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父・子・聖霊の三位一体の神において、神のひとり子であるイエス・キリストと天の父との関係は、父と御子(ひとり子)との関係(ヨハネの福音書3層16節)がありますが、天の父と聖霊(御霊)、イエス・キリストと聖霊の関係については、人格的には如何なる関係なのでしょうか。
 天の父と信仰者は、父と神の子どもとの関係ですし、イエス様とは、長兄(長子)と兄弟との関係(ローマ人への手紙8章29節)ですが、天の父と聖霊、およびイエス・キリストと聖霊(御霊)との父系的関係については聖書が特に何も述べていません。しかし、「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」(新改訳聖書/ヨハネの手紙第1/4章9節)及び、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書3章16節)御言葉は「ひとり子」を与えられた父なる神の愛に焦点が合わされて記されていますが、それでは、イエス・キリストの昇天後、五旬節から現在に至るまで、父と御子とから信仰者に助け主として送られる、父でもなく父のひとり子でもない人格を持たれた聖霊は、父と御子と一体どのような関係の方なのだろうかという疑問が出てきます。
 ご存知の方がおられたら教えてください。

質問者からの補足コメント

  • うーん・・・

    長いご返信ありがとうございます。
    しかし、私の質問は、父なる神と聖霊、神の御子キリストと聖霊との人格的関係が如何なるかが内容です。申し訳ありませんが、答えにはなっていません。また、聖書には「本来イエスは地上で聖婚し子孫を残さなければならなかった。」と言われる根拠は記されていませんし、キリストが地上で結婚しなければならなかったという概念は,私はキリスト教徒では異端とされる、統一教会の教えのように理解しています。

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/05/14 13:25
  • うーん・・・

    bragellone様、長い、ご返信ありがとうございました。
    しかし、残念ながら、わたくしの質問の答えとは違うようです。
    聖書には、「スサノヲ市民」や「アマテラス公民」という概念も教えもありません。
    聖書をよく読まれて、健全なプロテスタント信仰をお持ちの方に、ご回答をいただければ感謝です。

      補足日時:2016/05/14 13:36

A 回答 (5件)

高校生の時カトリックの洗礼を受け、現在60代前半の男性です。


「三位一体」は、神の3つのペルソナ(「位格」)である「父」と「子」(キリスト)と「聖霊」が一つの神の3つの側面を表すことを説明したもので、正教会・東方諸教会・カトリック教会・聖公会・プロテスタントといったキリスト教の大半の教派が共有している概念ですね。

まさに本日(2016年5月15日)、カトリック教会では「聖霊降臨の主日」を祝い、「聖霊」について神父様の説教を聞き、典礼聖歌集352番の「聖霊の続唱」を歌いました。

この「聖霊」というのは、「父」や「子」と違い、「顔」を持った人間ではなく「霊」なので、人格的にイメージを浮かべにくいですね。 聖書では、「炎」、「鳩」、「風」、「息吹」などで象徴的に表わされていますが、前記の「聖霊の続唱」の歌詞には、「聖霊」はどんな方かを説明する以下のような修飾句が綴られています。
1. 貧しい人の父、心の光、証(あかし)の力を注ぐ方。
2.やさしい心の友、さわやかな憩い、ゆるぐことのないよりどころ。
3.苦しむ時の励まし、暑さの安らい、憂いの時の慰め。
4.恵み溢れる光、信じる者の心を満たす光。
5.あなたの助けがなければ、すべてははかなく消えてゆき、だれも清く生きてはゆけない。
6.汚れたものを清め、すさみをうるおし、受けた痛手をいやす方。
7.固い心を和らげ、冷たさを温め、乱れた心を正す方。
8.あなたのことばを信じてより頼む者に、尊い力を授ける方。

それでは、お待たせしましたが、「父」と「聖霊」或いは「子」と「聖霊」の関係はどうなっているのでしょうか?
2010年、前教皇ベネディクト16世によってまとめられた「カトリック教会のカテキズム要約」から見ていくことにしましょう。(以下数字は同書の項目番号、一部短文化)
42 神(この場合は「父」を指すと思われる)は、御子と聖霊を遣わして、ご自分が愛の永遠の交わりであることを啓示する。
47 聖霊は「父のもとから出る」(ヨハネ15・26)方です。御父は、本源のない本源として、三位一体のいのち全体の本源だからです。聖霊はまた、御父が御子に与える永遠のたまものによって、御子から発出する方です。聖霊は、御父と受肉した御子から遣わされ、教会を導いて「真理をことごとく悟らせ」(ヨハネ16・13)ます。
48 三位のペルソナは、それぞれが他の二位のペルソナとの間に持つ関係によって、互いに、そして実際に区別された存在です。御父は御子を生み、御子は御父より生まれ、聖霊は御父と御子から発出します。

ここまで見ると、父⇒子⇒聖霊という順で、神が作られたようなイメージも持ちますが、勿論その間には、人間の考えるような時間の前後はないのだと思います。(現に、おとめマリアの体内にキリスト(「子」)が宿ったのは、「聖霊」の働きによってですから、「子」が「聖霊」より先と言う訳ではありません)
唯、話の順序としては、父がいて、子が生まれ、その両方から「聖霊」が遣わされて、現在に至るまで、「聖霊」が我々人類のために働き続けている、というイメージで考えればわかりやすいと思います。勿論、「父」や「子」と「聖霊」の間には、人間でいう血縁関係のようなものや上下関係があるわけではなく、どういう関係かはうまく説明できませんが、人間の心にやる気を起こさせ、「教会」という組織をもたらしたように、「神の力」を人類に対していつでも行使できる存在なのでしょう。
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この回答へのお礼

ともに考えてくださるとともに、長いご回答を記して下さり感謝します。
>聖霊はまた、御父が御子に与える永遠のたまものによって、御子から発出する方です。聖霊は、御父と受肉した御子から遣わされ、教会を導いて「真理をことごとく悟らせ」(ヨハネ16・13)ます。
>三位のペルソナは、それぞれが他の二位のペルソナとの間に持つ関係によって、互いに、そして実際に区別された存在です。御父は御子を生み、御子は御父より生まれ、聖霊は御父と御子から発出します。
>どういう関係かはうまく説明できませんが、人間の心にやる気を起こさせ、「教会」という組織をもたらしたように、「神の力」を人類に対していつでも行使できる存在なのでしょう。
⇒以上、記してくださったことにわたくしもその通りであると、認識しています。
 ただ、わたくしが教えていただきたいのは、三位一体の唯一の神で、父なる神でもなく、父のひとり子の神でもない人格を持たれた、天父とひとり子より信仰者へ遣わされた聖霊なる神は、父と御子とは一体どのような人格的な関係の方なのだろうかという疑問です。
 私の求めていた回答ではありませんが、ベストアンサーに選ばさせていただきます。ありがとうございました。

お礼日時:2016/05/20 05:14

プロテスタントでもキリスト教徒でもありませんが、プロテスタントの各派の信者の人は、聖書に基づく信仰によって、三位一体の神を信じる事が出来ると解釈しています。


そうであれば、聖書に書かれているように、「神」が御子であるイエス・キリストをつかわせ、イエス・キリストが父なる「神」に願って、聖霊をつかわされたと言う事でしょう。
関係性は、これしかないのでは無いでしょうか?
三位一体の「神」は、父なる神、神の御子たるイエス・キリスト、聖霊の3つの神格を持ちます。
ここで、父と子としてあるのは、父なる神、神の御子たるイエス・キリストだけでしょう。
聖霊は、神の御子たるイエス・キリストの願いにより、父なる神より、キリスト教信者に内在する存在としてつかわされたと言う事で良いのではないでしょうか?
プロテスタントの各派の信仰はそれ以上の事には言及していないと思います。
関連性としては、三位一体の「神」であり、父なる神、神の御子たるイエス・キリストとは違う神格であるが、「神」としては一体であるとしか言及出来ないんじゃないでしょうか?
プロテスタントの人は、そのような事は問題とはしないような気がします。(信仰により、三位一体の「神」が厳然として存在しているのではないでしょうか?)
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この回答へのお礼

ともに考えてくださるとともに、長いご回答を記して下さり感謝します。
>聖霊は、神の御子たるイエス・キリストの願いにより、父なる神より、キリスト教信者に内在する存在としてつかわされたと言う事で良いのではないでしょうか?
プロテスタントの人は、そのような事は問題とはしないような気がします。(信仰により、三位一体の「神」が厳然として存在しているのではないでしょうか?)
⇒以上記してくださったこと、概ねおっしゃる通りだと思います。
 ただ、私にとって天父なる神に対しひとり子の神という人格関係が存在するなら、もうひと方の聖霊なる神との人格関係は如何なる関係なのだろうかということが、私の長年の疑問でしたので質問を提示させていただきました。聖書は、神の愛を、ひとり子を十字架の贖いによって啓示しています。しかし、もう一方、天父なる神とまたひとり子の御子なる神と人格的関係を持たれた聖霊なる神との関係は何なのだろうかという疑問が長年の疑問でしたので。教えてgooにて、お尋ねさせていただきました。
 聖書の教える事実として、三位一体の神が「厳然として存在している」事実があることは十分認識しています。
 ともに、お考え下さった事を重ね、重ねて心より感謝しつつ。

お礼日時:2016/05/20 05:14

№2です。



★ 「本来イエスは地上で聖婚し子孫を残さなければなら
なかった。」
☆ そんなことは聞いたことがありません。

また考えるに値しないと考えます。
理由は まづその解釈についての理由が問題になりましょ
う。分かっていますか?

★ 父なる神と聖霊、神の御子キリストと聖霊との人格的
関係が如何なるか
☆ 確かに 《父ちゃん(アッバ)》と呼び得る存在であ
るのですが 神は神です。人間との間には絶対のへだたり
があります。

つまり神は言うなれば神格としての存在です。
それを 人間は 擬人化して表現している。だけのことで
す。

ですから 人間の世界で《父 あるいは 子》という言葉
とそれに対応する経験事実がありますが まさに――擬人
化において――このような言葉を用いて表わしています。

つまり 父なる神は 何も人間としての父親そのものだと
いう意味ではありません。現に 神に《性》はなく 男で
も女でもありません。

神の子キリストが 肉(人間)となったのは イエスとい
う男の存在においてですが キリスト〔なる神〕が 性と
して男であるという意味ではありません。

聖霊なる神も 同じくです。

けれども擬人化し人格として見立てた上で三位一体の神を
捉えるなら どう表現するか?
この問いについては 子の父と 父の子と 父および子と
の交わりから発する聖霊 これらの三つになると言ってい
ます。

あるいは示しましたように 光に譬えるなら 光源と発耀
とそれらの明るさや暖かさであると表現しています。

けれども 神は 時間的な存在ではありません。時間空間
を超えています。
ということは 光源から耀きを放出するといったように表
現する場合には すでに時間がそこに捉えられています。

ですから 光のタトヘもあくまで仮りの表現です。
それと同じように 人格的関係という場合にもあくまで人
間の世界に譬えて仮りに表現しているだけのものです。

つまり 父と子とそして両者から発する聖霊 このように
《人格的関係》を表わすのが 神学のつねです。

なお 光源と発耀と明暖とが光として一体であるように
三つの位格も それぞれ関係的に区別しましたが やはり
一体なる神としての存在です。

父・子・聖霊のそれぞれの個は 互いにひとしい。
そしてそれぞれの個は 三つの一体なる全体とひとしい。
三位一体なる全体としての神は 父なる神・子なる神・そ
して聖霊なる神のそれぞれの個と互いにひとしい。

これが 三位一体です。
そのことは 《無限》という概念で説明されます。
⇒ №2(ε)。
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この回答へのお礼

一緒に考えてくださり、No2に続き、長いご回答をお寄せ下さり、感謝申し上げます。
>人間の世界で《父 あるいは 子》という言葉とそれに対応する経験事実がありますが まさに――擬人化において――このような言葉を用いて表わしています。
つまり 父なる神は 何も人間としての父親そのものだという意味ではありません。現に 神に《性》はなく 男でも女でもありません。
神の子キリストが 肉(人間)となったのは イエスという男の存在においてですが キリスト〔なる神〕が 性として男であるという意味ではありません。聖霊なる神も 同じくです。
けれども擬人化し人格として見立てた上で三位一体の神を
捉えるなら どう表現するか?
この問いについては 子の父と 父の子と 父および子と
の交わりから発する聖霊 これらの三つになると言ってい
ます。
⇒イエス様は確かに、天父を「父」と呼ばれ、天父もイエス様を「愛する子」と呼ばれました。また、当時の民にもイエス様は「あなた方の天の父」と神なる父について語られました。それゆえ、天父とひとり子の関係は擬人化や、譬えではなく存在するのではないでしょうか。
 また、「ひとり子」を世に遣わし、十字架で私達の罪の身代わりとなって死なれた事実に、神の世に対する愛が事実として示されたのではないでしょうか。
 私がお尋ねさせていただきたかったのは、それでは、天父から出て、みのから遣わされた、もう一人の人格であられる聖霊が、天父と御子といかなる人格的な関係であるかということです。
 ともに、お考え下さったことを、重ねて心より感謝申し上げます。

お礼日時:2016/05/20 05:14

(α) まづ:


▲ (創世記1:27) ~~~~~~~~~~~
神はご自分にかたどって人を創造された。
すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ という一つの聖書記事から伸びて 次の図式が得られると理解します。
(基礎としては アウグスティヌスに拠っています)。 

(β) (ひとは カミの似像である。) ~~~~~~~~~~~~~~~~
   ――ひとと社会の成り立ちについての図式的理解―― 

 光のたとえ・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ)
 三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・・聖霊なる神)
             ↓  ↓      ↓       ↓
 _______________________________________
  スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A )
 _______________________________________

             ↓  ↓      ↓       ↓
 身体〔の運動〕・・・・・精神(記憶・・・・・知解・・・・・意志 )
 ・・・・・・・・・・・・↓ (↓・・・・・・↓・・・・・・・↓ )
 [S者/S圏]
 個体・・・・・・・・・・家族(秩序・・・・・労働・・・・・・愛 )
 社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治)
 経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・生産・・・・経営 )
 政治主体・・・・・・・・↓ ・・・↓・・・・・・・↓・・・・・↓ 
 [A者/A圏] ・・・・・・ ↓・・・ ↓・・・・・・・↓・・・・・↓
 社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・・経済活動・・・政治 )
  〃・・・・・・・・・(国 家: 司法・・・・立法・・・・・行政 )

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

(γ) 神を・つまりすでに普遍なる神を 光にたとえるなら こうです。

   子の父は 光源であり 
   父の子は その発耀であり 
   父と子とのまじわりから発出する聖霊は その明るさ・あたたかさである。

(δ) ただし 光はただのタトヘですから 本体の三位一体には時間的なへだた
りはなく 三つの位格は つねに一体である。

(ε) 神はこの三つの位格(ペルソナ)に分かれるとは言え 無限を二で割って
も三で割っても商はやはり無限であるように 父と子と聖霊とは互いにひとしく 
それぞれの個は全体とひとしく 全体はそれぞれの個とひとしい。というもので
す。

(ζ) そこで 《ひとは 神の似像である》という命題については こうです。:

  父なる神は 人間の自然本性にあっては精神の秩序作用としての《記憶》に 
  子なる神は 精神が精神するというかのようなハタラキとしての《知解》に 
  聖霊なる神は 記憶と知解にもとづき生きることの中軸としての《意志》に

それぞれ当てはまるというタトヘです。

(η) 神にあって三つの位格が一体であるかのように 社会にあっても三権が
分立して互いに――ただしこの場合は時間的なズレをともなって―― 分業し=
すなわち協業している。そのようにして 一体ではある。これが 共生のひとつ
のかたちであるというタトヘです。

(θ) 真理(神)にあっては 時間の間を置くことなく 正解が得られている
けれども 人間の経験世界では 時間的なズレをともなって ときに 正解(た
だし相対的)が得られそれが実現されることもあるかも知れない。

(ι) すなわち 人間にあっては 記憶があいまいであり得 そこから得た情報
とそれを加工(思考)するる知解も あやふやであり 記憶と知解とをにらみな
がら行為する意志も その心(記憶や知解の内容)にさからうことすらあり得る。
人間は ヘソを曲げ得る。あやまちうる。

(κ) 人間と社会における小さなミクロコスモスとしての三位一体(つまり小文
字の三位一体)は 時間的な制約を受ける。すなわち 記憶・知解・意志のそれ
ぞれのハタラキが分立し得るような自由度を〔すなわち自由意志によって〕持っ
ていてそれらのあいだの協働が 時間的なズレと人間の能力の有限さとによって 
マ(間)の違いを生じやすい。

(λ) 自由意志は 記憶としての心やそのかつての源泉であった知覚(感性)の
内容を無視してでも そして勝手な知解によってその無視ないし逆らいを正当化
しようとしてでも その自由を発揮しようとすることがある。よきにつけ悪しき
につけの自由度である。

(μ) なお この三位一体論もしくはそれとしての人間観ないしさらには社会
理論への応用は それをイエス・キリストは後世に託したと言ってよいものと思
います。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

bragellone様、長い、ご返信ありがとうございました。
しかし、残念ながら、わたくしの質問の答えとは違うようです。
聖書には、「スサノヲ市民」や「アマテラス公民」という概念も教えもありません。
聖書をよく読まれて、健全なプロテスタント信仰をお持ちの方に、ご回答をいただければ感謝です。
 ともに考えてくださったことを感謝申し上げます。

お礼日時:2016/05/20 05:15

本来 イエスは 地上で聖婚し 子孫を残さなければ ならなかった・・



三位一体は 地上で行われる予定だった・・

人間は 地上では 男と女とに分かれているが 本当の姿は 神の姿と同じ造りになっています・・

神は 男と女を足した様なもの・・

まっ あなたに 理解出来る範囲に留めると このくらいかな?

詳しくすると 増々解からなくなる事だと 感じるので・・・・


「神のニ性性相」
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この回答へのお礼

ご返信ありがとうございます。
 しかし、私の質問は、父なる神と聖霊、神の御子キリストと聖霊との人格的関係が如何なるかが内容です。申し訳ありませんが、わたくしの求めていた答えとは違うようです。また、聖書には「本来イエスは地上で聖婚し子孫を残さなければならなかった。」と言われる根拠は記されていませんし、キリストが地上で結婚しなければならなかったという概念は,私はキリスト教界では異端とされる、統一教会の教えのように理解しています。ともに、お考え下さったことを感謝しつつ。

お礼日時:2016/05/20 05:15

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