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江戸時代のことについて質問です。
江戸時代の将軍と言うと徳川家が思いつくのですが、途中からは老中とかが出てきて将軍はあまり出てこない感じがするのですが
1、何をしているのでしょうか?
2、力関係はどうなっているのでしょうか?
できれば詳しく教えていただけるとうれしいです。よろしくお願いします

質問者からの補足コメント

  • >No,2さん・No,4さん
    わかりづらくて申し訳ないです。
    教科書に載っていると言うことです。徳川慶喜が最後の将軍と言うのも知っているのですが、
    江戸時代の後期になると、老中の田沼意次や松平定信などしか教科書に載っていないため力関係とかはどうなのだろうと思ったのです。
    名目上将軍が一番上だったということもわかっているのですが、やはり教科書を見ると政治を進めているのは老中と言う感じがしたので

    わかる方は教えてください。よろしくお願いします。

      補足日時:2016/01/24 15:44

A 回答 (11件中1~10件)

どんな組織でもそうですが



組織として確立するまではリーダーの指導力が重要です
と言うか、優秀なリーダーを生み出すことが出来た組織で無ければ長続きしないと言うことです
それに、組織が確立するまでは様々な問題や事件に対してその都度決断を求められます
そういう時期には、トップ(将軍)の力量が求められ政策決定にも直接関与します
なので、この時期には将軍などが主となる


でそういう草創の時期を過ぎると、組織運営も固定化されて先例や慣習が優先されトップの決断を必要とすることは無くなる
この時期に必要なのは、組織内の様々な勢力間の利害を調整したり、今の問題に先例を適用していく運営能力です
こういう部分にはトップよりも有能な官僚組織とその官僚を使う政治家が適しています
なので、この時期には将軍ではなく官僚のトップである老中や側用人などが主となる

で、組織が衰退する時期というのは、先例や慣習では解決出来ない問題が起きたり
組織内の利害が極端に対立してしまい、調整能力では対処しきれなくなってくる

そういう時期になると、官僚ではなくトップのリーダーシップで難局を乗り切ろうとする
そういう時期に求められて出てきたのが、慶喜というような人

実際には、彼には調整能力はあって指導力がなく、徳川政権の衰退に歯止めを掛けることは出来なかったけどね
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この回答へのお礼

詳しくわかりやすく回答していただきありがとうございました!
一番納得した回答だったのでベストアンサーにさせていただきます。
ありがとうございました。

お礼日時:2016/01/30 15:12

将軍親政は家光までではないでしょうか。


以降は政府機構が実務を処理しています。
1945年以前の大日本帝国憲法下での天皇と内閣の関係のようなものです。
吉宗の他の将軍とは違い口は出したようですが、自分が選任した老中に実務をまかせていました。
中国の例を見ても同じような事情であったろう、と判断されます。
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この回答へのお礼

>1945年以前の大日本帝国憲法下での天皇と内閣の関係のようなものです。
にすごく納得しました。ご回答ありがとうございました!

お礼日時:2016/01/30 15:17

将軍が年少だったり病弱だったりした場合は老中とかの幕閣が政りごとをするしかないですね。

なんたって将軍様は一番偉いことには変わりはないですね。御三家、旗本が大目付ですからね。勝手なことはさせませんから。まだお局様のほうが権力がありましたからね。なんたって大奥を仕切ってるわけですから幕閣だって入れませんからおねだりはできたでしょうね。
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この回答へのお礼

やっぱり一番トップは将軍なんですねー
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2016/01/30 15:16

江戸時代の将軍と言うと徳川家が思いつくのですが、


途中からは老中とかが出てきて将軍はあまり出てこない感じがするのですが
    ↑
三代将軍光秀のとき、病気しまして、それで
執務が停滞したことがあります。
それで老中制度を作り、老中の合議制で
執務をすることになりました。


1、何をしているのでしょうか?
    ↑
執務全般です。
どこの藩を取りつぶすとか、皇室との関係をどうするか
とか奉行がやった裁判が適切だったかとか
旗本が切り捨てご免をやったのが適切だったか、
などなど、立法、行政、司法の全分野に及びますので、
それこそいくらでもあります。

たとえば、島流し以上の刑を科すときは、奉行から
老中へいき、老中の結論をもって将軍の許可を
得て、それで島流し、死刑などが実施されました。

最も重要な仕事は、次期将軍を誰にするか、決める
仕事です。
将軍の意向で決まりますが、臨終でそれができない
場合には老中が決めたりします。


2、力関係はどうなっているのでしょうか?
   ↑
有能な将軍の場合は、将軍の独裁になりました。

無能な将軍の場合は、老中が実質采配をふるって
いました。
その場合でも将軍が正面からダメだ、といえば、老中は
それ以上何も言えませんでした。
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この回答へのお礼

将軍や老中によっても多少の力関係は代わりますよね
ありがとうございました!

お礼日時:2016/01/30 15:15

教科書を見ているなら、もう少し広く見てください。

また、日本史だけでなく世界史も参考にしましょう。

まず世界史を見ていると、日本のリーダーシップが不思議に見えてきます。江戸時代の老中だけでなく、平安時代の藤原の執権政治とか平家の執権とかもでてきます。これに比べると、外国の政治は王様や皇帝などがすべてを管理しているように見えると思います。

事実その通りなのですが、その理由の前に「政治システム」についての説明が必要でしょう。

#7さんも書かれていますが、政治システムというのは大体8割ぐらいまでが毎年行うことなのです。今の日本もそうですが、昔から政治の本質は「継続」でした。違うのは国が興った最初の頃(日本でいえば幕府の開闢時期など)などで、王様などのリーダーが直接判断しないと政治システムが成り立っていきません。
 面白いのは古代帝政ローマで、皇帝があまりにもヘタレで暗殺されると(たとえば暴君で有名だったネロなどは暗殺された)各地で「私こそが次の皇帝」と名乗りを上げてローマ中心地に向かい、政治的にも武力的にも優勢な人物が皇帝になったりしました。しかし、このような状態でもローマ帝国自体がつぶれなかったのは、皇帝が不在の時期でも官僚が必要なこと(つまり政治の8割)をやっていたからなのです。

徳川幕府でいえば、将軍が直接リーダーシップを発揮しなければならなかったのは、1代目の家康による政治システムや国の勢力配分などのシステム作り・8代吉宗による政治システムの変革・15代慶喜による開国への対応ぐらいです。ですからこの3人は直接自分でリーダーシップを取った、と歴史に書かれているのです。

では、なぜそれ以外の将軍は自分で統治を行わず、老中などに任せたのでしょうか。
これは「日本は統治と象徴を分けたがる性質があるから」なのです。

世界を見てみると、政治と軍事は常に「周りにいる他国(異民族)の動向に左右される」といえます。自分の国以外はすべて「異民族」なのです。そのため、戦争になって負けるということは「異民族の支配を受ける」ということにほかなりません。逆をいえば征服されない限り「指導者は自分の民族のリーダーである」ということです。つまりリーダーというのは自国または自民族の象徴でありなおかつ実力者であるといえますし、そういうレベルの人がリーダーなのに異民族に負けるのなら、これは仕方がない、ということになるわけです。
つまりリーダーの資質そのものとその人がリーダーでいること、がとても重要なのです。

日本も戦国時代や大和朝廷ができるまえの豪族の時代は同じようにリーダー=指導者でした。しかし、大和朝廷ができ政治システムが整ってくると、リーダーシップと政治闘争を同じ人物が行うことが問題になってきました。日本は島国ですから、自国内が統一されてしまえば異民族は原則いないからです。
 しかし、これは逆の政治的な問題もでてきてしまいます。たとえば、ある国の指導者がダメだったり政治が汚職などで腐っている場合、近隣の異民族の攻撃に耐えられず国が崩壊することで、ある程度国の健全性を保っているのに、日本のように島国で異民族との争いが無くなると政治闘争で指導者層が共倒れになると、国が崩壊するだけになってしまう、という危機感です。

たぶん、この辺りの危機感は「大化の改新」あたりから平安京ができるまで、天皇家そのものが権力を争っていた時代に顕在化したのだと思います。平安京つまり今の京都に都が落ち着くまでは、藤原京とか平城京とか都を移すことなどで権力の変化を政治システムに反映させていたといえるからです。

しかし、これには莫大な費用がかかりますし、権力委譲がうまく行ったわけでもないのでしょう。そのため段々と「天皇家は不可侵で政治闘争から遠く離すべき」という考え方が出てきて、次第に権力闘争は天皇家を至上として「天皇家に取りいることができる一般の家系で勝った家系が政治システムを動かす」という風に変わっていったのです。

この場合の政治システムとは、官僚である大臣などのポストや軍隊の主要ポストをその家系で抑えてしまう、ということです。これに成功したのが藤原家・平家などです。

このシステムがうまく行ったので、平安京は380年と江戸時代に並ぶほど長い安定を誇り、またその後の日本の政治闘争システムに「天皇に取りいったものが勝ち」という方法を植え付けたのです。

さて、時代は鎌倉時代になります。鎌倉時代はついに武力を担う武士たちが天皇の権力を否定して独自の政治システムを確立した状態であるといえます。ただし、鎌倉幕府の開闢は見切り発車の側面があり、昔からの豪族が多い西国はあまり鎌倉を支持せず、新興領主の多い東国は鎌倉を支持したという経緯があるからです。これが後醍醐天皇の実力奪還につながりますし、その後の南北朝は天皇家の象徴としての魅力を弱め、武士階級の台頭と相まって、室町幕府から戦国時代につながっていきます。

ちなみに、鎌倉幕府も初代が亡くなると、2代目に政治を任せず象徴に祭り上げて執権政治に移行していきます。武士であっても日本的な「象徴(家系)と政治的実力は別」というシステムが成り立って行ったのです。

この方法は結局「天下取り」である戦国時代にも適用されます。戦国代のゴールは「天皇に取りいって、征夷大将軍に任命されたものが天下取り」ということです。織田信長は天皇に変わって自分が「日本国王」になることを狙っていた、といわれていますが、それ以外の秀吉や家康などは「天下取り」は文字通り、天皇から将軍に任命してもらう、ということを目指していました。つまり象徴(天皇)と政治システム運営者(将軍)を分ける日本的なシステムを誰も疑っていなかったのです。

家康は本能寺の変で倒れた信長を見て、日本的システムの強固さを感じたのだと思います。そのため、幕府を開いた後天皇家の権力を徹底的に削ぐことに力を入れながら、同時に御三家を設立するなど、象徴と政治権力を分ける準備をしてる節があります。結果として老中が中心となった政治運営システムが出来上がり、将軍はお飾りになっていくわけですが、それでよしとする政治風土が日本にはすでに出来上がっていたわけです。

さて、ご質問者江戸幕府の将軍についてですが、実はほかの藩でも似たような状況でした。幕末の人ですが、長州藩の毛利敬親は「そうせい公」として有名でした。つまり部下のどんな進言でも「そうせい(そうしなさい)」と言って許可したからです。これも、藩の象徴たる藩主と政治システムを動かす藩の官僚を分けていたからです。

明治天皇や昭和天皇も同じようなエピソードがあって、立憲君主制という国家元首=象徴と政治運営者=民主政治を分ける仕組みを熟知し、御前会議での発言はほとんどなかった(昭和天皇は226事件とポツダム宣言受け入れのときだけこの慣例をやぶったとされています)と言われています。イギリスもマグナカルタ以降、政治的に安定してきたため日本と同様に象徴と政治運営者を分けるようになっていたのでしょう。

というながーーい前提のうえで
1、何をしているのでしょうか?
政治の最高権力者としての決裁権は握っていた(現在の日本も天皇の御璽(ハンコ)がないと法律も条約も成立しない)ので、毎日ハンコに忙殺されていました。中には「おい、これなんだ?」ということもあったでしょう。その意向が微妙に政治システムの意思決定に影響を与えたわけです。
また江戸時代の将軍は「世継ぎ」を作ることも大切な役割でしたから、そういう仕事もしていたわけです。

2、力関係はどうなっているのでしょうか?
もちろん本気で将軍が怒れば将軍のいのままになっていたでしょうが、それに従わない部下も相当に出たでしょう。ですから将軍の命令で意のままに動くシステムに変えるには、今の北朝鮮のように粛清の嵐になっていたと思います。

その点を含めると、日本全体を変えるような変更は将軍といえどもできなかったでしょうし、逆にそれをやっても部下に暗殺された可能性も否定できません。先ほどのローマ皇帝ネロの例だけでなく古今東西「部下のやりたいことを阻止した王を暗殺する」というのは良く起きていることだからです。

そういう点を見た時に王制や皇帝制というのは「同じ家系が常に支配者にいる」ということと「支配者がすべてを監督して国家運営する」という点に無理があり、脆弱性があります。普通の国は王といえども必ずしも全面的に尊敬されているわけではありません。なぜなら、隣の国の王と比べられて「隣の王が私の国の王だったらよかったのに」と思う層が必ずいるからです。
 しかし、日本は島国で異国と比べるようなことはできない状態でしたので、信頼のおける象徴システムがあるならその象徴家系には家系継続だけやってもらい、政治運営はその時々のエリートが行えばよい、ということになります。

このシステムが奇跡的にうまく行ったので、日本は万系一世の天皇家が奈良時代以前から今この瞬間まで象徴としているわけです。
ということで、日本は世界的に珍しいぐらい、国家の支配者と運営者が異なっていてそれでうまく行っている国なのです。
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この回答へのお礼

詳しくご回答いただきありがたいです。
すごく納得しました。もっと世界史とかいろんなことを学びたいと思います!
ありがとうございました!

お礼日時:2016/01/30 15:14

>やはり教科書を見ると政治を進めているのは老中と言う感じがしたので



 ブレーン的な役割なので、
最終的な決定権は、将軍になります。

 親藩の協力なしで、政(まつりごと)は不可能
老中が全ての決定権が無い様な体制です
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この回答へのお礼

老中は指揮をしたり提案をする人みたいな感じでしょうか?
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2016/01/30 15:10

8代の吉宗さんや、15代慶喜さんは、最高権力者としていろいろ決定していました。


11代の家斉さんは、子作りに励んでいたと伝えられていますが、政務の方もしっかり行ってたようです。
大老、老中と将軍の力関係は、水戸黄門に登場する、大名家の殿様と、家老の様。
役職では下の老中が勝手に動くことも多い。将軍が死去したとき、その公式発表前に、将軍の指示(上意)と称し、いろいろと好き勝手をやってた例も。
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この回答へのお礼

皆様のご回答を見て納得しました。
将軍様も老中もかわりますもんね
ご回答ありがとうございました

お礼日時:2016/01/30 15:10

>途中からは老中とかが出てきて将軍はあまり出てこない感じがするのですが



 気のせいでは?
具体な出てきたという老中とは?

 そもそも、15代まで徳川の歴史は
続いていましたので出ていましたけど…

1 主権者が(徳川)領土・臣民を統治(日本、日本国民)
俗に政(まつりごと)といいます。

2 将軍:江戸幕府の頂点
  老中:将軍に直属して政務を執(と)り、諸大名を監督
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この回答へのお礼

老中は指揮をする人ってことですかね?
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2016/01/30 15:08

将軍は「お飾り」で実際の権力は、老中が



握っていました。

4代将軍の家綱の時は、酒井雅楽頭忠清。

5代将軍綱吉の時は、堀田備中守正俊など。

政務は、数多くあり、将軍一人では、手に負えませんので

担当のものが決定し、それを老中が認可し、

将軍には「このように致しました」と報告するだけ。

4代将軍家綱は、「そのように(決めたのなら)そのようにせい」

ということで「そうせい様」と言われていました。

あまり将軍が口出しをすると、下のものたちが困る場合もありますから

将軍は、口出ししない、お飾り将軍が一番良かったのです。
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この回答へのお礼

なるほどー。
そうせい様はいろいろと調べていた時にみたことがあります!
ご回答ありがとうございました

お礼日時:2016/01/30 15:07

「出てくる」というのは、どこに出てくるのでしょうか?


街中に?それとも戦場に?

1.統治権力機構のトップに就いています

2.公式には将軍の信任を得て老中職に就いてます
 ですから、将軍さんがアイツアカンなぁと思えば解任できます
 ということで、力関係は歴然

※一時期は老中職すらも形式化し、将軍の側近の方が権威を持った時もあった
 三百年弱もの長期間に渡っているので、その間様々な状況が生まれていて一概には言えず
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
そうですね江戸時代長いですからね

お礼日時:2016/01/30 15:06

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