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先日,ラジオで加来耕三氏の話を聞きました。

関ヶ原の戦いで、東軍の徳川秀忠軍は中山道において手間取り、関ヶ原の戦いに間に合いませんでした。秀忠軍は、信州の真田軍との戦いで、不覚を取ったから、と言われていますね。

加来氏の説明は以下の通りでした、実は、家康と秀忠の間で、暗黙の了解がなされていたそうです。それは、もし、関ヶ原の戦いで東軍が敗退した場合、関東方面に退却しなければなりません。そのル―トには、中山道を使う。このために、秀忠軍は、中山道に駐留していなければなりません。従って、秀忠軍は関ヶ原へ進行する意図を、当初から持っていなかぅた、という説明でした。

賢者の皆様に論評をお願いします。

A 回答 (4件)

まず、秀忠軍は徳川家の主力部隊でした。


徳川家実質的NO2であり、総理大臣的立場であった、本多正信が軍監として配されていた事からでも、あきらかでしょう。 
徳川家康がもっとも信頼していた、本多正信をつけたのは、家康の戦略を熟知していた存在だからと、容易に推測できます。
小山の陣より、西軍に対する為、上杉攻めの軍を西に返すわけですが、秀忠軍は江戸には戻らず、そのまま東山道に向かっています。
江戸に戻った家康は、諸大名に対して50通近い書状を送り、懐柔の策を施し、一月後に東海道を登って行きます。
この間、秀忠軍の工程を並列すると、秀忠軍の方が先に美濃に着いてしまう事になります。そこで、時間的帳尻を合わす為、真田昌幸の上田城を攻めたわけです。これももちろん家康と正信の示し合わせた作戦でしょう。
もし、美濃で合流するつもりであれば、上田には後詰を残して無視してと東山道を登り、木曽を抜けた中津川辺りで駐屯して連絡を取り合えばいい事ですから、主力の徳川軍は温存させるという意図がありありです。
小山では、上杉軍に対応する為、次男結城秀康を残してます。

では、何でそんな作戦を立てたのか。
私の推測では、この際豊臣恩顧の有力大名は共倒れ、殲滅させるという意図があったのではないでしょうか。
関が原で戦ったのは、西軍宇喜田秀家、小西行長、大谷行部、それに実質的総大将(当事者、発案者という方が打倒と思いますが)、石田三成のたった4家大名です。それに対し、東軍は福島正則以下、お歴々歴戦の有力大名が揃っています。対して、家康の率いている徳川軍は、本多忠勝、徳川家の執政役井伊直政の有力2武将以外は、かなり老齢(40代前後ですが)の兵卒が多かったようです。3万5千も掻き集めたのですから、関東領地の農民も相当数駆り出されたようです。
これでは、徳川軍はまともに戦えませんので、ほとんど戦っていません。家康の代わりに4男忠吉が井伊直政治の後見で奮戦した程度です。
尚井伊直政は、この時の鉄砲傷がもとで、戦後まもなく亡くなっています。忠吉も矢疵をおっています。この疵が疵が原因で、のちのち、早い時期に亡くなっています。
従って、もし旗色が悪くなれば、一端戦線を引いて岐阜城あたりまで下げ、秀忠軍と合流して、次戦に備えたのではないでしょうか。
そうなれば、味方していた東軍の豊臣の諸将からも裏切るものが出た事でしょうが、戦力は当然疲弊していると計算していたと思います。
そこに、35000の無傷の兵と、秀忠軍の40000の主力が加われば、徳川家の兵力だけで、十分に再戦できる、撃破できると想定したと思います。豊臣恩顧の大名なんて、じゃまなだけですから。

家康の本当の敵は、大阪城に篭る毛利輝元なわけです。

ですから、この一戦に徳川の運命をかけた家康としては、負けられない戦いの作戦計画を正信と、十分練り上げた結果ではないかと思います。
秀忠軍が背走の為の温存なんて、有り得ないという事です。

最後に勝つ為の戦略という事だと、私は確信しています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
東軍の徳川家の思惑は、家康・秀忠軍を温存しておき、東・西軍の双方の
<この際豊臣恩顧の有力大名は共倒れ、殲滅させるという意図があった>
のですね。仮に、東軍が負けても、無傷の家康・秀忠軍が、
<疲弊している>
西軍に挑む、ということですね。家康のしたたかな構想ですね。

お礼日時:2016/03/26 17:32

関ヶ原の戦いの当日だと、大垣城は西軍サイドです。


ということは、東軍が敗退した場合、大垣城のすぐ近くを通って撤退する必要があったわけで...
(東海道まわりでも、中仙道まわりでも大垣までは共通。)
当然、大垣城の兵に待ち伏せされます。秀忠軍、役に立たない....
ですから、関ヶ原での負け前提なら、大垣城の近くまで来て撤退を援護できる位置にいないとなりません。
家康が、ソコまで戦下手とは思えないのですが。

なお、清洲城は東軍の拠点です。秀忠軍といっしょに清洲城に立てこもれば十分抵抗できるところ、
中仙道まわりで逃げ帰ったら清洲城も占領されるというマズイ結果になると思うが....
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
撤退する東軍は、西軍サイトの
<大垣城の兵に待ち伏せされます。>
中山道で待機している
<秀忠軍、役に立たない..>
ということですね。東・西サイトの拠点が入り乱れているのですね

お礼日時:2016/03/26 11:33

はっきり言って、「暗黙の了解」・「中山道が東軍敗退の場合の退却ルート」、これらについての、何の証拠も有りません。

つまり、何の裏付け「史料・記録」が無いのです。

有れば、その史料名・記録名を、「加来氏から提示してほしい」な、と思う次第。

なぜなら、歴史は、史料(文献その他)の裏付けが必須の学問で、裏付け史料が無ければ、それは「想像・小説」であって、歴史(史実・事実)ではなくなりますので、加来氏の説の裏付け史料、ぜひ知りたいと思います。

家康から与えられた秀忠軍の任務、それが、信濃国、中山道一帯の西軍派(特に上田の真田)を平定せよ、だったことは記録にあります。

で、家康は、「秀忠は9月10日ごろに、美濃国・赤坂(関ヶ原近く)に入る。だから、(秀忠の大軍のための)布陣場所を決めて、そこを空けておけ」と、美濃で活動中の東軍諸将に命じている記録(指示書)があります。

つまり、秀忠軍は、9月10日ごろには美濃国・関ヶ原近くに着陣すると、家康は予測していたわけなのです。9月15日が関ヶ原本戦なので、家康の予測通りなら、秀忠軍は9月10日ごろ、関ヶ原近くに着陣、十分に関ヶ原本戦に間に合っていたわけですね(秀忠の美濃国着陣は9月19日)。

言い換えれば、秀忠軍を東西決戦に即応させる、そう家康が考えていたこと、これは間違い無いのですよ。

要するに、「お前は中山道の後備役だよ」とか、「遅れていいよ」などの密約が、家康・秀忠間に存在した、などといったことが推測できるような、そんな記録・史料は無い、このことが分かる、ということ。

加来氏の話は、個人的な思い、想像、に過ぎない、そう思うのですが。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
1<何の裏付け「史料・記録」が無いのです。>
ですね。加来氏は、今回は、何の史料名などを挙げていませんでした。
2.一方<「秀忠は9月10日ごろに、>・・・・
などの記録が残っているのですね。そして、遅れたとはいえ、
<美濃国着陣は9月19日>
なのですね。通説は、それなりに確かなのですね。

お礼日時:2016/03/23 19:51

やや遅れて到着までは、想定内でしょう。


徳川本隊遅刻ということで、合戦の前半は徳川以外の軍に目いっぱい働いてもらい、後半の美味しいところを温存していた徳川本隊のプランで。

西軍の包囲陣の中に東軍が入っていく形ですから、西軍の包囲を外から破る役割があったかもしれません。
 戦場に姿を現さない徳川本隊を見せ駒にして、小早川あたりに裏切りのプレッシャーをかけたのかも。

東軍敗退は、考えてなかったでしょう。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
まず、
<東軍敗退は、考えてなかった>
のですね。秀忠軍は
<やや遅れて到着>
という計画だったのですね。その理由は以下が挙げられるのですね。
1、秀忠軍の参戦により、徳川軍に依って東軍の勝ちを得た、というかたちにする。
2.<秀頼軍が、西軍の包囲を外から破る役割>
を果たす。
3・<姿を現さない>
秀忠軍により
<小早川あたりに裏切りのプレッシャーをかけた>
のですね。
食べ応えのある、密度の濃いご回答でした。

お礼日時:2016/03/19 19:36

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