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よく南蛮人は日本人はアジア人の中でも特異な人種だっと言ったと聞くことがありますがそれはちょっとほめすぎではないかと思います。だって日本を奴隷にしようとか考えてたふしもありますし、言ったとすれば日本人は刀をさしてやっかいな人が多いので多少おっべかを言ったか、もしくは日本人自身が日本人に言ってた発言ではないのでしょうか。

A 回答 (3件)

戦国時代ですよね?アジアの植民地化は随分後の話ではないですか?


当時の日本は、金の産出量が多く、金と銀との価値の差がヨーロッパと大きく違ったので、易々と莫大な利益を得る事ができました。又、帰りの船では、柿右衛門や古伊万里などの陶器を持ち帰るとヨーロッパでは馬鹿受けで、超高価に取引されていました。現在ヨーロッパの陶器で有名なマイセン等のメーカーは、日本の柿右衛門等の文様を模倣したコピー商品メーカーでした。ちなみに陶器の事を”チャイニーズ”と呼ぶのは、この頃の名残でアジアからの主な輸出品目が陶器であった事の証です。
アジアの中で、飛びぬけたスーパーVIPな取引相手だったので、多少、おべんちゃらもあるでしょうね。
鎖国後も、大量の戦艦を発注してくれたり、南北戦争で
終了であまった武器を全部買ってくれたり、しかも支払いは”金”(+差益有り)ときたら、ちんけな島国を植民地化するより、超利益を生む貿易相手とした方が、賢いでしょう。儲けさせてくれる相手を悪くは言わないでしょうね。
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この回答へのお礼

ふむふむ、参考になりました。

お礼日時:2004/07/16 15:49

 「南蛮人」や東夷・西戒・北狄という呼び方自体に他民族に対する恐れや蔑視の思想が現れています。

もちろんこれらの表現は中国から輸入されたものであり、日本人自体も東夷と呼ばれていたことを考えるとおもしろいと思いますが。(「征夷大将軍」など国内的にも使われていました)

 さて中世の宣教師が残したものを読んでも確かにくすぐったくなるほど日本人を誉めてあるものもあります。しかしそれは、飛行機などなかった時代ですから、宣教師は様々な土地の状況を実地に見聞しながら、その一番最後にたどり着いたのが日本の地だったわけで、主観が入っているとはいえ、各地の様々な状況を比較することができる立ち場でした。そういった記録の多くが本国への報告を目的としていたり、私的な色合いが強いものと思われますので、一応信憑性はあると考えて良いのではないでしょうか。

 宣教師ではありませんが、ある外国の学者が日本の浮世絵の1シーンをみてとても驚いたそうです。庶民がなにかの下達の文章が書かれた立て札に集まってそれを熱心に読んでいる場面なのですが、何に驚いたかというと、中世の庶民レベルの文盲率が低かった事実に対してです。これほどまで教育が行き届くには、社会の文化的レベルはもちろんのこと、それをささえる生産性や都市が都市として機能するためのさまざまな社会制度の当時の日本人の到達点があったからこそです。

 もちろん宣教師が訪れた時代とは違いますが日本人の持つ特性の一面を表しているのではないでしょうか。

 また軍事面でも、戦争を代表化、形式化し双方の被害を最低限に食い止める形での収拾がはかられた経緯も、例えば大将同士が一騎打ちでカタをつけることもあったやに聞いています。それから「やぁやぁ我こそは…」と自己紹介で始まる、まるで演劇の一種ではないかと思わせるほどの様式美があったのもこのせいではないかと思います。

 戦いが本当の意味での殺し合いの意味合いが強まったのは鉄砲が伝来してからで西洋文明が牧歌的な習慣を破壊した例ともいえます。ただし日本人の中に従来殺し合いがなかったかというとそうでもなく規模は小さいながらもあり、中世訪れた宣教師はその殺し合いの規模の小ささにも驚いています。

 ヨーロッパでは通常数十万人が戦いにかり出されるそうですが、日本の場合は多くても数万人(例外もあります)だそうでそれだけ闘いの規模が小さく、そういう状況を生み出した拘束要因は他にもあったにせよ、その社会的環境を含めて進んだ社会といって良いのではないでしょうか。

 刀にしても実際は実戦向きの武器ではなく、美術的価値やシンボルとしての役割が大きく、それほど刀を抜いての大立ち回りは中世でもなかったのではないかと想像しています。庶民が持っていた刀などの武器は有名な太閤刀狩りで回収されていますが、庶民の武装解除がうまくいく環境とはよほど生活環境が安定していないとむずかしいはずで、政治に対する信頼がある程度はあったのはないでしょうか。

 宣教師ですが、彼ら自身は政治的侵略の前哨という意識はなく、純粋に宗教的任務を達成する目的で来訪したものと思いますが、その目的が果たされると本国との関係が強まり、結果として宗主国の領土拡張本能の餌食になった地域が多かったと思いますので、はじめから奴隷にしようと思ったのではないと考えます。

 いわゆるキリシタン大名が数多く出現したことによって、その影響力の大きさにおそれをいだいたのでしょう、豊臣秀吉によってキリスト教禁止令が出されますが、鎖国を続ける中で、世界一の商業都市となる江戸を中心としたとりあえずの平和な時代がそのあとに続くことになります。中世の宣教師たちが感じた私たちの先祖の文化的先進性はあながちはずれてはいない、と個人的には考えます。
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この回答へのお礼

ご丁寧にありがとうございます。

お礼日時:2004/07/16 15:57

戦国時代のというならば文献はそう多くないので誰がどういったかなんて簡単にソースをあたることができますが。


日本賛美の意見はザビエル来日以来の伝統ですよ。
一番有名なのはヴァリニャーノの「礼儀正しく、有能で理解力に秀で」と評したもので、これが長い間ヨーロッパ人に広まっていた日本時観です。
おべっか云々については、これらの証言はいずれも本国に向けて出した報告書の中からのものですから、日本人に対するおべっかにはならないでしょう。

もちろんその中でも日本を見下しているような意見を残している人もいます。
「私は、日本人ほど放漫で、貪欲で、不安定で、偽装的な国民を見たことがない。」
「元来、日本人は、ヨーロッパから来たものに比べて、天武の才に乏しく、徳を全うする能力に欠けるところがある。」
ただ数は多くありません。
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この回答へのお礼

なるほど~悪口が言われてた事は最近では言われませんよね~

お礼日時:2004/07/16 15:52

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