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「人を殺してはいけません」 なぜですか?

A 回答 (237件中141~150件)

栄光ある100件目のようです(笑)



人間に限った事ではないですが、命あるもの全てに平等に課せられた義務、
それは種の保存です。
その義務に反するから、人を殺し、殺させる事は罪悪なのです。

しかし、一方で食物連鎖が存在するのも事実です。
動植物問わず、何かを食べなければ(=何かを殺さなければ)生きていけません。
だから、殺してしまったものに対して感謝と贖罪の心を
常に持っていなければならないのです。

…ではダメでしょうか。
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言い方が悪かったです。

すみません。

自分以外の人に迷惑をかけなければ人を殺しても構わないでしょう。
しかし死にたい人というのはそういないはずです。
一時の感情で死にたいと思う人もいますが、それはあくまで一時の感情で少し時間がたてばそんな感情も徐々に薄れて消えるはずです。
ですから本当に心の底から死にたい人はいないのです。
ですから人を殺すというのはそういう人の人生をそこで終わらせてしまうので、迷惑をかけた、ということになります。
ですから最終的に「人を殺してはいけない」となりますが、それが最初ではないということだと私は思います。
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「人を殺してはいけません」



すべての人間はほかの人間の迷惑にならなければ自由に行動できます。
よって、他の人間に迷惑をかけなければ人を殺しても構わないはずです。
何事も経験だと思うので、人を殺したら人生観が変わるでしょう。
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素直に感じたまま答えると、「人を殺しては行けません」というのはそれを説く以前に、「仲間を尊重できる環境」があってはじめて説得力があるのではないか、という疑問に至りました。

同じ人間同士、理解しあえないまでも笑顔や言葉の交流から生まれる関係が築ける時代であればこそ、「人を殺してはいけない」という仲間意識が生まれるのではないでしょうか。

先人が「無闇に人を殺すのは良くないことだ」と、理由はどうであれ強く思い描ける時代の前には、戦争やその他の理由で多くの人の命が奪われた後であることが多いのではないでしょうか?最近のできごとではテロや自然災害などで多くの人命が失われ、そのニュースを聞いたときに「このできごとが自分の身に起きたら...。」や「もし自分の身内がこの事件に巻きこまれたら...。」といった想像力を働かせることで悲しみ、その悲しみがあまりにも苦しく感じられる人にとっては、「人は殺してはいけない。」と、そう結論から始まるのではないかと感じます。

昨今はネットやゲーム産業の影響により、実感できる悲しみが薄くなってきていると感じます。もうすでに思春期を終えた自分には、子供の頃培った仲間意識を頼りに「人を殺してはいけない」という感情にたくさんの理由や理屈を見つけてきました。

実体験を交えた想像力は、感情に強く影響を与えるのではないかと感じます。裏表なく言葉を交わし合える、幼いときの交友関係は、だから感性豊かな人格を形成するのに役立つのではないでしょうか。本を読み、大人の言葉を聞き、そうして教わる言葉のいくつかに自分自身の考えを乗せられるようになったのも、思うに思春期までの交友がたくさん根付いていると感じます。

喧嘩をして、相手を身体的に傷つけてしまった記憶は、その前後に相手から受けた傷とあいまって、「痛み」を知った気がします。
言葉の暴力で傷つけられた心が、思慮の足りない大人への「怒り」を教えてくれ、慰める友達の存在に「癒し」を感じたように思います。
喜びも悲しみも実体験に基づくものほど鮮明で、本や説教などから得られたものは、感情に届くものだけが「理屈」として根付いたように感じます。

「人を殺してはいけません」
なぜかと問われれば、殺した後の様々なできごとを想像できるからだと自分は思います。もし仮に感情が乏しくなり、殺した後のことをあまり想像できないような状態になったとしたら、実に安易に他人を傷つけてしまうかもしれません。あるいはその後に求める未来があると信じこんでしまったら、想像の域をでませんがもしかしたら率先してその行為に出るかもしれないです。

この問いは、そんな危険性を回避するためにも、平和な時代にこそ何度も何度も問い続けるべき問題ではないかとそう思います。痛みを伴う質問ですが、この問いに答え続けられる間は、むやみに人が人を殺すことのない、それが当り前にならない自分があるように感じます。
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割と律儀に善悪の問題を論じている方が多いので、冷やかしにひとつの考え方を書かせてください。



倫理の問題というには素朴な話ですが「親が泣くから悪さはできない…」という気持ちで悪事に手を染めなかったという方は結構いるのではないかと思います。

殺人に限らず、そもそも人はなぜルールを守らなければならないのか?という問題は以前より気になっていましたが、突き詰めてしまえばそのような感情が全てではないかと私は思うようになりました。

気障な言い方をすれば「愛がすべて」という事です。
両親に限らず友人とか郷土の人々とか、幼い頃から何かしら心の中で結び付いている人たちと価値観を共有したい、調和して暮らしたいという素朴な感情が、社会や集団のルールを守るという行動の原動力ではないかと思うのです。

だから本当に何も物のわからない子供の「なぜ人殺しがいけないの?」という質問に答えるには、頭ごなしに断罪したり道理を説いて見せる以上に、
「○○ちゃんが人殺しなんて恐ろしいことをしたら、お父さん(お母さん)は悲しいよ」
「○○ちゃんには他の人や生き物を大切にする人になってくれたら嬉しいな」
という素朴極まる諭し方が、実は一番有効で大切な事のように思われます。

概して愛情を注がれて育った子供たちはそういう教えを自分の血肉にした結果自然とルールを守る良き社会人になるものでしょう。だからこそ論理で「善・悪」を区別できないような低脳児でも、愛情を厳しさをもって育てさえすれば、そうそう悪事などしない訳です。

「じゃあ愛情を持つ相手が本当に全然いなければ、人はどんな悪事でもするのか!?」と問われれば、私はすると思いますよ。現にそういう犯罪が増えてきている…と感じる方は多いのではないでしょうか。

何か浮薄な道徳論のように聞こえて哲学の回答にならないかも知れませんが、所詮善悪の議論など後から付いてくるもの、と考えた方が実際の世の中の説明になるのではないかと思いましたもので。
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あまりの回答の多さに全ての回答を見れませんでしたが、私の意見を言わせてください(^^;)



私は人間は一個の生物だと思うのです。

生物はこの地球に生まれ出でた時から変わらず、種の繁栄を目指したと思うのです。

種の繁栄の為に皆で力をあわせる必要があるので、同族どうしでの殺し合いは種の繁栄の為にならない。

だから、遺伝子にそう書き込まれているのか、文化として伝承し続けているのかわかりませんが、人間は同族を殺してはいけないと思うのだと思います。
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これは、


「女王の教室」の中で言っていることがなかなか的を得ていると思います。

 ひとは、総て、一人一人家族と友人と、その人を思う人がいます。その人たちを悲しませる権利は誰にもない。ということです。
 社会契約論的に言えば、相互安全保障的なものはあります。
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息の長い質問ですね!質問をしたのが2001年というと…5年も経つのですか。

教えてgooにはこのようなものも存在するのですね。面白い。

「人を殺してはいけない」という議題は、平凡ながら、人間と言う生き物に関する根源的真理が隠されています。J.S.ミルの自由主義的発想、イエス・キリストの博愛的発想、ジョン・ロックの社会契約的発想…まぁ、挙げればキリがないですが、様々な観点から絞殺することが可能です。

そもそも「人を殺してはいけない」のかどうか。その点を論じることも可能ですね。いやぁ、深い質問です。
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いけなくはありません。



人が減るので実はいいことなんです。
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「悲しむ人がいるから」


と、母に教わった記憶があります。

相手にも家族や友達がいて、死んじゃったら悲しいし
自分の娘、自分の家族が人の命を奪ったと考えると悲しい
と言っていた気がします。

うまい回答できなくてすみません。
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