということでしょう。

親からも“教育”は受けませんでした。放任されてましたね。子どもは放って置いても勝手に育つと思っていたらしく、主義と言えるような姿勢ではなかったと思います。

こんな私ですが、心情の世界は教えられる訳でもないのに、なぜか他人の心の状態を敏感に感じたりするのでこれは天性のものかな、なんて思っています。

こんな自分に誰がした。親がした。

親の子供に対する役目は“社会人”に育て上げる事だと思いますが、情的には信頼の関係を築く事でしょう。

大昔、アメリカのテレビのホームドラマを民放でよく放送していましたが、そのなかで父親の子どもに対する姿勢で印象的なのが有ります。
悪いことをしてしまった子どもに、「お前は俺の子だ」と言ってその子を抱き締めるシーンです。

情的な信頼関係は大事だと思いました。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

「出る杭」の下りは、確かに頭一つ抜け出たプレイヤーについての発言でしたが、元気の無い子、やる気のない子らも、どんどん前向きになっていくような指導もありました。お暇があればぜひご覧ください^^

>自分が何をしたいのか分からない状態でしたね。

私は、子供の頃は勉強が嫌で、遊びたいと思うことがほとんどでしたね。大人になって、脳力が衰退を始めた頃に初めて学びたいと思うことが増えてきました。あ、いや、思い出せば思春期の頃に、知りたいという欲求が、そういえばありましたか。yy8さんも、よく思い出せば色々と欲求があったのではないですか?

親の仕事は子供の幸せを見届けてやることではないかと思います。
教えたいことはたくさんあるし、躾もするが、総じてそれらの目的は子どものためです。その根っこさえ分かれば、表面的な言葉の動きよりも、その動機、意味に気がつくはずです。その時には既に自分は大人になってしまっていますが。。同じく放任主義で育った私ですが、そんな大した大人に離れていません。^^;大人になってしまっては、道は自分で見つけないといけない。しかし自分で見つけないと思っているからこそ、他者の与えてくれたきっかけで覚醒したりしますね。縁とは不思議なものです。

アメリカ産のホームドラマ、私も好きでしたね。フルハウスとか。憧れました。情的な信頼関係は大事ですね。信頼なくしてはコミュニケーションは成り立ちませんから。コミュニケーションがなければ人間関係も築けません。

センシティブなご回答、ありがとうございます。

お礼日時:2016/01/03 16:08

お礼、ありがとうございます。



>ゆとり以前に日本の教育自体を刷新する時が来たんじゃないかなと思っています。しかし、それを実施するだけの人材が確保できないのだろうと。

まったくもって、同意です。
人材は、大人が自分を成長させないと確保できません。
つまり私達大人が、自分を責任持って教育するということですね。

いい教育を受けてないなら、今受けさせることです。
そう言うことから逃げない人が増えるしかないですね。

社会は常に変化しますから、その時どんないいと思われる教育も
刷新しなければ、陳腐になります。

大人が自己学歴の最終で教育は終わったと思うなら、社会は衰退します。
学ぶことは楽しいと、学ぶことは広がる可能性だと
そう言う理解の学びが必要だろうなと思います。

一部では、始まっていますけどね。
中学生が前で授業をして、先生は見てるとか。

受け身教育を見直すことが、良さそうに思えますね。
能動的 参加型教育とか、やる気と真剣さが出るかなって思います。
真の協調性も身につく感じもしますね。

全体の教育を考える人が、そう言う発想を持って無いようですが(⌒-⌒; )
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この回答へのお礼

大人の進歩というのはほんとに難しいですね。いい意味でも悪い意味でもなにせ固まってるから。私もいい年になってきましたが、いつまでも心は若くいたいものだと、最近になってこの言葉の意味が身を持って理解されてきました。文明の利器の進歩について行けなくなる日もいずれやってくるかもしれませんが、それでも、いつまでも新鮮な気持ちで物事に対面できたらと思っています。^^
まして子どもたちには、臆すること無く挑戦することを常として、毎日を過ごして欲しいと思います。

お礼日時:2016/01/03 22:19

あほなさん、素敵に大人の対応なさってくれて、嬉しくなりました。

こと程左様に、私は皆の意見と真逆な意見にも一理ある理屈を見つけると、ストレートに自分の思ったことを言いたくなる習性があります。家の上さんには、あんたは空気が読めないgrumpy old mam (気難しい年寄り)だと何時も訓育されているのですが、さすが30年以上も米国住まい、英語で訓示を垂れる神の声とは思へども、アルコールで大分前頭葉も溶けてしまっているようで、一向に改善されていない状況です。正月早々、折角あほなさんが感銘なさっているのに何時もの癖が出て、回答したあと、汝神を試すことなかれ、って怒られちゃうかなと心配したのも事実でした。あほなさんの懐の大きさが知れて安心しました。

 このたわけ烏滸な奴じゃ粗忽めと 叱り下され阿房の守様

本年も、文字通り「宜しく」そちらの意のままにお願い致します。
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この回答へのお礼

猪突さんにはいつも違った角度からの、変化のあるご回答をいただけて、おお、今度はこっちから、次にはあちらからと、中々スリリングで面白い思いをしております。猪突さんは敢えてそうしてらっしゃるのが分かるので、只批判だけしたいという輩ではないことがはっきりと分かるので、全然問題無いです。むしろ、猪突さんの投げるストレートは、私の度量では返せる気がしません^^;
猪突さんの若さを維持しているそのスタイルは、大いに歓迎されるところです。

本年もどうぞよろしくお願いいたしますm(__)m

お礼日時:2016/01/03 22:25

運命は自分でコントロールするんだ、これでいいじゃないか。


おまえに、おれも、これも出来るのか。
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この回答へのお礼

番組中、マグジーは生き方について発言することもあった。このセリフはその中のうちの一つだね。

お礼日時:2016/01/03 22:16

>受け身教育を見直すことが、良さそうに思えますね。

能動的 参加型教育とか、やる気と真剣さが出るかなって思います。真の協調性も身につく感じもしますね。

うーん、教育についての意見て政治みたいで、皆の生きざまの打つけ合いになってしまうので、色々な意見が出てしまい、それを上手く収拾する知恵はいる領域ですね。

私は、教育は、智育、体育、徳育だと思っております。

幼児から中学生までは躾と詰め込み
高校生には詰め込みばかりでなく、放っておいたら一生自分では気がつかないことを教える
その後は、放っておいたら一生自分では気がつかないことを教える

これが、教育の王道ではないかと考えています。

思春期までの脳味噌の吸収能力が成人した者の何万倍何十万倍もある事実を認識すれば、詰め込みは全く問題がない。問題なのは、教育する者が既に成人してしまっているので、教育される側の身になって考えることが出来ず、つい自分の日々経験している吸収能力の衰えた大人の基準で考えてしまうところにあると思います。

また、人生は雑学ほど役に立つことはない、何故なら、人生は何時も思い通り予想通りにはいかず、想定外の知識が役に立つようになるからだ、と言う至って当然の事実を理解できない連中が、自分が目標とした当面の役に立つことだけを勉強すれば十分だと考え違いしているところに危険があります。そんな勉強の仕方をしていると、誰にでも起こる人生の想定外の岐路に立ったときに、どうして良いか分らなくなってしまうからです。

ほとんどの人には一見役に立ちそうもない、国の名前や、その国の首都の名前や、県庁所在地の名前や、半島の名前や、三角関数を子供に詰め込んでやるのは、そんな想定外のことが起こったときに、ひょんなことから役に立つからです。当面必要だと誰でも判ることは、それが必要になったときには放っておいても誰でも自分で勉強するようになるので、そんなことにことさらの時間を費やして、雑学の吸収の時間を潰すのは馬鹿げています。

能動的 参加型教育というのは、訓練の一形式ですから、躾と詰め込みの一形態として考えれば良いのではないでしょうか。

上記の、「放っておいたら一生自分では気がつかないことを教える」が一番難しいところで、何を教え、何を教えないか、教える側の力量が試されるところだと思います。
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この回答へのお礼

私などは、日本はもっと教育にコストを掛けなきゃだめだと思っていました。例えば高校は無料とか、大学ももっと安くで行けるとか。でも最近はちょっと違ってて、まともなことをしていればそれで良いんじゃないかと思うようになりました。何時の時代でも、まともに育つ奴はまともに育つし、捻くれる奴は捻くれます。それはなぜだろうと考えると、まともな奴はまともなことに出会ったからまともになれた。捻くれる奴は捻くれたことに出会ったから捻くれた。だから、少なくとも教師はまともであって、子どもたちがまともに育つ機会を与えられるような、そんな教師を現場に育成しなきゃならないと思うが、まともって何よ?と言う声も聞こえてきそうで、前途多難。でも、やくざ者に成らないかぎり、大人になれば真っ当と不当の区別はつくものではないの?ということで、学校にかかっている教育の厚みを、地域の大人に少し分担してはどうか?という策を今思いつきました。地域の人が教育の現場に関わることで、子どもに関する情報網を豊かにでき、セーフティネットの創造にも役立ちそうです。子どもたちには教員以外の大人に接することが出来、多様な人間の存在にも目覚めますし。
一方で、教育というものを一般の人が請け負えられるのか、という不安も残ります。
一朝一夕には行かなそうですが、教育に纏わる議論が、市井に活発になれば、変わるべきところは変わっていくのではないかと思います。

詰め込み教育についてですが、私は英才教育が良いのではないかと思うこともあります。九九の覚えですら個人差が出るのだから、もういっそのこと、思い切って、教育に多様性をもたらしても良いのではないか、そう思います。こうなった場合、能力の格差も広がりそうですが、人格を育めるような、即ち誰もが認められるような社会さえあれば、問題ないと思えます。

後は、カントアイさんの言うように大人が変わるということが、大事でかつ一番難しいのかなとは思いますね。みんな一生懸命生きている、その中での変化ですから、自己否定を経ての変化ではなく、自己肯定、自己の可能性を認めるという変化なら、歓迎もできるかなと思いました。

お礼日時:2016/01/03 22:53

>そんな大した大人に離れていません→そんな大した大人にはなれていません



ワープロ時代ならではの日常茶飯事の誤植ですね。私なんざ、そんな打ち間違い、変換間違いのオンパレードです。推敲が出来ないところへ投稿したのなら、それもご愛嬌と思って、その誤植を楽しみ味わい、相手にどう取られるかは成り行きに任せましょってえんで宜しいんじゃないでしょうか。驚きは創造の源であるってんですから。
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この回答へのお礼

誤植を楽しむ、たしかにそれもありですね。つい読みやすさを優先しがちな私です。大人に離れていません、この誤植だと、たしかにちょっと、予想外の意味が付け足されていますね。そういう意味を汲み取られ、そこから別の思索に広がるのも良いと思います。

お礼日時:2016/01/03 22:56
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