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中国史で、秦の孝公が商鞅の提言を取り入れた移木の信という話があります。

「市の南門に立てた木を
北門に移した者には賞金を与える」と告げ、実際に移したものに約束通りの賞金を与えました。

この商鞅はどうやってこのようなアイディア・思想を得たのでしょうか?

法家思想の源流に関する質問です。

A 回答 (2件)

法家を法治思想、法治主義と現代風に思い込んでしまわないで、「商鞅は、中国戦国時代の秦国の政治家・将軍・法家・兵家」と考えると、組織統括・軍令が徹底する体制・異義や逡巡で効率を落とさない仕組みは重要と考えるのは、《ごく普通に発想されること》と思えるのではないでしょうか。

商鞅だけがそうした発想をしたとか、商鞅がある経験や先人の教えからヒントを得たというものとは思えません。
商鞅が生きていた時代は、小国が勢力争いしていた戦国時代で、まだ農業生産が重要な時代であったにも関わらず、生産力の向上の結果商業流通で小規模ではあっても農業生産以外に活躍の場を求める人々や、日々の生活に汲々とせずに学問論争や徳や正義を論じるヒトも増えている時代です。 そうした時代背景で、効率的な支配体制と富国強兵を強く求めるなら、時代の流れを大改革する必要があったのでしょう。 その大改革は、宗族血縁集団の絆を切り、一家に二人以上の男子がいれば必ず分家しなければならない決まりをつくる、父子兄弟が一つの家に住むことを禁じる、自作農の増加させ戸数を増やして税収を増大させる、戸籍を設けを五戸十戸で一組に分け互いに監視告発する事を義務付けもし罪を犯した者がいて訴え出ない場合は連座させて罰する、命令で戦争し功績を挙げたものに爵位で報いる、商業をする者怠けて貧乏になった者は奴隷の身分に落とす、等々多彩です。 http://shutou.hatenablog.com/entry/2015/10/14/21 …

いくら政策を提言しても採用されなければ話にならない。採用されても議論を許したら実行が危うい。王・君主が命じても最優先で徹底されすぐに実行されなくては効果が得られない。 そういうことを考えれば、《王が言えば、白鷺も黒い》《王の命令、法は絶対である》ということを(誰にでも)知らしめる必要があるのでしょう。
太子の嬴駟の後見役である公子虔を《法を破ったと鼻削ぎの刑に》処し、教育係の公孫賈を《法を破ったと黥刑》に処し、太子侍従の祝懽を《法を破ったと死刑》処し、どうみても価値や意義のなさそうなことに多額の褒賞を与える布告を発し《布告に従った者に布告どおり》褒賞を出というのは、王命・布告による絶対支配権・絶対服従の体制を作ることに大きく寄与したでしょう。

人徳、徳政、血縁、出自、慣例、昔からのしきたりを拒否すること、理論的あるいは経験論的批判や検討を排除するということ、商業や市場経済、智慧や技量を重視することに繋がりかねない手工業の抑圧することなどが、この当時の小国の富国強兵では大事だったのでしょう。
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法家の祖は春秋最初の覇とされる斉公(小白)の重臣、管仲(夷吾)とされています。

例えば士農工商を定めたのは管仲です、しかし管仲も法が一人歩きする事を恐れ、腫れ物に触る様に用いたと言われています。なお法家にしか法は無かったかと言うとそんな事はなく、例えば次の覇者晋の文公(重耳)に仕え一時秦に亡命した笵武子(士会)は秦の重臣から晋の法を訊かれ、秦の法は無きが如しと愕然とする事態。士会の父は晋の法を編纂した功績があったのですから、成文法はあったのです。では法家がなぜ法家であったのか,それは斉の首都りんしのしょく門にあった諸子百家との論争の裡に次第に成熟し先鋭化し、自己整合していったと思われます。衛の公孫鞅・商鞅はその完成者の一人であったと考えられます。単なる説客であった公孫鞅がどれ程雄弁であったかは後世の伝説が多く、分かりませんが、春秋が終わり戦国になるにもかかわらず、#1のお答えにある様に、士会があきれた様な大家族制で一体誰の子が誰か分からない程ひどかった様です。これでは徴税も徴兵も効率が悪すぎいつまで経っても秦は中進国、孝公の悩みは大きく劇薬の使用を決断させたと思われます。これにより秦は中華一の強国となりましたが、あまりにも厳密な運用のため、自壊してしまったと思われます。ただこのとき集められた情報は楚漢戦争後漢が中華を治める基本として働いたことも確かです。
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