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哲学には、二つの流れ、カント、ヘーゲル、ショーペンハウアー、フッサールなどからデリダなどへの流れと、一方に言語批判的な英米系の分析哲学の流れがあるといわれています。これらの間で、相互作用や統合の動きがあるとしたらどのような観点からなされて来ているのでしょうか。

A 回答 (1件)

これは難問です。


言葉を変えると現代哲学を概観し、展望を明らかにせよ、ということなので。
これに回答できるような資格も知識もありませんが、あくまでも現代思想に興味があるアマチュアの管見、ということで回答を書かせてください。

現代哲学の潮流というと、「現象学」「解釈学」「構造主義・ポスト構造主義」「分析哲学」あたりということになるかと思いますが、人によっては現象学と解釈学を一緒にしたり、「精神分析」をひとつのジャンルにあげたり、「プラグマティズム」や「フランクフルト学派」をあげたりする場合もあるかもしれません。
ただ、いま、このような分類にどれだけ意味があるか、いささか疑問になってきているような気がします。

現代の哲学は、かつてのように一人の偉大な哲学者が構築した体系としてあるのではなく、さまざまな問題をめぐっての対話と論争の中にあるといえるのではないかと思います。
たとえば身体であり、知覚であり、言語であり、あるいは他者、テクスト、解釈、翻訳、倫理、人工知能……。
こうした諸問題をめぐって、現象学、構造主義、分析哲学…という集団が、なんらかの見解を出す、というより、個々の優れた思想家がそれぞれに考えを発表し、それに対してまた別の思想家が反論する、という形になっているのではないでしょうか。

確かに20世紀に入って、近代哲学から現代哲学へと転換した際に、「言語論的転回」ということが言われました。
中世から近代にかけて、中世の哲学が神を中心的な問題として扱っていたのに対して、ロックが「人間は、どのようにして対象を認識しているのか」「人間の認識の限界は何か」という問いに答えようとした「認識論転回」。
ところがその近代の哲学は、主体である「私」の意識というものを基盤として「認識」を考えていったために、外界や他者をとらえきれず、独我論や不可知論に陥っていく。
そこで20世紀に入ってから「世界について語る」よりはむしろ、世界を表現する「適切な言語について語る」ことに主眼がおかれるようになります。

フレーゲやウィトゲンシュタインによって基礎づけられた流れは、「分析哲学」として英米を中心に展開していくわけですが、同様に「現象学」であっても、「構造主義」であっても、言語が中心的な課題のひとつであることは間違いなく、分析哲学対旧来の延長上にある形而上学、などという構図が描かれているわけではありません。

さまざまな潮流があっても、その区別はゆるやかなもので、相互に影響を及ぼしあっていく、という現状は変わらないだろうし、現在のさまざまな問題が、ひとつの立場、思想的枠組みで対処しうるものでない以上、多くの潮流が、それこそ大同団結するようなことは起こりえないのではないでしょうか。

いろいろ考えた割には(何冊か本も読んだんですが)、つまらない結論でごめんなさい。

この回答への補足

遠出から帰って感激しております。回答を諦めておりました。少し時間をかけて私なりに咀嚼した上でお礼を申し上げたいと思います。

補足日時:2004/07/21 21:44
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この回答へのお礼

私はなんとなく、カントからデリダなどへの流れは、「存在、現存在、実在、現象、構造(部分全体の)、差異、、」などの諸カテゴリーの使用に拘泥しそれぞれの多様化、精緻化、意味の認知化を追及している。一方の分析哲学の流れは、一貫して、カテゴリー使用を嫌悪・拒否し、言語そのものを「批判」(カントの謂いで。言語そのもののアプリオリ性?)的に追及している。私はなんとなくこんな捉え方をしその根拠を捜していました。今、ご回答に接し、私自身、「2項対立」という、1種の近代合理精神に掴まったままの状態にいることに気が付きました。要するに今は、ポストモダン故に(その反近代合理精神の出自ゆえに)、かつ、諸科学による知識レベルの高度化の故にこそ、諸哲学は相対化し現象化し、その意味で一元化しつつある。すなわち、諸哲学はその哲学としての存在意義を求めて、認知科学・脳科学(これらは実証を要し時間がかかる)の先取り的な競合状態にあるということのように思えます。面倒な質問にもかかわらずお時間を取らせてのご回答、ほんとうに有難うございました。

お礼日時:2004/07/23 17:22

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