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自我という概念は じっさいに現実においてそれとしてまとまった実態としては 
あり得ない。ですよね?


あっても わがままだとか我執だとかの心理的に強固な気持ちだったり 或る種
の条件反射のごとく何かに反発して動き出す意志のような意志ではないようなハ
タラキだったりするのみであって けっきょくたとえば《個人にとって社会的に
自我が形成される》といったような意味合いの実態はない。はずだ。

超自我とエス(リビドー)とを取り持つというような自我は けっきょくワタシ
のことでありその理性ないし意志だと考えられます。

われはこう思うということはあっても わが自我はこう思うとは言わない。

自我は 死語もしくは幻想ではないでしょうか?

したがって 定義を問わない文学としては持って来いなのかも分かりません。

A 回答 (16件中1~10件)

ご返答ありがとうございます。



ID=シルシであり代用。その通りです。

gooをしていないときに、gooでのやりとり(とくに、ワタシのした回答)が頭の中でしつこく繰り返されることがあるのですが、こういうときは代用であるはずのIDが≒ワタシになっていたりします。
有名人が有名になり過ぎて、有名になった「名前」が一人歩きするのと同じです。
IDを消すと、IDから関心を引き出している自身の思考パターンも消えます。

消えずにいるのは思い出さないほうとしてのワタシであり、おっしゃる通り「掛け替えの無い存在」のほうです。

掛け替えの無い存在は、自分を知る対象として自分のことを捉えてしまうと混乱が生じます。
つまり、わたしはアレである、わたしはコレである、といった「概念」と非常に混同されやすいということです。
「自分を知る」というのは、もちろんそれ以前に「知られる対象」があるわけですが、こちらのほうは、知られることがありません。

音が空間を伝わるように。紙がなければ文字が存在できないように。人が存在するにも、いまのこの空間がなければ存在できないはずです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

◆ (どこかの或る回答) 「質問するだけしておいて」目的は、回答に対
する、「否定」「反論」のみ、と言う傾向の方が散見されるように思います。
☆ とわたしは こきおろされていると言うのに きちんとしっかり考えて
いただき まことにありがたいことだと思います。

★ 有名人が有名になり過ぎて、有名になった「名前」が一人歩きするのと
同じです。
☆ と見て・捉えているのは その人でありつまりワタシです。だいじょう
ぶですよ。

強いて言えば わざわざ面倒な用語を出すなら

○ 間主観性( Intersubjektivität ; intersubjectivity )

でしょうね。相互主観性とも。あるいは けっきょく《ま(間・間合い)》
の問題でしょう。マを捉えそれに処して行くのも ワタシです。よ。

★ IDを消すと、IDから関心を引き出している自身の思考パターンも消
えます。
☆ 《〈わたしがわたしである〉わたしがわたしする》ために要らないもの
は消えて行きますし 自分でも消します。

クリスマスツリーにとってカザリというカザリは 要らないかも知れません。
樅の木本体だけで ワタシであり得ます。

★ 消えずにいるのは思い出さないほうとしてのワタシであり、おっしゃる
通り「掛け替えの無い存在」のほうです。
☆ Bravo !!

★ つまり、わたしはアレである、わたしはコレである、といった「概念」
と非常に混同されやすいということです。
☆ 《飾り》の問題ですね。《肩書き》などは どう処理すればよいでしょ
うね。

★ 「自分を知る」というのは、もちろんそれ以前に「知られる対象」があ
るわけですが、こちらのほうは、知られることがありません。
☆ たとえばアヤマチまたはマチガヒを侵して あぁ わたしは何てバカな
んだと思った瞬間 ワタシは我れに還っていますよね。その自覚でじゅうぶ
んなのでは?

★ 音が空間を伝わるように。紙がなければ文字が存在できないように。人
が存在するにも、いまのこの空間がなければ存在できないはずです。
☆ この空間・この時間あるいはつまりこの世界 このような場とワタシは
同時一体だと捉えればどうですか?

そしてほかの誰とも ワレは まったく同じ条件のもとにあります。カザリ
を除けば。ですよね。

お礼日時:2016/04/03 10:15

こちらこそ誠にありがとうございました。


自分は哲学に沿った回答ではありませんでしたが、それにも関わらず最後までお付き合い下さったことに深く感謝しております。
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この回答へのお礼

それはよかった。です。

老婆(爺?)心から いろいろつづりました。

またお会いしましょう。

ありがとう。


あっ。考えることは それが 哲学ですよ。

お礼日時:2016/04/03 10:59

タイトルで既に正解だと思います。



キーボードを打つ感覚は次々と消えています。これは概念になり得ないことです。
もし、これが概念なら、ほかの人が打つキーボードの感覚が分かってしまうはずです。

自分の(自我の)以外の経験をしようと思うなら、それは、自分に自我が無い状態(無我)でないと経験としては成立しません。

でも、そこがややこしいところで、人が想像することには全て「自分」という感覚が入ります。

キーボードを操作している自分を想像したとき、勝手に指先が動いていたりします。
自我が(自分が)概念としての自我(想像上の自分)とを区別していないことになります。

なので、「概念」は自我のそれ自体ではないが、自我は「概念」にもなることがあるのです。
一番身近のはgooのIDです。
現実の自分(自我)と、空想上の自分(ニックネーム、IDという概念)これで2人です。

ここの質疑応答など、ネット上には複数人いるように思われますが、それはTVなどの動画を見て、そこに人がいると考えることと似ています。
動画に命はなく、そこにあるのは画面です。PCの画面でも同じことです。

自分が黙々と回答をしている感覚、これ以上に直接的なものはありません。
なので、自我という概念は あり得ない。

自我は概念にならない(なることもある)
PCの中にもいない。IDを概念として自我にするのも自分(自我として潜んでいる)
なので、自我という概念は あり得ない。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

趣旨に賛同いただいているのでしょうか。
ただし 中身のご議論には不満足です。

★ 自分の(自我の)以外の経験をしようと思うなら、
☆ 意味不明です。
★ 自分以外の経験 / 自我以外の経験
☆ とは何ですか? 他人の経験のことでもないようですし。

★ それは、自分に自我が無い状態(無我)でないと経験としては成立しません。
☆ ですから そもそも《自我》とは何ですか?

わたしの見解では 《人間・わたし》にはもともと《自我》と呼ぶハタラキや状態
はありません。《わたし》を 文学的に(つまりは 定義をあいまいなままにして)
言いかえたものだと理解しています。

哲学では要りません。


★ キーボードを操作している自分を想像したとき、勝手に指先が動いていたりし
ます。
自我が(自分が)概念としての自我(想像上の自分)とを区別していないことにな
ります。
☆ キーボードを操作するのは 《わたし》です。その《自分の姿を想像する》の
も ワタシです。

《想像上の自分》は 想像しているのもワタシですし 想像じょうのイメージもワ
タシについてのものです。

ワタシをひとつの概念(たとえば オホヤケの反対概念。つまり《民間》といった
意味の語です)とすることもありますが そうしているのはやはりワタシ〔たち〕
です。


★ 一番身近のはgooのIDです。
☆ いいえ。IDは ワタシのシルシです。看板です。それだけのものです。

★ 現実の自分(自我)と、空想上の自分(ニックネーム、IDという概念)これ
で2人です。
☆ いいえ。シルシ(記号)は ワタシそのものではありません。代わりとなるも
のです。

★ IDを概念として自我にするのも自分(自我として潜んでいる) /  なので、
自我という概念は あり得ない。
☆ 概念と成り得る言葉または文字をわがシルシとしてワタシが用いる。だけのこ
とですよ。

お礼日時:2016/04/02 13:12

★ だから感覚に始まり感覚に終わるんです。


☆ 始まるでしょうけれど 終わるかどうかは・・・。

始まる終わる、というのは時間的な概念です。
「感覚に始まり感覚に終わる」は者の例えです。それ以前に先駆けて、いまのこの瞬間に、自身の中に時間とは関係のない部分で深い感覚を覚えるかどうか、それを感じることが出来るかどうかです。
例えば不快感。自分が小さくなったことを感じ続ければ、感情はそう長くは続かない。儚いものである感情と、その渦中にいた過去の自分も消滅してゆくことになります。 

★ 見たり聞いたり触ったり話したり考えたり、が自我を通して
行われる。
☆ いいえ。《わたしの自我が見ている・聞いている・触ってい
る》とか《かれの自我が考えている・話している》とは言いませ
ん。

インプット→アウトプットの作業が自我を通して行われます。
日本人なら日本語という言葉や、漢字ひらがなという文字の読み書き
「日本人」というアイデンティティ、その精神的な構築物が、話す内容を考えます。それを後方で静かに見ている者がいます。

★ 自我は自我がないと生きられないのです。
☆ 意味不明です。

エゴイスティックな心は、他者を思考の中で確立した状態でないと「私」という感覚を保てないということです。
思考は、他人と自分の区別なく起こるものです。同一化する対象を変えてく不安定さと、それに伴う生物的な反応、痛みのエネルギーである「感情」を付随させます。


★ 私は私であり、私とは唯一のものなのだと。それが「自分以
外」という概念を作るきっかけになるのです。
☆ 《唯一のもの》は 《掛け替えの無い存在》と表現しなおす
とよいでしょう

唯一のもの、掛け替えの無い存在、どれも「名前」を付けた途端に物化してしまいます。
不明瞭なものを明確にしようとする試み、これは精神的な立場と同化しているエゴイスティックな心からしてみれば、自身の解釈を「他者」よりも優位な立場に置くことで、一時的な安定感ないし満足感を得ようとします。他者からの脅威を取り除き、自身の不安定的要素を少しでも抑制しようとする、それが心の働きです。

心とは自我のことです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ インプット→アウトプットの作業が自我を通して行われます。
☆ いいえ。それは 《わたし》の中でおこなわれます。

《自我》と呼ぶ必要はないどころか そんなものは どこにあるのか。
勝手に名づけているだけです。

★ エゴイスティックな心
☆ が他人を出し抜くということがあります。
★ 他者を思考の中で確立した状態でないと
☆ してもです。大事な情報が あなたには届かないように手が打っ
てあったといった事態です。

★ 自身の解釈を「他者」よりも優位な立場に置くことで、一時的な
安定感ないし満足感を得ようとします。
☆ いちいち《優位な立ち場に置くこと》をしなくても いま言った
ように何かであなたを出し抜くことが出来れば 《一時的な安定感や
満足感》が得られます。


★ 心とは自我のことです。
☆ だから 《自我》とは どこにあるの? です。

あなたの心は 自我ですか? とみんなに訊いてみるといいですよ。

お礼日時:2016/03/29 21:46

だから感覚に始まり感覚に終わるんです。


見たり聞いたり触ったり話したり考えたり、が自我を通して行われる。その前には感覚があるわけです。それでいて、それこそが生きている者と死んでいる物との違いなのです。
幻想の自己。自我という幻想なのです。
自我は自我がないと生きられないのです。私は私であり、私とは唯一のものなのだと。それが「自分以外」という概念を作るきっかけになるのです。
そうする気がなくても、特別な存在としての「我(われ)」という感覚を持つようになるのです。誰がでしょうか?自分が、つまり私が、我が、という自己の都合による認識を最優先させるのです。
こうして感覚の前にある感覚、好きか嫌いか・良いか悪いか・綺麗か汚いか・美味しいか美味しくないか等の判断の前にくるはずの感覚の発見を遅らせるのです。
だから御釈迦さん(?)は、感覚を観察しなさい、呼吸を実況中継しなさいとおっしゃるのです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ だから感覚に始まり感覚に終わるんです。
☆ 始まるでしょうけれど 終わるかどうかは・・・。

★ 見たり聞いたり触ったり話したり考えたり、が自我を通して
行われる。
☆ いいえ。《わたしの自我が見ている・聞いている・触ってい
る》とか《かれの自我が考えている・話している》とは言いませ
ん。

★ 自我は自我がないと生きられないのです。
☆ 意味不明です。

★ 私は私であり、私とは唯一のものなのだと。それが「自分以
外」という概念を作るきっかけになるのです。
☆ 《唯一のもの》は 《掛け替えの無い存在》と表現しなおす
とよいでしょう。

あとは 遠慮します。

お礼日時:2016/03/28 21:17

概念としては存在しますが、現実(物理世界)には存在しません。



人間の精神活動を神経細胞の電気的・化学的興奮と考えれば納得できるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

☆☆ 自我という概念は じっさいに現実においてそれとしてまとまった実態と
しては あり得ない。ですよね?
★ 概念としては存在しますが、現実(物理世界)には存在しません。
☆ さだまった実態を持って 《概念として存在します》か?

実態なら 《現実(物理世界)》でもあると思いますが?

★ 人間の精神活動を神経細胞の電気的・化学的興奮と考えれば納得できるので
はないでしょうか。
☆ そのように 《わたし》や《わたしの精神 またわたしの意志行為》という
ように表わすなら よいと思います。それで済むと思います。わざわざ《自我》
と言わなくても。

お礼日時:2016/03/22 04:49

こんばんは、ぶらじゅろ~ぬさん。




本能とか自我とか超自我とか、それらを全部ひっくるめて【オレ】【自分】といいます。オレはこう感じオレはこう考えこう思うからこのようにしゃべりこのように聴きこのように生きている、ということでよろしいと思います。このやふなことは質問するまでもなく、すべての人がさうしているはづで、またそのやうにしかできないのだと思ひます。さうして【そのやうにしかできない】人間同士が話し合っているうちに【そのやうにもできるのだ】とたまたま感じたときに渋滞が収まり潤滑にものごとが進むことが稀にあるというだけです。もともと全員【オレ】なのであり違いがあるのが当たり前すぎる当たり前だからです。質問内容とわたしの話の向きがズレていたらすみません。




ぷらぽてぃさんとは気が向いたときに文通しています。内容は秘密ですが、彼はぶらじゅろ~ぬさんはいい人だと言っていました。♀としましては女性から【いい人だね】【優しいね】などと言われた男性は凹むべきだと思ひます。ロシア語の新垢のことも伝えておきましたので、たすてん先生にもよろしくどうぞ。
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この回答へのお礼

こんばんは。ご回答をありがとうございます。

★ 本能とか自我とか超自我とか、それらを全部ひっくるめて【オレ】
【自分】といいます。
☆ つい今朝に気づいたことですが 《観察主義》というよくない志向
性(くせ)があるようです。

《超自我》が エスの本能を抑制するとか それら両者のあいだを《自
我》が取り持つとかいうとき そのような分析を 《おのれ》がおこな
っているのではなく オノレはただ単にそういう観察をやっただけとい
うふうに捉えている。場合がある。らしいのです。

そういう問題に気づきました。ルパン三世ぢゃなかった りゅぱん34
4さんて方におそわりました。

★ いい人だ
☆ というのは 文脈があって出て来るフレーズです。ので それを知
らないから 何とも答えらんない。

あと 老婆心から:
x はづ
○ はず(筈:矢の尻の部分で溝が掘られ 弦に引っかけるところ)

お礼日時:2016/03/21 18:45

お礼ありがとうございます。


日本語としては、目的語に一人称の主格をもってきてしまうと、違和感を生じてしまいます。
文法的に誤っているとは言い切る事は出来ませんが、日本人があまり哲学的な「私」や「我」に慣れていないと言うのもあると思います。
確かに、哲学者がカッコをつけて造語している面もありますが、混用される可能性が減ると言う効用もあるので、ある面では有用だとは言えると思います。(それが、日本哲学の閉鎖的な面を生んでいるのは確かかもしれません)
逆に言えば、日本語を外国語に訳した場合もかなりの齟齬は生じていると思います。
日本語自体が、基本的にあまり説明的で無く、お互いに認識が共通化している事を前提としているので、論理的な表現に向いていなかったり、冗長性が高いのも確かでしょう。
外国からの、学問の輸入では、日本語化では、かなりの造語を行ってきたのも、問題と言えば、問題ですね。
実際問題、ニーチェなども、英語訳と日本語訳で読むと、かなり印象が違ってしまいます。
どちらが、ドイツ語に近いかと言えば、印象は日本語のような気もしますが、明らかに英語訳の方が読みやすいです。(ただ、そこで書かれている意味がドイツ語に合っているかと言うと微妙とは言えます)
用語に関しては、日本語訳の方が独自ですから、一般人では読みにくいのは確かです。
深く考えると、英語の「I」、ドイツ語の「Ich」、日本語の「私」は、代名詞の機能としては一緒だが、その印象は異なるような気もします。(民族的な「私」の概念に違いがあるような気がします)
これは、質問とは無関係でしたね。
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この回答へのお礼

ううーん。りゅぱん344さん 今回は いづれの主題や論点にも 具体的な
事例が欲しい・・・といった感じをつよくします。よ。

★ 深く考えると、英語の「I」、ドイツ語の「Ich」、日本語の「私」は、代
名詞の機能としては一緒だが、その印象は異なるような気もします。(民族的
な「私」の概念に違いがあるような気がします)
☆ 主題が 広く大きいように思われます。

そしてその反面で 単純なひとつの共通項もあります。
エゴー(ギリシャ・ラテン)だって 《われが》という主格のままの代名詞で
すから。しかも イッヒもアイも イーヨもヨもジュもその他その他もみな同
じ語です。互いに互いに対して訛っているだけです。

ガ格やハ格の格活用の違いはありますが 日本語でもやはり人称代名詞である
ことに変わりありません。

ただし 《自我が考える》とか《わが自我は きょう映画を見に行く》とかは
言いません。

つまり 《われ・わたし;おのれ》と《自我》とは明らかに性質が違っており
別の種類の概念を日本語ではつくってしまった。のではないか?

けっこうウケた。人気がある。のでしょうが。

★ 日本人があまり哲学的な「私」や「我」に慣れていないと言うのもあると
思います。
☆ わたしは 今からでも変えられると思います。《われ》などは古語の感覚
で 《自我》に取って代わるチカラを持っているようにさえ思えます。あとは
《自己》と言えばよいのではないか。ワレに通じています。


○ 翻訳論
☆ は わたし自身としての経験には乏しいのですが おもしろい話題であり 
果ては比較文明論にとどくものと思います。

そういった議論は もっとこの場で披露していただかないと困ります。
東と西の問題は まだまだ哲学カテをにぎわしてもよいでしょう。


あとは やっぱり精神分析の《自我》は 人格全体としての《われ》が縮こま
ってしまいますし 《エス》を《無意識なる独立した脳細胞の部位》だと説か
れてしまうと困ります。

検証のすべがないのをいいことにして そういう独断説が出されているように
思うからです。

《超自我》も ただ単に《わたしが エスのリビドーを抑える》と言うに過ぎ
ません。しかもこのムイシキの《それ・あれ》だって いかに低俗であっても 
れっきとした我が欲動です。

愚痴っぽくなりましたね。

お礼日時:2016/03/19 17:35

「自我」と言う言葉が、質問者と回答者の間で、一人歩きしている側面があるようですから、「自我」の範囲を限定された方が良いと思います。


人間の心的機能(個人の内部及び外部に対する身体的反応以外の機能)の総称→「精神」
「精神」が統一して機能する主体と思われるもの→「自我」
質問としては、「精神」も「自我」も、現象としては、「私」または「我」であり、あえて、それを分離して考える必要は無いと言う事ですよね?(もしくは、「精神」・「自我」と分ける必要性が無い)
実際問題、このような誤用と言えるような混乱は生じています。
社会的な「自我」の成長と言っても、社会的な「精神」の成長と言っても、意味は同じと言えます。
ただ、社会的な「私」の成長や、社会的な「我」の成長と言うのは、語法としては違和感が生じます。
これは、言語の文法的限界がある為ですから、概念を説明するのには、非常に難しい事は確かです。
哲学論文などでは、きちんと用語の定義を行えば、一般的な語法で無くても説明可能だとは思いますが、一般人にとっては、読み間違いを起こす可能性は高いです。(実際問題原書の用語としては、Ichなど、日本語としては、一人称の用語を使っているわけですから、日本語の限界と言えなくもないですね)
哲学用語の場合は、日本語にした場合の読み間違い(別の意味で解釈される事)を避ける為に、わざと特殊な用語を造語する場合も多いです。
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この回答へのお礼

ご回答を謝謝。

★ 社会的な「自我」の成長と言っても、社会的な「精神」の成長と言っても、
意味は同じと言えます。
☆ おっしゃるとおりに思います。

たとえば小説作品として 或る青年の《自我形成の軌跡》が主題となっている
と言った場合 これは《わが精神の遍歴》という意味です。

自我の形成というのは 必ずしもワタシの個性を問うてはいないはずです。
《よき社会人としてのわたし》といった一般的な人格ないし人間性のことを問
うているはずです。――しかもその意味合いが 出ない。出て来ないように思
われます。

★ ただ、社会的な「私」の成長や、社会的な「我」の成長と言うのは、語法
としては違和感が生じます。
☆ ううーん。びみょうですね。

つまり 《社会におけるわたしの確立》と言えます。前項のごとく《精神の巡
礼にも似た我が人生の旅路》とか《われの履歴》とは言えます。
《自我の履歴》と言ったら 何のことか分からなくなります。

《自我の確立》と言えても その意味は 《わたし・われ・精神・心》の問題
を基礎としてそういう表現を得て来ている。のではないか。

《わたしがわたしである》と言えても 《自我が自我である》と言うのは お
かしい。意味が定まらない。

★ (実際問題原書の用語としては、Ichなど、日本語としては、一人称の用語
を使っているわけですから、日本語の限界と言えなくもないですね)
☆ たぶん いいえだと思います。《わたしなるもの》を言っているはずです。

それをわざわざカッコウをつけて《自我》とあらわしているだけだと思います。

精神分析になると また別ですが。《わたし》を 分断してしまっています。

お礼日時:2016/03/19 16:03

❶自我という概念は それとしてまとまった実態としては現実にはあり得ない


❷言葉という概念は それとしてまとまった実態としては現実にはあり得ない
❸社会という概念は それとしてまとまった実態としては現実にはあり得ない
❹資本という概念は それとしてまとまった実態としては現実にはあり得ない
❺他人という概念は それとしてまとまった実態としては現実にはあり得ない
❻角(かど)という概念は それとしてまとまった実態としては現実にはあり得ない
❼過去、未来という概念は それとしてまとまった実態としては現実にはあり得ない
➑貧困や格差という概念は それとしてまとまった実態としては現実にはあり得ない
❶~➑は、それぞれ何を言いたいメッセージだと思いますか。
http://www.weblio.jp/content/%E6%A6%82%E5%BF%B5
【概念】
① ある事物の概括的で大まかな意味内容。
② 〘哲〙〔英 concept; ドイツ Begriff〕 事物が思考によって捉えられたり表現される時の思考内容や表象,またその言語表現(名辞)の意味内容。
②-㋐ 形式論理学では,個々の事物の抽象によって把握される一般的性質を指し,内包(意味内容)と外延(事物の集合)から構成される。
②-㋑ 経験論・心理学では,経験されたさまざまな観念内容を抽象化して概括する表象。
②-㋒ 合理論・観念論では,人間の経験から独立した概念(先天的概念・イデアなど)の存在を認め,これによって初めて個別的経験も成り立つとする。

概念
a 思考において把握される、物事の「何たるか」という部分。抽象的かつ普遍的に捉えられた、そのものが示す性質。対象を総括して概括した内容。 あるいは、物事についての大まかな知識や理解。
b 通俗的に大雑把に言ってしまえば、概念とは「どういう事か」「どういう物か」について捉えられる内容そのもののことである。例えば「ゼロの概念」は、(基本的に「対象がいくつあるか」を示すための「数える」行為において)、「無を数える」とはどういうことか、という、考え方に関する理解であるといえる。
c 概念は「意味」を伴って把握され、意味は概念として示される。意味と概念は似通うが必ずしも同一ではない。概念は言葉(名辞)によって表現されるが、必ずしもあらゆる概念が名辞を伴うとは限らない。また、概念が必ず本質的・中立的なものであるとも限らない。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
自我 じが ego self:心理学的,倫理的意味では経験的な個体性についての意識をいう。精神分析では現実との間に接触を保ち,イドと超自我とを仲介する意識的なパーソナリティの側面のこと。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%88%91

《自我形成における遊びと生活活動》《自我形成過程の様態》というような場合、《自我の未発達》というような場合、ミードのような理論を構築する場合、自我という概念を使わないというのは困難でしょう。
http://homepage3.nifty.com/kiraboshi2/Abraxas/Me …

「自我は 死語もしくは幻想ではないでしょうか?」
自我形成に関わる順調な発達ができてないことが現在なお大きく問題にされるから、心理支援やカウンセリングのようなことが流行っているとは思いませんか。
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この回答へのお礼

ご回答を謝謝。

▲ (G.H.ミードの社会心理学) ~~~~~
【社会的自我】(social self)
(あ) 社会化された自我をさす。
(い) ミードは、自我とは自覚されたときから社会の場にいることが本来の状況であり、
(う) 孤立した自我はそうではないとしている。
(え) 欲求の主体としての自我は、社会化されることによって、社会規範を良心、ある
いは理想として内面化(me)し、その監視の下に個人的自我(個性)を社会的に方向付け
て行動する。
(お) この社会的規範に対応する自我が、社会的自我であり、「I」と「me」のせめぎ
あいの結果、社会へと放出される自我である。
(か) なお、この社会的自我は、自分以外の他者の態度・役割・行動などを想像・認識
できて初めて発生するものである。
~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ (き) (か)は当たり前である。

(く) (え)(お)の《社会的規範》というのは 一方ではすでにわれわれ人間の身と
心とから成る自然本性にあって――そこに神の霊(アートマン)や慈悲の霊(ブッダター)
をやどすと言われるごとく――そなわっている精神ないし知性〔がみなもとと成って得ら
れた倫理的な人間性のこと〕である。

(け) 他方では 共同体にあって人びとが互いにナラハシとして・オキテとして・また
法律として取り決め合ったものである。

(こ) 言いかえると 《社会的な――人びととマジハリを持つ――わたし》は 規範だ
とか道徳だとかによって形成されるものではない。

(さ) それら倫理規範や法律を内面化するといったかたちで《社会人としてわれ》が出
来上がって来るものだという規定は きわめて一面的である。

(し) むしろ世の中の決まりや常識や風潮のおかしな側面について気づきこれらをうた
がいそのうたがわしい部分に対して逆らっておのれの心に答えを問い求める思索を繰り返
しつつ やがておのれの内面をかたちづくって行くといういとなみ。これが 人間形成の
基礎であり基本である。

(す) ひとは《われを社会化する》のではなく《社会を人間化する》のである。

(せ) 《自我》などは どこにも出て来ない。要らない。

お礼日時:2016/03/19 14:56

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