プロが教えるわが家の防犯対策術!

1. 綿菓子( cotton candy )と言っても分からない場合は――東日本では―― 綿飴と
言うらしい。砂糖をあたためて回転で吹き飛ばし糸状になったものを割り箸で掬い取る。甘
い。

2. こういう豚語(*)もある。ひと言で言って 《精神訓話》型。《甘さ》は 蓮の花の
咲き誇る園。

3. ほかに何をつけ加えればよいか。ブディズムの豚語は 縁日豚語である。もっとすてき
な説明をつのります。

どうでしょう? ブディズム論です。




*(註) 豚語:については 次を参照してみてください。
【Q:豚語の研究】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9108122.html
【Q:豚語の研究――応用編――】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9166644.html

質問者からの補足コメント

  • HAPPY

    №8のお礼欄をおぎないます。

    ☆☆ ~~~~~~~~~~~~
    さらに減らず口:
    ブラフマニズムの掌の中で飛び回った孫悟空だった。だから すたれた。
    ~~~~~~~~~~~~~~~
    ☆ 日本では このブラフマ二ズムの土壌がなかったので ブディズムが
    その代わりと成った。

    その証拠に人びとは ブディズムの信仰のあり方ないしその理想のかたち
    は 仏仏一如よりは 梵我一如として(またその言葉をも用いて)心の内
    に捉えているし思っているように見られます。

    No.8の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/02/10 12:43
  • HAPPY

    クラリネットとかオーボエとかは その吹く姿を見ないで音色だけを聞いたほうが
    いいですね。じっさい きれいですし。

    No.9の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/02/10 23:00

A 回答 (14件中1~10件)

bragelloneさん こんばんは



ブッダが悟ったのは、何かというと「自分の思うようにならない」ということを克服することだったと思います。
精神や肉体を健全に保ちながら、人間関係をよくすることです。
最も重要なのは、自分が一番好きな事をすること。
そして、自分で考えて行動したことが成就する=思うようになることが、人間にとって好ましいと悟ったのです。
もちろん、諸行無常を自覚して原因と結果が論理的に正しくあるという条件です。

さて、今回の質問ですが、ブディズムの豚語=間違いは、

プラシーボ効果により病気は何でも治ると云う過大評価。肉体の疾患は外科的治療がなければ治らないでしょう。
確か、ブッダの死に際にアーナンダが悟りを過大評価して訊ねていましたね。
最初は、ブッダの死を考えなかった。=無常。次に、自分で考えなかった。=自我。最後に、キノコの毒による原因と結果を考えていない。

ブディズムの豚語は、因果応報というとんでもない間違い。

他人によいことをしたからといって、自分に還ってくることはありません。
他人がよいことをした場合にお返しをするのが正しい。

生きている時によいことをすれば、死んでから報われることはありません。
生きている時によいことをすれば、死んでから後世の人が生きやすくなるというのが正しい。

豚の社会は、今日も豚語を使いながら、自力本願=他力本願、ありがたや、ありがたや。
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この回答へのお礼

てふ_てふうさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

★ ブディズムの豚語は、因果応報というとんでもない間違い。
☆ おっしゃるように まづものごとを事実として捉えた因果関係があ
ります。原因と結果の解明。要素還元主義になってしまうのは困りもの
だと思いますが 分析することは必要です。――まづこのような事実の
解明。

因果応報説というのは そこにおのれの主観を押しはさみます。しかも
良し悪しの判断をいちいちその事象について差し挟みます。

結論としては ですから 確かに:
★ 他人によいことをしたからといって、自分に還ってくることはあり
ません。
他人がよいことをした場合にお返しをするのが正しい。
☆ と成りましょう。これが 見えない・分からないのは その思想が
主観に片寄る豚語である所為でしょう。

★ ブッダが悟ったのは、何かというと「自分の思うようにならない」
ということを克服することだったと思います。
☆ ただし その答えは 《アン-アートマン(無我・非我)》のみだっ
たのではないか?

問題は何かについてさとったかも知れないけれど その解についてはあ
と回しにしたのでは?

おそらく 真理の問題だから 誰も知らない。だから 尋ねられても言
葉では言い表わせないと言っておけば ゴータマ・マヂックは永遠につ
づくのだと思ったかも知れない。・・・

それにしても――№6のお礼欄に書いたのですが―― 日本人はこのよ
うな気むづかしくむしろ陰気な思想を 後生大事にするほど自分のもの
として・しかも見方によっては あかるい宗教(つまり 幻想)に作り
変えたものだと思います。

でも 独り善がりの豚語であることのツケは まわって来ているとも思
います。

例のお花畑の思想は 和製ブディズムがプラシーボ効果のごとく綿菓子
豚語として醸し出すそのクウキにかかわっているように思えます。

お礼日時:2016/02/10 07:43

~~~~~~~~~~~~



 実は、仏教とジャイナ教の間には、かなりの共通点があります。それもそのはず、両者が生れたのは同じ時代、同じ地域だったのです。 さらには、仏教の開祖である釈迦とジャイナ教の開祖マハーヴィーラは、同じく王族階級の出身でした。その結果、たくさんの共通点が生れました。 それらは、信者が守るべき戒め、開祖の呼び名、お経の登場人物、お経に出てくる表現や比喩など、様々な点に認められます。 特に、お経に出てくる表現の類似は、非常に興味深いものがありますので、一例を挙げてみましょう。仏教の『ダンマ・パダ』という古いお経には、次のようなフレーズがあります。 「戦場に於て百萬人に勝つとも、一の自己に克つ者こそ實に最上の戦勝者なれ。〔103〕」(『真理のことば』中村元訳、岩波文庫) 一方、ジャイナ教の『ウッタラッジャーヤー』という古いお経には、次のようなフレーズがあります。 「勝利しがたい戦闘において百万の敵に打ち勝つ者にとっても、一つの自己を克服することが最高の勝利である。(9・34)」どうでしょうか。 あまりの類似に、驚く方も多いかと思います。西洋で仏教やジャイナ教についての学問が始まった頃、学者たちは両者の違いに気付かなかった、などという話も耳にします。 出来すぎた話のようにも思えますが、これほどまでに共通点があれば、あながち作り話でもなさそうです。

第3回 仏教とジャイナ教
http://todaibussei.or.jp/izanai/03.html

~~~~~~~~~~~~~~

仏教が無我というならば自分と戦うといっても
そもそも敵など存在しない、という話になりそうなのだけれど。
自分といっても煩悩とか無明とかそういうことなのか?

それとも当時の他の宗教とかでも言われていたことが
仏教にも取り入れられたのか。

どうして当時の出家者たちがそこまで自己を敵と見做して
殺そうとしたのか不思議といえば不思議である。

はっきりいえば自殺なのだから。
自殺願望が強い人たちの集まりだったのか

もっと別の理由があるのかは知らないけれど。
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回答番号10の引用書籍のページをまちがへてゐました。

70ページです。

ついでに「ゴータマが生は苦だと言ったのは どういう意味ですか?」の質問への回答もここへ書いておきます。ブッダの話してゐた言葉はパーリ語とほとんど違ひがないらしいのですが、さうだとすれば、かなり舌足らずです。サンスクリット語と比べると明らかに簡略化されてゐます。

ニルヴァーナ → ニッバーナ
スートラ → スッタ
ダルマ → ダンマ

このやうな背景を考へれば、「生」は苦だ、といふ見解の意味は明白です。

早口で「生麦、生米、生卵」と言ふのが苦手だつたのです。
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この回答へのお礼

ごまたまなぎむまなめごまな ってのが ちいさい頃 得意だった。

ゴータマのしゃべっていた言葉は 何と言ったっけ。
東マガダ語だったか。

ただし 詳細は 知られていないのでは。

ずばりパーリ語だというと マチガヒに近いらしい。

あまり調べる気が起きない。

ありがとう 回答。

お礼日時:2016/02/11 22:39

~~~~~~~~~~



2016年02月11日 19時00分00秒
「頭の中で自分と戦って疲れてしまう人」への解決案、世界的写真サイト「500px」の創業者の場合
http://gigazine.net/news/20160211-battle-for-men …

~~~~~~~~~~


日本テーラワーダ仏教協会 8時間
‏@jtba_info
#jtba「己に打ち克つ、真の勝利」ダンマパダ103『戦場において、百万人に打ち勝つよりも、ただ一つの自己に克つ者こそ、最上の勝利者である』幸福を味わうためには、誰か(社会)と競争するのではなく自分自身にチャレンジするべき つづく http://fb.me/4raBTYTxn
19:00 - 2016年2月10日
https://twitter.com/jtba_info/status/69761604717 …

~~~~~~~~~~~

gigazineからテーラワーダまで
最近は自分と戦う人が多いのか?
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~~~~~~~~~~~~~



『法華経』における「加持」の概念(福田亮成先生古稀記念 密教理趣の宇宙)
The Notion of Adhisthana in the Lotus Sutra

http://ci.nii.ac.jp/naid/110009808205

~~~~~~~~~~~~~

幻化(マーヤー)サンヴァラ・マンダラ研究(I) : インド密教の思想史的展開とその諸原理
A Study of Mandalas of the Mayasamvara-tantra. Part I, The I Original Structure of Mandalas, as Restored from the Image of the Original, Real World of Gotama, the Buddha, and its Mahayanic Transformations and Substantialzations in the System of the Gandavyuha-sutra

http://ci.nii.ac.jp/naid/110006481951

~~~~~~~~~~~~~


本当は恐ろしい?「お念仏」の教え

nāgita #antifa @naagita 2011-03-03 20:00:08
在家仏教4月号巻頭言は津田眞一「空念仏でいいのだ」。曰く、信者の「内面」を問うキリスト教神学は親鸞の浄土真宗より七百年遅れてる。親鸞なら「たった一遍、空念仏を称えればいいのだ」と。はぁ?何十年も仏教学を学んでこのザマとは……。確かに七百年、末法を進んでるかもしれませんな。

http://togetter.com/li/107895

~~~~~~~~~~~~

もはや話すことがないなあ
と思ってどうでもよくなっていたのですが、
津田眞一という人がいるようです。
知りませんでした。
親鸞関係ならブラジュロンヌさんが興味を持つのではないかと
ほとんど関係のないツイッターのまとめも貼りつつ、
オープンアクセスの論文があったので、読んでみたらいかがでしょうか。
私は読んでいないです。ブラジュロンヌさん任せ。
話す気力がないです。読書する気力がないです。お金がないです。
話題提供だけです。それでは。
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>クラリネットは きれいだけれど 力づよさが足りないとわたしには 聞こえるのでしょうか。



クラリネットはまろやかです。モーツァルトは他にも、クラリネット協奏曲、クラリネット三重奏曲をつくつてゐますが、どれも傑作です。なほ、さきほど画像にした楽譜は全音楽譜出版社のオイレンブルグのポケットシリーズ、4ページです。クラリネットは移調楽器なのでイ長調を示すシャープ3個がありません。ぶらげろさんがお好きなバイオリンは2段目と3段目です。4段目がビオラで、5段目はチェロです。

>キサーゴータミ―の物語がありますね。

そこで悪魔・悪しき者は、「キサー・ゴータミー尼はわたしのことを知っているのだ」と気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失せた。
(『悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤⅡ』第5篇「尼僧に関する集成」第4節 中村元訳 岩波文庫 96,97ページ)

悪しき者はこのあたりで回答を終了します。
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この回答へのお礼

なんだよお。
ゴータマ=孫悟空なる説におそれおののいたのか。

音楽のこと けっこう知ってんぢゃん。
わたしを置いてけぼりにするのかよ。

キサーゴータミ―は 尼僧になっちゃったんだ。

ご回答をありがとう。


ゴータミーは 我が子を失って――死というものを知っていたとしても――
気が動転していたのだから 子を返してくれ 生き返らせて欲しいと言って
泣き続けたとしても おかしくない。

とは言うものの そんなことなら ほっぺを軽く殴るか抓るかしてやればよ
いだけ。となります。

ということは どこまでも ゴータマに栄誉をあたえようとして話が――綿
菓子をつくるように―― 編まれているのではないか?

やってらんねえよって 誰も言わないのがおかしい。イカレポンチ!

お礼日時:2016/02/10 22:40

>こういう豚語もある。

ひと言で言って 《精神訓話》型。《甘さ》は 蓮の花の咲き誇る園。

モーツァルト、クラリネット五重奏曲第1楽章49小節に「dolce」(甘く)といふ指示があります。ザビーネ・マイヤーの動画では、3分8秒の箇所です。直前のバイオリンのメロディーをなぞりながら、さらに天国的な美しさを表現します。


この《甘さ》は《精神訓話》から解き放たれた世界です。豚は精神を鍛へたりしません。
「ブディズムのもっぱら用いる豚語は 精神訓」の回答画像9
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

★ 天国的な美しさを表現します。
☆ ですか。《 dolce 》として。

まづ 後半になってやっと聞いた覚えがあると思いました。
わたしは 曲と作曲家と演奏家とが きちんと一致しているかたちでおぼ
えている曲が少ないです。

この曲は わるくないと感じますが 特徴が少ないと言いますか印象が薄
いように思いました。

クラリネットは きれいだけれど 力づよさが足りないとわたしには 聞
こえるのでしょうか。

この曲では バイオリンのしらべのほうが 好きく(?)なりました。



なんですって?
★ 豚は精神を鍛へたりしません。
☆ ん? すでに鍛えられているって?

たしかに ゴータマ・マヂックのチカラは 最期までおとろえなかった。
みたい。筋金入りのペテンである。



モーツァルトは きれいだけれど もう一度聞きたいと思わせないんです
よね。わたしの場合。あしからず。インタネット( Radio Classique )で
しょっちゅう流れています。



☆☆ ゴータマは ブラフマニズムの掌の中で飛び回った孫悟空だった。
だから インドでは すたれた。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/02/10 19:27

no.5,6です。



「信じる」という要素が入らざるを得なかったのは
誤差に紛れてしまうライン以下まで突き詰めることができないという限界によるもので、
布教の要素が入ったのは
そもそもの修業の場としての上座部的立場の存在が
社会にいい影響を及ぼしたという判断による
のではないでしょうか。

人間存在に付随する限界としての苦しみの存在。
その改善もしくは緩和に向けて人事を尽くし
その先で梵我一如的に死後の世界へ溶け込んでいく感覚。

そうした限界のある存在としての人間を受け止めて
限界を限界としてとらえながらたたえる人間観が
同様の苦しみに苦悩する人たちのニーズに合致して
信者を獲得してきたのだと思います。

まるっきりの混沌から
少しでも普遍的と思われる方向の拠り所を
具体的に持つことが安心につながり、
社会の悪循環に対応する要素として
機能することになってきたのだろう
という気がします。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

わたしの見方をぶつけます。
★ 布教の要素が入ったのは
☆ これは ブラフマ二ズムに対抗するしかなく対抗するためには 同じ信仰
の要素が入ったのだと思われます。

いわゆるカーストの身分制もあったでしょうし。それに倣ったかたちで
★ 上座部的立場の存在
☆ が或る種の権威を持ち得たのではないかと。

★ 誤差に紛れてしまうライン以下まで突き詰めることができないという限界
☆ だとしたら 余計にそれこそ《経験科学》の立ち場をうったえそれをつら
ぬくと思うんですよ。

アン-アートマンの立ち場は表明しているのですから。

それでも ブラフマン神をも 梵天としてブッダに仕える(?)神々の内に採
り入れた。

つまり 半分くらいは 対抗する相手である他人のふんどしで相撲を取ろうと
した形跡があります。

★ 人事を尽くしその先で梵我一如的に死後の世界へ溶け込んでいく感覚。
☆ なんですよ そっくりそのまま。

つまり ゴータマとしては 梵我一如の信仰のかたちに対して 無梵無我一如
なんです。同じこの類型のもとに 後世のブディストたちは 仏仏一如を打ち
出した。

 非思考の庭(信仰の動態):
  
 ブラフマン神   ⇒  アートマン(霊我)
   ?(無梵)   ⇒ アン-アートマン(無我 [=無神論]):ゴータマ
 アミターバ・ブッダ  ⇒ ブッダター(仏性 [=有神論]):ブディズム

★ ~~~~~~~~~~~
そうした限界のある存在としての人間を受け止めて
限界を限界としてとらえながらたたえる人間観が
同様の苦しみに苦悩する人たちのニーズに合致して
信者を獲得してきたのだと思います。
~~~~~~~~~~~~~
☆ このことと そして身分制におけるバラモンの横暴への抵抗心からとがある
とにらんでいます。

繰り返すなら
★ 少しでも普遍的と思われる方向の拠り所
☆ これは煮詰めた議論としては ゴータマが多少ともだいたい心理学のような
問題提起としての思索(ほとんどそれのみ!)を人びとの前に提示したからなの
でしょう。

とは言え インドでもっと効果的だったのは 何はともあれ《出家》の制度であ
り その立ち場をつらぬこうとしたからではないか。

さらに減らず口:
ブラフマニズムの掌の中で飛び回った孫悟空だった。だから すたれた。

お礼日時:2016/02/10 12:15

no.5です。

ちょっと追加します。

八正道で現実の暮らしにくさの改善のために何かをすること。
そこから一つの思想体系を作りあげることも一つの実践。
その過程において八正道を駆使する=直接の実践で
その成果は現実の改善のきっかけになります。

キサーゴータミーの話は、
人の死に出会ったことはあったけれども
それはその他の情報に紛れて意識に上っていない状態だった。
それを改めて自力で意識に上らせる導き方をしたということが素晴らしかった。
ということなんだと思います。

まだるっこしさの本質は
突き詰めるときりがないつかみどころのないものに
立脚しているということに納得できないということなんだろうと仮定して一言。

マクロの世界でニュートン力学が
誤差に紛れた量子力学抜きに近似できてしまうのと同様の
考え方を適用してみると、
突き詰めを途中でやめてそこから先は誤差に紛れたものとして切り捨てていい
という割り切り方ができるのではないかと思います。

現実はあるラインから上の近似の世界における
経験的事実からの演繹で判断して問題はないのではないでしょうか。
人間の世界における思想や価値観の判断は特にその範疇に入るような気がします。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 八正道で現実の暮らしにくさの改善のために何かをすること。
☆ ええ。ふつうの思想なら 文句ないでしょう。

ただし どこかで――おそらくブラフマ二ズムのブラフマン神とその人間における
霊としてのアートマン(霊我)との一体だという梵我一如 つまり信仰が当時の情
況であったことで影響を受けたのだと思われますが―― 《信じる》という要素を
も含み持っているんですよね。

アン-アートマン(無我)を標榜しているけれど 要するに思想はオシへでありそ
れをしかもそのまま受け容れよ(つまり 信じよ)とまで説く。つまり宗教だとい
うことですが ここが もしそうだとしたら わざわいの元。

★ それ(* 人の死ということ・その事実)を改めて自力で意識に上らせる導き方
をしたということが素晴らしかった。
☆ ん? とやはり うたがいの目を向けたくなります。

そんなんだったら おまえ キサーゴータミ―よ これまで死者を見たことがなかっ
たのかい? とひと言問えば済むんぢゃないでしょうか。

誤差の世界をもう突き詰めないで切り捨てるというお話。
少し違うのですが これは 日本人の受け取ったブディズムという観点と主題として
です。

要するに ゴータマの第一主題は 《苦》なのだと思います。無明・煩悩・渇愛。

しかも 生老病死を挙げ 生も苦だつまり煩悩であり無明であると見ている。根本的
に執拗で見っともないと捉えたらしい生存欲としての渇愛。ブッダとは もはや二度
と輪廻転生を繰り返さない境地。つまり 生の苦から解脱したのだと。

きわめておそろしい思想です。日本人はまづ ついて行けません。しかもこれを――
おそらく なぜかゴータマ・マヂックの作用によって――受け留め そのオシへを信
奉するブディストとなった。(後世のブディストによる《仏性》の発明も寄与してい
ると思われます)。

つまりゼロから・あるいはマイナスから 綿菓子としてのプラスを作り出して来まし
た。佐渡へ佐渡へと草木はなびいたわけです。

人間嫌いあるいは人間不信という意味合いにつながる《生嫌い》の気配のある思想か
ら マツリ気分で縁日をたのしむ綿菓子の世界が紡ぎ出されました。

ふつうの倫理思想だけなら まさにふつうなわけです。けれども 草木がなびくのは
宗教豚語だと思います。

お礼日時:2016/02/10 07:22

綿菓子のイメージ・・・。


わけのわからない中でもがいているうちに
割りばしに絡みつくようなわずかな成果が得られる。
わずかとは現時点での広大で深遠な未知との比較において。

精神訓話とは元をたどるときりがないが
直観的あるいは経験的にまぎれもなく真。
割りばしに絡みつく真理の一つ。

その甘さというものは
限界を越えやすい世の中において
避けられない厳しさから見た実現不可能性。

到達は不可能ではあるけれども
近づけることに意味がある目標。
その過程で成果の象徴としての甘さの
実現可能性が相乗効果として級数的に高まっていく。
歴史はそういうことも示しているような気がします。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

ブディズムを庇っておられますよね。

甘い。けれども 霞みたいなもの。
どこから出て来たのやら。

次から次へと 絡め取ることができる。
四諦・八正道をからめ取って いい気分になるとする。

だから 何なんだぁ! と言わなければならなくなる。のでは?


キサーゴータミ―の物語がありますね。
我が子を亡くして 悲嘆に暮れ泣き続けていたところ ゴータマさんに
ちょっとした仕掛けをかけてもらって 我が子の死を克服するというお
話。

死者をひとりも出していない家から 芥子の実をもらって来るようにと
言われて そのように一軒一軒まわったが どこも死者を出していない
家はなかった。そこで 死および生をさとる。のだとか。

どこからでも 物語を紡ぐことが出来るかに思われるのは あたかも綿
菓子がつくられるさまに似ている。

お話は めでたしめでたしかも知れないけれど ところが よく考えて
みると いくら幼くして嫁ぎ子を産むことがあったとしても 母親にな
っているキサーゴータミ―が それまで一度も人間の死に出会ったこと
がないという設定は どうもうたがわしい。

おまけに 近所〔だったか〕をまわって どの家も死者を出さなかった
ところは無いと言う。だったら キサーゴータミ―は 必ず実際に死者
に出会っているはず。と考えるのが ふつうであり自然。

あたかも綿菓子のごとく・シャボン玉のごとく 消え去って行く甘いお
話。
しかもその紡ぎ方が 綿菓子をつくるのに似て 何もないところから手
品のように けっきょくゴータマの偉さや立派さをほのめかす物語にな
っている。

あぁ でも なんてまだるっこしい説明なんだろう。
うまく説明できないかなぁ。

というような問題を感じるのですがねぇ。

お礼日時:2016/02/09 23:32

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