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生が苦だ・思うようにならない。とは どういうことか?

たとえば人間には《根本的な生存欲》があって・あるから これが無明≒煩悩≒渇愛となっ
て どうしても目覚めることを妨げているといった見方もあります。《苦》というのは そ
ういう意味なのだと。

ところが もし道をゆづってそこまでを認めたとしても そのときには 目覚めが けっき
ょくゴータマの編み出した方法によるしか無いのだということを言っており そのことをわ
れわれが認めたことにほかならない。のではないか。どういうことか?

つまり ひとびとよ この世に生きるには 誰もに苦という病いが俟っている。それを治す
薬は わたしが処方する目覚めの方式によるよりほかに無い。と言ったことになる。

つまり ふだん生が苦だと思わない人が 何かのきっかけで生は苦だと思ったとき ゴータ
マなる医師のもとに行ったら そのとおりだ 生は苦だ それを治すには そもそも全体と
して根本的に生という苦をみとめることから始めるのだ。と言われた。

これは ただのマッチポンプ商法にほかならない。蝦蟇の油売りである。まさに 天上天下
唯我独尊なる論理のグローバリズムである。

どういうことか?

ゴータマ病院に入ったら ゴータマ医師の診断が絶対であり その処方箋のみが有効だと言
われ それに従うよりほかに道はないということになっている。からである。そこを出るか 
それとも 患者になり実際には患者・兼・弟子と呼ばれる医師見習いになって一生を過ごす
かである。

けれども その《唯一の目覚めの方法》は ついに明らかにならなかった。

足場だけを組んで 家本体は築けなかった。幻想は 人びとのあたまの中に築けているかも
知れない。


《生は苦だ》は その苦からの解脱についてゴータマの示す中身の無いさとりをただ一つの
道とするほかに処方箋はない。――と読み取るしかないと考えますが ほかに解釈はありま
すか?

それとも 生が苦であるなどという命題は 捨てればいいのさとなりましょうか?

質問者からの補足コメント

  • HAPPY

    要するに 人びとは――社会のクウキとしての影響ではないかと思うのですが――
    あのお釈迦さんをひと言でも批判するのには躊躇するということではないでしょう
    か?

    ですからわたしは ゴータマは 世界一のペテン師であり 阿呆であり 屁の河童
    だと言っています。言い続けています。

    仏教は ゾンビ状態であると。

    No.7の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/02/14 12:02
  • もしよろしかったら あたらしい質問へ移ってください。

      補足日時:2016/02/15 15:39

A 回答 (10件)

お礼ありがとうございます。


苦(変化)が原点であるというより、それに伴う煩悩の問題になるのでしょう。
煩悩を消し去るもしくは、煩悩にとらわれない事が解脱に含まれていると思います。
残念ながら、私は煩悩の是非に対して、語る言葉も持ち合わせていませんし、それは生きていく上で必要な物と考えています。
したがって、仏陀がどのようにそれを捉えていたかを想像する事も不可能です。(想像できない事もないですが、解脱を求めていない以上、それを真剣に考える事は不可能です)
煩悩については、また別の質問を上げれば、有意義な回答が得られるのではないでしょうか?
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

《苦》は 四諦の初めに来ます。四諦は 苦諦から始まります。
しかも 苦は 生苦から始まります。

つまりは 生苦こそが 無明であり煩悩であり渇愛であるとわたしは捉えます。

ゴータマから見れば要らないゆがんだ根本的な生存欲として これらを《原点》
ないし思想の出発点としたものと思われます。

スッタニパータの初めの《蛇の章》からすでに《この世とかの世とを捨て去る》
と言っています。《この生》が 苦であるということのようなのです。

これを乗り越えたなら 楽が来て明知を得て菩提・涅槃というふうには見たの
でしょう。

ですからこのようなゴータマ説をめぐって:
★ 煩悩の是非に対して、語る言葉も持ち合わせていませんし、それは生きて
いく上で必要な物と考えています。
☆ というご見解は ふつうに自然でふつうにすこやかな内容であると思いま
す。
ということを 問いつづけて来ています。

ゴータマ説が 人びとをまどわせている。だけのことではないかと。要するに
暗い。ネクラだったのでは? それともインド人の特徴でしょうか。

そうして そのように変な影響を受けたブディズムおよびそれをめぐる社会全
体の思潮や風潮について これは しっかりと理論および情況を捉えておくこ
とが 必要である。それは きわめて大事な作業であると 特に日本について 
考えます。

そういうことではないのでしょうか。(よい結論に達したと思うのですが)。

お礼日時:2016/02/14 11:55

暮らしにくさの改善をめざすために、


まず、なぜ暮らしにくいのかを詰めると
生老病死という四苦に行き当たる。

このうち具体的には千差万別の個人差があるのが‘生‘の苦しみ。
それぞれの現状とそれに伴うそれぞれの事情が絡み合って混然一体とした総体の中で
その自他のギャップへの対応力を越えたところに問題が生じる。

その問題に対応するにはわがままな思惑から外れた判断が求められる。
その判断というのが解脱という境地からの判断。

ということで‘解脱‘というのが大きなキーワードの一つになっているんだと思います。

解脱とは、人間にすぎない存在として
 ①人としての限界を受け入れ
 ②人として肩の力を抜いて
 ③貪欲で目がくらまない
スタンスの取り方なんだろうな、くらいに思っています。

そしてそういう境地から‘真‘と思われることを
腑に落ちた状態としてわかる、
ということを悟るというのだと思います。
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この回答へのお礼

すずめのこくすさん あらためまして こんにちは。ご回答をありがとうございます。

《生という苦》をめぐって ふつうに人生における苦悩や問題について捉えるかたち
で ふつうに自然でかつ人間的な扱いとその処方箋を考えてもらっていると受け取り
ます。

また実際に 四諦は苦集滅道の四つであって 苦諦から始まり道諦にみちびかれるわ
けですから:
★ まず、なぜ暮らしにくいのかを詰めると 生老病死という四苦に行き当たる。
☆ のですし さらに:
★ ‘解脱‘というのが大きなキーワードの一つになっているんだと思います。
☆ という処方箋としての捉え方になるのだと思います。

この場合の《解脱》としては:
★(☆編集しました) 生の苦しみが人それぞれの生き方に沿って現われて来ており
自分の対処の仕方とともに その対処の仕方も人それぞれであるからには それらの
チガヒをも互いに見て取って交通整理し調整することが求められる。
☆ そのときのスタンスの取り方についても示されています。

と同時にです。と同時に ゴータマの場合は この《生という苦》は そうすべきか
どうかをこそ考えているのですが ともかく非常な深読みをした内容として捉えてい
るしその対処の仕方――つまり 解脱――を考えめぐらせている。

このスレッドでも すでに見て来ています。

▲ スッタニパータ:牛飼いダニヤ 18~34――№5お礼欄
▲ 〃 82――№9お礼欄

もう二例ほどを見てみます。

▲ スッタニパータ:§ 3 犀の角(35~75): ~~~~
60  妻子も、父母も、財産も穀物も、親類やそのほかあらゆる欲望までも、すべて
捨てて、犀の角のようにただ独り歩め。

▲ 同上:§ 8 慈しみ(143~152) ~~~~
143  究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきこと・・・

145  一切の生きとし生けるものは、幸福であれ。

150  また全世界に対して無量の慈しみの意を起こすべし。

152  諸々の邪まな見解にとらわけず・・・諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、
決して再び母胎に宿ることがないであろう。
~~~~
☆ 生きよと言いつつ すべてを捨てよと説き 生の苦からの解脱の成果は再びは生
まれて来ないことだと言っている。どうなんですかねぇ。ゴータマの《生苦》説 マ
チガヒか?

お礼日時:2016/02/15 06:44

お礼ありがとうございます。


話が、信仰論になってしまいそうですが、それはまた別の質問になりそうです。
仏教を信仰の類型として分析するのであれば、信仰の動機としては、仏教が目標とする解脱を得ることだと思います。
そういう意味で、仏教が意味を持つのは、解脱を求める信徒であろうと言う事を記載しました。
つまり、解脱を求めない者にとっては、仏教は意味を持たないであろうと言う事です。
社会システムとして、組み込まれた檀家としての信徒は、この枠組みには入りませんが、現代であれば、檀家制度自体もそれほど機能していないと言えます。(特に都市部において)
解脱以外の救済を求めるならば、他の宗教を選ぶでしょう。
信仰のアウトラインとしては、どの宗教も、何らかの結果を信者に与えます。
仏教は、解脱もしくは成仏でしょう。
信者は、宗教的な解決しか得られない問題があれば、宗教にその解決を希求すると考えられます。(これはあくまで、宗教により解決できると考える人だけで、自然な信仰心でそれを克服している人は、あえてそれを求める事はありません)
原始仏教においては、インドの伝統的風習として、出家して覚者となる事が制度化していた社会であったのでしょう。
当然、仏陀も覚者となる為に出家して、修行にはげんだわけです。
結果として、仏陀は解脱により覚者になったと言われています。
仏陀が特殊なのは、伝導を行った事とサンガを形成した事です。
一般的に覚者が、広く伝導する事は無かったようです。(個人的に覚者となれば、それを伝導する必要もないし、修行でしか覚者になれないのであれば、修行しろとしか言えないので、ある意味当たり前です)
ここら辺は、伝説の領域ですから、それが真実なのかどうかは確証は得られませんが、伝導したから仏教は成立したのでしょうから、事実と言えるでしょう。
その後は、仏陀と共に、サンガを形成していた、出家者が、仏陀を手本に解脱に達する修行を続けていたわけでしょう。(これは、職人が技能を弟子に伝えるのと同様の手法であったと考えられます)
少なくとも、言葉で伝えるだけでは、会得できるものでは無かったようです。
仏陀入滅後は、アーナンダなどが、見聞きした事を元に、それを規範にサンガが運営されたようです。
後期仏教においては、その技能を仏典として、可能な限り技術化する手法が取られました。
ただ、教義自体が分裂して、サンガは複数に分かれてしまったようです。
仏教の大乗化により、分裂した教義は、また集約されて、仏典として残されました。
これは、仏教と言うよりも、仏教学としての集成と言って良いと思います。
解脱に関しては、正直どのようにも、評価しようが無いです。
解脱によって、平安に暮らせるのであれば、それは解脱者にとって有意義です。
ただ、それ以上の意味があるかと聞かれれば、個人的には無いとしか答えようが無いです。
仏陀に聞こうと思っても、仏陀は入滅しています。
ならば、現代で解脱している人に聞くしか方法は無いです。
ただ、その解脱が仏陀の解脱と一緒なのかと言えば、その確証は無いと思います。
要は、仏陀の解脱がどうこうと言っても、証拠も本人もいなんですから、あくまで憶測でしかないんです。
さすがに、他者の思考が直接理解できるって事は、哲学でも無理ですよ。
宣言した者に立証責任があると言っても、それは相手に何かを求める場合じゃないですかね?
信用できない相手ならば、立証するまでもなく、最初から信じないと思いますよ。
仏陀は、別に解脱した事を信じてくれと言いふらしていないんじゃないですか?
仏陀に教えを請うた人に、伝導しただけだと思いますよ。
仏陀の存在が社会に害悪を与えていると言うのならば、その事実をそのまま立証すれば良いと思います。
ただ、私は、仏陀の存在が社会に害悪を与えているとは思いません。
実際問題、何の被害も受けていません。
仏教に限らず、信仰自体は、個人の自由なわけですから、あえて、それをどうこう言う必要は無いと思いますよ。
それ自体が、社会生活に直接的脅威を与えると言うのならば、問題だと思いますが、それは国家が断罪すべき問題だと思います。
少なくとも、哲学が、個人の自由を阻害したりする事は、その目的からは大きく逸脱していると言えるのでは無いでしょうか?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

《信仰》を出したのは それを哲学としても外形的になぞって説明することは可能
だと言いたかっただけです。

ただし スッタニパータの全文紹介のページでは 《信仰》という語が16回出て来
るようです。原語と翻訳の問題もありましょうが 一例を引きます。:

▲ スッタニパータ:77 「わたしにとっては、信仰が種である。苦行が雨である。
知慧がわが軛と鋤である。・・・

そして問題は:
▲ 同上:82 ~~~~~~~~
バラモン・バーラドヴァーシャは、師(ブッダ)のもとで出家し、完全な戒律を受けた。
・・・「生まれることは尽きた。清らかな行いはすでに完成した。なすべきことをな
しおえた。もはや再びこのような生存を受けることはない。」
とさとった。そうしてバーラドヴァーシャさんは聖者の一人となった。
~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ のごとく得たという《さとり》について 弟子たちに説明していないこと まし
てや第三者に対するにおいておやという事態にあります。
ちなみに 《生という苦》が問題になっています ここでも。

★ 現代で解脱している人に聞くしか方法は無いです。
☆ ですから ブディストは ゴータマがさとりを得たというその内容については自
分は分からない 説明することが出来ないと自白すれば まだ良心的なわけです。

★ 宣言した者に立証責任があると言っても・・・
☆ いえいえ。このQ&Aでも ゴータマの成道については是認する人がかなりいま
す。そういう人に 立証責任があると言っています。

★ 仏陀の存在が社会に害悪を与えていると言うのならば・・・
☆ すでに触れました。
☆☆ 論理的にすら証明し得ていないオシへ(* ないし さとり)を信じよという
なら アウトです。
☆ このアウトが 大手を振っていまの社会にまかり通っている側面がつよいです。

やはりこの場で ゴータマをかばう議論は少なくないわけです。問題は 根拠がない
のにという点です。

少なくともまだセーフになっていないもの(だから 一般にアウト)をセーフにして
いるその思考は くるっています。二千年も経っているのですから はっきりアウト
だと ひとまづ言うべきであり これは ひとつの共同主観とすべきです。

言いかえると ゴータマのさとりは インチキの幻想だったと。

お礼日時:2016/02/14 16:17

お礼ありがとうございます。


さらに重ねて言うとすれば、何故解脱しなければいけないかが、原点なんだろうと思います。
仏陀が出家し、解脱に至る動機があったはずです。(それが、一切皆苦と諸行無常にあるであろう事は想像できます)
初期仏教においては、仏陀が解脱をサポートした相手は、出家者(仏陀に帰依して、解脱を望む者)だけだったでしょう。
後期仏教(大乗)においては、仏陀の教えを伝える意義は、衆生すべての解脱もしくは、成仏へと変化していったと言う事でしょう。(日本仏教のほとんどは大乗と言えるでしょう)
そういう意味では、宗教としての仏教は、解脱を求めない者にとっては意味を持ちません。
現在の仏教の位置がどこにあるかの判断は、信者自身が考える事であり、実際に解脱できるのであれば、その機能は果たしていると言えるでしょう。
どのような宗教(それは科学も含みます)であれ、それが理性だけでは証明できない部分を含んでいます。(仏教においても、解脱の境地自体は、体得もしくは達観でしか得られない以上、説明出来ない領域と言えるでしょう)
哲学をどのように定義するかが難しいですが、それは少なくとも伝達可能な形態を持たなければならない事は確かです。(つまり、語りえる事しか、伝達出来ないと言うことです)
解脱が語りえないのであれば、最終的な哲学的分析は、そこに極限まで近づけても、それ以上語れない境界が存在すると言うことです。(それが、理性以外の領域にあると言えるでしょう)
宗教学的分析ならば、原点として、何故宗教が必要か?(哲学では解決できない問題があると言うのも、一つの回答です)、各論ならば、それぞれの教義の論理構造を考える事もあるでしょう(スコラ哲学などがその一例でしょう)、哲学的問題解決とは何かと考えた場合は、それが一定の境界を設定できる事と捉える事が可能です。
強いて、仏教を哲学的に考えるとしたら、解脱に至る過程、目的、その論理構造を明らかにし、他の宗教と比較する事になるでしょう。
ただ、哲学は、その境界を定める事しか出来ません。
仏教であれば、解脱は哲学的解明は不可能ですから、何故解脱しなければいけないのか、それが人間の幸福につながる行為なのかを分析する事になります。
ただ、やっかいなのは、仏教は技術ではなくて、技能を要すると言うことです。
技術は、文書化し、学習する事は可能ですが、技能は本人の能力が重要になってしまう事です。(原始仏教においては、それが非常に重要視されています)
後期仏教は、可能な限り、教義としての技術を確立しようとして、仏典を作っていったのでしょう。
現在の仏教が意味をなさないかどうかは、解脱できるかどうかだけの問題となりますが、これはさすがに立証のしようが無いです。
語りえないから、伝えられない、会得するしか方法は無いと言うことであれば、それは否定も肯定も出来ない事です。
そのような境地が存在しないならば、それは嘘になりますが、それ自体がわからないと言うことです。
後は、社会学的に、不要な存在と言い切る必要がありますが、それならば、ほとんどの宗教が同様でしょう。(哲学的な境界は存在するでしょう)
社会に対して、何の迷惑もかけないで、社会学的な倫理感を持ち合わせている宗教に対して、哲学は何も言えないのではないでしょうか?
宗教的紛争については、論議にはなると思いますが、ほとんどの宗教では、殺生は禁じているわけですから、それが教義からもたらされているとは言えないと思います。
ほとんどの哲学者が、宗教について語らないのは、その為でしょう。(哲学では無く、私見として語る場合はありえますけどね)
目的が現在の仏教にあるのならば、無理に仏陀に結び付けなくても、現在の仏教の哲学的な境界線を明示できればよろしいのではないでしょうか?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 何故解脱しなければいけないかが、原点なんだろうと思います。
★ 〔そういう意味では、〕宗教としての仏教は、解脱を求めない者にとっては
意味を持ちません。
☆ これは りゅぱん344さんにしては 狭いお考えだと思います。

一般に《考える》ということが 不要で無用であると言うならばその原点につい
てスッタモンダがあってしかるべきでしょうが すでにわれは世のかなしさにつ
いて我が悩みとするのだと言う人間には 素通りしてよいはずです。

それとも ゴータマの思索は 価値がゼロだというご見解でしょうか。
そうだとしても 価値があると言う人間がいて それが社会にとって共同生活に
必ずしもよい影響をあたえていないとすれば 哲学は取り扱います。

ですから:
★ 実際に解脱できるのであれば、
☆ という見方で接するのではなく 解脱をした人間がいると言うならその中身
を言葉で説明してみろってんだとまで けんかをふっかけるべきでしょう。なぜ
って そういう・インチキかも知れないことを平気で公共の場でも言うのなら
けんかをふっかけているのは あっちなんですから。

心あるのなら くわしい説明を自分からするのが 人間というものです。

★ 解脱できるかどうか・・・これはさすがに立証のしようが無いです。
☆ ではなく 解脱したと宣揚する側に立証責任はあります。《技能》にしても
です。というよりも そうした《再現実験》はすでに済んでいるのでは?

★ 理性だけでは証明できない部分
☆ この場合は・この場合こそ 輪郭で説明します。マクロコスモスたるブラフ
マン神とその霊を受け容れるウツハのようなものとしてのミクロコスモスたるア
ートマン この両者の一体性が 信仰である。と外形的に説明します。

しかもこの信仰は 非思考の庭として成るわが存在の動態であると。思考の緑野
や感性の原野を超えている庭として想定していると。

この信仰の現実性は ヒラメキという現象あるいは良心という公理(しかもそこ
から ヤマシサ反応が現象します)というふたつのコトで担保されます。

★ 社会学的に、不要な存在と言い切る必要がありますが、それならば、ほとん
どの宗教が同様でしょう。
☆ 諸手を挙げて賛成です。

論理的にすら証明し得ていないオシへを信じよというなら アウトです。

お礼日時:2016/02/14 14:10

お礼ありがとうございます。


解脱についてですが、書き方が悪かったですね。
仏陀が解脱に至る方法しか、解脱にいたる方法は無いと仏陀は言わなかったのではないかと言う意味で書いたつもりでした。
解脱の境地に至っては、仏陀は何も語ってはいないですよね?(仏典により、達磨(ダンマ)を認識したとは思われます)
解脱すれば、誰でも同じ境地に至るのであれば、解脱する者にとっては、それを達観できるので、それを説明する必要はありません。
仏陀が出来た事は、解脱へ至る道を誘導する事だけだったでしょう。
その道が一つしか無いとは、仏陀は言っていないと思います。
何故ならば、仏陀の前に解脱している人がいるからです。(それらの人に仏陀は、解脱へ至る道を誘導できません)
人間としての仏陀と、仏教が捉える仏陀は、100%一致しているとは、私は考えません。(むしろ、そのように考えるのが普通でしょう)
ただ、それらは、すべて想像の存在でしかないのは事実です。(我々が知りえるのは、なるべく初期の仏典を元に想像する事だけです)
原点にあるのは、一切皆苦と諸行無常であろう事は想像できます。
これは、さすがに、どの仏教教派でも外せないです。
人の生命が、苦(変化)を生み出すと考えるのが、屁理屈であるならば、それでかまわないです。(生命は理屈ではないでしょう)
ここで書いている苦(変化)は、人間の感覚で言えば、人生でおこる感情の全てです。(その中に楽なども含まれています)
私が想像できる、仏陀はここまでです。(仏陀が一切皆苦と諸行無常を元に、解脱に至ったと言う事です)
一部、語りえない事も語ってしまったようです。
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この回答へのお礼

ご回答謝謝。
★ その道が一つしか無いとは、仏陀は言っていないと思います。
☆ おそらくそうだとは推測します。ただし そのように見なし唱えた人びとをゴー
タマが作り出した。というところを批判したいと思います。

じっさい 引き際がイエスとは違うんだという議論をつい最近受け取ったところです
し その思潮は主流を成すと言ってもよいほどの現象となっていると見られます。

★ 何故ならば、仏陀の前に解脱している人がいるからです。
☆ 過去七仏。これは ゴータマが おそらく勝手に説いたのであり ただそれだけ
のことなのでは? と思います。

★ (我々が知りえるのは、なるべく初期の仏典を元に想像する事だけです)
☆ それはそうですが 問題はここでははっきりしています。

歴史的事実を科学的に比定するという学問の作業が むろんのこと一番に来ます。が
ただし――イエス・キリストの場合にもだいたい同じような事情だと思われるのです
が――その作業は 困難をきわめます。

学問とてその人の主観をまぬかれるわけではないといった問題は措いておきますが 
要は 仮りにゴータマの直接の発言が明らかになったとした場合 そうだとしても 
その表現については人それぞれの解釈があり得るということです。

ならば 史実の比定にゼッタイの重きを置くのではなく 《伝ゴータマの発言》を取
り上げて自由にあとは哲学として ああぢゃこうぢゃと議論しあったほうが 有益で
あるのではないかと。

★ ここで書いている苦(変化)は、人間の感覚で言えば、人生でおこる感情の全て
です。(その中に楽なども含まれています)
☆ いえ。つまり ええ。おっしゃるとおりです。苦と楽との配置具合いが問題です。

楽が――生において――地(ぢ)であり 苦はそこに現われる図であると言いたいの
ですし ゴータマはそうではなかったと。のちに人びとがブッダター(仏性)を説い
たのは 《自性清浄心》のことを言おうとしている。楽が地であると。つまり:
★ 生命は理屈ではないでしょう
☆ から ここまでは――けっきょく《信仰》を想定した上で――哲学も発言権を持
ち得る。

★ 仏陀が一切皆苦と諸行無常を元に、解脱に至ったと言う事です
☆ これでは輪郭だけですから そのゴータマ原点でもいいですからそれを出汁に使
って哲学しようと。《苦》説が元凶だと。

お礼日時:2016/02/14 10:42

お礼ありがとうございます。


まず、仏陀に関しては、私自身が語る言葉は持っていません。
梵天の逸話は、後世に作られた話ですから、仏陀自身は多分、そのような事は言っていないでしょう。(あくまで推測ですけどね)
基本的には、ウパニシャッド哲学に関する理論は、解脱に至った段階で捨て去ったのではないでしょうか?
そのような説明は、解脱には不要だったという事だったと思われます。
現世が、無常である事を悟れば、そこに執着する事は不要であると判断したと言う事なんでしょう。
一切皆苦は、解脱後の言葉なので、原始仏教的解釈では、全てが苦(変化)であれば、それを押しとめる方法は無いので、それに執着する必要は無いとされています。
要は、誰も変化を押しとめる事が出来ない事を自覚すれば、無力である事に気付き、それを押しとめようとする感情も生まれないと言う事なのではないでしょうか?
個人的には、これはある意味真理でしょう。
原始仏教は、そういう意味では、アクティブな宗教では無く、あるがままに受け入れる事が原点にあると思います。
もちろん、それ以外にも、倫理的に正しく生きることで、苦(変化)を、緩和する事が可能な事も説いたと思います。
ただ、仏陀自身の解脱へ至る道が、全ての人に当てはまるわけでは無いです。
また、全ての衆生が解脱へ至る必要性もありません。(求道者のみでかまわないわけです)
解脱の必要無く、今生を生き抜ける人はいくらでもいるわけです。
元々、原始仏教はかなり閉鎖的だったと言われています。
本来の解脱は、個人の救済でしかないわけです。(個人が解脱したから、世界の苦が消えるわけではないからです)
そういう意味では、原始仏教が世界宗教になる事は難しかったでしょう。
ただし、東南アジアでは、原始仏教に近い形で、仏教が普及しました。
そのような国は、きちんと倫理的な生き方としての仏教が生き続けているような感じがします。
宗教である以上、それは信者の物で、哲学が扱う領域とは思いません。
質問は、仏陀に関してで、仏教に関してでは無いですよね?
仏陀に関しては、直接の口伝もありませんし、私も語る言葉は、推測でしかないです。
仏陀の解脱の方法以外は無いとは、仏陀は言っていないんじゃないですかね?
そうでなければ、仏陀以前の解脱者はどうやって解脱したのかの説明が付きません。(仏陀の解脱の方法が楽だ位は言ったかもしれません)
実のところ、小学生の頃はいつも、解脱や出家したいと思っていました。
それは、仏陀と同じく、世界が不安定で不条理なものであふれていると思っていたからです。(あくまで、私の想像する仏陀ですけどね)
しかし、しばらくして、それは間違いだと気づきました。
今は、衆生として、人に迷惑をかけないで、正しく人生を終えたいと思っています。
実は、それ自体が一番難しい事なんですけどね。
何故ならば、生きている以上、必ず苦(変化)を生み出す原因になるからです。
山奥で人知れず隠棲して、死んでいけば良いんでしょうが、家族がいる以上、それも苦(変化)生んでしまいますね。
衆生は、全てが原因でもあり、結果でもあり、それが苦(変化・無常)であると言うような思想だったのではないでしょうか?
仏陀について、語りえるのは、これくらいしかありません。
仏教に関しては、宗教の問題ですから、各教派で考え方も違いますし、私も哲学的に語りえる言葉は持ちません。
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この回答へのお礼

ご回答謝謝。
▲ スッタニパータ:牛飼いダニヤ ~~~~~~~
http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/su …
29 師は答えた、
「牡牛のように結縛を断ち・・・わたくしはもはや母胎に入ることはないであろう。
神よ、もし雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」
30 忽ちに大雲が現われて、雨を降らし、低地と丘とをみたした。神が雨を降らすのを
聞いて、ダニヤは次のことを語った。
31 「われらは尊き師にお目にかかりました、・・・われらはあなたに帰依します。・
・・
32 妻もわたしもともに従順であります。幸せな人(ブッダ)のもとで清らかな修行を行
いましょう。生死の彼岸に達して、苦しみを滅しましょう。」
33 悪魔パービマンがいった、
「子のある者は子について喜び、また牛ある者は牛について喜ぶ。人間の執著する元の
ものは喜びである。執著する元のない人は、実に喜ぶことがない。」
34 師は答えた、
子のある者は子について憂い、また牛ある者は牛について憂う。実に人間の憂いは執著
する元のもののない人は、憂うることがない。」
~~~~~~
☆ 《神》を仕えさせているし 《悪魔》も登場する。 29・32・34でやはり《生
という苦》を言っている。
★ 解脱に至った段階
☆ そう宣言したという段階はありますが 解脱の中身はついぞ明らかにはされていま
せん。
★ 説明は、解脱には不要
☆ これは №4でタテマヘに触れました。
★ 要は、誰も変化を押しとめる事が出来ない事を自覚すれば
☆ これは ただのケセラセラ史観です。不可抗力を容れた自然史過程ですから わる
いと言わずとも 誰もが知っている。
★ 個人が解脱したから、世界の苦が消えるわけではない
☆ これは半分おかしい。わが苦は 世界苦そのものだとおっしゃったのですから。し
かし解脱がはっきりしない。
★ 仏陀に関してで、仏教に関してでは無い
☆ ブッダに関しては 仏教によるしかない。
★ 仏陀の解脱の方法以外は無い
☆ 《この上無きただしいさとり》を得たと言っている。
★ 家族がいる以上
☆ 半分 屁理屈だと思います。というより 生という苦を前提とするから そういう
おかしな推理が次から次へ出て来るのでは?
と哲学し得ます。

お礼日時:2016/02/14 09:11

お礼ありがとうございます。


どうも、元々、苦と訳した事自体に問題があったようです。
あくまで、宗教的な解釈としては、一切皆苦の苦は、肉体的な苦を意味していないとの解釈が多数のようです。
なぜならば、解脱後の仏陀は、肉体的苦痛から解放されたわけではないようだからです。(仮定で記載しているのは、仏陀入滅後の記録しかないからです)
同様に、精神的と言う事の解釈が難しいですが、少なくとも感覚的な苦からは解放されていないだろうと思います。
何故、私が哲学的に語りえないと記述したかと言うと、これは理性で推測する事も、記録を確認する事も出来ないからです。
仏陀が存在したのは、歴史的事実でしょうが、仏陀の解脱がどのようなものであったかもわからないし、仏教の教義として入滅後に記述された事は、弟子などが、見聞きした事を整理した事でしかないからです。
言葉で表現できるもので無かった事は確かでしょう。
インドで、仏教が滅びたのも、その哲学的厳密性が無い為だったと言われています。
そういう意味で、仏陀自身の解脱にいたる過程は、理性などで到達できる事では無かったのだろうと言う事は言えるでしょう。
少なくとも、原始仏教はそのような宗教であったと言えるでしょう。
ウパニシャッドならば、哲学的に解釈は可能ですが、仏教はウパニシャッドからはかなり逸脱している実践を中心とした宗教だったと思われます。
したがって、私が回答した内容も、原始仏教を引き継いでいるタイなどの仏教徒の解釈とほぼ同様です。
よく勉強されているようなので、当然グノーシスも御存じでしょう。
仏教自身も、その出発点は、現生が不完全である事を出発点としています。
これを出発点とすれば、仮に創造神が存在するとすれば、それは無知な存在であると推測する事になります。
梵天が仏陀に教えを請うという逸話は、そのような考えから生じたと考えられます。
梵天は何も知らないで、世界を作った為に、世界は苦になったと言う事です。(苦は、無常もしくは不条理と言う意味です)
これは、あくまで、私の解釈ですが、苦はすべての世の苦です。(個人的な範囲の事ではありません)
この世の中に、苦しむものがただひとつでも、この世は苦だと言う事です。
ただ、この考えを突き詰めて進んでしまうと、全ての衆生が解脱して入滅したら、この世界に衆生が存在しなくなってしまいます。(本当に解脱したら、生に執着する事はあり得ないでしょう)
この為に、原始仏教は小乗でしかありえなかったわけです。(全ての衆生が解脱する必要は無く、解脱を求める出家者だけの解脱を導けば良かったわけです)
グノーシスは、実際にその為に滅んでしまいました。(現世が苦である以上、苦を生み出す子孫を作ることを禁じたからです)
ただし、仏教も大乗仏教となり、グノーシスの残った教派も求道者と信者を分ける事により生き残りました。
仏陀とグノーシスの違いは、グノーシスは現世に生まれる事自体を悪とした事です。(グノーシスの求道者(初期は信者)はその為に子孫を残しません)
仏陀は、そこまでは言っていないでしょう。(ただ、出家者が子孫を作ると言う事はないので、出家者に関してはインドの伝統としては、同じ事です)
少なくとも、宗教に関しては、私は哲学的に語りえる言葉を持っていません。(私にとっての哲学は、理性で考えられる範囲だけだからです)
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ インドで、仏教が滅びたのも、その哲学的厳密性が無い為だったと言われています。
☆ 滅びたことには 別の理由もあると考えています。それは いまほかの質問でもや
り取りしていますが 要するにブディズムの信仰論としては ブラフマ二ズムの梵我一
如と類型的に同じである。したがって 二重になるだけだという粗い説明です。

★ 言葉で表現できるもので無かった事は確かでしょう。
☆ いま前項の《哲学的厳密性》とかかわっていますが それでもタテマヘでは理論や
説明の厳密さや明晰さを ゴータマは要求したということです。

▲ (ゴータマのタテマヘ) ~~~
わが修行僧である我が弟子どもが 賢明にしてよく身をととのえ ことがらを確かに
知っていて 学識があり 法をたもち 法に従って行ない 正しい実践をなし 適切な
行ないをなし みづから知ったことおよび師から教えられたことをたもって 解脱し 
説明し 知らしめ 確立し 開明し 分析し 闡明し 異論が起こったときには 道理
によってそれをよく説き伏せて 教えを反駁し得ないものとして説くようにならないな
らば その間は わたしはニルワーナに入りはしないであろう。
(中村元訳『ブッダ最後の旅――大パリニッバーナ経――』1980 p.69 )
~~~~~

★ 梵天は何も知らないで、世界を作った為に、世界は苦になったと言う事です。
☆ まだ疑問があります。ブラフマンを梵天としてブッダに仕える(?)神々のひとは
しらとしたのは あくまでブディズムの側です。
ヰシュヌとシーワの二神をしたがえて 宇宙をつかさどっていることになっていますか
ら。

★ (苦は、無常もしくは不条理と言う意味です)
☆ №1のお礼欄を見てください。《苦 duhkha 》の辞書の意味をかかげています。
《 difficult / suffering 》がだいたい基本の意味なようではあります。ただ 日本語の
ヰキぺなどでは 《思うようにならないこと》を主要な意味としているようです。

★ (本当に解脱したら、生に執着する事はあり得ないでしょう)この為に、原始仏教
は小乗でしかありえなかったわけです。
☆ このご議論は重要であると同時に やはり《小乗》というのは 棄ててもよいので
はないでしょうか。その点 グノーシス主義も同じくと。

お礼日時:2016/02/13 22:36

釈迦の時代は足場を組むのが大事な時代だったんだと思います。


それをできるだけ矛盾なく包括的に言葉にすることが。
未熟な時代なりの漠然とした表現が精一杯でそれは時代の限界だった。
ということだと思います。

そこから先の処方箋は多様な社会の個々の具体例に応じて
むしろ多様な展開の余地が残されていて
それゆえの宗教としての発展だったと言えるのではないでしょうか。

足場からの具体的な構築は後世に役割分担として託された形になっているんだと思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 足場からの具体的な構築は後世に役割分担として託された形になっているんだ
と思います。
☆ ううーん。
つまり 足場のみだと言うのは こうです。:

 この世は苦である。苦からの解放 これが さとりであり解脱である。
 苦とは さとりを得る前の・凡夫の状態である。さとりを得たなら 凡夫のわづ
 らう苦から解放され 明知の状態に成る。

というように外形的に輪郭を述べただけだという意味です。

けれども この上なき知恵のさとりを おれは得たと成道宣言しているのが ゴー
タマくんです。
なら 説明せいよとなります。

シャーリプトラが法華経で ゴータマにさとりとは何かを明らかにして欲しいと懇
願しても 答えなかった。人びとは理解しないし しても反発し棄ててしまうだけ
だからと。

《後世に託した》と言っても その後 さとりの中身は一向に明らかにされません。

《蝦蟇の油売り》ではないのですか?

生は苦だと マッチを擦って火事を起こし おれのさとり方式でなら苦から解放さ
れるよと言って ポンプで火を消すというのですが それがただの言葉だけの方程
式であるに過ぎない。と来ています。

ゴータマほど ひとをバカにし舐めきっているにんげんは 世界史上いないでしょ
う。

お礼日時:2016/02/13 18:37

仏陀がそのように語ったかどうかは、わかりませんが、一切皆苦の意味する苦は無常(変化)そのものを意味しているのではないでしょうか?(全ての仏典は、仏陀入滅後に書かれているので、仏陀がどのように語ったかは確認のしようがありません)


「人生は予測が出来ない」→無常である→苦と言う事なのではないでしょうか?
これ自体は、真実と言えるような気もします。(少なくとも、私は未来を予測できません)
肉体的・精神的な苦とは意味あいが違うような気がします。
これは、あくまで宗教の問題であり、哲学的には語りえない事だと思います。(宗教学的に仏教を分析できるでしょうが、仏陀そのものがどうこうは言えないでしょう)
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

(あ)★ 一切皆苦の意味する苦は無常(変化)そのものを意味しているのでは
ないでしょうか?
(い)★ 「人生は予測が出来ない」→無常である→苦と言う事なのではないで
しょうか?
(う)★ 肉体的・精神的な苦とは意味あいが違うような気がします。
(え)★ これは、あくまで宗教の問題であり、哲学的には語りえない事だと思
います。
(お)★ (宗教学的に仏教を分析できるでしょうが、仏陀そのものがどうこう
は言えないでしょう)
☆ (お)は あくまでいまのわれわれの成す解釈という問題です。その意味で
(え)の哲学の問題に成り得ると考えます。

(う)は 《諸行無常》〔(あ)(い)〕による影響が 《身や心に〈苦〉をも
たらすことは無い》という意味でしょうか? それとも影響はあるとまでは認め
るものでしょうか?

その答えと密接にかかわりますが 要するに(あ)および(い)は 影響がない
という解釈の場合に 《苦》とはどういう意味になりましょうか?

《思うようにならない》だとか《要するに 苦しみ》のことだとかではないとい
うことでしょうか? だとしたら 何でしょう?

あらゆるものごとは移ろいゆかざるを得ない。移ろいゆくこととその時の予測も
必ずしも出来ない。――という言わばモノゴトそのものについての時空的な移り
変わりだけのことなのでしょうか?

つまり 身にどう感じるか・心がどう受け留めるかには まづかかわらないとこ
ろの物質的世界の変化を言っている。ということですか?

その場合に だとすると 苦からの解脱といった問題は起こらない。こういうこ
となのでしょうか?

お礼日時:2016/02/13 17:17

こんばんは、ぶらじゅろ~ぬさん。





わたしインド人ぢゃないけれど、
生が苦なのは当たり前でしょう。


たとえば幼児や学童が
この世で生きるために【育つ苦しみ】
を思い出すことができますか?






ただ、ああ苦しいなあ寂しいなあ
誰かいないかなあ助けてくれないかなあ
と思ったときに、


そうだ、
そうぢゃん自分がいるぢゃないか!
生きてる自分がいるぢゃないか!
おお自分!おおきに!
ついでにあいつやあいつにもおおきに!



と思ふ瞬間がたまにあるから
わたしは生きていますが何か?






>誰もに苦という病いが俟っている。
:いえ、苦は病ではなくむしろすこやかです。




>思うようにならない。
:期待しすぎるからです。
 わざわざワルモノを作るからです。



>その処方箋のみが有効
:処方箋は要りません。
 だって生が苦なのは当たり前なのだから、
 それを【治す】という発想がおかしい。



>生が苦であるなどという命題は 
>捨てればいいのさとなりましょうか?
:いえ、胃袋で消化できるように
 人間はできています。
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この回答へのお礼

こんばんは。ご回答をありがとうございます。

★ 生が苦なのは当たり前でしょう。
☆ ところが どっこい ちょっと違うんです。

★ ~~~~~~~~
たとえば幼児や学童が
この世で生きるために【育つ苦しみ】
を思い出すことができますか?
~~~~~~~~~
☆ 《苦:duhkha》は 《思うようにならないこと》なのだそうです。(ヰキぺ)。

いや ちょっと待って。この際やっと初めて辞書を見てみました。

▲ ( dus = duh ) ~~~~~~
http://spokensanskrit.de/index.php?script=HK&beg …

दुस् dus (adverb): hard; bad; difficult; inferior

▲ ( duhkha ) ~~~~~~
http://spokensanskrit.de/index.php?tinput=duHkha …

दुःख duHkha (adj.): disagreeable; unpleasant; difficult
  (n.): misery; sorrow; distress; suffering; grief
~~~~~~~~~~~~~~
☆ 《 misery ・・・》以下の名詞は みんな《苦しみ》ですね。
《 difficult 》が 《ままならない》ことを示しているのでしょうか。

ううーん。いや でも《子が育つ》場合というのは 《困難なこと》がありますが 曲
りなりにもやはり一般には一人前に育って来ます。

無明で煩悩をそなえ渇愛のような生き方をもするかも知れないけれど かろうじてでも
《苦》は乗り越えて来ている。のではないですか?

あぁ そのあとには けっきょく質問の趣旨と同じ見解がズラッと示されていました。

問題は:
▲(スッタニパータ)1  蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、
怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。──
蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
☆ というごとくゴータマは 《生を捨てる》んです。厄介です。

お礼日時:2016/02/11 18:31

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