まづ これは――哲学ですが――たとえを交じえての議論です。

(α) いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは 神が
人間となって 人間として――ということは人びとに決してその生前には 神である
ことが分かられずに 人間として――去っていくこと。だったのではないか。

☆ このひとつの答えをめぐって 以下に説明をつけますので ご見解をお寄せくだ
さい。



(β) ここで神というのは それをいま単純にこの(α)のごとく想定するというも
のです。 

(γ) この命題は まづ論理を問題にしていると言わねばなりません。
その意味は 別の見方をしりぞけるものではなく 受けつけないという意味でもない
ということです。
ほかの見方による批判を歓迎するのはむろんのこと またほかの見解そのものについ
ても 受けつけたいと思います。おそわりたいと思います。――その意味で (α)は
単純にそういう想定だということになると思います。




(δ) さて 《人間として》というのは たとえばイエスの弟子たちも 最後には
ペテロを初めとして全員イエスを裏切って逃げたという事態に現われます。あるいは 
はりつけになったイエスはその脇腹を槍で突くと 血が出たということ。そして実際
に 死を死んだということなどです。

(ε) 《人間として》でなければ――つまり もし神ならそこから降りて来いとロ
ーマ兵士たちにからかわれて 神として十字架上から降りて行き奇蹟を起こしたなら 
あぁ それは神だから出来る われわれ人間にはお呼びではないことだと見なされて 
話はおしまいになるということですが 人間としてでなければ―― わたしたち人間
の生活上の努力が 到底 最終の目的に達して完成することなど出来っこないとわた
したちが思ってしまう。あきらめてしまう。

重ねて述べれば キリストなる神として奇蹟を起こしたのなら 神だからそう出来る
のだ われわれ人間には到底無理だと思い何ごとにつけても人びとは あきらめてし
まう。

(ζ)  しかも 《神が肉となった人間として》でなければ――つまり神の子キリス
トがやって来たのではなく 単なる人間イエスとしてだけであったのでは―― 人に
見させる光は ただの人間の能力としての理性や知性や感性の光にとどまってしまう。
広い意味の芸術や科学の光だけになってしまう。

(η) 逆に言いかえると 神は 人間の《身と心》やその自然本性にそなわった能力
なのではなくまたそれを発揮した成果なのではないと人びとが知る必要があった。神
は 人間がこしらえたものではなく 非知であり非経験の場である。

(θ) 人間の能力としての啓蒙の光は 闇を照らすことは出来るかも知れないが こ
の闇を晴らすことは出来ない。闇を晴らす光を見たと言えるようには まだならない。

(ι) しかもこの《人間イエスかつ神キリストの物語》は 大いなる虚構である。闇
の中から闇を晴らす光を見させたなら 用済みである。大芝居を打った。それによって 
神をユダヤ民族だけのではなく普遍神として指し示した。普遍神と人間たるわれとの関
係 すなわち 信仰一般を わが心なる《非思考の庭》として現わした。

(κ) ところが 人びとの中には この世に闇はあってもらわなくては困ると説く人
がいる。闇を晴らしてもらっては困ると言う人がいる。のではないだろうか? 懐中電
灯――にんげんの科学と芸術――があれば充分という主張である。これについて どう
考えますか?

A 回答 (4件)

(alpha)の設定もしくは質問に、(beta)の設定。



神が神と知られずに、人間となって人間として死ぬ。

それはただの人の死である。

(delta)以降の貴方の疑問に対しても、人が死んだということであれば、問題がない。

そもそも、哲学と神学は違う事を理解して下さい。

神話的解釈を擁護??しながら、何を批判したいのか解りません。
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この回答へのお礼

それは あいにくでした。ほかをあたってください。



ご投稿をありがとう。

お礼日時:2016/03/30 09:22

言われてみれば・・・


理性なんて、心情が多分に影響する精神でしたね。理、は物理ばかりではありませんでした。

理性の働きに善し悪しの"判断力"がありますが、その"判断の基準"は人それぞれ。
その両極致に神を置き、また悪魔を置くと言えます。

ブラジュロンヌさんの捉える"神"はこの両者を包み込んでいるのです。
自然本性、という表現にそれを感じます。

自然本姓は非思考。思考の対象とはならない、訳ではない。
と、思います。

思考が紡ぎだした"非思考の庭"

非思考の庭=自然本性=創造主(善悪の無い)としての神。
この創造主から生まれ出でた生命・そして人間。
当然、自然の本姓として本来は善悪は無く、それは人間以外の動物に証明されていて、だからそう思えば善悪は人間の生産物。

途中のようだけど、疲れたからこれでお終い。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 理性の働きに善し悪しの"判断力"がありますが、その"判断の
基準"は人それぞれ。
★ 当然、自然の本姓として本来は善悪は無く、それは人間以外
の動物に証明されていて、だからそう思えば善悪は人間の生産物。
☆ つまり ちょっと違うんです。

ひとにとっての《自由――良心の自由・意志の自由・表現の自由
までを挙げておきましょうか――》は 無条件です。したがって
これを言いかえれば おっしゃるように《善悪》観は 《人それ
ぞれ》であり そのそれぞれの《人が勝手につくったもの》であ
る。条件を勝手につけようとしている。


しかも――それだけには終わらないのであって―― その自由の
自由度には 質・量ともに《よき自由とあしき自由》とがあると
推察されるように思われます。


自由度の《量》は 限界の問題ですね。《過ぎたるはなお及ばざ
る如し》と言います。《むさぼり過ぎ》という感じが おのづか
らその身とそして心に起きて来るはずです。

一人ひとりそれぞれですが それでも自由度の量に《限界》があ
る。


《質》は どうか? これが ヤマシサ反応です。
自分をであれ他人をであれ 死なせるということ これはそのこ
とを想像するだけで 心は動揺します。ころすことは やばいこ
とだ。

しかも そのやましいと感じるのは 自分の意志や努力でそう感
じようとして感じるのではない。おのづからである。

その限りで 個人差が仮りにあったとしても 万人にあてはまる
ヤマシサ反応である。つまりは 自由度の質にも よき筋とあし
き筋とがある。


この《良し悪し》によって だいたい――その人びとに共通の中
身を取り上げてそれにもとづき――共同の主観が決まって来る。
常識です。

《ころすことは よくない》と決まる。自由ではないと。
《ほかの人の意志や心を踏みにじるのは よいことではない》と。

まだ神を持ち出さなくても この《自由》論は成り立つと思いま
す。

お礼日時:2016/03/25 22:51

★一つ目と、二つ目に付いて。


善悪は理的ではない、と“してみました”。
“理的”とは物理的な活動の事と思うから。

“感覚”は、物理的なもの(覚?)と情的なもの(感?)があると思います。

“感”は自由。それゆえに起きる“道草・寄り道”。
“感”に働く、意志行為には“向き”がある。

向き、には中心がある。
左右か上下か、大小か増減か、美醜か喜怒か、などなど。
比較とも言える。

☆ 普遍的な明暗。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

山分けではないという《物理的なこと》について 感覚的にも理性的にも
善悪を問うことになるのでは?


★ “感”は自由。それゆえに起きる“道草・寄り道”。
“感”に働く、意志行為には“向き”がある。
☆ 意志行為は 向きをもったチカラであり ヱクトルでしょうね。

《自由》には 《自由度》の問題として 量および質の違いがあるのでは?
特に 気持ちや心(理性をともなっていると思われる)にとって ヤバイと
感じる自由度がある。かと。



★ 向き、には中心がある。
左右か上下か、大小か増減か、美醜か喜怒か、などなど。
比較とも言える。
☆ これは いろんな要因があるように思います。

情況じたいがどうであるか。
相手はどういう人か。あるいは その人とわれとの関係。
向きをもって 何をしようとしているのか。
何を 倫理的に(良し悪しとして)どう捉えているか。
相手が・そして世間が それをどう捉えているか。

★☆ 普遍的な明暗。
☆ の観点から どうか。

お礼日時:2016/03/25 19:41

根本、大本(おおもと)から生み出されたのが“我々”。


神を創造主、とするならば我々は神の子。

神の心が我々の心。
勘違い、疑問、が起きるのは神の心を「善・良きこと」とするから。
本質に善・悪は無く、したがって神の心には人の思うところの善も・悪も備わる、と言える。

神の創造した宇宙の“現象”は理的。
理的、とは“動・変化”の規則性の事。

理体とは別に、働き得る“情”は生命(人)の“感覚”から生じる。
その感覚がなぜ善悪を作り出すのか。

それは“流れ・方向性”のチカラに依る。
流れ、の方向は生産・成長・発展。

この“流れ・勢い”が人間の心に“善”という“意”を生む。
その理由は“流れに沿っている”から。

言い換えると“逆らわない”事が人間の心に“良し”という感覚を生む。

☆ 非思考の庭を見れば分かります。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 神の創造した宇宙の“現象”は理的。
理的、とは“動・変化”の規則性の事。
☆ たとえば 彗星が地球にぶつかったとしたとき その現象も
《理的》ですか?

★ 理体とは別に、働き得る“情”は生命(人)の“感覚”から生じる。
その感覚がなぜ善悪を作り出すのか。
☆ 善悪は 《理的》ではないのですか?

★ それは“流れ・方向性”のチカラに依る。
流れ、の方向は生産・成長・発展。
☆ たとえば 狩りを終えて家路をだどるとき ふと 寄り道をし
ようかと思う。道草を食おうかという思いがよぎる。

目の前につづく道をふと逸れて横へ体を寄せた。
というかのように おのれの気持ちを切り替えることが起きた。こ
の意志行為の自由の味をおぼえた。

きょうの獲物はおいしいので 独り占めしようとか。仲間には 少
なめに申告して 自分の子どものために余分に隠して取っておこう
とか。

このウソを発明したとき 良し悪しの判断をするようになった。か。

なぜなら そのとき心がやばかったから。

闇はなくならなくても それがつねに明るみに出され しかも晴ら
されることが起きる。というのは 普遍的なことか?

お礼日時:2016/03/25 16:09

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