プロが教えるわが家の防犯対策術!

1. 《自己中心的》について 次の辞書は 四つの要素を挙げている。

▲ (Weblio辞書 類語辞典:自己中心的) ~~~~~
http://thesaurus.weblio.jp/content/%E8%87%AA%E5% …
① 他人のことを気に掛けず、自分のことしか考えていないさま
② 人が他人のことを考えずに行動をするさま 他人の迷惑を考えない
③ 他人の都合を考えず、自らの利益のみを考えているさま
④ 自分の都合のいいように物事を行おうとするさま
~~~~~~~~~~~~~~~~~

2. ①について:けれども 人はふつう《自分のこと》から考えるのである。仮りにそ
のとき《他人のことを気に掛けない》としても そのような《自分のことのみの事柄》を
自己表現し相手に話しかけ問いかければ 問題はない。相手は いやならイヤだとこたえ
ればよいだけだから。

3. ②: 他人のことを気に掛けないだけではなく《他人に迷惑のかかるということを
考慮に入れない》のは どうか? 
だけれども 一方で相手は そのことを問いかけられたときイヤだと言えば済む。他方で
は 《他人の都合を前もって考慮する》というのは そのことによって《自己の都合をよ
り一層確実に実現させたい》というに過ぎないのではないか?

4. もし前項でいわゆる《利他》という行き方があるとした場合 しかしながら その
内容としての《他人の都合がよいように〔のみ〕ものごとを取り計らう》ことは 《それ
としての自己の都合であり さらには自己の利益ないし満足を計っていることがある》と
いうことではないのか?

4-1. NPOは 営利団体の上げる利益からその活動資金を得ている。または 完全
に自己の持ち出しのボランティアであるとすれば そのような利他志向としての自己中心
的な自己表現である。

4-2. ちなみに 自己顕示欲に発しない自己表現はあるか? ボランティアは 明ら
かに自己満足だけではないのだから むしろわが自己顕示欲の現われであると言えば済む。
わが利他という我欲のひけらかしであると。

5. ③および④: すでに考察した。と言えるはずだ。

6. ひとの自己表現はすべて 《甘え》という内容を持つ。のではないか? 甘えちゃ
いかんという自己表現は その人のアマエではないのか?

6-1. わづかに・そしていわゆる実害としては《良し悪し》の問題がからむ場合であ
るとは思われます。けれども まづはそれ以前の――倫理以前の――基礎である哲学とし
ての問題です。

6-2. つまりすべての自己表現はアマエであるとき 《相手の意志や心を踏みにじる
ような意志行為〔たる自己表現〕》は 悪しき行為として有効ではないと共同主観される。
無効の行為は 原状復帰がもとめられる。

6-3. このような倫理的判断をほどこした《よくない行為》のみに《自己チューない
しアマエ》というレッテルを貼るのは いかがなものか? 哲学として独り善がりなので
はないか。

7. 基本の哲学としては 広くおのれのアマエをどう表現するかであり それをどう受
け留めるかなのではないか?

8. われらはすべからく自由で粘り強い話し合いを持ち これをおこない続けるという
こと。これに尽きるのではないか? 

9. この話し合いを避けここから逃げる《逃避》志向が アマエや自己チューや自己顕
示欲や認識の浅さやあるいは無知を弾劾している場合――そういう《お花畑》志向――が
あまりにも多いのではないだろうか。

質問者からの補足コメント

  • HAPPY

    №3への補足です。

    世の中には 洗練された《自己チュー・アマエ人間》とそして未熟な《自己チュー・
    アマエ人間》とがいる。

    こういう問題ですよね? これだけのことですよね?

    No.3の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/05/04 14:59
  • HAPPY

    №8へのおぎないです。

    お礼欄で ご回答 ありがとうございーーというスペースがなくなりました。

    そして とうとう神を持ち出してしまいました。

    でも 気分は HAPPY にしときます。

    No.8の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/05/05 13:52

A 回答 (10件)

辞書の説明は一般論である、として受け止めていいと思うのですが、ブラジュロンヌさんは特殊論(一般論からさらに踏み込んだ論)に入り込んで、なにをしようとしているんでしょう。


一般論の否定が目的ですか。それとも肯定はするけれども分析が《甘すぎる》との思いなのでしょうか。一般論から外れるわけではないが、と。

「極限状態」での人の心理にある“甘え心”に付いてはどう考えますか。

「社会」に踏み出して、そこでのエチケットに反しない言動の底にあるのも“自己チュウ”の心理なんだ。
だから、“自己チュウ・自己チュウ”と云って批判する者もみんな“自己チュウ”なんだ。それでも「お前は批判する気か」と、云いたいんでしょうか。

一般論を特殊論が攻撃している、と云う図式?
洗練と未熟、に繋がると思うのですが。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

1. 赤子が母親の胸に抱かれて甘える姿 これは措いておきましょう。
(大人になってもつながっているとは考えるのですが)。

2. わたしが家族のほかの見知らない人と もし話をしようとしたら
どうするか? 

3. もちろん他人に接して行くには いろんな仕方があります。問題
は そのときの心の動きです。

4. 最初のと言いますか 話しかけるときの心の有りさま これがど
うなっているか?

5. 《① わたしの話を聞いて欲しい / ② おだやかに話がしたい /
③ あなたがどういう人なのかを知りたい / ④ 出来ればわたしの言い
分を聞いて欲しい ⑤ 聞いてくれてわたしの思うようになれたらうれ
しい》。

6. ここで ⑤が一般に通念として甘えだと言われる要素ではないか?
それは 見方が狭い。

7. つまり ④の《おのが言い分を分かって欲しい》という要素は
いまの⑤のおねだりと一緒にすると やはりマイナスイメージの甘えに
なるけれど 考えてみれば誰だってふつうに自分の言い分がみんなの間
に通ることを願っている。

8. つまり ⑤は特殊だが ④まではすでに一般である。通念を変え
るべきである。

9. 広義の甘えは―― 一般理論的に――①から⑤までをふくむ。
⑤の甘えが 一般通念として狭義の甘えである。



10. ④の《わが言い分》というのは 《わたし〔の理性や経験知〕》
を物指しとして世界を測り認識した結果かたちづくったおのが見解であ
る。

11. これは 良し悪しを別として《他者の見解を受け留め自己のも
のとしている場合であっても 自己を中心とした・ものごとの判断であ
る》。

12. だからいまの④《わが言い分》というのは 誰もがそれぞれ自
己を中心として考え得たその判断を相手にうったえるということである。

13. すなわち 思考・判断そして意志表示としての主張 すべてに
わたって――価値判断を抜きにして言って―― 《自己チュー》である。

14. 自己チューや甘えそれぞれに ただし 未熟なままと洗練され
たものとがある。

15. 以上は 人間についての一般理論であると言ってよい。のでは
ないか。

16. よって:
☆☆ 自己チューでなくアマエでない自己表現はあるか?
☆ 《無い》とこたえる。

お礼日時:2016/05/05 11:37

№7の回答は一般と特殊、客観と主観、の《その境界》にまたがっているように思います。



ちなみに客観と主観は一般的な(辞書の説明に依る)解釈を“境界”の根拠としました。
また、主観は一般的解釈はもとより特殊的解釈も甘えの要素有り、としました。
そして、客観に付いては一般(辞書の説明に沿った)としては甘えには当たらない、としました。
特殊的に扱かうといった場合の“客観”には甘えの要素はあると認める、と云う事です。

境界を設けないと、一般的(辞書に依ったところの)“客観”に意味がなくなるからです。
“客観”と云う言葉の使われ方、という問題に事は発展してしまうのではないでしょうか。

☆ 穏やかな湖水の水面は、光り輝く月がくっきりと浮かび上がって、とてもきれいです。

あまり引っ掻き回さないでください。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ~~~~~~~~~~~~
 ☆ 穏やかな湖水の水面は、光り輝く月がくっきりと浮かび上がって、
とてもきれいです。

あまり引っ掻き回さないでください。
~~~~~~~~~~~~
☆ これはですね。《甘え》についての常識を 《相手が嫌だと言って
もどうしても言うことを聞かないで おねだりを引っ込めず〈甘え〉つ
づける》という狭い範囲のことに限定しているわけです。

そうではなく 甘えは広い範囲でおこなわれている。
なぜなら 見知らぬ人に声を掛け何かを頼むとするなら 何らかの甘え
(依存や信頼や仲間意識)が発動しているから。

でありまた そもそも社会は全体として分業し協業しているからには 
クルマ一つを取ってもその部品の製造から製品を利用するに到るまでど
の段階についても互いに身をゆだねざるを得ないほどに信頼し合い依存
し合っている。つまり知らず知らずの内にも 甘えが発動されている。

このように広い範囲にわたって《甘え》は おのおのの主観において発
揮されている。必ず発動している。


それなのに先ほどの常識というのは 狭い範囲の甘えだけに限定してし
まっている。つまりそういう取り扱い方をしたことによって《湖面を穏
やかな状態に保っている》。

いやいや もともとはそうぢゃないんだよと言うのが わたしめです。
そういう意味で《引っ掻き回して》います。
だって 積み残しがあるんですから。


《甘え》という言葉についてすでに常識としてまたナラハシとして大き
なマイナス・イメージを人びとは持つに到っている。だから いまさら
実際には甘えは みんなが日常茶飯事としておこなっているんだよと言
われても みとめたくない。

こういう事情です。

甘えは 主観の問題です。おのおの主観がみとめれば それで済むこと
です。
きわめて単純な話ながら 常識の線からすると死角になっていたという
ような問題ではないでしょうか。

お礼日時:2016/05/06 22:20

今、私たちがしてきた行為は言ってみれば「沢登り」


同じルートを一緒にだったのか、違ったルートをだったのか、分かりませんが兎に角、どうにか、なんとなく、《源泉》にたどり着き、そこで出会ったような感じではあります。

『神を出しちゃった』
ほかに行き場がないから?
いや、我々の住む世界全体が“神の場”だから。

源泉から湧き出でて、そこから始まる。船出。その船にいやおうもなく乗せられた神の子等は、あたたかな“母の胸”から無常なる空間へと放り出された。そこはいわゆる俗世間と云う荒波立つ空間だ。そこで必要になるのが生きる力。生きようという力強い意志を持った者は、この困難を乗り越えて与えられた命を全うする。

神は試された。
尊厳、とも評価される大切な命を、懸命に生かそうという気持ちは有るのかと。
その気・気合、を入れるためにこの世に敢えて荒波を起こす。
必死の心、を育てるためだ。

そして困難を乗り越えて進む船の向かう処は、大海。
大いなる母の胸に帰る。
帰趣。

源泉は大海、大いなる甘え心の古里、なんだろうか。
美しさに打たれると、アクガレの心に気付く。

☆ 甘え、に付いて一般と特殊とを使い分けるために、定義を定めましょう。
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この回答へのお礼

わいわいえいとさん いつから牧師になったんですか。

弁栄師ぶしですか。

☆ 甘え、に付いて一般と特殊とを使い分けるために、定義を定め
ましょう。
★ もう少しもったいぶりましょうか。

いや すでに《結論》の中で触れているとも思うんですが。

あくがれの質問には あなたも参加してますよ。

まづはご回答をありがとうございます。

甘えは ひとつの最後の締めが出来れば・・・と思っています。
(どうなるか分かりませんが)。

《特異点》の分かる人は いませんか?

お礼日時:2016/05/05 21:05

やっと、ブラジュロンヌさんの“結論”を導き出すことが出来ました。


そこでさらに追及です。問い求めます(この表現はブラジュロンヌさんの表現を流用したものです)
嗚呼、問う人と答える人との逆転現象、が起きちゃってますが・・・

まだその奥に、甘え心が発生する源泉があるはずです。
それは“ヒラメキ”が生じるところの“源(みなもと)”と同じかと推測します。

人が甘え心と感じるその源泉は同じだ、と思えば“甘え心”に代わる表現があるようにも思いますが、ブラジュロンヌさんの微に入り細にわたる感性をもってすれば、これに付いても答えられるのではないかと思います。

甘え心、に代わる表現はありますか。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

○ あこがれ または きよらかなおそれ
☆ どちらにも《甘えの素》が含まれていると思います。

【Q:うつくしさに打たれたきみは だれになるのか?
――《あくがれ》の理論――】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9145860.html

☆☆ 《あくがれ》の理論 ――有限なる人間と無限なる真理(美)との
接点についての定理をもとめて――

8. あこがれ(憧れ)の語の原義:《わたしの居るべき所から――あた
かもたましいがふらふらとさまようかのごとく――離れる》こと(大野晋)。

9. あこがれ < あくがれ < あく(場)‐かれ(離れ)

10. アクとは 《思わく》や《老いらく》の末尾に使われている -aku
である。
 
11. ちなみにインドネシア語などで aku とは《わたし》のことである。

12. 日本語学で アクは 《( a )場・( b )事》の意とされる。

13. アクは ( a )《ワレが 世界の内にあるそのバ》のことであり
    また ( b )《この世界における経験法則などのコト》である。

14. その《アクを離れる》とは どういうことか?

   ( a )《このうつせみのワレからの離脱》・《脱自》。
       ――《ケ(日常)‐カレ(離れ)》( * )を参照。

   ( b )《有無や善悪や因果法則から自由な場に立つこと》。
       ――《特異点》を参照。

    * ~~~~~~~~
     ただし ケカレには

      日常の元気から離れて《ケガレ(穢れ・汚れ)》と呼ばれる
       場合と 
      日常の習慣から離れる非日常性なる《ハレ(晴れ)》と

     のふたつの場合がある。
     ~~~~~~~~~

15. ケガレがもし《善悪の彼岸》を意味しうるハレとして むしろ《聖
なるもの》と呼ばれるとすれば まさにアクガレはその意味で 真理で無限
なる神との接点を成す。
《特異点》もおなじくそのようであろうか。(だれかくわしい人おせーて!)。

16. アクガレの素は 秘密兵器として アートマン(霊我)やブッダタ
ー(仏性)とも あるいはルーアハ;プシュケー;アニマ;スピリトゥス(=
息・息吹き・風:神の霊)とも呼ばれる。
~~~
☆ 神を出しちゃった。

お礼日時:2016/05/05 13:38

投稿して暫くしたら急に心配になったので、おことわりです。


最後の投げ掛けの一文は決してぶらじゅろんぬさんにではないのです。
私はぶらじゅろんぬさんのことを「お前」なんて言いませんから。
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この回答へのお礼

お互い小心者ですね。

そこでの応答は かなりうまく行ったと思うんですがねぇ。

ご回答をありがとうございます。

G_Rさん にゅうとらりんぐさんが ここはまだですね。

ぷしゅてくす氏にわたしは どこか他のところでわるいこと
でも言ったのかなぁ。

お礼日時:2016/05/04 18:04

人間のやること、為すこと、凡てその行為の、根底には「甘え心」が潜んでいる。

凡て言動の発端は「甘え心」からなんだ。

という論理を当てて考えてみました。
人間は動物だ。猿も犬も蜥蜴も亀も、みんな、みんな動物だ。
人間はよく食べる。日に三度は食べる。猿も食べる。犬も日に二回は食べる。
カエルもだ。
もっともカエルは時たま涼しい顔をしていて、それを見るたびに僕なんぞ“哲学してるなあ”と感心するんだけれど。

生物の生きるために食べる、と言う姿を見ているとみんな空きっ腹なんだなあと、気がついた。
そうか生物の生きようというエネルギーの根底に潜むもの、それは「空きっ腹」だったんだ。

おい、お前、そんなにがむしゃらに働くなよ。「空きっ腹」が見え見えじゃないか。
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この回答へのお礼

そして空きっ腹を満たすには 仲間との協力が必要。自給自足の生活で
ない限りは。

だとしたら 他人(ひと)に対して声をかけるとき けっきょくまづ互
いに気の置けない仲間になることをのぞむ。

相手に話しかけるとき ひとは当然のごとく《自分の話を聞いて欲しい》
と思ってのことである。

甘えるという言葉には さらに《自分の言い分を聞いてくれ。受け容れ
てくれ》といった手放しの《虫のよさ》が伴なわれているようです。

しかしそうだとしても 誰もが話を聞いて欲しいと願うのだしそれは 
自分の思うように世の中が成れと思ってのことである。

《虫のよさ》をうまく洗練させた表現とそのときのアプローチにおいて
うったえた場合には 必ずしも甘えているとは言われない場合がある。
という奥の手があるだけではないだろうか。



まれには 《利他》なる思想を説く場合があります。
でも まったくの《無私》であるとしてもその無私になって利他のおこ
ないを行なうのは その人でありその《わたし》であるよりほかにない。

つまり その人の《わたし》の思想や価値観で――つまりは 自己なる
知性を中心として世の中を判断した結果において――考え・振る舞って
いる。

しかもその利他なるおのれの思想を 互いに生活を依存しあう世の中に
受け容れて欲しいという大きくアマエのもとに生きている。


★ 人間のやること、為すこと、凡てその行為の、根底には「甘え心」
が潜んでいる。凡て言動の発端は「甘え心」からなんだ。
☆ と思うんだけどなぁ。


ご回答をありがとうございます。


こういう問い求めの道筋だよね。と添えるのは №4へのあてつけです。

これだって 失敗作をも乗り越えて しかもみんなとの対話をとおして
たどりついたところなんだから。


☆ 《雑談》だって それゆえ何か鍵となる考えを得ることもあるのだ
し。
◆ 3.甘えでない自己顕示とは、自分を高めるための研鑽目的であり、
反論して自己の正しさを主張する必要はない。
☆ と言ったって すべて《研鑚》し合ってますよね。

《自己の見解》については まづその正しさ(妥当性)を信じて自己表
現するのだし 疑問が起きたらなお《反論》して納得の行くように問い
求める――なんてことは 当たり前だと思うんだけど どうしてその人
は頭に来たんだろう?

お礼日時:2016/05/04 18:00

1.まず、その表現の場のルールを守る。


  QAサイトであれば、アンサーでの自己の考えの提示は可
  だが、質問での自説の提起は不可。
 (投稿ガイドラインの「質問ではない質問」参照のこと。
 「 個人的なメッセージ、雑談、ご自身の意見を表明することを
  目的とした内容、議論喚起を目的として議題を掲げる内容」は禁止)

2.回答に対する反論も禁止事項。補足は、質問が不完全だった
  場合のものであり、新たな疑問が湧いたのなら新たな質問と
  して投稿すべき。

3.甘えでない自己顕示とは、自分を高めるための研鑽目的であり、
  反論して自己の正しさを主張する必要はない。(無用な回答は
  無視するのがQAサイトの決まり)
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この回答へのお礼

通報することをおすすめします。

お礼日時:2016/05/04 15:50

客観、に付いては再考(出直し)して見ます。



ぶらじゅろんぬさんは「甘え」論議に終止符を打つ気が無いような?

皮肉る気持ちは無いけれど、
これ迄の理屈の印象を、
例えてみれば次のよう、

炊いたお米に麦を入れ、
ぺったんペッタン餅をつき、
出来上がった餅見れば、
お米も麦もみんな餅、

みんなみんな「甘え」だね!

と、まあ、こんな感じにしか受け止められないのは私のアタマのせいであって、でも至極真面目に考えているんです。
まだ諦め切れません。

ぶらじゅろんぬさん、結論はまだですか?
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

★ ぶらじゅろんぬさん、結論はまだですか?
☆ いやいや 問い求めをまじめにおこなっているだけです。

ご回答をありがとうございます。

前回の次のくだりは 我れながらうまく一まとめになっていると思い
ますよ。
☆☆(№2お礼欄) ~~~~~~~~~
たとえば《縁起共生》がもし客観理論だとしたら?

つまり ものごとは因果関係が社会構造的に錯綜していて 相互依存
の関係にある。
――と理論づけた場合 その相互依存というのは アマエであるはず
です。

そこには《① 他人のことを気に掛けず、自分のことしか考えていな
い》場合があり得ます。


というよりも 《他人のことを気に掛ける》なら 自己中心的な振る
舞いではなくなるのか? という問題がつねにあります。


ひとは 他人のことをも気に掛けつつ・しかも最終的には自己の理解
と判断にもとづき(つまり 自己を中心として形成した世界観なる物
指しを当てはめ) 考え行動する。しかないのではないか。

これ 自己チューです。どこから見ても。

しかも世の中は相互依存的な関係構造となっているなら その依存関
係ないし分業=協業なる助けあい関係に身をゆだねざるを得ない。

製造者の品質管理や安全性の確保に 通常は 身を任せている。

依存せざるを得ない信頼関係ですね。

つまり 互いにそれぞれが大きく広くアマエにおいて生活している。
その上で自己表現がおこなわれるのである。

☆☆ 自己チューでなくアマエでない自己表現はあるか?
~~~~~~~~~~~~~~

ですから:
★ ~~~~~~~~~
炊いたお米に麦を入れ、
ぺったんペッタン餅をつき、
出来上がった餅見れば、
お米も麦もみんな餅、

みんなみんな「甘え」だね!
~~~~~~~~~~~
☆ 白米の中に麦が交じっていたら 目立ちます。

ひとの自己表現はみな自己チューでアマエとして成り立っていると
しても その中ではまともで立派に振る舞う人柄が際立って見えて
いる。

言いかえると まじめな《自己チューなるアマエ》も中にはいると
いうのが 世の中だということになります。

穀物に貴賤はない。
アマエを発動しつつ自己チューなる判断のもとに意志行為をおこな
うのは みんなみんな一緒ですよ。

お礼日時:2016/05/04 14:08

「甘え」議論にピリオドを打つ為に。


“定義”を考えました。

『主観に依る言動に共通性のある心理は「甘え」心。
客観に依る思索からの言動に「甘え」心は潜まない。』

定義文、としては今一感があるので知者である皆様の修正案が欲しい所ですが、これでも私の言わんとする所は分かって貰えるのではないかと思い、投稿することにしました。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

物言いをぶつけてまいります。

疑問1.《共通性》とは何か?

★ 主観に依る言動に共通性のある心理は「甘え」心。
☆ ということですけれど 次の場合には アマエ(自己チュー)だ
と言われていますが 他人とのあいだに《共通性》はないですよ。:

☆☆(趣旨説明欄) ① 他人のことを気に掛けず、自分のことしか
考えていないさま

しかるに:
☆☆3. ・・・《他人の都合を前もって考慮する》
☆ 場合には 《共通性》があります。でもアマエだとは見られてい
ない。


疑問2.《客観による思索からの言動》とは?
★ 客観
☆ は無理です。自然科学だって いくらかの相い反する仮説があら
そわれています。

定説が客観か? 自然科学で仮りにそうだと成ったとしても 人文や
社会の問題で 客観を持つのは無理だと思います。

あるいは・たとえば《縁起共生》がもし客観理論だとしたら?

つまり ものごとは因果関係が社会構造的に錯綜していて 相互依存
の関係にある。
――と理論づけた場合 その相互依存というのは アマエであるはず
です。
そこには《① 他人のことを気に掛けず、自分のことしか考えていな
い》場合があり得ます。


というよりも 《他人のことを気に掛ける》なら 自己中心的な振る
舞いではなくなるのか? という問題がつねにあります。


ひとは 他人のことをも気に掛けつつ・しかも最終的には自己の理解
と判断にもとづき(つまり 自己を中心として形成した世界観なる物
指しを当てはめ) 考え行動する。しかないのではないか。

これ 自己チューです。どこから見ても。

しかも世の中は相互依存的な関係構造となっているなら その依存関
係ないし分業=協業なる助けあい関係に身をゆだねざるを得ない。
製造者の品質管理や安全性の確保に 通常は 身を任せている。

依存せざるを得ない信頼関係ですね。

つまり 互いにそれぞれが大きく広くアマエにおいて生活している。
その上で自己表現がおこなわれるのである。

☆☆ 自己チューでなくアマエでない自己表現はあるか?

お礼日時:2016/05/04 09:40

何を質問したいのだろうか。


ちょっと我儘ではないかな。
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この回答へのお礼

ずいぶんと我がままな回答ですよね。
と言ってもお分かりにならないのでしょうね。

お互いさまですよ。

読んでくれて ありがとう。
ご投稿をありがとうございます。

お礼日時:2016/05/03 12:30

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