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日本人は事勿れ主義の権威主義か?
日本人は事勿れ主義の権威主義でしょうか?僕が以前いた会社で不正があり、その不正は長い目で見れば誰のためにもならないものでした。短期的な目線で見れば不正をしている部署にだけメリットがありました。いずれ会社そのものを蝕むものでした。
不正のある部署では不正は周知の事実でしたし、他部署でも上長クラスは既知のことでした。
しかし、その不正を指摘する人は1人を除いていませんでした。指摘した人は居づらくなり辞めていきました。僕はこうした事実を見るとき、日本人には事勿れ主義の権威主義が染み付いているんじゃないかと思います。
ネットでも「正義は立場によって変わるものだ」「空気を読め」。そんな発言が無数に見て取れます。
「正義が立場によって変わるから絶対的正義など存在しない」。そんなことを言ったら何が正義か悪かなど言えなくなりますよね。僕は正義は必ず存在し、曖昧な場合でも比較衡量で断定可能なものであると考えています。

第二次世界大戦で日本が暴走したこともそんな権威主義の事勿れ主義の国民性に原因があることは否めないのではないでしょうか?
もう少し、一人一人が「何が正しく、何が真理であるか」を考える精神性があっていいと思います。「周りがそう言うから」「そう評価するから」。日本人はそんなものに流され過ぎではないでしょうか?
そしてそんな風土を変えていくには断定できる人がもっと発言していくことが日本には必要なのだと感じます。
皆さんはどう思いますか??

A 回答 (8件)

ま、確かにそういう精神が息づいていることは否定しません。


僕の近所でも小さな不正が何件かあり、誰がしたかみんな分かっているのですが誰がしたとか言いたくないみたいです。
事なかれ主義というよりは、そうして互いの領分を侵さないようにしているという面が僕の近所ではあるようにうかがえます。

質問者さまの以前いた会社ではそれが当たり前になっているということでしょう。
不正を指摘したり内部告発をすることはは悪である、というのが日本のほとんどの会社の通説になっていることも十分に考慮に入れなければなりません。(一部の会社は、違います。)
アメリカのように内部告発者を守る法律があればいいのですが・・・。
最近日本でもこの手の法律が出来ましたが当時新聞を読んだ感じでは、アメリカほど内部告発者を守れない法律のように感じました。

もっとアメリカ並みのこうした法律に向けて改正・あるいは新たな法整備などなされればいいのですが・・・。
僕はそうすれば内部告発者を守れる要素が拡大され、もっと内部告発しやすい環境が整うのではないかと期待してます。
まずは、内部告発が悪であるという考え方を変えないといけないのかもしれません。
不正を告発するという行為は会社のことを親身になって考えている人がすることなので、悪であるどころかかえって益をもたらすのではないかと踏んでいます。
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質問者様のご意見を拝見して、私の言いたいことは概ね3つです。



「不正の内部告発者を保護する仕組みや法律を徹底すること」
「グローバル社会で”空気を読む”などというコミュニケーション能力不足は通用しないこと」
「残念ながら、この世は正義によって動いていない。だからこそ、法やシステムによって健全さを保つ施策を打たなければいけない」

”正義は存在しない”と言っているのではありません。ご容赦を。
言いたいのは、精神性の問題だと捉えてしまうと、恒久的な対策を取ることができなくなるということです。

>そんな風土を変えていくには断定できる人がもっと発言していくことが日本には必要なのだと感じます。
では断定できる人がなぜ今発言していないのか?結局、それによってその人が被害をこうむるからです。それを防ぐシステムが存在していない、もしくは、存在していても周知されていないからです。

質問者様の会社で、不正を指摘した勇気ある方は、幸いにも特に処分を受けたわけでもなく、単に居づらくなって辞めたということのようです。
これは幸せな例です。
会社が難癖をつけて懲戒処分、そこまでいかなくても、左遷や、少し前は追い出し部屋なんてのも話題になりましたね。

世界には約200の国家があります。それぞれにそれぞれの文化、宗教、国民性があります。
それらを全て強引にねじまげて、「誰かが思い描いた」あるべき国家の姿を押し付けることは、非常に危険な事だと思います。
だからこそ、重ねて言いますが、法やシステムによって健全さを保つ施策を打たなければいけない、と考えています。

このような事を考える機会を提供してくださり、ありがとうございました。
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生存それが、何時も正義になっている様に思います。

戦争も生存の戦いで、生存に必要な事は、論理的判断が出来る事です。そして、生存に必要な物を揃える事ですね。揃えられる共同体を守るのは、必須ですね。
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日本人は事勿れ主義の権威主義か?


   ↑
はい、その傾向は強いですね。
日本人は何よりも、仲間内の和を大切にします。
時には、法律よりも、仲間内の掟を重視するのは
その現れです。
だから談合が多いのです。
米司法省への罰則金支払い(2013)
 米国+ドイツ+韓国 で360億
 日本 だけで1700億円

孫文がこう言っています。
「中国人は乾いた砂のようだ。しっかり握っていないと
 ばらばらになってしまう。
 これに対して日本人は粘土のようにすぐに固まる。
 だから、中国は日本に勝てないのだ」



「正義が立場によって変わるから絶対的正義など存在しない」。
そんなことを言ったら何が正義か悪かなど言えなくなりますよね。
僕は正義は必ず存在し、曖昧な場合でも比較衡量で
断定可能なものであると考えています。
  ↑
欧米のキリスト教文化圏はそう考えます。
だから、正義についての議論を何百年も、延々と続けています。
これに対し、日本では正義なんてのは立ち位置や
時代とともに変わるものだ、という考え方が強いです。

比較衡量は、具体的事例に適用するのが難しい
場合が多いですよ。
公益と私益、生命対生命をどう考えるか、などなど。

絶対的正義があると考えて、社会主義が台頭して
きた訳ですが、社会主義が生んだのは独裁と貧困と
自国民の大虐殺でした。


第二次世界大戦で日本が暴走したこともそんな権威主義の
事勿れ主義の国民性に原因があることは否めないのではないでしょうか?
   ↑
当時の米国は、1930年に続く大不況の真っ只中でした。
GDPは1/2に、株価は1/10に落ち、国民の1/4が
失業し、あちこちで暴動が発生していました。
ルーズベルトは、ニューデールなどの政策を打ちましたが効果は
はっきりしません。
それでどうしても戦争をやる必要があったのです。
戦争は最大の公共事業ですから。その証拠に戦後、米国
経済は見事な復活を遂げています。

これは私の偏見ではありません。
米国歴史学の権威チャールズ・A・ビーアド元コロンビア大教授は
公文書を調べて、ルーズベルトが巧妙に日本を戦争に引きづり込んだ
過程を明らかにした本を出版しましたが、これは事実上の発禁処分
にされてしまいました。

31代米国大統領のフーバーが、ルーズベルトを、日本を無理矢理戦争に
引きづり込んだ狂気の男、と評した書見を残しています。
彼は、ルーズベルトは真珠湾を知っていた、とも書き残しています。

マッカーサーは戦後、あの戦争は日本の自衛戦争であったと
米国議会で証言しています。

ハルノートのハルは、真珠湾攻撃を耳にして躍り上がって
喜んだ、という側近の証言が残っています。
「これで戦争ができる」
また、パル判事は、あのような要求を突きつけられたら
モナコのような小国でも銃を持って立ち上がっただろう
と述べています。



もう少し、一人一人が「何が正しく、何が真理であるか」を考える精神性が
あっていいと思います。「周りがそう言うから」「そう評価するから」。
日本人はそんなものに流され過ぎではないでしょうか?
    ↑
欧米にはキリスト教という正義の判断基準が
ありますが、日本にはそんなものはありません。
その代わりにあるのが、世間です。
世間の存在によって、秩序や道徳を守っているのが
日本です。
世間をなくすのであれば、それに代わる何かを
作らねばなりません。
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>「絶対的正義は存在しない」ということが事勿れ主義そのものではないでしょうか?



ではないですね。
主義とかそういう話ではなく、単なる事実、前提の話です。
正義というものが思想や概念の上に成り立つ以上、そこを避けることは出来ません。
我々に出来るのは選ぶことだけです。

>「正義が立場によって変わるから絶対的正義など存在しない」。そんなことを言ったら何が正義か悪かなど言えなくなりますよね。

いいえ。言えます。

お分かりいただけるでしょうか?
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より力の強い者が言うこと・成すことが正義だと思っています。

北朝鮮では将軍様の言動が正義なんです。中国では中国共産党の最高職である主席・総書記の打ち出す思想が正義です。

あなたが以前にいた会社では、不正を黙認している(認めている)人が権力者ならそれがその会社の正義で、その権力者を叩きのめす強権者が現れ不正を見逃さない姿勢を示せば、それが新たな正義となります。正義なんて所詮、人間が考え出した観念・価値観みたいなものですから、絶対的なものはなく、力の強い者が定めた自分流のルールであり、時代や文化によって変わっていきます。

なので、仮に正論をもとに不正を戒めても、より大きな力にはじき出されてしまいます。それを不条理・理不尽だとするのなら、徒党を組んで数の力ででもよいから相手を圧倒し、自分の正義を通すべきです。力の弱い者は、何をしても力の強い者に押し潰されます。これがこの世の真理です。

> そんな風土を変えていくには断定できる人がもっと発言していくことが日本には必要なのだと感じます。
発言力で圧倒できるようになれば、変えられます。それを誰かがやってくれないかと指をくわえて見ているだけでは、どうにもなりません。
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私も昔、極真会(空手)という組織を信望していましたが、表向きは真面目や厳しさ


ですが中身はエゴと腐敗の巣窟でした!然もその正体が30年くらい表沙汰に
なりませんでした、その会社がどんな企業かは知りませんが高尚な武道の組織が
腐敗してますので一般では多かれ少なかれそういうことは在るでしょう
ただ下っぱの人間では解決が出来ないのは階級があるからなのですが・・・
戦後の日本人は金・モノ・経済に偏重したのでそういう腐敗が自明に
なってしまいましたが本当はやってはいけない事でしょうね
いつかは天罰が下ります(晩年の梶原一樹がそう)本当はどこの分野でも
精神性が主体にならなければならないのですが、戦後は戦争中の暗い
反動から精神性を疎う国民になりましたので、こういう現状になりました
ですからこれからの日本は仕事(勉強)・精神性・遊び(余暇)を均等に実行する
のが要求されますね!今までは仕事と遊びですから・・・。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。ご共感いただけて嬉しいです。
なるほど。精神的修養がなされる武道においてすらそういうことがあるのですね。
思えば道徳を説くはずの宗教、その組織が腐敗している例は歴史上枚挙に暇がないです。人のモラルとはいつの世もそんなものなのかもしれません。

階級が自浄作用を阻む。その場合は正義の実現は成されないですよね。
本来、人は組織に身を置いていても、仮に権力がなかったとしても主張するべきことは主張するべきなのだと僕は考えます。

お礼日時:2016/01/18 21:08

絶対的正義が存在しない、というのが正に真理でしょう。


ただし、問われているのはそこではなく、
絶対的正義が存在しない中で、「どこに自分の正義を置くか」です。

こういう話は表現こそ違えど各所で言われていることです。
自己責任云々の話にも通底する部分でしょう。

国民性云々は大した話じゃないと思ってますので割愛します。
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この回答へのお礼

「絶対的正義は存在しない」ということが事勿れ主義そのものではないでしょうか?
私は正義は必ず存在すると考えているのです。
正しいか正しくないか、それはほとんどの場合においても本来的には言い切れるものだと考えているのです。仮に「言えない」などと言う人がいるならば、それは判断材料の少なさを、あるいは自らの思考の客観性のなさを自覚できていないだけです。
「正義はそれぞれにある」とすれば、それは悪しき相対主義です。権力を肯定しその恣意性を肯定することになりかねません。

お礼日時:2016/01/18 09:52

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