信仰とは、自己否定による自己実現だと思います。
自我によって生きている人間が自己否定をするには、それなりの理由が必要になるはずです。
その理由の最たるものが神なのでしょう。
具体的には、たとえ自己否定しても、神の懐に抱かれている(抱かれる)のだから結局は自己が自己として生きている(生きる)ことになる、つまり自己実現が果たせる、といった理屈が成立しているように思います。
しかし、神が(能動的に)「抱く」という動作をするはずは(恣意的な主体としては存在しないのだから)ありませんし、「神の懐に抱かれている」と思い込むことが自己否定の本当の理由になっていると言わざるを得ないでしょう。
自ら、そう思い込みたいという人が、まずいると思います。
合わせて、そう思い込むよう積極的に誘導しようとする人もいます。
この両者に焦点を当てた上で、自爆テロを哲学すると、どうなるでしょうか。
信仰者と神
信者と宗教
などにも関連させて考えていますが、自由にご発言いただければ、と思います。
独断的に咀嚼させていただきますが、言葉遊びにならないよう、あなたの目の前にいる自爆テロ志望者を思いとどまらせる論理にも使える方向で、お考えいただければ幸いです。

質問者からの補足コメント

  • #6お礼欄からの続きです。

    >私は信仰について距離を置いていますが、信仰がある人にも敬意をもって社会生活を営みたいと考えております。

    全く同感です。
    ただ、どうなんでしょう。
    神を信じる人は、たとえば、キリストを信じる人はアラーを信じる人に対して寛容ですかね?
    私は、むしろ逆の印象を受けます。
    つまり、信仰者ほど、(自分と同じ神を信じない)他者に敬意を払わない確率が高いのが実態じゃないかな・・・と。
    ま、こんなことを感想や推測で言ってはいけないのかもしれませんが。
    戦争は、
    アラーの名の下に!
    主イエスの思し召しのままに!
    行なわれる場合が多いような気がするんですが、勘違いですかね。

    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/08 22:45

A 回答 (26件中1~10件)

★ (№22お礼欄) 超自我性の本質は抑圧なので、無意識の納得が得られないまま


発揮させても必ず反動がきます。
★ (№19お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~
〔神に祈り願うその願いが〕 仮に普遍神には届かない(=普遍神の場合は 届くかど
うかが分からない)ものだということを理解したとしても、他の神を信じる作業を一か
らやり直すことになるはずです。
つまり、信仰者にとっては、届く神が必要なんだと思いますね。
ですから、最低限、ここからはじめていただかないと(言葉遊びでないなら)意味が無
いようにも思うわけです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ここで
 無意識の納得を得る得ない(つまりは ムイシキなる独立部位があるという仮説)
とそして
 願いが届く神を必要とする(つまりそういう〔あやまった〕神の仮説)
とは 同じ思考回路にあると申し上げています。

ムイシキ説のほうは 《トラウマの完治なる願いは叶えられない》という消極的なかた
ちでやはり観念の海の中を永遠に泳いでいるという人間の存在論なのだと見て批判しま
す。

これは 普遍神としてその定義から妥当にみちびかれる《無い神》を こんどは風呂井
戸さんが やはり《観念の神》として立てた。その神をおのれの思考や想像によってあ
やつっている。だけだという思考の回路でしょう。



その観念の像に恣意性を期待しうると思い込むことになる《観念の神》は どこまでも
《思考の緑野(および感性の原野)》なる領域だけの問題だと自爆テロリストの人たち
にはつたえることが 最良の方法だと考えます。文学・心理学あるいはSFの世界の中
に閉じ籠った恰好なのだと。

もしなんなら 普遍神に願いを込めて祈ればよいのです。
届かず願いは叶わないとしても その理由がヒラメキをとおしておしえられ 自分たち
や世界の情況が分かるようになること 請け合いだからです。
神とは そういうものです。

なお神はひとが祈る前にそのことは知っているわけです。これが 普遍神です。だから
祈る必要はないと知ることができます。非思考の庭は 思考の緑野なる海面から首の上
だけは出しているわけです。永遠に泳ぎつづけなければならないとしても。

このスレッドに添えたいと思っての投稿です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>ムイシキなる独立部位があるという仮説

たとえば意識して何かをすることはあると思います。
しかし、意識しないで何かをすることもありますよね?
これを便宜的に無意識と呼ぶだけでして
>仮説

ではありません。
見たことも《無い神》とは成り立ちが異なります。
また、都合よく作られた
>定義

によって証明されたものでもありません。

>もしなんなら 普遍神に願いを込めて祈ればよいのです。

それはどうでも良いのではないですかね。
問題は、自分だけの普遍神が存在すると思い込んでいる点でしょう。

>届かず願いは叶わないとしても その理由がヒラメキをとおしておしえられ 自分たち
や世界の情況が分かるようになること 請け合いだからです。

そういうことを求める人が、信仰に走りますかね?
ま、新たな質問を立てましたので、よろしければ、また、そちらで。

>神とは そういうものです。

(わかりやすい)根拠を示すことが肝要でしょう。

お礼日時:2016/01/11 23:07

♯25猪突先生、



 ご整理、ありがとうございます。改めて理解しつつ、大変勉強になりました。結局、宗教の何が危険かという議論は、どのくらい自分が宗教組織と関わって来たかで考える必要があると考えておりました。理論として過激な箇所のみをピックアップしてくると、いかなる宗教も大変、過激で奇怪なものに見えて参ります。それよりはむしろ皮膚感覚でつかんだところを大切にしていってよいのではないかと思っておりました。猪突先生はどこかで次のようなことを書いていらっしゃいましたーーアメリカ人で宗教とうまい距離を置き、テレビドラマのニューヨーカーのように合理的な発想で生活している人は全体の数%だと。私はこれが卓見だと思っております。

 私はアメリカは詳しくありませんが、クリント・イーストウッドの映画では『ミリオンダラー・ベイビー』をはじめ、相談役として司祭が出てきます。地域の倫理観をまとめる役です。彼の映画では、一般の人は司祭のように考えるだろうけれども、それを超えたところで正義を考えないとならなくなったという語り口をとります。裏を返せば、それだけまだ司祭の存在が無視できない存在だということです。私が信仰と距離を置けているのは、私が都会育ちで、大卒以上で、宗教などなくても自分の頭で判断していきていけるからです。つまり宗教以外の出口が見えているということです。しかしだからといって、万人がそうできるわけでもないのです。

 日本は宗教には寛容で、おっしゃるように「何事のおはしますをばしらねども」という状態でも、神に敬意を払えるメンタリティを持っております。だから欧米では頭に血が上ったように大騒ぎになった時も、「まあまあ」と適度な距離を置けるのかも知れません。宗教そのものを危険視するよりは、宗教それ自体は大枠で認め、イスラム教ならその宗派内の問題として内部でどうにかしてもらいたいとするのが、良いのではないかと思っておりました。イスラム教もキリスト教も、長く続いて来た宗教ですから、自浄作用はあることでしょう。

 以上は私の考えに過ぎません。おそらくハコブルさんは私とは違った体験をなさっているのだと想像しております。しかし統治システムとしての宗教が持つ問題点については、ハコブルさんが新しく質問を上げて明らかにしていくとのことでした。また勉強させていただきたいと思います。(そして理論だけではなく、ハコブルさんのご経験も書いてくださると、納得もできますし、勉強になるかもしれないと申し添えておきます。この事象は、理論として超越論的な水準で明らかになることなのか、経験として場当たり的に明らかにするべきことなのか。哲学として考えた際、中間地点ではないでしょうか。)
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>イスラム教もキリスト教も、長く続いて来た宗教ですから、自浄作用はあることでしょう。

そう期待したいところですね。
ただ、宗教と言いますか信仰と言いますか、これはどんな人にも兆す事柄なのでしょう。
神関係に限らず、信じるということの功罪について、素人ながら考えてみたいと思いますが、とりあえず、その前段階としていろいろ教えていただいております。

>しかし統治システムとしての宗教が持つ問題点については、ハコブルさんが新しく質問を上げて明らかにしていくとのことでした。

ご期待に沿える内容ではないかもしれませんが、新たな質問を立てさせていただいております。
よろしければ、また教えてください。

>ご経験も書いてくださると

キリストが救い主という意味であることさえ知らなかったほど、宗教とは無縁の一市井人ですので特に開陳させていただくような経験は無さそうです。

お礼日時:2016/01/11 22:51

>神が絶対であるという空虚で根拠の無い設定自体を改定」するためには、根拠がない理由を論理的に理解しておくおくことが必要なようにも思うのですが、みなさんの思考過程で何か浮上してこないだろうか、という期待もありますね。



神が絶対であるとか普遍であるなどという設定は、実に人間が想定した神の姿です。そういう存在が欲しい、あるいはそんな存在に見守っていて欲しい、そういう欲求が神の姿を変えたのだと思います。
そんな人々の願いを知ってか、古代、王は神の威光をもって民衆を支配しました。王の権威を強化するために絶対や普遍といった特徴を神に付与したというのもあるでしょう。

さて、ここで私の思ったのは、絶対というものに惹かれる人間の欲望や心の弱さに、テロリズムは端を発しているのではないかということです。絶対であれ、普遍なるものであれ、それらはそんなに良いものでしょうか?そんなに絶対普遍が良くて、独り立つことが嫌なのでしょうか?この辺から、神が絶対であるという設定を立てる動機のあやふやさを指摘できるかなと。そして、そこら辺の指摘からテロリズムに至る人間の心理を読み解くことが出来るかもしれません。
そもそも、絶対性や普遍性を求めるのは、皆が皆とは言わないまでも、人間の性であり常套であります。なぜ人間は絶対性や普遍性を求めるのだろう、そう考えた時に、自身の価値を見損なっているからではないかと思い至りました。
要するに、自信が持てないから絶対である神を頼る、自分で解らないから神の叡智なるものを想定しそれにすがる、自身で行動原理や自他への信を確立できないがために、神をもってそれに代用する。
或いは、虎の威を借りてしまえばたいていの動物は頭を下げるか尻尾を巻きます。神の名を出せば臆病で狡い自分を正当化出来る、そのような心理が働いているのかもしれません。

唯一絶対神への信仰は自己放棄につながり、自己放棄はまさに自己放棄である自爆テロリズムに結びつく危険がある、こんなところでしょうか。こういった信仰は支配によって虐げられた人々の心理にうまく作用し、社会的弱者をコントロールするのに役立ちます。

しかし、どの宗教や信仰でもそうですが、それが裏目に出る人と、信仰心があってしかも人として真っ当に生きてある人もいるように、結局は個人の性向というものを無視することは出来ません。ですので、上述のことはそれを一般化した時に見られる傾向ということで、記述させていただきました。

自爆テロリストという狂信者になってしまうまでの心理の変遷は、十分な研究対象になるでしょうから、そういった文献を当たるのも良いのかもしれません。

当たり前のことしか言えませんでしたが。。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>絶対であれ、普遍なるものであれ、それらはそんなに良いものでしょうか?

個人的には、そう思っています。

>要するに、自信が持てないから絶対である神を頼る、自分で解らないから神の叡智なるものを想定しそれにすがる、自身で行動原理や自他への信を確立できないがために、神をもってそれに代用する。

なるほど、そうした側面は、たしかにあるかもしれません。

>唯一絶対神への信仰は自己放棄につながり、自己放棄はまさに自己放棄である自爆テロリズムに結びつく危険がある、こんなところでしょうか。こういった信仰は支配によって虐げられた人々の心理にうまく作用し、社会的弱者をコントロールするのに役立ちます。

たしかに、これもおっしゃるとおりと思います。

>しかし、どの宗教や信仰でもそうですが、それが裏目に出る人と、信仰心があってしかも人として真っ当に生きてある人もいるように、結局は個人の性向というものを無視することは出来ません。

バランスのとれたお考えで、正論だと思います。
河岸を変えておりますので、よろしければまた教えてください。

お礼日時:2016/01/11 22:37

#9関連で。



ここまでのiacta-alea-estさん(サイコロさん)の一連の回答を読ませてもらいました。やり取りの流れの中でのサイコロさんの整理は、周りの不必要な形容詞を取り除いてくれて問題点を浮き彫りにしてくれるので、突っ込みどころも見えてきて有り難いです。

信仰って、先ずその信仰の対象があるのかも知れないとの仮説を立てた者が、その仮説の正当性の試みの中で、何度も自分で描いた仮説を修正しながら進展して行く行為ではないでしょうか。だから、その仮説に組することができない者には全く意味のない行為だと思います。

#9の回答のお礼の中の、

>>しかし地域内の平和・秩序・安定であれば、統治システムとして、宗教はある一定程度、優秀ではないか、と私は考えております。

>微笑を込めて申し上げたいのですが、実は、ここに全ての悪の温床が存在しているのではないか、と疑っています。

に引っ掛かりました。ご存知のように、現在の世界を眺めてみると、儒教が徹底的に染み付いた文化に育った人たちは、悪しき意味で個人主義的、自己中心的で、社会の体すらなしておりません。これは、人類の発展史の中で、未熟な段階で小賢しくも宗教に基づいた統治システムを否定してしまったところにあると私は考えております。

樊遅知を問う。子曰く、民の義を務め、鬼神を敬して之を遠ざく。知と謂うべし、と。

(樊遅が知恵について孔子に尋ねると、孔子は答えて言った。人としてすべきことを行い、死者の霊魂のことは、それを敬いながらも遠ざけておく、それが知恵ということだ)

敬遠の語源でもあります。

>信仰を持つものに対して敬意を払いたいが、、、

という言葉に、それでは信仰をどう捉えるかに、サイコロさんとハコブルさんの違いが現れているように思えます。法治主義に対する人類の進化の遅々とした成り行きを認め、現在も含めて、それが功を奏する以前の未熟な段階での信仰の役割を認めようではないか、と言う謙虚な立ち位置がサイコロさんの主張のように見えます。それに対して、極端な物言いになることを承知の上で、「ここに全ての悪の温床が存在しているのではないか」と仰るハコブルさんは、現在の我々のレベルを買いかぶり過ぎた、孔子様のような不遜な立ち位置に私には見えます。

ハコブルさんの意見とは反対に、現在においても人類の経験が途轍もなく未熟であるということを認めず(あるいは気がつかず)、その現在の未熟なレベルの頭脳が生み出す理念に全面的な信頼を置いてしまい、「自分は理念を信じ、鬼神を敬うが遠ざけているのだ」という不遜な態度に、全ての悪の温床が存在しているのではないか。欧米を含めた、儒教の影響が色濃く出ていない他のほとんどの地域では、宗教に頼る未熟さ故に、鬼神を遠ざけた文化よりも道徳の深いレベルでその人たちが信用できると思っているのですが、どんなものでしょうか。

 何事のおはしますをばしらねども かたじけなさに涙こぼるる

に象徴される日本人の信仰心は、世界的に日本人が信用されていると言う事実の重要な根拠になっていると思うのですが、如何なものでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>信仰って、先ずその信仰の対象があるのかも知れないとの仮説を立てた者が、その仮説の正当性の試みの中で、何度も自分で描いた仮説を修正しながら進展して行く行為ではないでしょうか。

おっしゃるとおりと思います。

>現在の世界を眺めてみると、儒教が徹底的に染み付いた文化に育った人たちは、悪しき意味で個人主義的、自己中心的で、社会の体すらなしておりません。これは、人類の発展史の中で、未熟な段階で小賢しくも宗教に基づいた統治システムを否定してしまったところにあると私は考えております。

少し意外な印象を受けましたね。
『地域内の平和・秩序・安定であれば、統治システムとして、宗教はある一定程度、優秀』という考え方が、宗教間の対立をもたらす本質的な要因ではないか、と思うわけですが、違いますかね。
有体に言えば『ある一定程度』ではすまなくなっているのが現状ではないだろうか、ということですが。

> 何事のおはしますをばしらねども かたじけなさに涙こぼるる

に象徴される日本人の信仰心は、世界的に日本人が信用されていると言う事実の重要な根拠になっていると思うのですが、如何なものでしょうか。

謙虚さは必要でしょうが、闇雲な謙虚さは、むしろ真理に対する冒涜と言えそうな気もしますね。
単なる感想ですが。

いろいろ参考になりました。
河岸を変えてますので、よろしければまた、教えてください。

お礼日時:2016/01/11 22:25

1. ベッキーが不倫をしています。

(推測ですが 事実でしょう)。

2. いま神を持ち出さない議論としては 次のような構図になります。:

(あ) 不倫とは 不倫相手の配偶者の意志と心を踏みにじる意志行為である。
(い) 不倫相手は 自分の配偶者に対して同じくその心を踏みにじり裏切りを侵すこ
とになる。
(う) 不倫する独り身のほうはそのような配偶者への裏切り行為をそそのかしている。
(え) だから ベッキーはその恋愛が不倫だと分かって時点で やましさ反応が起き
たはずであり ふつうはそのような心の声にしたがって 踏みとどまる道をえらんだは
ずである。

3. ここでもし神を持ち出したとしたら どういう思考が展開されるか?

(お) 普遍神ではなく観念の神のばあいである。
(か) その違いは こうである。普遍神を心(ただし非思考の庭)にいだく場合はそ
のときも 確かに他力である。けれども 絶対他力である。だから その他力なる何も
のかに 祈り願いを言うことはあっても そこには絶対のへだたりがあると知っている。
(き) ところが 観念の神の場合には 何しろ観念の世界が――広大な想像域として
その人のあたまの中に広がっているからなのか――あたかも自由自在にその神のチカラ
やハタラキの発揮される場だと思っている。つまり 神に《恣意性を期待する》。

(く) ベッキーは その神に確かに《恣意性》を期待し ひとつには 不倫をやめる
ように自分をみちびいて欲しいと思う。
(け) またひとつには やましさ反応を押し切ってでも 最後までそのまま突き進み
たいからそのようにみちびいて欲しいと願う。
(こ) 相手の配偶者がどう出るか あるいは芸能界や国民がどう対応するかにすでに
お構いなく その《神への絶大な思い込みとしての信念》のもとに自爆にほかならない
と分かる行為にまで及ぶかも知れない。

4. ところが 一般に《神は概念である》ととなえる場合には じつはこのような事
例と同じような《観念の神の世界》にその思考回路が重なっている。と言わざるを得な
いのです。以下に証明します。

5. おそらく《神は概念なり》論者にあっては (こ)の自爆行為や(け)の《恣意
性の行き過ぎた期待》については 踏みとどまるはずです。

6. そしてそれは 一般に分かりやすく言うと 例の《超自我》なる――理念や理性
のハタラキとしての――ストッパー役がいるからだと成るのだと思う。

7. もう議論を端折ってここで結論に成りますが 普遍神の信仰のばあいには 《観
念の世界における想像やそのハタラキの行き過ぎだとかそれを抑止するだとかの思考は
持たない》のです。

8. ベッキーに代わって思考することが有るとすればそれは 《観念の世界をあたま
に描いてそこに神を――つまり観念の神を――まつりあげて住まわせることは 神の問
題ではなく人間の思考と欲望と理性の問題にしか成らない》と考えそのあやまった神論
を見究めること これです。

9. もし自分のであれ他人のであれその意志や心を踏みにじる行為が思い浮かんだと
きに思うことは 超自我なるストッパーのようなものではなく 《わたしがわたしであ
ること》です。われに立ち戻り立ち還るということ 一点です。やましさ反応を重んじ
ることです。

10. だから 百歩ゆづって超自我といったハタラキがあったとしても それは《わ
たし〔の自然本性〕》全体のものであっていちいち分析的に分けることはない。と考え
ているでしょう。

11. 普遍神をいだくゆえに 《わたし》なる存在は わたしとしてひとつであると
捉えます。本質がどうのこうのという形而上学には到らず また科学重視による要素還
元主義といった志向性にも 成らない。

12. こういう違いがあってそれは 具体的にも現われるでしょう。

13. 超自我のハタラキが有効に作用したか否かで 自爆テロを思いとどまるか否か
が決まるという考え方は 摂りません。それは 観念の海でいつまでも泳いでいるよう
なものです。深い沖には行くなという思慮はほどこしたというだけのことと見られます
から。

14. 観念の世界は とうぜん誰にもありますが これを神にかかわらせることは無
いというのが 人間の自然でふつうのあり方だという見方を披露しました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

ベッキーが不倫してるんですか。
まあ、不倫も恋の一形態ですからね。

>13. 超自我のハタラキが有効に作用したか否かで 自爆テロを思いとどまるか否か
が決まるという考え方は 摂りません。それは 観念の海でいつまでも泳いでいるよう
なものです。深い沖には行くなという思慮はほどこしたというだけのことと見られます
から。

おっしゃるとおりでしょうね。
超自我性の本質は抑圧なので、無意識の納得が得られないまま発揮させても必ず反動がきます。
一旦、閉める予定です。

お礼日時:2016/01/10 19:33

少々らんぼうな回答になります。



【Q:《梵我一如》類型::一般および個別絶対性理論】
 https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9147089.html
の趣旨説明を 自爆テロリストらに示してやるのが いい方法だと思います。

☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
4. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(非対象:マクロコスモス)
との一体性として示される。類型として梵我一如とよぶとよい。

  A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我

  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)
   無梵:空(シューニャター)・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

  C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
   仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)
      / マハーワイローチャナ(大日如来)
   仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)

  D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

  E. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》

  F. 《もののあはれを知る》
   霊:かみ(自然および超自然)
   霊:われ(自然本性)

  G. ユダヤイズム:霊霊一如
   霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)
   霊:われ

  H. イスラーム:霊霊一如
   霊:アッラーフ(イラーハ=神)
   霊:われ

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 《C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)》は 《仏を心に宿すこと》なる意味で
の《観念》のことですが ただし――ブディストも親鸞を除いて知らないと思われるので
すが―― 身と心とから成る自然本性としての《心・精神》のことではありません。

それは 感性の原野(つまり身)と並ぶ《思考の緑野》のことではないという意味です。

《思考に非ずなる庭――と説明される信仰――》における・けっきょくマボロシのごとき
《仏仏一如なる〈観念〉》として 《理性や意志の精神ではなく またもろもろの感覚で
もない》とはっきりさせねばなりません。

もうひとつただし この《非思考の庭》から ヒラメキが得られます。これを解読し翻訳
すれば――いえ その前に何らかのイメージのような混沌とした感覚があったはずであり
そのあと解釈をとおして―― 思考の緑野へとそのヒラメキ内容が卸されて行きます。

ちなみに親鸞は 非知なるナゾのことを《義無きを以って義とす》と説明しています。一
般には 自然法爾と言っています。うんぬん。

神は 普遍神としてひとつだ。その神をめぐって互いにあらそう理由はない。ということ
をテロリストらにはつたえたい。

人間が勝手に観念(経験事象から一たん離れた表象してのみ想像している概念)の世界に
あって普遍神をいじくりまわすことは 自然ではなくふつうではなく 人間はそういうこ
とはしないものだと。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

前半部は、(おそらく)勉強不足、または、能力不足、あるいはその両方によって理解が難しそうです。
後半は、わかるように思います。
禅の無我にも似ているような気もしますね。(たぶん、違うのでしょうが)
とりあえず、
>神は 普遍神としてひとつだ。その神をめぐって互いにあらそう理由はない。ということ
をテロリストらにはつたえたい。

を今回ご回答の骨子と受け止めさせていただきます。

>人間が勝手に観念(経験事象から一たん離れた表象してのみ想像している概念)の世界に
あって普遍神をいじくりまわすことは 自然ではなくふつうではなく 人間はそういうこ
とはしないものだと。

といった記述と合わせて、そう思うのですが、面白いことに、次第に、みなさんのご見解に一致点が浮かび上がってきたような気もします。

お礼日時:2016/01/10 19:21

>「神の御意思に背く」とか「神の怒りに触れる」とか「神の御心のままに」などという言葉は、建前にすぎない、



 そこまで単純になると表現が難しいです。建前だと思っているが、30%くらいは本気もあるというところではないかと思っております。ただし法王がいいはじめた場合は、よく分からないです。そこまでの特権的な人物の考えは分からないです。一般的にはということです。そして一般の信徒は、上のような言葉はほとんど発しないと理解しております。

 あまり信頼に値するものか分かりませんが、宗教学で私が教えられた事によりますと、信仰とは神を感じるかどうかではないようです。神に祈りたいかどうかのようです。神を感じなくても、祈ることはできます。危機や不安があれば、誰でも祈りたくなることはあります。この衝動が宗教の根源だと聞いたことがあります(もっともそれを特権的に真実という気はなく、そういう意見があるというご報告をし、ご判断の足しにしてくださればと思っているのでした)。

 他の方との応答も読んで思ったのですが、神への接し方は何通りかあることがあきらかになって参ったと思います。
 1. 自分のやり方によって、直接的に神を感じる。
 2. 他人のやり方に導かれて、直接的に神を感じる。
 3. 自分ではなく、媒介を通じて、間接的に神を信じる。
 4. ただ祈る。

 今までの議論を踏まえますと、テロに走りやすいのは、2ということになるでしょうか。だとすれば私の主張は、お話ししてまとまって来た格好で申し訳ないですが、3と4がマジョリティだから、2を一般化しないでいただきたい、というものになるでしょう。

 しかし仏教では、全く違うかと存じます。ブリタニカ事典の説明によると、観念とは仏教用語であり、仏を心に宿すことだそうです。逆に私には仏教のことはよく分かりません。お坊様は皆、心に仏を感じているものでしょうか。仏教徒の考える信仰のあり方が観念で、キリスト教徒やイスラム教徒のあり方も同じだと推量するところで、誤解が起きているところはないでしょうか。

 それにしても段々と私の守備範囲を逸脱して参りました。言えるのはこのくらいでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。


1. 自分のやり方によって、直接的に神を感じる。
 2. 他人のやり方に導かれて、直接的に神を感じる。
 3. 自分ではなく、媒介を通じて、間接的に神を信じる。
 4. ただ祈る。

なるほど、このように分類できるのかもしれませんね。
大変、参考になります。

>お坊様は皆、心に仏を感じているものでしょうか。

ひとにぎりの坊さん以外は、葬儀会社化していますよ、明らかに。
サラリーマンと大差ありません。
顔つきを見てもわかるでしょう。

河岸を変える予定です。

お礼日時:2016/01/10 19:11

★(№15お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~


《恣意性を期待する》ならば、
>《期待》という人知がおよぶであろうという含みが表現されている。

だから、『誤った方向に舵が切られるのではないか』と言ったつもりですが、ご理解
いただけたでしょうか。

>これらは 《観念の神》だから出来る〔と考えられている〕わけです。

この展開が唐突に思えますね。
というか論理的に不整合じゃないでしょうか。
なぜ《実在の神》なら、《恣意性を期待する》ことができないんですか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ まづ 普遍神を《実在の神》と言う場合がないとは限りませんが 経験世界にお
ける有る無しとして認識される《存在》ではないので あまり用いないほうがよいと
思います。

言いかえると 実在の神という言い方をするのは 《神は有る》派だと捉えるとよい
はずです。

したがって次のように言いかえて 問いをまづ認識します。:
★ 普遍神なら 《恣意性を期待する》ことができないんですか?
★ 〔 恣意性を期待するようなことになるなら〕 『誤った方向に舵が切られるの
ではないか』?
☆ これはですね。詭弁だと見られるかも知れませんが そういう議論へと延ばす意
味はないという問題なのです。

なるほど 《普遍神に〔も〕恣意性を期待する》こと自体は――もし観念の神である
とあやまって捉えた場合なら容易に その想像行為じたいは――しようと思えば出来
ます。

けれども もし普遍神であるなら その《期待などなどの思考や認識さらには願望な
どなど》は 届きません。届くか届かないかが 人間には分かりません。(分かるか
分からないかが分かりません)。

という段階で すでに議論をとどめ・そして終えなければおかしい。わけです。

《誤った方向に舵が切られる》かどうかの問題ではなく(つまりその問題へと延ばす
必要はなく) 《期待する・つまり神について恣意性があるかないかを思考し願望す
る》ということが 意味を成さないという答えを打ち出している必要があります。

なぜなら 観念の神は 普遍神ではなく いくらそのような期待感を持つことが《信
じる》ことだと言い張ろうとも それは思考や想像における思い込みでしかない。か
らです。この事実を知らせることが 哲学の役目だと考えます。

非思考の庭や非知の問題に《強引に》持って行こうとしていると見られるかも知れま
せんが これは もともと初めから非知として説明し得たナゾの扱い方の問題です。

非知なるナゾに《恣意性を期待する》という意志行為は 信仰でも何でもなく その
神は 観念の神ではあっても 普遍神ではありません。《観念の世界が あたかも通
じているので その神(つまりマチガイの神)に恣意性を期待することができると思
い込む》のだと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

ご覧になっているみなさんも食傷気味かと思いますので、あえて一点だけ。
>けれども もし普遍神であるなら その《期待などなどの思考や認識さらには願望な
どなど》は 届きません。届くか届かないかが 人間には分かりません。(分かるか
分からないかが分かりません)。

それは、わかるのです。
ただ、届くと思い込んでいるのが信仰者じゃないですかね。
(いろいろなパターンがあることは、#20さんにもお示しいただきましたが、)仮に普遍神には届かないものだということを理解したとしても、他の神を信じる作業を一からやり直すことになるはずです。
つまり、信仰者にとっては、届く神が必要なんだと思いますね。
ですから、最低限、ここからはじめていただかないと(言葉遊びでないなら)意味が無いようにも思うわけです。
河岸を変えるつもりですので、そのときにまたうかがわせてください。

お礼日時:2016/01/10 19:06

お礼、ありがとうございます。



書き忘れたので戻ってきました。
以前、日本に宗教がらみのテロがありましたね。
本来、ああなる前に未然に防ぐ方がずっといいと思います。

どうしたらいいのか?
それは、自分と身内や自分と関わりを持った人を
理解していくことだと思います。

相手は私の敵じゃ無い。
反発や批判や敵意や、そう言うものをまず置いておいて
人の理解に努めることだと思います。

人を疎外感や孤独にさせて行かない。
つまりは、愛を持ち周りに接することが大切だと思います。
それが出来なければ、それ以上のことをやろうとしても
上手くいかないでしょう。

自分を理解し、自分を磨き上げて行くことで
身近な人達との具体的なやり取りの中で、磨き上げて行けるでしょう。

信仰を持つ人が、すべてテロリストではありません。
自分を見失う人がテロリストになって行くのです。

自分を見失う人は、否定され愛に枯渇しています。
秋葉原の事件などは、その典型に思えます。

信仰が無くても、家族や隣人を愛することはできると思います。

人は大きな問題に眼が行きがちですが、そのためには
もっと小さな身近な問題を片付けられるところから
問題を解決する力をつけることが始まっています。

そこがスタートであり、それが広がれば解決できます。
どう広げて行くかは、それぞれ個人の自由であると思います。

大きな問題であるほうが、物事は一足飛びに動きません。
地道な積み重ねが、男女同権や黒人の大統領を生み出したと
言えるのでは無いでしょうか?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>相手は私の敵じゃ無い。
反発や批判や敵意や、そう言うものをまず置いておいて
人の理解に努めることだと思います。

今回のご回答の骨子として承りました。
そう思えるような根拠を提示するのが、哲学の役目であるような気もするのですが、
>どう広げて行くかは、それぞれ個人の自由であると思います。

ということになるんですかねえ。

お礼日時:2016/01/10 18:57

お礼、ありがとうございます。



>そうした覚悟をするには、やはり(何でもそうですが)、人それぞれの中で納得が得られないと難しいように思います。
>そのための哲学を求めています。

恐縮ですが、そう言う哲学は人に与えてもらうのでは無く
自分で見つけ出すものであり、プラス必要なのは決意だと思います。

助けられるものなら、助けた方がいいだろうことは
おそらく誰でも知っています。
与えて貰うものであれば、決意まではたどり着けない。

決断を下す背景は、自分の中にしか有りません。
自分の中で見いだすものだと、私は思っています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>恐縮ですが、そう言う哲学は人に与えてもらうのでは無く
自分で見つけ出すものであり、プラス必要なのは決意だと思います。

ごもっともです。
ただ、信仰も自分で見つけ出すものになっていれば良いのですが、そういうわけでも無さそうで。
そして、それによって世界が動いている部分があるのも否めない事実でしょう。
この点をどうしていくべきか、といったことはあるのではないでしょうか。

お礼日時:2016/01/09 23:37

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