ローマがキリスト教を国教にしてから、ヨーロッパで教会が貴族や王族と肩を並べるほどの権威を持つようになったんだと思いますが、これって世界史でサラッと習うだけで、 歴史の当たり前の知識みたいですが、スゴいことじゃないですか?
国家って、国益を追求すると言えば聞こえはいいですが、国益のためなら時として他国を攻撃もする、国民に有無を言わさず徴税もする、国民に戦争を強要もする、つまり国家エゴイズムが体現されたものが国家ですよね?詰まる所国家の本質って悪だと思うんです。政治学でも、国家の本質は悪だと割りきって理解されてると思います。
その国家の権威の中枢に、愛を説くキリスト教とその教会が位置していたワケですよね?これって普通に考えて究極の矛盾ですよね?
ヨーロッパの聖職者たちは、それをどう解釈してきたのでしょうか?そもそも今の政治学とか歴史学ではそれはどう解釈されてるんですかね?おそらくは教会は単なる行政組織みたいなものになってしまって、キリスト教の本質とは大幅にズレたままなんとなく社会組織として存続してきただけじゃないか?と思うんですが…
アウグスティヌスの「神の国」とかも読んでみたいんですが、なかなかそういう時間も取れないのでここで直接に聞いてみたいと思いました(^_^;)
No.16ベストアンサー
- 回答日時:
補足について。
キリスト教が、「信仰のみ」について。そして何故に、キリスト教の啓典である聖書が、その内容を問わず信仰されるのか、あなたの疑問の通りに、何故に人間性が向上する為の「教え」ではないのかについてを説明します。そんなに、面白くない話しなので、頑張って読んで下さい。
まずですね。同じく啓典宗教であり、同じ神を崇めるイスラム教について説明する必要があります。
イスラム教の神は、慈悲深い神と表現されるという事を前に説明しました。イスラム教の神は、その人の生き方やその民族の連帯によりけりで、その人やその民族を救済するからです。イスラムの神は予定を持たず、人の営みに付き合い、条件を課すのです。つまりイスラムの神は、その人とその民族に信仰及び行動規範を求めます。その規範は、イスラム教の最高の啓典である「コーラン」をつぶさに読み取り、有効に解釈する事によって体系されるイスラム法が担保します。つまり、啓典が「教え」になる宗教なのですね。に従い、イスラム教では、コーランを最高の啓典としながらも、キリスト教の福音書も啓典として扱い、イエス・キリストを尊重するべき偉大な預言者として扱います。それどころか、インドの釈迦や中国の孔子も、イスラム教にとっては偉大な預言者なのです。コーランには「神はそれぞれの土地に、それぞれの民族の言葉で語る預言者を下したまえり」と書いてあるからです。コーランに書いてある事は大切な「教え」ですので、イスラム法がそれを定めます。イスラム社会は、イスラム教を最高としながらも、他宗教と他民族を保護する社会でもあるのです。コーランから学び生きる事、それが個人の規範と社会の規範と法の規範の一致なのですね。その一致の為には、個人として集団の連帯として行動を伴わねばならないのですから、その行動の規範の原点である啓典の内容にはつぶさに拘るのです。
イスラム教には、天国と地獄があります。イスラム法に従い、より良く暮らした良きイスラム教徒は、死後に「緑園」へ行き、人としての欲望の全てを満喫します。そうではない人は、地獄で永劫に焼かれます。なので、イスラム教徒は良きイスラム教徒たることに励みますが、その厳しさは然程のものではなく、また余程の過ちがあったとしても、イスラムの神は情け深いところがあり、人の失敗を幼子の失敗のように許す事も度々あります。
あなたにとっては、分かり易い宗教観だと思います。この分かり易さでイスラム教は大人気です。
こうして比較してみますと、キリスト教が聖書から「教え」を得る必要がないという事がよく分かると思います。キリスト教の神は、人智が知る由も無い予定を持っている。そして、教徒らはその決定に関与する事が出来ないのです。自らの努力で、神に罪の許しをこう事が叶わないのです。
キリスト教は、キリストが十字架にかけられ処刑された後、肉体として復活し神に召された奇蹟を伝えるものです。キリストがその奇蹟をなし得たのは、自ら正しい人間であったからではなく、自ら何かを成し遂げたからでもなく、どのような苦難のもとでも、処刑されるその間際でも、その信仰が疑われることなく無条件無限に神を信じたからです。神が、キリストが処刑される事を望むのなら処刑されるしかないのです。神を信じるというのは、神が自分を救済してくれる事を信じるのではいけないのです。神の絶対的存在を疑わないという事です。ですので、キリスト教は無条件無限の愛(アガペー)の宗教であり、「信仰のみ」の教義なのです。この世の全ては、神の予定であるから人はそれに従うのみなのです。聖書に「教え」を求め行動規範を学び、自らの努力でより善き人として神の前に立ち、その罪の許しをこう事は、絶対神の予定を人智で変更しようという事でありますから、ゆえに神の怒りをかうのです。ですので聖書から「教え」を汲み取り規範意識を得る必要は一切なく、聖書に書かれていることの全てを無条件無限に心で信じるのみなのです。でないと、救済の奇蹟は起こらないのですからね。ですので、神が、かの土地を侵略し皆殺しにしろと言えば、一切疑う余地なくそうする事だって愛(アガペー)なのですし、貧しい者が搾取される事も愛(アガペー)なのです。どのようは場合場面でも、神を疑うことなかれ、それが愛(アガペー)なのです。
で、聖書に載りますイエスの様々な言葉ですが、イエスは神の声が届く預言者なのですね。神の使いですので、その言葉の全ては神の言葉です。神は常に条件なしに一方的に預言者を選択します。絶対神には、条件などいらないのですよ。イエスが立派な人だから神の声を聞くのではないのですし、イエスが立派な人だから奇蹟を発現させたのでもないのです。イエスは、神の存在を事実として認める他に為す術なしを体現したに過ぎないのです。それが、イエスの弟子達の経験でなのであり、それを伝えるのが福音書なのです。
No.23
- 回答日時:
お礼について。
ですので、何度も申し上げているのですよ。他国に侵攻する事を国の利益とする国政と、異民族異教徒みなごろしがモットーのキリスト教儀はなんら矛盾がないのですよ、と。
と、いうよりは。そういう理念を得たキリスト教会の主導により、ヨーロッパでは、そういう国家なり政治が形成されたのです。ヨーロッパでは、キリスト教会の権威の方が先で、国家の形成は後です。それ以前は、王家と領主と農奴の世界ですからね。
まだ、納得に足りませんかね。
なるほどそういうことですか、個人的には納得しずらい気もしますが…旧約の教えで異教徒への攻撃は肯定されてるということなんですよね?他の人もそういうことを教えてくれたので、それはそれで分かったと思うんですが?
No.21
- 回答日時:
いわゆる「宗教」が精神麻薬と考えれば理解しやすいですね。
同じ宗教に取り込んで「同士」として囲い込みをするわけですね。
国の基本は「敵」か「味方」かを判別することから始まります。
>愛を説くキリスト教
「同士」として恭順を示した者にだけですね。
そうでない者に対しては凶暴な虐殺者となります。
No.20
- 回答日時:
#19です。
>キリスト教以前の社会でも宗教と政治は一体化してたのでしょうか?
古代の政教一致から近代の政教分離が歴史の大きな流れです。
>聖書のどこに、聖戦を肯定する考え方が載ってるのでしょうか?
旧約聖書の歴史書にあります。
神の命令で戦争をする戦記があります。
ヨシュア記のエリコ攻略が有名です。
現代人から見ればただの侵略戦争ですが
キリスト教的には神の命令による聖戦なのです。
日本のクリスチャンはここに疑問を感じる人も多いです。
旧約の神はあまりキリスト教的な感じがしないからです。
補足しますが
旧約聖書の神はユダヤ教的で怒りと裁きの神で(ユダヤ教の聖典です)
新約聖書の神はキリスト教的で愛と救いの神です。
キリスト教はイエスのユダヤ教批判から生まれたので
旧約の神と新約の神は同じ神とは思えないほど性質が違います。
聖書のそういう矛盾をどうしたかというと神学者タイプの人などが
神との契約が旧から新に変わったと解釈して辻褄合わせをしたわけです。
契約内容が変わったから神のイメージも変わったということなんでしょう。
No.19
- 回答日時:
#18です。
お礼を読みました。
昔の宗教(特に一神教)は社会の総合分野であり、宗教と政治は切り離せないものだったのです。昔は制度的に政治と宗教が一体だったからです。つまり政教一致が常識で今のイスラムみたいなものです。政治的な側面はキリスト教ではないというのは近代ヨーロッパの政教分離の考え方よる見方に過ぎません。当時の人々は宗教と政治を分けてなど考えていません。現代人みたいに宗教と政治が別物みたいな考え方をそもそもしてないのです。
キリスト教と政治は矛盾するとは1つの考え方です。キリスト教は愛の宗教で戦争は絶対悪と考えればそうなります。そういう考え方からキリスト教系の新興宗教で選挙拒否と徴兵拒否をしている所もありす。自分たちは政治と戦争には関わらないと。しかし、キリスト教にもイスラム教にも聖戦という考え方もあります。要するにはキリスト教が全ての戦争を否定しているとは考えないわけです。アメリカの保守系のキリスト教はこういう考え方です。そういう人々はキリスト教と政治は矛盾してると考えていないし、ある種の戦争はキリスト教的に正しいと考えているのです。ただ、多くの日本人はあなたと同じような考え方なのでクリスチャンにアメリカはキリスト教国なのに何故戦争をするのかと問うのです。
No.18
- 回答日時:
キリスト教は愛の宗教というのはキリスト教の1つの側面です。
こういう面での活動や影響も歴史の中にはあります。しかしキリスト教をローマが国教としたのはキリスト教を弾圧するよりキリスト教を取り込んだほうが民衆を治めるのに得策と権力側が判断したからです。つまり政治的な側面で利用したわけす。キリスト教も組織化して権力を持つとどんどん腐敗していきます。
中世では大聖堂建設のために免罪符で金を巻き上げたりしたのです。
そういうカトリックに対するプロテスタントの理論武装として信仰義認や予定説は出てきたのであって、宗教改革以前のカトリックでは救いは信仰と行為の両方が必要であり、人間が救われてるかを決めるのは教会でした。救いの判定は教会の権威だったということです。だから救われるには○○が必要なんだと行為を要求して民衆を支配していたわけです。なお、キリスト教の常識として予定説はプロテスタント中でも賛否が分かれてる一教義に過ぎないと知っていたほうがいいでしょう。元々思弁的な神学ではなくて教会の権威を否定するためのものなんです。人間の救いを知ってるのは神だけで教会も人が救われてるかは分からないと言いたいわけです。つまり教会の言うことを聞かなくても個人で神につながれば救われますよと。
宗教と政治が絡むとプラスの面もありますが、その矛盾が大きくなります。それで西洋では政教分離の考えが出てきたのです。イスラム教では政教分離の考えはあまりないのでいまでも大きな矛盾を抱え大きな問題を起こしてるわけです。クリスチャンがよく質問されるのはアメリカはキリスト教国なのに何故戦争をするのか?ということです。愛を説く宗教なのに何故人を殺すのか?そこには大きな矛盾があるでしょう。
補足が上限に達したのでお礼で失礼します。キリストは弟子たちに、政治力が強くなってほしいと願ったわけではないでしょうから、政治的な側面というのは、キリスト教であってキリスト教でない側面ですよね?
予定説がそういうものだということは勉強になりました。
キリスト教と政治は質問に書いたように矛盾そのものでしょう?だからこそ矛盾そのまま、戦争もするんじゃないですか。
No.15
- 回答日時:
補足についての、回答補足。
うっかり、肝心な事を忘れていました。何故に「行動を問わず信仰のみ」のそれが、
キリスト教の救いなのかという事について、です。
必ず後で書くから、締め切らずに願います。
No.14
- 回答日時:
補足について。
「信仰のみ」こそが、キリスト教の根幹であり、その特殊性と言えます。これは、キリスト教徒にとっても難題ですので、あなたが理解に苦しむのも当然です。
聖書に書かれている事を単なる事実として受け入れるなんて事が、正気の人間に可能なのかと、私だって思いますもの。それこそで救われた気持ちになれるなんて理解出来ません。ただ、それがキリスト教だと言う事です。
イエスは主であると口で言い表し、神はイエスを死からよみがえらせたもうたと心で信じなさい。そうすれば、「あなたは救われる」
これを、どういう意味だろうか?とか、どう解釈するのだろうとか、一切考えてはならない。これは、単なる現象のひとつ。単なる事実です。事実を認めて言うべき事は、ただひとつ、「その通りです」という意味の「アーメン」です。
あなたの、宗教は人間とその社会を向上させるものだという考え方は、儒教の精神の影響といえるかと思います。儒教は「行動のみ」礼を知る行動が出来さえすれば、心の信仰など、どうでもよい。キリスト教と対極と言えます。儒教だけでなく、様々な観念を取り混ぜながら、あなたは世界を見ているのです。
見識を広げて、学問なさいな。
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私もちょっと調べたんですが、ヨシュアというのは旧約聖書の話じゃないんですかね?モーセが神の言ったとおりに、来襲者を撃退した、という話じゃないんでしょうか?
それと予定説というのは、カルヴァンが唱えた、キリスト教の一派にすぎないんじゃないでしょうか?
キリスト教の神議論が、予定説があるために完全無欠であるというのは…??
なぜそう言えるんでしょう?難しそうですが、興味がわきました。
予定されていて、法の縛り、規範意識がないから堕落し放題、というのは宗教としてなんとも矛盾しているような感じがしました。
運命はすでに決まっているのだから、努力したり、いい行いに勤めても無駄だ、ということでしょうか?よほど生まれつき性格のいい人だけが良い予定のもとに生まれているとみなされて、本人もまじめに生きたんでしょうか?
社会学の業界で有名な「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」では、予定説があったからこそ人々は勤勉に働き、資本主義が発達した、と説かれていますよね?私もあの論理を理解したワケじゃないんですが、予定説には人々を勤勉な方向に仕向ける要素もあったんじゃないでしょうか?
それと、人間の意志で予定を変えることができない、神の国を追放された人間に善行など望むべくもない、となれば、それはあきらめの境地で、救いの余地がないんじゃないですか?宗教としてなんとも矛盾を感じます。
一方でキリスト教には「信仰のみ」と書かれてますよね?仮に悪い境遇の人、心がすさんだ人が、自分の予定を変えられないと思ってしまったら、その人たちはどこに救いを求めればいいんでしょう?もう信仰する意味がないんじゃないですか?予定説を大勢が受け入れてしまったら、信仰する人は激減しそうな気がするんですが。境遇の良い人だって、それ以上良い境遇に上昇できない、予定で決まっていることだと思ってしまったら、信仰する意味がないんじゃないでしょうか?
信仰、宗教というものは、人を精神的に成長させるためのものではないんでしょうか?いい意味で人を変化せていく、それが宗教じゃないんでしょうか?予定ですべて決まっている、変化のしようがないという時点で、根本的な矛盾を感じるのですが。
大変詳しく教えていただいた上で恐縮なんですが、単純に質問します。宗教が人の精神的な成長を促すものである、という理解が間違いであるなら、宗教の意義とは何ですか?宗教家は、何を意図して人々に宗教の教えを説くのでしょう?
なるほど、宗教というのはそういうもの、それはそれで勉強になるのですが、一方で新約聖書では色々と有名なイエスの説話が書かれてますよね?
良きサマリア人だとか、自らを裁かずに人を裁くなとか、天に宝を積みなさいとか…
これは普通にだれが見ても道徳的に人々を教化しようという内容、やはり宗教には人を成長させる目的がある、と言えるんじゃないでしょうか?
そこに書かれていることは教えではなく現象、それはどういう意味でしょうか?
そういう風に聖書を読むのはけしからん、というのはなぜですか?
>カトリック教会の、人心教化の方法
それそのものをよく知らないので矛盾も何もありません。中世カトリックがどういうものだったのかも専門家でないのでわかりません。無学ですみませんとしか言いようがないです。キリスト教は愛を説くものだ、と単純に思っていたので、愛とは関係ない、場合によっては愛の対極の存在ともいえる国家と組むのは矛盾だと考えました。
信仰あるのみ、と何度書かれてもよく分からないのですが、宗教の教えを受け入れても、自分自身の向上につながらないんだとしたら、信者は何のために教えを受け入れるんでしょうか?人間的に向上する、向上しない、とは関係なく救いがあるということでしょうか?では逆に、人間的に向上しないのになぜ救われるんでしょう?
それではイエスの様々な教え、的な話は、なぜ新約聖書に載っているのでしょうか?そこに人を教化する意味がないんだとしたら?
何の話でもいいんですが、例えば良きサマリア人の話を、聖書を読んだ信者はどう解釈すればいいんですか?